瀬川直一
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せがわ なおいち 瀬川 直一 | |
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生誕 |
1880年1月10日 日本佐賀県佐賀郡川上村大字久留間(現・佐賀市) |
洗礼 | 1880年4月8日 |
死没 |
1968年8月21日(88歳没) 日本神奈川県横浜市 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東山学院、東京商船学校 |
配偶者 | 安達けい |
子供 |
沼野ふみ(長女) 大館信(次女) 瀬川清一(長男) 瀬川正雄(次男) 瀬川義夫(三男) 新田智恵(三女) |
親 | 父:瀬川浅、母:つや |
瀬川 直一(せがわ なおいち、1880年(明治13年)1月10日 - 1968年(昭和43年)8月21日)は、日本の船長、第二代日本海事検定協会会長。
経歴
[編集]牧師である父、瀬川浅と母つやの長男として佐賀県で生まれ、その後すぐ長崎市へ移り、同地で育つ[1]。
東山学院を経て、1906年(明治39年)に東京商船学校を卒業後、日本郵船に入社。英国留学の経験や英語が得意だったことを活かして、主に欧州航路の乗組船員として乗務に就いた後、小樽丸、加賀丸、靖国丸等の船長を務める。
1933年(昭和8年)に日本郵船を退職、1935年(昭和10年)日本海事検定協会に検査員として就職し、横浜出張所所長や理事などを務めた[2]。
1944年(昭和19年)3月、初代会長田上郷吉の後継として、日本海事検定協会会長に就任[3]。太平洋戦争の通商破壊の影響や、終戦後のGHQ占領政策により経営危機に陥っていた協会を立て直す。戦時中は協会を解散すべきとの声もあった中、瀬川は「戦争が終結すれば、必ず海運貿易は再開される。また一度協会を解散すると、再び技術者を招集するのが困難なのはもちろんだが、外国の検定機関が日本に進出して確固たる地位を築いてしまい、二度と日本の検定機関を立ち上げることはできないだろう。」と考え、職員の給与に自身の私財を充てたり、船舶運営会傘下に下るなどして協会を存続させた[4]。
1963年(昭和38年)6月、会長を辞任。翌年に勲四等瑞宝章、1968年(昭和43年)前島賞を受賞[5]。
1968年(昭和43年)8月21日、喉頭癌により死去[6]。
脚注
[編集]関連文献
[編集]- 大津博 編『海事検定育成の人―瀬川直一伝―』日本海事検定協会、1973年。 NCID BN05504222。全国書誌番号:73021192。
- 瀬川義夫 編『一粒の種―瀬川家の歩み―』1988年。 NCID BA41993459。
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