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溝江長晴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
溝江 長晴
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 生年不詳
死没 正保3年5月10日1646年6月23日
改名 長晴→道悦(号)
別名 彦三郎、治兵衛(通称
戒名 照智院日晴居士
墓所 滋賀県彦根市妙源寺
主君 豊臣秀吉秀頼井伊直孝
彦根藩
氏族 溝江氏
父母 父:溝江長氏
長保、五兵衛
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溝江 長晴(みぞえ ながはる) は、安土桃山時代武将大名。通称は彦三郎。朝倉氏の旧臣であった溝江長氏の子。関ヶ原の戦いで西軍に属したため、戦後は改易されて浪人となり、江戸時代前期に彦根藩士となった。

生涯

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慶長5年(1600年)4月8日、父の遺領越前国金津城1万773石を継ぐ。関ヶ原の戦い時には西軍に属して北国口を防備し、浅井畷の戦いに参加するが、本戦より前に丹羽長重とともに前田利長に降伏し、改易されて浪人となった[1]。戦後は旧領復帰を目指し、井伊直政安藤直次脇坂安元などの諸大名に、江戸幕府へ取り計らってもらうよう懇願する書状を送っている[1][2]。また、この間には「道悦」(どうえつ)を号し、京都佐和山城下などに移住した[1]

元和2年(1616年)に彦根藩井伊直孝の客分となって近江国坂田郡箕浦村(現在の米原市)に住み[2]寛永5年(1628年)に正式にその家臣となり500石を給せられ、彦根城下に移った[1][2]

正保3年(1646年)5月10日、死去[3]。家督は嫡男の長保が家を継ぎ、弟の五兵衛に200石を分知して300石の知行となる。以後、溝江氏は彦根藩士として近代まで続いた[2]

脚注

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  1. ^ a b c d 『福井新聞』「金津溝江四代」乱世をくぐり抜けた男たち - ウェイバックマシン(2015年12月22日アーカイブ分)
  2. ^ a b c d 中世あわらの一族 溝江一族” (PDF). あわら市郷土歴史資料館. 2021年11月13日閲覧。
  3. ^ 土屋久雄 (1986-03-01). “溝江文書と関ヶ原の役(1)”. 若越郷土研究 (福井県郷土誌懇談会) 31 (2): 18.