濱本八治郎
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濵本 八治郎[1](はまもと はちじろう、前名・久八郎[2]、1862年5月24日(文久2年4月26日) - 1929年〈昭和4年〉9月3日[3])は、日本の実業家。姫路商業銀行頭取[2][4][5][6]。姫路瓦斯社長[6][7]。山陽窯業代表取締役[5][7]。姫路煉瓦会社・福島紡績各取締役[4][7]。濵本焼石膏製造所(後にサンエス石膏株式会社)創設。族籍は兵庫県平民[2][4][5]。
人物
[編集]播磨国姫路(現・兵庫県姫路市)出身。先代・濵本八治郎の長男[7]。1881年[7]、あるいは1898年[4][5]、家督を相続した[7]。住所は兵庫県姫路市福中町[5][7]。
家族・親族
[編集]- 濵本家
- 父・八治郎[8](兵庫平民[5]、実業家、大地主、兵庫県多額納税者) - 明治維新前は、八右衛門と称していた[8]。1867年4月、藩御用達に選ばれ、称姓を許された[8]。一時副戸長となった[8]。家は洋反物商だったが、後金貸業を営み大地主となった[8]。1890年、貴族院令により兵庫県多額納税者に列した[8]。姫路紡績会社、飾磨紡績会社、姫路銀行、姫路商業銀行の創立に奔走し、又播磨紡績会社を創設して其の社長となった[8]。実に姫路商事界の重鎮であった[8]。1898年10月29日に没した[8]。
- 妻・よね(1864年 - ?、兵庫、近藤彌蔵の二女)[7]
- 長女・咲(1887年 - ?)[2]
- 二女・定(1893年 - ?)[2]
- 長男・八二郎[9](1897年 - ?、実業家・姫路瓦斯社長・サンエス石膏株式会社社長) - 1921年3月、慶應義塾大学法学部政治学科卒業[9][10]。1929年、家督を相続した[9]。
- 孫 昌子・俊子・八司郎
- 曽孫 八志良(俊子の長男)(1967年〜)
- 玄孫 八嗣郎(2003年〜)・蒼史郎(2004年〜)
出典
[編集]- ^ 『大日本紳士鑑』兵庫県姫路市325頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年3月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『人事興信録 第6版』は70頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月20日閲覧。
- ^ 『官報』第1345号付録「広告二」昭和6年6月25日。
- ^ a b c d 『人事興信録 第4版』は60頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年11月11日閲覧。
- ^ a b c d e f 『人事興信録 第5版』は74頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年11月11日閲覧。
- ^ a b 『兵庫県官民肖像録』109頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年5月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第8版』ハ72頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『姫路市史 市制施行三十年記念』261頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月20日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第9版』ハ69頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月20日閲覧。
- ^ 『慶応義塾総覧 昭和4年』第十九章卒業生84頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年7月11日閲覧。
参考文献
[編集]- 妹尾久造編『大日本紳士鑑』経済会、1895年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 『兵庫県官民肖像録』博道社、1918年。
- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 播磨史談会編『姫路市史 市制施行三十年記念』姫路市、1919年。
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 慶応義塾編『慶応義塾総覧 昭和4年』慶応義塾、1929年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
関連項目
[編集]- 姫路文学館 - 姫路文学館望景亭(旧濵本家住宅)は国の登録有形文化財建造物。