瀬戸丸 (仁堀連絡船)
表示
瀬戸丸 (仁堀連絡船) | |
---|---|
基本情報 | |
船種 | フェリー |
船籍 |
日本 インドネシア |
所有者 |
日本国有鉄道 (1974-1985) フェリーいきつき (1986-1991) |
運用者 |
日本国有鉄道 (1974-1982) フェリーいきつき (1986-1991) |
建造所 | 臼杵鉄工所 |
母港 |
東京 (瀬戸丸) 生月 (第五フェリーいきつき) |
信号符字 | JG3444 |
IMO番号 | 7416650 |
改名 |
瀬戸丸 (1974-1985) 第五フェリーいきつき (1986-1991) Rahmat Buhari |
経歴 | |
起工 | 1974年4月 |
進水 | 1974年9月 |
竣工 | 1974年12月 |
就航 | 1975年3月9日 |
要目 | |
総トン数 | 399.23トン |
載貨重量 | 150.00トン |
全長 | 43.60 m |
登録長 | 39.61 m |
垂線間長 | 39.00 m |
型幅 | 10.20 m |
深さ | 3.50 m |
満載喫水 | 2.74 m |
機関方式 | ディーゼル |
主機関 | 新潟鉄工所×2 |
出力 | 2,000ps |
最大速力 | 14.3ノット |
航海速力 | 13.5ノット |
旅客定員 | 200名 |
乗組員 | 5名 |
車両搭載数 | 乗用車24台 |
瀬戸丸(せとまる)は、日本国有鉄道(国鉄)鉄道連絡船の仁堀連絡船の船舶である。
仁堀航路で最初の新造船であり、最後の船となった。
概略
[編集]仁堀航路は宇高航路を補助する目的で開設された航路であるが、開設当初の長水丸、水島丸をはじめ、他の航路の船舶を再利用していたものである。また、1950年代には慢性的な赤字を抱え始めていた。
そのような状態で、仁堀航路は自動車運送(カーフェリー)で活路を開こうとして、1964年(昭和39年)12月、大島連絡船から転籍してきた大島丸(1961年就航)で自動車運送を開始する。大島丸は1965年(昭和40年)に安芸丸に改称後、1966年(昭和41年)には自動車搭載場を拡張し、2t車8台に増強する。この自動車運送が好評になったため、仁堀航路で最初の新造船が建造されることとなる。
新造船の瀬戸丸は臼杵鉄工所が製造し、1974年(昭和49年)11月29日竣工。自動車24台を搭載可能であった。しかし、建造中に発生したオイルショックにより材料費が高騰したため、造船所と国鉄で建造費のトラブルが発生し、仁堀航路に就航したのは1975年(昭和50年)3月9日のことである。
仁堀航路は1日2往復の運航ということもあり、思った以上の成果は上がらず、1982年(昭和57年)6月30日、仁堀航路は廃止となる。それにともない、瀬戸丸も運航を終了する。瀬戸丸は長崎県生月町のフェリーいきつきに売却、「第五フェリーいきつき」に改名し運航。1991年に生月大橋開通により航路廃止、インドネシアに売却された[1]。
プロフィール
[編集]- 総トン数:399t
- 全長:43.6m
- 全幅:10.2m
- 定員:200名
- 自動車:24台
- 航海速力:14.3kt(最高速度)