瀬下敬忠
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瀬下 敬忠(せじも のぶただ、宝永6年(1709年)[1] - 寛政元年6月4日(1789年6月26日))は、江戸時代の地方史家、俳人。幼名は猪之助、通称は園右衛門。号は玉芝、鶴巣、子信、南軒、極月楼、樵路庵など多数。『四鄰譚藪』の吉沢好謙、『信濃奇勝録』の井出道貞とともに、佐久の三大郷土史家と並び称される。俳諧の他にも、和歌、書画、謡曲、蹴鞠などの諸芸に通ずる。
生涯
[編集]信濃国佐久郡野沢村生まれ[1]。岩村田藩御用達や村役人を勤め郷士身分となった瀬下敬豊の三男。父から立羽不角流の俳諧の薫陶を受けるが、それに飽き足らず、元文4年(1734年)に江戸に出て五色墨派の俳人・松木珪琳に師事した後に帰郷した[1]。同5年(1735年)に岩村田藩に仕官し、宝暦3年(1753年)に致仕した。安永7年(1778年)に小県郡祢津に隠居し、「極月楼」と名付けた庵を結んだ。
著作は数十に上るが、殊に生涯をかけて信濃の地理・歴史などの研究に打ち込み、宝暦3年(1753年)にその集大成となる『千曲之真砂』を著した[2]。俳人としては俳文集『鶴巣反古枕』を書き残した[1]。また諸国歴訪の紀行文も多く残し、『諏訪紀行』『塩田の道草』『大和之道芝』などが広く知られている。その他『こよみぐさ』『長春随津』『極月楼記』などがある。
出典
[編集]- ^ a b c d “佐久の先人たち37 江戸時代中期の俳人・歴史家 瀬下敬忠”. 佐久市. 2024年3月7日閲覧。
- ^ “河童だより9 不思議の国 信濃”. 長野県立歴史館 歴史館ブログ. 長野県立歴史館. 2024年3月7日閲覧。