物集女城
物集女城 (京都府) | |
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城郭構造 | 平城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 物集女氏 |
築城年 | 不明(室町時代) |
主な城主 | 物集女光重、物集女忠重 |
廃城年 | 天正3年(1575年) |
遺構 | 土塁、堀 |
指定文化財 | 国の史跡「物集女城跡」 |
位置 | 北緯34度57分46.3秒 東経135度41分43.2秒 / 北緯34.962861度 東経135.695333度 |
地図 |
物集女城(もずめじょう)は、京都府京都市向日市物集女町中条にあった中世の日本の城。国の史跡に指定されている[1][2]。
概要
[編集]城跡は、この付近にある土塁と濠によって確認できる。 土塁は、幅7~12メートル、高さ1メートル~1.5メートルの規模で、北東隅の一部と東辺45メートル分が残っています。濠は、幅5~10メートルを測り、深さ1メートル以上ある。 現在も水を貯えている部分は、昔からの地域の人々の用水池として利用されていた。 こうした遺構から、城は東西100メートル、南北75メートルの規模を有していたことがわかる。 ムクの木のある所は少し高くなっており櫓跡と推定される。
敷地内は中央で二段に分かれており、西側が城主の居館のあった主郭、東側が配下の者達の住居等のあった副郭にあたると考えられる。
また、この地域は、中海道遺跡(弥生時代を中心とする複合遺跡)の中心地にあたり、1800年ほど前から物集女集落の中心地として人々の生活の足跡が残されている所でもある。
沿革
[編集]物集女城の築城年代は定かではないが、中世にこの地域一帯を本拠としていた国人(土豪)物集女氏により、室町時代に居城として築かれた云われる。
物集女氏は、秦氏の一族とされ、物集女荘の代官としてこの地の有力者であった。
長享元年(1487年)上久世荘(現京都市)公文に「郷々出銭」を申し入れた「惣国」の代表者六人の中に物集女四郎右衛門光重の署名が見られる。 物集女氏は、西岡における室町幕府の被官衆の一人であると考えられ、応仁の乱後、惣国の結集に参加したものが残っていると考えられる。
織田信長が山城地域を鎮圧した後、天正元年(1573年)細川藤孝は桂川西岸一帯の一職を与えられ、国人らの領土を安堵した。 安堵を受けた国人らは、勝竜寺城(現長岡京市)の藤孝のもとに御礼に参上すべきであったが、 物集女氏の当主忠重入道宗入からすると、代々の自分の領地であり、参上するいわれはないと、御礼参上を拒絶したため、天正3年(1575年)勝竜寺で細川藤孝の手により誘殺される。 以後、物集女氏は衰退し、物集女城も廃城となる。
遺構
[編集]物集女城は周囲が宅地開発される中、辛うじて主郭の堀と土塁が残されている。 主郭は畑となっているが、北から東に掛けて水堀が巡っている。 主郭の西側は宅地開発される際に発掘調査が行われ、柱穴や堀が検出されている。
西岡被官衆
[編集]- 革嶋越前守一宣:革嶋城主、子孫は細川・明智家臣の後に帰農
- 築山兵庫介貞俊:築山城主、細川家被官、子孫は熊本藩の在京家臣
- 神足掃部春広:神足城主、子孫は熊本藩家臣
- 能勢市正光頼:今里城主、子孫は足利義昭に仕え二条城討死
- 中小路五郎右衛門:開田城主、子孫は細川家臣のち藤堂家臣
- 志水対馬守重久:志水落合城主、子に志水清久、子孫は熊本藩家臣
- 調子彦三郎武吉:調子城主、近衛家被官、子孫は調子村領主
- 竹内宮内少輔季治:久我家被官、のちに堂上家(公家)となる
- 鶏冠井孫六:鶏冠井城主、三好家被官<滅亡>
- 物集女太郎左衛門尉:物集女城主、子孫は細川藤孝に謀殺<滅亡>
- 竹田左京進仲広:寺戸城主、三好家被官<逃亡>→野田氏
アクセス
[編集]参考文献
[編集]- 『物集女城跡案内板』
- 『日本城郭大系 第11巻 京都・滋賀・福井』新人物往来社、1980年。
- 『京都乙訓・西岡の戦国時代と物集女城』文理閣、2005年。
- 『図解 近畿の城Ⅰ』戎光祥出版、2014年。
- 『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』吉川弘文館、2015年。
脚注
[編集]- ^ 文化審議会の答申(史跡名勝天然記念物の指定等)(文化庁報道発表 、2024年6月24日)。
- ^ 令和6年10月11日文部科学省告示第142号。