源相職
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時代 | 平安時代前期 - 中期 |
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生誕 | 延喜元年(901年)[1] |
死没 | 天慶6年4月9日(943年5月15日) |
別名 | 相軄 |
官位 | 従四位下、右大弁 |
主君 | 朱雀天皇 |
氏族 | 文徳源氏 |
父母 | 父:源当時、母:不詳 |
兄弟 | 忠相、相平、相職、当相、相明、相国、中明、寛延 |
妻 | 源当平の娘 |
子 | 惟正、惟繇、惟長、惟光 |
源 相職(みなもと の すけもと)は、平安時代前期から中期にかけての貴族。文徳源氏、中納言・源当時の子。官位は従四位下・右大弁。
経歴
[編集]六位蔵人を経て、朱雀朝にて従五位下・右少弁に叙任された後、承平6年(936年)五位蔵人に任ぜられる。
天慶2年(939年)平将門の乱にて、武蔵武芝の兵に包囲された源経基が逃げ出して平安京に到着後、平将門・興世王・武芝の謀反を訴えた。この際、訴えの実否を確認するための太政大臣・藤原忠平による将門への御教書伝達の使者として、相職が派遣されている(このときの官職は右少弁)。
天慶3年(940年)従四位下・左少弁、天慶4年(941年)蔵人頭兼左中弁に叙任され、天慶5年(942年)右大弁に昇任するなど、朱雀朝後期に弁官を務めながら昇進した。天慶6年(943年)4月9日卒去。享年43。最終官位は右大弁従四位下。
官歴
[編集]- 時期不詳:六位蔵人[2]
- 時期不詳:従五位下。右少弁[2]
- 承平6年(936年) 正月8日:五位蔵人[2]
- 承平7年(937年) 9月9日:兼内蔵頭。日付不詳:見勘解由次官従五位上[3]
- 時期不詳:正五位下[3]
- 天慶3年(940年) 正月7日:従四位下[3]。12月6日:左少弁
- 天慶4年(941年) 3月15日:左中弁[3]兼蔵人頭[2]、内蔵頭如元[4]
- 天慶5年(942年) 3月29日:右大弁、内蔵頭如元
- 天慶6年(943年) 4月9日:卒去(右大弁従四位下)[1]