熊坂適山
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熊坂 適山(くまさか てきざん、寛永8年7月15日〈1796年8月17日〉 - 元治元年9月12日〈1864年10月12日〉)は、江戸時代後期の南画家。
名は助広、字は千畝、通称は床三郎。号は適山の他に波玉・摘山・元精・千水など。陸奥伊達の生まれ。
略歴
[編集]適山の生家・熊坂家は伊達保原市柳村の名家として知られ、かつて谷文晁と交流した儒学者熊坂台州(1739年-1803年)を輩出した。適山の父は酒造業・養蚕業を営む富商でありたいへん教育熱心であった。実弟の熊坂蘭斎は蘭学者となっている。適山も幼少の頃より学問・画を学び、文化4年(1807年)、松前藩が梁川に転封になったとき、家老にして画人の蠣崎波響に師事し、波玉と号した。波響からは写生を基礎とする画の基本を磨き、師が蝦夷地に戻るとき、その紹介で京都の浦上春琴に入門し南画を修行。その後、豊後の田能村竹田にも画法を学んでいる。天保15年(1844年)、松前藩の御用絵師に150石で迎えられ、のちに勘定方役人にと登用され、晩年には江戸屋敷詰めとなった。元治元年(1864年)9月、福山で死去。享年70。
花鳥画・人物画・山水画と多彩な画才をもち優品が多い。「蘭亭曲水図」(1853年)は福島県指定文化財となり代表作とされる。詩文・書にも優れた。
作品
[編集]刊行物
[編集]- 『適山画譜』熊坂蘭斎編、画:熊坂適山 嘉永7年(1854年)