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渡辺長助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
渡辺 長助
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 熊本県八代市
生年月日 1956年10月11日
没年月日 (2011-06-28) 2011年6月28日(54歳没)
身長
体重
176 cm
84 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1978年 ドラフト3位
初出場 1982年4月7日
最終出場 1984年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 阪神タイガース (1989 - 1998)

渡辺 長助(わたなべ ちょうすけ、1956年10月11日 - 2011年6月28日)は、熊本県八代市出身のプロ野球選手捕手)、コーチスコアラー

経歴

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八代一高から社会人野球九州産交を経て、1978年のプロ野球ドラフト会議阪神タイガースから3位指名を受け入団。

1982年に一軍初出場を果たす。

1983年5月29日巨人戦(甲子園)で9回に代打として起用され、角盈男から生涯唯一の本塁打を放つ。同年は5試合に先発マスクを被った。

1984年には開幕戦から4試合連続で先発出場[1]。自己最多の42試合に出場(うち11試合に先発)したが、山川猛の控えにとどまり正捕手の座は掴めなかった。

1985年からは木戸克彦が台頭し、一軍出場がなくなった。

1986年に現役を引退。

九州産交時代から評判の強肩と、打たれない方向へ投手を導く巧みなリードが持ち味。相手投手の癖を盗むのもうまく、信頼感もあったが、守備とは裏腹に打撃は非力。若菜嘉晴山川猛笠間雄二らの存在もあり、準レギュラー止まりで終わった。

引退後も阪神に留まり、1987年から1988年までスコアラー。

1989年から1990年まで一軍ブルペンコーチ補佐。

1991年は一軍バッテリーコーチ。

1992年は一軍ブルペンコーチ。

1993年は二軍バッテリーコーチ。

1994年から1998年まで二軍育成コーチ。

1999年から2002年まで再びスコアラー。

2003年からチーフスコアラーを務めた。

1996年からは選手寮「虎風荘」の五代目寮長も兼任していた。

2011年6月28日未明、チーム遠征先の富山市の宿舎で心筋梗塞のため死去[2]。54歳没。当日、富山市民球場アルペンスタジアムで行われた対広島東洋カープ戦で、阪神の首脳陣と選手たちは喪章を付けて試合を行い、哀悼の意を示した[3]

詳細情報

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年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1982 阪神 6 5 5 1 2 1 0 0 3 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .400 .400 .600 1.000
1983 30 32 31 1 5 0 0 1 8 2 0 0 1 0 0 0 0 6 1 .161 .161 .258 .419
1984 42 32 29 1 4 1 0 0 5 1 0 0 2 0 1 0 0 5 2 .138 .167 .172 .339
通算:3年 78 69 65 3 11 2 0 1 16 3 0 0 3 0 1 0 0 12 3 .169 .182 .246 .428

年度別守備成績

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1982 6 1 0 .000
1983 27 12 5 .294
1984 41 17 2 .105
通算 74 30 7 .189

背番号

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  • 36 (1979年 - 1986年)
  • 89 (1989年 - 1998年)

脚注

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  1. ^ 【監督賞100,000円】マイクの初勝利で・・・・。 - YouTube
  2. ^ “遠征先の宿舎で…阪神チーフスコアラー死去”. スポーツニッポン. (2011年6月29日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/06/29/kiji/K20110629001109550.html 2020年8月29日閲覧。 
  3. ^ 阪神・渡辺Cスコアラー遠征先で急死…選手は喪章”. デイリースポーツ (2011年6月28日). 2011年12月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年6月28日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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