熊耳武彦
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基本情報 | |
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出身地 | 日本 宮城県 |
生年月日 | 1922年2月20日 |
没年月日 | 生死不明 |
身長 体重 |
170 cm 65 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手、一塁手、外野手 |
プロ入り | 1946年 |
初出場 | 1946年 |
最終出場 | 1948年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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熊耳 武彦(くまがみ たけひこ、1922年2月20日 - 没年不明)は、宮城県[1]出身のプロ野球選手。
来歴・人物
[編集]宮城県で生まれ育ったが、父親の仕事の関係で台湾に移住。台北州立台北工業学校(現:国立台北科技大学)、コロムビアを経て、1946年にセネタースに入団。捕手だけでなく、一塁手や外野手としても出場した[2]。球団の初公式戦である開幕戦で捕手を務めており、その時に先発バッテリーを組んだのが同じく新人の一言多十。これは、2024年6月18日の細野晴希と進藤勇也までは、チームで唯一の新人同士の先発バッテリー出場だった[3]。
1948年限りで退団。
1950年に創設初年度の大洋ホエールズに入団し、プロ野球復帰[4]。しかし試合出場は果たせず、この年で引退した。
白木義一郎投手が投げた試合で、ピッチャーゴロに終わると、白木は捕手の熊耳にトスしてから熊耳が飯島滋弥一塁手に渡すというトリックプレーを再三行っていたと伝わっている[5]。熊耳の守備のうまさが偲ばれるエピソードである。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1946 | セネタース 東急 急映 |
100 | 387 | 361 | 32 | 92 | 14 | 10 | 2 | 132 | 39 | 1 | 2 | 4 | -- | 21 | -- | 1 | 26 | -- | .255 | .298 | .366 | .664 |
1947 | 77 | 227 | 212 | 16 | 48 | 9 | 2 | 6 | 79 | 27 | 0 | 3 | 2 | -- | 11 | -- | 2 | 21 | -- | .226 | .271 | .373 | .644 | |
1948 | 11 | 24 | 23 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | 1 | -- | 0 | -- | 0 | 1 | -- | .130 | .130 | .130 | .260 | |
通算:3年 | 188 | 638 | 596 | 48 | 143 | 23 | 12 | 8 | 214 | 67 | 1 | 5 | 7 | -- | 32 | -- | 3 | 48 | -- | .240 | .282 | .359 | .641 |
背番号
[編集]- 2 (1946年 - 1948年)
- 23 (1950年)
脚注
[編集]- ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、200ページ
- ^ Fs人名事典(熊耳武彦のページ)
- ^ 永野高輔. “【日本ハム】細野晴希「緊張」プロデビュー「真ん中狙う」進藤勇也とのすがすがしい“連係プレー” - プロ野球 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2024年6月19日閲覧。
- ^ 熊耳武彦の通算成績
- ^ ZAKZAKスポーツ連載(球談徒然)2011年1月17日 川上、千葉、藤本、青田…神宮に15万人!? 少年を夢中にさせたスターたち
関連項目
[編集]- 宮城県出身の人物一覧
- 北海道日本ハムファイターズの選手一覧
- 横浜DeNAベイスターズの選手一覧
- 関口清治(台北工業学校時代の後輩)
外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 熊耳武彦 - NPB.jp 日本野球機構