渋谷昶子
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しぶや のぶこ 渋谷 昶子 | |||
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生年月日 | 1932年3月8日 | ||
没年月日 | 2016年2月1日(83歳没) | ||
出生地 | 日本 関東州大連 | ||
国籍 | 日本 | ||
職業 |
映画監督、脚本家 映像制作の企画、構成、脚本、監督 日本映画監督協会会員 | ||
ジャンル | 映画・CM・ドキュメンタリー | ||
活動期間 | 1955年(スクリプター) | ||
活動内容 | 1961年〜2016年:映像監督 | ||
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渋谷 昶子(しぶや のぶこ、1932年3月8日 - 2016年2月1日)は、日本の映画監督、記録映画作家、ルポルタージュ作家。
経歴・人物
[編集]1932年3月8日、関東州大連市に生まれる。本名、前畠昶子[1]。両親は3月生まれにちなみ「春の陽のように日永にのんびりと成長するように」と日が永いという昶子と命名した[2]。
大連弥生女学校1年在学のとき敗戦。2年間の棄民生活で人間形成の原点が形成される。
1947年に「最後の引き揚げ船」で帰国し、父親の出身地だった鹿児島県に移る[1]。1951年、鹿児島県立鶴丸高等学校を卒業[3]。
弁護士たらんと大志をいだいて中央大学法学部に入学[2]。しかし、スクリプターに関心をもち、大学は3年で中退し、2年後にスクリプターになる[2]。
独立プロ製作の劇映画スクリプターとして、五所平之助、山本薩夫、新藤兼人、今井正などの諸監督につきの薫陶を受ける。 とりわけ、今井監督からは演出手法における影響を色濃く受けた。
1963年製作の『挑戦』(「東洋の魔女」と言われた日紡貝塚バレーチームが大松博文監督のもと、東京オリンピックを目指した死闘の練習が主題)、1964年のカンヌ映画祭に出品。短編部門で日本映画としては初のグランプリを受賞、カンヌにてトロフィーを受ける[4]。
スクリプターの時から一貫してフリーランスであることを信条とし、監督となってからも未だその姿勢は変わらない。
その後、テレビ(NHK、民放)のドキュメンタリー番組や自主映画などの仕事を中心に仕事を続け今日に至る。
その制作姿勢は、「対象とするのは常に「人間」である」と紹介されている[3]。
フィルモグラフィー
[編集]- 1963年 『挑戦』
- 『東京オリンピック』(バレー部分)
- 『すばらしい世界旅行』(日本テレビ)
- 『1200万人の交響曲』(九州電力)
- 『はばたけ夏の朝に』(全国農協中央会)
- 『みなと みらい 21』(横浜市)
- 『地獄の特訓-女子管理者養成学校』(日本テレビ)
- 『愛は地球を救う-特集・老人問題』(日本テレビ)
- 『ひろしまは いま 1987』(広島市広報室)
- 『かもめが見た日 港が輝く』(横浜市)
- 『燃えよ やさしさの中で』(奈良市)
- 『少年とにんじん』(全農広報)
- 『八十二才 北林谷栄 凛々と舞台に生きる』(NHK)
- 『百才の恋心-新内・岡本文弥の艶』(テレビ東京)
- 『いま、男たちが変わりはじめる』(東京女性財団)
- 『鏡のない家に光あふれ』(自主制作)
- 『元気老人アワー』(テレビ東京)
- CM作品 「レナウン」「フジフイルム」「セイコー」「ペプシコーラ」「コーセー化粧品」「日本生命」
最近の主な作品
[編集]- 2004年2月完成 『Kaneko』ー兼子ー(「Kaneko」ー兼子ー制作委員会)
- 2006年9月完成 『サッちゃん 作曲家・大中恩の世界』(紀伊國屋書店)
- 2009年2月放送 ーNHKー『課外授業、ようこそ先輩 岡村喬夫』
- 2011年11月放送『蝶々夫人は悲劇ではない—オペラ歌手岡村喬生80歳 イタリアへの挑戦』 NHKBSプレミアム
- 2012年9月完成 『おっぱい謝謝』自主作品
受賞歴
[編集]- 挑戦(Le Prix de la Victoire、1963年) - カンヌ映画祭 短編部門グランプリ[4]
- 鏡のない家に光あふれ(1996年) - 短編教育映画祭優秀作品賞・文部省選定
脚注・出典
[編集]- ^ a b “大連から引き揚げ:今だから言えること 渋谷昶子監督インタビュー 前編”. 日本映画監督協会. 2011年7月8日閲覧。
- ^ a b c “プロフィール”. NY GALS FILMS. 2011年7月8日閲覧。
- ^ a b “渋谷 昶子 しぶや のぶこ 経歴”. Pangaea映画学校(パンゲア映画学校). 2011年9月15日閲覧。
- ^ a b “LE PRIX DE LA VICTOIRE”. Festival de Cannes. 2011年7月8日閲覧。
- ^ “会員名簿さ行”. 日本映画監督協会. 2011年7月8日閲覧。