源雅通 (宇多源氏)
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時代 | 平安時代中期 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 寛仁元年7月10日(1017年8月4日) |
別名 | 丹波中将 |
官位 | 正四位下、右近衛中将 |
主君 | 一条天皇→三条天皇→後一条天皇 |
氏族 | 宇多源氏 |
父母 |
父:源時通、母:源堯時の娘 養父:源雅信 |
妻 | 不詳 |
子 | 雅孝、念真、行源、雅尊、念尊ら |
源 雅通(みなもと の まさみち)は、平安時代中期の貴族・歌人。宇多源氏、権左少弁・源時通の子。源雅信の養子。官位は正四位下・右近衛中将。丹波中将と呼ばれた。
経歴
[編集]永延元年(987年)父の時通が出家したため、祖父・源雅信の養子になる。雅信の没後は祖母・藤原穆子に養育された[1]。また、叔母にあたる源倫子(藤原道長室)の縁故から、道長夫妻の庇護も受けた。
長徳4年(998年)右近衛権将監に任ぜられると、左兵衛佐を経て、長保3年(1001年)右近衛少将、寛弘9年(1012年)右近衛中将と、一条・三条・後一条の三朝に渡って武官を歴任した。またこの間、一条天皇の五位蔵人・敦成親王(のち後一条天皇)家別当・冷泉院御厨別当・中宮亮(中宮:藤原妍子)なども務めた。
後一条朝の寛仁元年(1017年)7月10日に当時流行していた疫病によって卒去。最終官位は右近衛中将正四位下。
人物
[編集]人柄は正直で人に媚びることはなかった。春秋の逍遥遊戯に惹かれ、狩猟に耽り、栄華を好むなど罪業を積んだが、道心あって平素より法華経を読んだことから、往生を得ることができたとされる[2]。
歌人としては、『後拾遺和歌集』に1首、『和泉式部集』に1首、『伊勢大輔集』に2首の和歌が収録されている。
官歴
[編集]- 長徳4年(998年) 日付不詳:右近衛権将監
- 長保元年(999年) 9月13日:見左兵衛佐[3]
- 長保3年(1001年) 正月24日?:右近衛少将[4]
- 時期不詳:正五位下
- 寛弘2年(1005年) 正月10日:五位蔵人、見正五位下[5]
- 寛弘3年(1006年) 3月4日:従四位下[6]
- 寛弘7年(1010年) 3月30日:兼木工頭[6]
- 寛弘9年(1012年) 正月27日?:右近衛中将[4]。8月11日:兼丹波守、止木工頭[6]
- 長和3年(1014年) 10月15日?:兼中宮亮(中宮:藤原妍子)[4]
- 長和5年(1016年) 正月13日?:止丹波守[4]
- 寛仁元年(1017年) 7月10日:卒去(右近衛中将正四位下)[3]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
- 父:源時通
- 母:源堯時の娘
- 妻:不詳
- 生母不明の子女