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物集女城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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物集女城
京都府
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城主 物集女氏
築城年 不明(室町時代
主な城主 物集女光重物集女忠重
廃城年 天正3年(1575年
遺構 土塁
指定文化財 国の史跡「物集女城跡」
位置 北緯34度57分46.3秒 東経135度41分43.2秒 / 北緯34.962861度 東経135.695333度 / 34.962861; 135.695333
地図
物集女城の位置(京都府内)
物集女城
物集女城
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物集女城(もずめじょう)は、京都府京都市向日市物集女町中条にあった中世日本の城。国の史跡に指定されている[1][2]

概要

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城跡は、この付近にある土塁と濠によって確認できる。 土塁は、幅7~12メートル、高さ1メートル~1.5メートルの規模で、北東隅の一部と東辺45メートル分が残っています。濠は、幅5~10メートルを測り、深さ1メートル以上ある。 現在も水を貯えている部分は、昔からの地域の人々の用水池として利用されていた。 こうした遺構から、城は東西100メートル、南北75メートルの規模を有していたことがわかる。 ムクの木のある所は少し高くなっており櫓跡と推定される。

敷地内は中央で二段に分かれており、西側が城主の居館のあった主郭、東側が配下の者達の住居等のあった副郭にあたると考えられる。

また、この地域は、中海道遺跡弥生時代を中心とする複合遺跡)の中心地にあたり、1800年ほど前から物集女集落の中心地として人々の生活の足跡が残されている所でもある。

沿革

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物集女城の築城年代は定かではないが、中世にこの地域一帯を本拠としていた国人土豪物集女氏により、室町時代に居城として築かれた云われる。

物集女氏は、秦氏の一族とされ、物集女荘代官としてこの地の有力者であった。

長享元年(1487年)上久世荘(現京都市)公文に「郷々出銭」を申し入れた「惣国」の代表者六人の中に物集女四郎右衛門光重の署名が見られる。 物集女氏は、西岡における室町幕府被官衆の一人であると考えられ、応仁の乱後、惣国の結集に参加したものが残っていると考えられる。

織田信長山城地域を鎮圧した後、天正元年(1573年細川藤孝桂川西岸一帯の一職を与えられ、国人らの領土を安堵した。 安堵を受けた国人らは、勝竜寺城(現長岡京市)の藤孝のもとに御礼に参上すべきであったが、 物集女氏の当主忠重入道宗入からすると、代々の自分の領地であり、参上するいわれはないと、御礼参上を拒絶したため、天正3年(1575年)勝竜寺で細川藤孝の手により誘殺される。 以後、物集女氏は衰退し、物集女城も廃城となる。

遺構

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物集女城は周囲が宅地開発される中、辛うじて主郭土塁が残されている。 主郭は畑となっているが、北から東に掛けて水堀が巡っている。 主郭の西側は宅地開発される際に発掘調査が行われ、柱穴や堀が検出されている。

西岡被官衆

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アクセス

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参考文献

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  • 『物集女城跡案内板』
  • 日本城郭大系 第11巻 京都・滋賀・福井』新人物往来社、1980年。
  • 『京都乙訓・西岡の戦国時代と物集女城』文理閣、2005年。
  • 『図解 近畿の城Ⅰ』戎光祥出版、2014年。
  • 『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』吉川弘文館、2015年。

脚注

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  1. ^ 文化審議会の答申(史跡名勝天然記念物の指定等)(文化庁報道発表 、2024年6月24日)。
  2. ^ 令和6年10月11日文部科学省告示第142号。

関連項目

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外部リンク

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