渡辺新太郎 (衆議院議員)
渡辺 新太郎(渡邊[1]、渡邉(本姓)[1]、わたなべ しんたろう、1854年6月20日(安政元年5月25日[2] - 1929年(昭和4年)10月13日[1][3])は、明治から昭和初期の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員、島根県海士郡海士村長。号・春坡[4]。
経歴
[編集]隠岐国海士郡海士村[5](島根県[1]海士郡海士村[3]、海士町を経て現隠岐郡海士町[4])で、渡辺弥三郎の長男として生れた[6]。1874年(明治7年)崎小学校長に就任[4]。1975年(明治8年)から1976年(明治9年)まで大阪に遊学し[5]、藤沢南岳塾で漢学・漢詩を[4]、広貫塾で数理を学んだ[5][7]。
1879年(明治12年)崎郵便局長となる[4]。1882年(明治15年)小型蒸気船玉津丸を隠岐航路に投入し[4]、1895年(明治28年)隠岐汽船が設立され初代社長に就任[1][3][7]。その他、日本赤十字社特別社員[5][7]、東亜商事取締役を務めた[6]。
1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙と1892年(明治25年)2月の第2回総選挙に島根県第6区から無所属で立候補したが、いずれも落選[8]。1894年(明治27年)9月、第4回総選挙に島根県第6区から大手倶楽部所属で立候補して初当選[4][5][7][9]。1915年(大正4年)3月、第12回総選挙で島根県隠岐から無所属で出馬して再選され[7][10]、その後公友倶楽部、公正会に所属して衆議院議員に通算2期在任した[1][3]。1922年(大正11年)6月、海士村長となった[11]。
また、海士村農会長、隠岐島の会長に在任[1][3][5][7]。1882年(明治15年)から米、麦、大小豆の試作場を設置し、その種子を農家に分配してその改良を図り、肥培の方法を教授した[12]。1887年(明治20年)養徳会を設立して風俗の改善と勤労を奨励した[12]。最新の農具の貸与、品評会の開催などを行い、農業技術の発達に尽力した[12]。海士村では水田が乏しいことから1887年(明治20年)頃から溜池の造成、新田の開墾を推進した[12]。
著作
[編集]- 編『日露交渉彙報』渡辺新太郎、1896年。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』725頁。
- ^ 衆議院『第三十六回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1915年、21頁。
- ^ a b c d e 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』501頁。
- ^ a b c d e f g 『島根県歴史人物事典』643頁。
- ^ a b c d e f 『現代日本の政治家』公友倶楽部32-33頁。
- ^ a b 『人事興信録 第6版』わ35頁。
- ^ a b c d e f 『大日本人物名鑑〔巻4の2〕』27-28頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』45頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』102頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』67頁。
- ^ 『島根県歴史人物事典』736頁。
- ^ a b c d 『全国篤農家列伝』324-325頁。
参考文献
[編集]- 『全国篤農家列伝』愛知県農会、1910年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 細井肇『現代日本の政治家』國光社、1916年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- ルーブル社出版部編『大日本人物名鑑〔巻4の2〕』ルーブル社出版部 、1921年。
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 山陰中央新報社・島根県歴史人物事典刊行委員会編『島根県歴史人物事典』1997年。