源顕国
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 永保3年(1083年) |
死没 | 保安2年5月29日(1121年6月15日) |
別名 | 正字:顯國 |
官位 | 従四位上、左近衛少将 |
主君 | 堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇 |
氏族 | 村上源氏顕房流 |
父母 | 父:源国信、母:高階泰仲の娘 |
兄弟 | 顕国、国教、雅国、信時、俊国、信顕、延信、仁信、信智、信子、俊子、女子 |
妻 | 越後守仲宣の娘、藤原宗忠の娘 |
子 | 国通、恵珍 |
源 顕国(みなもと の あきくに)は、平安時代後期の貴族・歌人。村上源氏顕房流、権中納言・源国信の長男。官位は従四位上・左近衛少将。
経歴
[編集]父・国信と共に堀河天皇に仕え、歌壇で活躍した。
嘉保3年(1096年)11月に元服。加冠は中宮大夫・源師忠で、理髪は源顕実が務めた。永長2年(1097年)正月の除目で中務侍従に任ぜられる。当時の位階は従五位下。承徳2年(1098年)には昇殿を聴され、承徳3年(1099年)従五位上に陞叙。
康和2年(1100年)正五位下に叙せられる。康和4年(1102年)五位蔵人に補され、左近衛少将を務める。康和5年(1103年)に備前介に任ぜられるが、当時の備前守は同母弟の国教であったため、顕国は同母弟の下につくことになってしまった。その際に藤原宗忠も、兄である顕国を弟の下に置くことはどうしたことだろうか、とこの人事を訝しんだ[1]。長治2年(1105年)従四位下に叙され、嘉承2年(1107年)12月に令子内親王が皇后となった際には皇后宮権亮を兼任。備前権介も務めた。また、天永4年(1113年)権大納言・源雅俊の子・憲俊の元服の儀において理髪を務める。
藤原宗忠と交流がありその娘を娶った。後に恵珍を出産、宗忠は「最愛の孫」とその日記で述べている。また、元永2年(1119年)には宗忠・宗能と共に熊野詣を行った。
皇后宮権亮を兼ねた後は新たに官職を経ることなく、没するまで左少将を務め上げた。保安2年(1121年)5月29日に卒去。享年39。
人物
[編集]和歌に長じた[2]。『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に七首が入集。天仁3年(1110年)4月29日に行われた源師時の山家五番歌合や、永久3年(1115年)10月26日、元永元年(1118年)10月13日、元永2年(1119年)7月23日に行われた藤原忠通の内大臣家歌合に出詠した。
官歴
[編集]- 嘉保3年(1096年)11月29日:元服す[3]。
- 永長2年(1097年)正月30日:中務侍従に任ず。位階は従五位下[4]。
- 承徳2年(1098年)7月9日:昇殿を聴す[5]。
- 承徳3年(1099年)正月6日:従五位上に叙す[6]。
- 康和2年(1100年)正月7日:正五位下に叙す[7]。
- 康和4年(1102年)正月15日:五位蔵人に補す[8]。
- 時期不明:左近衛少将に任ず。
- 康和5年(1103年)2月30日:備前介に任ず[1]。
- 長治2年(1105年)6月8日:従四位下に叙す(勧賞)[9]。
- 嘉承2年(1107年)12月5日:皇后宮権亮を兼ぬ[10]。
- 天永2年(1111年)5月29日:復任除目にて備中権介に復任す。
- 天永4年(1113年)正月13日:源憲俊元服の儀にて理髪を務む[11]。