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瀬川直一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
せがわ なおいち

瀬川 直一
日本郵船靖国丸船長時代の瀬川直一
1931年(昭和6年)
生誕 (1880-01-10) 1880年1月10日
日本の旗 日本佐賀県佐賀郡川上村大字久留間(現・佐賀市
洗礼 1880年4月8日
死没 (1968-08-21) 1968年8月21日(88歳没)
日本の旗 日本神奈川県横浜市
国籍 日本の旗 日本
出身校 東山学院東京商船学校
配偶者 安達けい
子供 沼野ふみ(長女)
大館信(次女)
瀬川清一(長男)
瀬川正雄(次男)
瀬川義夫(三男)
新田智恵(三女)
父:瀬川浅、母:つや
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瀬川 直一(せがわ なおいち、1880年(明治13年)1月10日 - 1968年(昭和43年)8月21日)は、日本の船長、第二代日本海事検定協会会長。

経歴

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牧師である父、瀬川浅と母つやの長男として佐賀県で生まれ、その後すぐ長崎市へ移り、同地で育つ[1]

東山学院を経て、1906年(明治39年)に東京商船学校を卒業後、日本郵船に入社。英国留学の経験や英語が得意だったことを活かして、主に欧州航路の乗組船員として乗務に就いた後、小樽丸、加賀丸、靖国丸等の船長を務める。

1933年(昭和8年)に日本郵船を退職、1935年(昭和10年)日本海事検定協会に検査員として就職し、横浜出張所所長や理事などを務めた[2]

1944年(昭和19年)3月、初代会長田上郷吉の後継として、日本海事検定協会会長に就任[3]太平洋戦争通商破壊の影響や、終戦後のGHQ占領政策により経営危機に陥っていた協会を立て直す。戦時中は協会を解散すべきとの声もあった中、瀬川は「戦争が終結すれば、必ず海運貿易は再開される。また一度協会を解散すると、再び技術者を招集するのが困難なのはもちろんだが、外国の検定機関が日本に進出して確固たる地位を築いてしまい、二度と日本の検定機関を立ち上げることはできないだろう。」と考え、職員の給与に自身の私財を充てたり、船舶運営会傘下に下るなどして協会を存続させた[4]

1963年(昭和38年)6月、会長を辞任。翌年に勲四等瑞宝章1968年(昭和43年)前島賞を受賞[5]

1968年(昭和43年)8月21日喉頭癌により死去[6]

脚注

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  1. ^ 『瀬川直一伝』2頁。
  2. ^ 『瀬川直一伝』124頁。
  3. ^ 『瀬川直一伝』158頁。
  4. ^ 『瀬川直一伝』164 - 167頁。
  5. ^ 『瀬川直一伝』229 - 231頁。
  6. ^ 『瀬川直一伝』232 - 233頁。
  7. ^ a b c d 『瀬川直一伝』116 - 120頁。

関連文献

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  • 大津博 編『海事検定育成の人―瀬川直一伝―』日本海事検定協会、1973年。 NCID BN05504222全国書誌番号:73021192 
  • 瀬川義夫 編『一粒の種―瀬川家の歩み―』1988年。 NCID BA41993459 
先代
田上郷吉
日本海事検定協会代表理事会長
第2代:1944年 - 1963年
次代
吉島政義