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滋岳川人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
滋岳川人
時代 平安時代前期
生誕 不明
死没 貞観16年5月27日874年7月14日
官位 従五位上陰陽頭
主君 文徳天皇清和天皇
氏族 刀岐→滋岳朝臣
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滋岳 川人(しげおか の かわひと)は、平安時代前期の貴族陰陽家氏姓は刀岐のち滋岳朝臣官位従五位上陰陽頭

出自

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刀岐氏(刀岐直)の出自は明らかでないが、但馬国二方郡刀岐郷(現在の兵庫県美方郡新温泉町)に由来する一族と考えられる[1]。また直姓であることから、二方国造の一族とも考えられる。

経歴

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仁寿4年(854年)一族の上総少目・刀岐雄貞らと同時に刀岐直から滋岳朝臣に改姓する(この時の官位正六位上陰陽権允陰陽博士)。その後も文徳朝から清和朝にかけて20年以上の長きに亘って陰陽博士として陰陽道をもって朝廷に仕え、天安元年(857年)陰陽権助、のち陰陽頭にまで昇った。陰陽家として、以下の活動が記録に残っている。

こののち、旱魃飢饉が発生した貞観8年(866年)にも高山祭への遣使が行われているが[5]、この時にも陰陽博士を務めていた川人が高山祭に奉仕していた可能性が高く、高山祭成立期における川人の存在の大きさが窺われる[6]。 この間、斉衡2年(855年従五位下貞観元年(859年)従五位下に叙される。のち、貞観3年(862年播磨権大掾、貞観7年(865年)播磨権介、貞観16年(874年安芸権介と清和朝では地方官も兼帯した。

貞観16年(874年)5月27日卒去。最終官位は従五位上陰陽頭兼陰陽博士安芸権介。

人物

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平安時代初期までの陰陽寮では中国由来の漢籍に基づき技術の習得や職務の遂行が行われていたところ、9世紀後半になると日本独自の陰陽道書籍が現れるようになったが、その中でも滋岳川人は多くの著作を残した先駆けの存在として知られている。『世要動静経』『指掌宿曜経』『滋川新術遁甲書』『金匱新注』などの著書があったとされ[7]、いずれも散逸し現存しないが、後代の陰陽道関係の典籍には、川人の著作からの引用がしばしばみられ、以降の陰陽道へ与えた影響は大きい[8]。9世紀後半を日本独自の陰陽道の成立期とみる山下克明は川人を「陰陽道成立の流れを切り拓いた人物」であるとして、陰陽道の歴史における川人の役割を評価している[9]

また、平安時代末期に成立した『今昔物語集』では、文徳天皇陵の設置地の選定が発端となり地神の追跡をうけるも、呪を唱えて逃れたとの逸話があることから[10]、後世にわたり有名な陰陽師として知られたことが窺われる。

官歴

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六国史』による。

脚注

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  1. ^ 太田 1963, 3908.
  2. ^ 『日本三代実録』天安2年9月2日条
  3. ^ 『日本三代実録』貞観元年8月3日条
  4. ^ 『日本三代実録』貞観5年2月1日条
  5. ^ 『日本三代実録』貞観8年7月2日条
  6. ^ 那須香織 2016, p. 46.
  7. ^ 『日本三代実録』貞観16年5月27日条
  8. ^ 那須香織 2016, p. 035.
  9. ^ 山下克明『陰陽道 術数と信仰の文化』【王朝時代の実像 5】(臨川出版、2022年)ISBN 978-4-653-04705-6 P66-67.
  10. ^ 『今昔物語集』巻第24,第13「滋岳川人、地神に追はれし語」

参考文献

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  • 那須香織「滋岳川人の登場と九世紀の陰陽寮」『学習院大学人文科学論集』第25号、学習院大学大学院人文科学研究科、2016年10月、35-60頁、hdl:10959/00005095ISSN 09190791 
  • 武田祐吉佐藤謙三訳『読み下し 日本三代実録 上巻』戎光祥出版、2009年
  • 村山修一『日本陰陽道史総説』塙書房、1981年。ISBN 4827310572NCID BN01612992 
  • 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年
  • 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年。