コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

水野洽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
片岡均から転送)
みずの ひろし
水野 洽
本名
別名義 片岡 均 (かたおか きん)
生年月日 (1911-09-01) 1911年9月1日
没年月日 (1997-11-04) 1997年11月4日(86歳没)
出生地 日本の旗 日本 北海道空知郡芦別村
死没地 日本の旗 日本 東京都目黒区
職業 映画監督
ジャンル 劇場用映画ピンク映画
活動期間 1935年 - 1997年
テンプレートを表示

水野 洽(みずの ひろし、1911年9月1日 - 1997年11月4日)は、日本映画監督である[1][2][3][4][5]。別名片岡 均(かたおか きん)[2][3][4]

経歴

[編集]

1911年明治44年)9月1日北海道空知郡芦別村(現在の芦別市)に生まれる[1]

旧制・北海道庁立滝川中学校(現在の北海道滝川工業高等学校)を卒業後、日本大学法文学部美学科映画専攻(現在の日本大学藝術学部映画学科)に進学する。

1935年(昭和9年)、日活多摩川撮影所監督部に入社する。内田吐夢田坂具隆島耕二に師事し助監督として活動し、『』(監督内田吐夢、1939年)、『暢気眼鏡』(監督島耕二、1940年)、『風の又三郎』(同、1940年)等の作品に参加した。1942年(昭和17年)に戦時統合により大映東京撮影所(現在の角川大映スタジオ)に転籍、1946年(昭和21年)に監督に昇進し、1949年(昭和24年)の『お嬢様お手を』がデビュー作品である。その後、12本の作品を監督した。1962年(昭和37年)に大映を退社し以後、ドキュメンタリー映画教育映画産業映画成人映画など各種映像を監督した。海外テレビドラマの日本版製作の監修なども手がけた。成人映画、いわゆるピンク映画においては片岡 均の名で作品を発表していたが[1][2][3][4]、1970年(昭和45年)にプロダクションを解散して劇映画から撤退した。晩年は大映時代に撮影所付属の演技研究所でニューフェイスを指導した経歴を活かし、俳優養成所を主宰し、1974年(昭和49年)には自宅敷地内に小劇場「宇宙舘」(東京都世田谷区松原3丁目19番2号)をオープンし、若い劇団に創造の場を提供した。現在も東京で最も古い小劇場として現存しており、演劇・舞踏・上映会などがおこなわれている。

1997年(平成9年)11月4日、東京都目黒区東邦大学医学部付属大橋病院(現在の東邦大学医療センター大橋病院)で死去した。満86歳没。

フィルモグラフィ

[編集]

大映の時代

[編集]

特筆を除きすべて「水野洽」名義、クレジットは「監督」である[1][2][3][4][5]東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵状況についても記す[5]

成人映画の時代

[編集]

特筆を除きすべて「片岡均」名義、クレジットは「監督」である[2][3][4]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g 水野洽KINENOTE, 2014年6月17日閲覧。
  2. ^ a b c d e 水野洽片岡均allcinema, 2014年6月17日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h 水野洽日本映画データベース、2014年6月17日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k 水野洽片岡均、日本映画情報システム、文化庁、2014年6月17日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g 水野洽東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年6月17日閲覧。
  6. ^ a b c 水野冷 - 日本映画データベース(「水野洽」の誤り、『映画年鑑1973』, p.136-137, 139.参照)、2014年6月17日閲覧。
  7. ^ a b c 年鑑[1973], p.136-137, 139.

参考文献

[編集]
  • 『映画年鑑 1973』、時事映画通信社、1973年発行

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]