コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

渡辺正夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
渡辺 正夫
生誕 1888年(明治21年)10月10日
日本の旗 日本 大阪府
死没 1950年(昭和25年)10月11日
所属組織 日本陸軍
軍歴 1909年(明治42年) - 1945年(昭和20年)
最終階級 陸軍中将
テンプレートを表示

渡辺 正夫(わたなべ まさお、1888年明治21年)10月10日[1][2] - 1950年昭和25年)10月11日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

[編集]

岸和田藩士、小学校長・渡辺源太の二男として生まれる[1]大阪陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業、同年12月、砲兵少尉に任官し、野戦砲兵第4連隊付となる[1][3]陸軍砲工学校高等科を卒業し、さらに1919年大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業[1][4]

参謀本部付勤務、参謀本部員、陸軍野戦砲兵学校教官、広島湾要塞参謀豊予要塞参謀、近衛野砲兵連隊大隊長、野戦砲兵学校教官、野砲兵第10連隊長、第14師団参謀長などを経て、1937年(昭和12年)8月、陸軍少将に進級[1][4]

中部防衛参謀長、陸軍造兵廠総務部長、陸軍兵器本廠長などを歴任し、1939年(昭和14年)10月、陸軍中将となった[1][2][4]陸軍航空技術研究所付を経て、1940年(昭和15年)8月、新編された第56師団長に親補された[1][2][4]ビルマの戦いに従軍し[2]侵攻作戦とビルマルート(援蒋ルート)遮断に成功した[要出典]1942年(昭和17年)12月、陸軍科学学校長に就任[1][4]。太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)3月、沖縄第32軍初代司令官として沖縄の航空基地設営を行った(牛島満の前任者)[1][2][4]。同年8月、心労のため、また過度に沖縄県民の不安を煽ったことで[要出典]、参謀本部付となり、10月に予備役編入となったが、1945年(昭和20年)4月に召集され、大阪師管区司令官に就任し[2][4]、同年12月に召集解除となった[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

栄典

[編集]
位階
勲章

親族

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本陸海軍総合事典』第2版、174頁。
  2. ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』813頁。
  3. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』259、263頁。
  4. ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』263頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」190頁。
  6. ^ 『官報』第7998号「叙任及辞令」1910年2月23日。
  7. ^ 『官報』第216号「叙任及辞令」1913年4月22日。
  8. ^ 『官報』第1738号「叙任及辞令」1918年5月21日。
  9. ^ 『官報』第3301号「叙任及辞令」1923年8月1日。
  10. ^ 『官報』第535号「叙任及辞令」1928年10月5日。
  11. ^ 『官報』第3208号「叙任及辞令」1937年9月10日。
  12. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  13. ^ 『官報』第5730号「叙任及辞令」1946年2月21日。

参考文献

[編集]
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。