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溝口勝如

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
溝口勝如
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 不明
死没 不明
別名 通称:八十五郎
官位 伊勢守
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川家茂慶喜家達(雇用主)
氏族 溝口氏
友三郎ら
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溝口 勝如(みぞぐち かつゆき)は、江戸時代後期(幕末)の旗本通称は八十五郎。伊勢守。石高2500石。子に友三郎(末子、溝口勝為の養子)ら。

略歴

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小普請組、中奥番士、使番目付と昇進する。文久元年(1861年ロシア軍艦対馬占領事件では外国奉行小栗忠順と共に折衝に当たった。慶応元年(1865年長州征討陸軍奉行として従軍し、京で陸軍奉行並、勘定奉行(慶応3年1月16日 - 12月28日)を歴任し、田安徳川家の家老となった。

明治以降は徳川家達公爵家の家令(使用人を統括する執事のような存在)を務めていた[1]明治25年(1881年)、親交のあった勝海舟は、長男の小鹿が没したため、徳川慶喜の末子を養嗣子にしたい[2]と願い、勝如はこれをまとめた。

脚注

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  1. ^ 樋口雄彦 2012, p. 159.
  2. ^ 「我家相続の事、書付、溝口へ附し、徳川家差し出す」(海舟日記、2月9日、小鹿が没した2日後)、「溝口勝如、 拙勝氏の家、儀、死後、慶喜御末男を以て 御続の事、御許これあり、溝口大に骨折ら るニ因る」(海舟日記・2月17日)

参考文献

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  • 美術人名辞典(思文堂)
  • 樋口雄彦『第十六代徳川家達 その後の徳川家と近代日本』祥伝社、2012年。ISBN 978-4396112967