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渡し守と武士

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
渡し守と武士
監督 池田富保
脚本 池田富保
原作 池田富保
出演者 実川延一郎
尾上卯多五郎
撮影 浜田行雄
編集 池田富保
製作会社 日活京都撮影所
配給 日活
公開 日本の旗 1924年1月7日
上映時間 66分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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渡し守と武士』(わたしもりとぶし)は、1924年(大正13年)製作・公開、池田富保監督による日本の長編劇映画、サイレント映画時代の剣戟映画である。俳優出身の池田富保自らのオリジナル脚本による監督デビュー作であり、日活時代劇で初めて「女形」を排し、「女優」を採用した作品である[1]

略歴・概要

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関東大震災から4か月後、1923年(大正12年)12月31日に東京・浅草公園六区三友館で開けた、日活の正月映画、村田実監督の『お光と清三郎』と溝口健二監督の『峠の唄』の二本立て興行[2] の次、翌年1月7日封切りの正月第二弾として興行すべく製作された作品である。

当時は、旧態依然とした尾上松之助中心主義、女性の役は「女形」が演じる映画に翳りがみえ、池田富保は当時の所長・池永浩久に直訴したのだという[1]。4,000尺のフィルムは無駄にしたと思ってやってみなはれ、と池永に言われ、池田富保は本作に取り組んだ[1]。しかし、撮影技師はなかなか思い通りに動いてくれず、出演した松之助も最後まで怒りがおさまらなかったという[1]。池田は苦労した挙句に、当時の日活の技師は撮影のみならず、編集現像の技師でもあったが、編集に立ち会ってくれなかったのだという[1]。それだけ日活の旧弊は根深かった[1]

こうして、「女優」が出演する最初の日活時代劇は、1920年(大正9年)12月31日公開の田中栄三監督作品『朝日さす前』に始まる「女優」が出演する日活現代劇[3] に遅れること3年にして、ようやく実現した。

映画史家の田中純一郎によれば、本作は、池田が監督した『フラフラ豪傑』(1925年)や『落花の舞』(1925年)、辻吉郎が監督した『新撰組』(1925年)、高橋寿康が監督した『鞍馬天狗』(1925年)とともに、「革新への一里塚」となった作品として挙げられている[1]。その革新とは、かつて「松之助」が演じた紋切型の英雄ではなく、人間としての人格が与えられた英雄像である[1]

本作の上映用プリントは、現在、東京国立近代美術館フィルムセンターにも[4]マツダ映画社にも所蔵されていない[5]。現在、鑑賞することの不可能な作品である。

スタッフ・作品データ

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キャスト

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  1. ^ a b c d e f g h 日本映画発達史 II 無声からトーキーへ』、田中純一郎中公文庫、1976年1月10日 ISBN 4122002966, p.44-45.
  2. ^ 1923年 公開作品一覧 396作品、日本映画データベース、2010年2月19日閲覧。
  3. ^ 日本映画発達史 I 活動写真時代』、田中純一郎、中公文庫、1975年11月25日 ISBN 4122002850, p.359-361.
  4. ^ 所蔵映画フィルム検索システム東京国立近代美術館フィルムセンター、2010年2月19日閲覧。
  5. ^ 主な所蔵リスト 劇映画=邦画篇、マツダ映画社、2010年2月19日閲覧。
  6. ^ Film Calculator 換算結果、コダック、2010年2月19日閲覧。

外部リンク

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