烏と案山子とアイスクリーム
『烏と案山子とアイスクリーム』 | ||||
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キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンド の スタジオ・アルバム | ||||
リリース | ||||
録音 |
1982年5-6月 アメリカ合衆国 カリフォルニア州 ノース・ハリウッド ワーナー・ブラザーズ・レコーディング・スタジオ | |||
ジャンル | ブルース・ロック | |||
時間 | ||||
レーベル |
エピック・レコード ヴァージン・レコード | |||
プロデュース | ドン・ヴァン・ヴリート | |||
キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンド アルバム 年表 | ||||
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『烏と案山子とアイスクリーム』(Ice Cream for Crow)は、ドン・ヴァン・ヴリートが率いるキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドが1982年に発表した通算12作目に相当するアルバムである[注釈 1]。
本作の発表後、ヴァン・ヴリートは音楽活動を一切止め[注釈 2]、キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドは自然消滅した[1]。
解説
[編集]経緯
[編集]キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドが1980年8月に発表した前作『美は乱調にあり』は好意的な評価を得[2]、彼等は同年10月からヨーロッパとアメリカのツアーを行なった。その直前に、メンバーのジョン・フレンチ(ギター、ドラムス)がライブ活動を拒否して離脱し[注釈 3]、空席だったベーシスト[注釈 4]の席に元エース・アンド・デュースのリチャード・スナイダーが迎えられた[3]。3か月間にわたったツアーは1981年1月31日のロサンゼルスでのコンサートで幕を閉じた[4]。
ツアー終了後、ドラマーのロバート・ウィリアムスがソロ活動に専念する為に脱退を決意した。ヴァン・ヴリートはウィリアムスの後任にザ・マザーズ・オブ・インヴェンションのパーカッショニストだったルース・アンダーウッド[注釈 5]を考えたが、自分はパーカッショニストであってドラマーではないという理由で彼女に断わられた。そこで彼はオーディションを行ない、元ザ・ウィアードズのクリフ・マルティネスを迎えた[5]。
キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドが1976年にフランク・ザッパ[注釈 6]をエグゼクティブ・プロデューサーに迎えて制作したアルバム『バット・チェイン・プラー』はザッパのディスクリート・レコードから発表される予定だったが、ザッパと彼のマネージャーでディスクリート・レコードを共同で設立運営していたハーブ・コーヘンの対立のあおりを受けて未発表のままだった[6]。ヴァン・ヴリートは新作アルバムの計画を立てるにあたって、ザッパが保管していた『バット・チェイン・プラー』のオリジナル・テープを自分に渡すように交渉したが、ザッパは欲しければ自分から買い取れと言い放ち、両者の話し合いは決裂した[7]。
ヴァン・ヴリート達は1982年5月に2週間かけてリハーサルを行ない、引き続いて本作を制作した[8]。
内容
[編集]'"81" Poop Hatch'と'The Thousand and Tenth Day of the Human Totem Pole'は当時未発表だった『バット・チェイン・プラー』の収録曲の再録音版である[9]。
タイトル曲はシングル・カットされ、1982年8月上旬には2日間にわたって、気温が華氏114度(46℃)にまで上がったモハーヴェ砂漠でプロモーション・ビデオが撮影された[10]。
収録曲
[編集]- LP
- CD
全作詞・作曲: Don Van Vliet。 | ||
# | タイトル | 時間 |
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1. | 「Ice Cream for Crow」 | |
2. | 「The Host the Ghost the Most Holy-O」 | |
3. | 「Semi-Multicoloured Caucasian」 | |
4. | 「Hey Garland, I Dig Your Tweed Coat」 | |
5. | 「Evening Bell」 | |
6. | 「Cardboard Cutout Sundown」 | |
7. | 「The Past Sure Is Tense」 | |
8. | 「Ink Mathematics」 | |
9. | 「The Witch Doctor Life」 | |
10. | 「'81 Poop Hatch」 | |
11. | 「The Thousandth and Tenth Day of the Human Totem Pole」 | |
12. | 「Skeleton Makes Good」 | |
13. | 「Light Reflected Off the Oceands of the Moon」(Bonus track) | |
合計時間: |
参加ミュージシャン
[編集]- Captain Beefheart and The Magic Band
- Captain Beefheart (Don Van Vliet) – ヴォーカル、チャイニーズ・ゴング、ハーモニカ、ソプラノ・サクソフォーン、プロップ・ホルン
- Jeff Moris Tepper – スティール–アッペンデージ・ギター、スライド・ギター、ギター、アコースティック・ギター
- Gary Lucas – グラス–スティール・ギター、スライド・ギター、ナショナル・スティール・デュオリアン、ソロ・ギター(CD #5)
- Richard Midnight Hatsize Snyder – ベース・ギター、マリンバ、ヴィオラ
- Cliff Martinez – ドラムス、シェイク・ブーケ、グラス・ウォッシュボード、メタル・ドラムス
- Eric Drew Feldman – ローズ・ピアノ、シンセサイズド・ベース(CD #11)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 1960年代に発表した3作のアルバムと1967年に制作された未発表音源を編集した『ミラー・マン』(1971年)はキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンド名義、『ザ・スポットライト・キッド』(1972年)はキャプテン・ビーフハート名義だった。
- ^ 2010年に病没するまでの人生を画家として過ごした。
- ^ フレンチは前作では主にギターを担当したが、本来はドラマーであった。彼はツアーに際してヴァン・ヴリートから40曲のリストを与えられてギターに専念するように言われた。
- ^ 1975年の再結成以来、キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドにはベーシストの適任者が見つからず、メンバーがトロンボーンやシンセサイザーでベース・パートを演奏してきた。
- ^ アルバム『アンクル・ミート』(1969年)にルース・コマノフの名で客演してマリンバとヴィブラフォンを担当した。メンバーのイアン・アンダーウッドと結婚してルース・アンダーウッドとなり、『オーヴァーナイト・センセーション』(1973年)から正式メンバーとして活動した。
- ^ ザッパとヴァン・ヴリートはカリフォルニア州ランカスターのアンテロープ・バレー・ハイ・スクールの同級生。R&Bのレコード鑑賞を通じて親交を深め、やがてザッパがギター、ヴァン・ヴリートがボーカルを担当して録音するようになった。1964年、ヴァン・ヴリートはザッパと共同で制作していたSF映画の主人公の名前であったキャプテン・ビーフハートを自分のステージ名にした。1968年、ザッパは、キャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドを自分が同年に設立したストレイト・レコードに招き、大作『トラウト・マスク・レプリカ』(1969年)のプロデューサーを務めた。
出典
[編集]- ^ Barnes (2011), p. 301.
- ^ Barnes (2011), p. 267.
- ^ Barnes (2011), pp. 272–274.
- ^ Barnes (2011), pp. 275–281.
- ^ Barnes (2011), pp. 282–284.
- ^ Barnes (2011), p. 237.
- ^ Barnes (2011), pp. 285–286.
- ^ Barnes (2011), p. 288.
- ^ Barnes (2011), p. 294.
- ^ Barnes (2011), pp. 296–299.
引用文献
[編集]- Barnes, Mike (2011). Captain Beefheart: The Biography. London: Omnibus Press. ISBN 978-1-78038-076-6