源顕重
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源 顕重(みなもと の あきしげ、生没年不詳)は、平安時代後期の貴族。村上源氏、権大納言・源雅俊の子。官位は正四位下・神祇伯。
経歴
[編集]白河院政期前期の寛治8年(1094年)叙爵(従五位下)し、嘉保3年(1096年)侍従に任官する。左兵衛権佐を経て、康和4年(1102年)右近衛少将、康和6年(1104年)正月に左近衛少将と武官を歴任し、この間の康和5年(1103年)には備前権介を兼ねた。しかし、康和6年(1104年)11月に従四位下に叙せられると、少将を解かれてしまう。この頃、前斎院(令子内親王)の乳母子の女房(藤原為房の娘)を顕重が奪い取ったために、堀河天皇の不興を買ってしまう事件があり[1]、これよって少将を解任された可能性が指摘されている[2]。以降、長きに亘り備前(権)介のみを帯びた[3]。
のち、鳥羽院政期中期までに正四位下・神祇伯に叙任され、鳥羽院政期末ごろまで10年以上に亘って神祇伯を務めた。またこの間の康治2年(1143年)伊勢権守を兼ねている。
官歴
[編集]- 寛治8年(1094年)正月5日:従五位下(祐子内親王御給)[4]
- 嘉保3年(1096年)正月24日:侍従[4]
- 永長2年(1097年)正月30日:見左兵衛権佐[4]
- 時期不詳:正五位下[5]
- 康和4年(1102年)正月23日:右近衛少将[6]
- 康和5年(1103年)2月30日:兼備前権介[5]
- 康和6年(1104年)正月28日:左近衛少将[5]。11月11日:従四位下?、止少将?[5]。11月22日:還昇[4]
- 永久3年(1115年)11月14日:見備前介[6]
- 大治4年(1129年) 7月15日:見前備前介[7]
- 康治元年(1142年) 11月12日:見神祇伯正四位下[8]
- 康治2年(1143年) 正月27日:兼伊勢権守[8]
- 久寿2年(1155年) 10月:見神祇伯[9]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。