源雅親
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時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 治承4年(1180年) |
死没 | 建長元年12月5日(1250年1月9日) |
別名 | 唐橋 |
官位 | 正二位・大納言、淳和奨学両院別当 |
主君 |
後白河法皇→高倉上皇→安徳天皇 →後白河院および後鳥羽天皇 →後鳥羽院および土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇 |
氏族 | 村上源氏久我流 |
父母 | 父:源通資、母:藤原長輔娘 |
兄弟 |
雅親、守通、雅清、唐橋通時、勝海、 道禅、道順、惟明親王妃 |
妻 | 坊門信清娘 |
子 | 通信、通頼、親雅、親快、雲雅、道教、土御門顕定室 |
源 雅親(みなもと の まさちか)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。村上源氏久我流、権大納言・源通資の子。官位は正二位・大納言、淳和奨学両院別当。唐橋と号す。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 寿永元年(1182年)12月30日、叙爵[1]。
- 元暦元年(1184年)12月9日、従五位上に昇叙[2]。
- 文治5年(1189年)4月13日、侍従に任ぜられる。
- 建久2年(1191年)1月5日、正五位下に昇叙[3]。
- 建久4年(1193年)1月29日、讃岐権介を兼ねる。
- 建久6年(1195年)2月2日、左少将に任ぜられる。
- 建久7年(1196年)1月6日、従四位下に昇叙[3]。
- 建久8年(1197年)1月30日、備前権介を兼ねる。
- 建久9年(1198年)2月26日、従四位上に昇叙[4]。同年4月18日、禁色を許される[5]。
- 正治元年(1199年)1月29日、播磨介を兼ねる。同年12月に長仁親王(後の道助入道親王)の親王宣下が行われた際、職事に任ぜられている[6]。
- 正治2年(1200年)4月15日、春宮の許に昇殿を許される。
- 建仁元年(1201年)1月29日、引き続き播磨介を兼ねる。同年10月26日、左中将に転任。
- 建仁2年(1202年)8月26日、蔵人頭に補される。同年閏10月20日、参議に任ぜられる。同月24日、左中将は元の如し。
- 建仁3年(1203年)1月13日、美作権守を兼ねる。同年10月24日、従三位に叙される。
- 元久2年(1205年)1月19日、正三位に昇叙[7]。同年7月8日に父・通資が薨去したため喪に服し、8月16日に復任した。
- 承元元年(1207年)1月13日、土佐権守を兼ねる。同年12月9日、権中納言に昇進。
- 承元2年(1208年)11月10日、母の喪に服し12月28日には復任した。
- 建暦元年(1211年)4月1日、従二位に昇叙。
- 建保2年(1214年)2月11日、左兵衛督を兼ね検非違使別当に補される。同年3月21日、正二位に昇叙(前年の三条殿への行幸時の賞。七条院御給。)。12月1日、右衛門督に転任。
- 建保3年(1215年)12月10日、中納言に転正。
- 建保4年(1216年)3月28日、右衛門督を止められる。
- 承久2年(1220年)1月22日、権大納言に任ぜられる。
- 寛喜3年(1231年)4月26日、大納言に転正。
- 嘉禎元年(1235年)11月、大嘗会検校を勤める。同月15日には軽服。
- 嘉禎2年(1236年)6月10日、淳和院別当となる。
- 嘉禎3年(1237年)、奨学院別当となる。
- 暦仁元年(1238年)3月7日、大納言を辞した。同月17日、本座を許される。
- 仁治元年(1240年)10月20日、大納言に還任[8]。
- 建長元年12月5日(1250年1月9日)、腫物の病により薨去。享年70。
村上天皇より受け継がれてきた東久世荘を父・通資より譲り受ける。後に雅親は外孫である土御門定実にこれを譲っている[9]。