渡辺忻三
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渡辺 忻三(わたなべ きんぞう、天保11年11月13日(1840年12月6日) - 大正2年(1913年)12月3日)は、幕末の武士・幕臣、明治の海軍技官である。最終階級は海軍機関少将。諱は義訓。位階・勲等は正四位・勲五等双光旭日章
略歴
[編集]浦賀奉行所与力朝夷家の次男・金三として生まれ、渡辺家の養子となった。戊辰戦争では軍艦役として回天丸に乗艦した。
維新後、明治5年(1872年)の横須賀造船所技術吏の中に主船中師(工部省主船寮九等出仕)、機械及修理船掛兼火夫支配として渡辺の名がある。横須賀造船所には箱館政権の長鯨丸副艦長喰代和三郎、開陽丸船匠長上田寅吉や、浦賀奉行所出身の幕府海軍士官であった浜口興右衛門、岩田平作、岡田井蔵も在勤していた。
明治7年(1874年)に海軍兵学寮分校少教授、明治11年(1878年)に海軍兵学校附属機関学校校長心得となり機関学校の立ち上げと、機関士官の養成に尽力した。明治13年(1880年)海軍大匠司、明治19年(1886年)海軍一等技師、横須賀造船所機械科長兼督売部理事官を経て、海軍大技監、横須賀鎮守府造船部次長兼機械科長となる。明治22年(1889年)に休職、明治24年(1891年)に海軍機技総監(その後、明治29年(1896年)に海軍機関総監、明治39年に(1906年)海軍機関少将と改称)に進級、予備役となった。明治38年(1905年)11月1日に退役[1]。退官後は浦賀船渠の取締役となった。
家族
[編集]- 実父・朝夷権十郎 ‐ 浦賀奉行所与力
- 養父・渡邊宗輔(1839年生) ‐ 幕臣。渡邊家は徳川家旗本・能勢家の家臣[2]
- 長女・渡邊俶江(1867年生) ‐ 渡邊嘉一(旧姓・宇治橋)の妻。嘉一は土木技術者で東京石川島造船所(現・IHI)社長などを歴任。嘉一の妾腹の子は指揮者朝比奈隆。
- 二女・小林やの(1876年生) ‐ 宮城・小林忠吾の妻
- 三女・肥田くに(1984年生) ‐ 眼科医・肥田籌一郎(肥田浜五郎長男)の妻(離婚)。[3]。
- 四女・朝夷きみ(1891年生) ‐ 東京・朝夷糺の妻
- 三男・古川五八(1896年生) ‐ 鉄道官。鉄道院副総裁・古川阪次郎の養子
栄典
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 横須賀海軍工廠編『横須賀海軍船廠史』原書房、1979年。
- 財産法人海軍歴史保存会編『日本海軍史』第10巻、第一法規出版、1995年。