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斎藤茂八

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

斎藤 茂八(さいとう もはち、1885年明治18年〉9月18日[1] - 1964年昭和39年〉8月19日[1])は、日本の地方政治家薬剤師俳人埼玉県熊谷町長・熊谷市長を務めた。

幼名は清治[1]、俳号は「紫石」[2]

来歴・人物

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埼玉県大里郡熊谷町鎌倉町(現・熊谷市)で[2]斎藤今助の長男として生まれた[1]。実家は薬種商だった[2]

旧制埼玉県立熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校、1902年卒業)を経て[3]旧制千葉医学専門学校薬学科(現・千葉大学薬学部薬学科)を卒業し家業を継いだ[1]

1912年(明治45年)青年組織壬子倶楽部を結成し政治活動を始めた[1]1913年(大正2年)から熊谷町会議員に2期在任[1]1921年(大正10年)熊谷町長に当選し[2]2期在任し埼玉県町村会長も務めた[1]。1922年(大正11年)に熊谷町に熊谷町史跡名勝保存会が発足するとその会長となる[4]。1925年(大正14年)5月には熊谷大火に見舞われ[5]、その復興に携わった[2]。この大火では以前に代表者を務めていた公会堂施設「櫻雲閣」も焼失している[5]

1936年(昭和11年)埼玉県会議員に当選し[1][2]、1期在任し1938年(昭和13年)副議長に就任[1]1939年(昭和14年)熊谷市長となり[2]1期在任[1]

また、関東製薬会社を設立し専務取締役となる[1]。その他、埼玉県薬剤師会長、日本薬剤師会副会長、埼玉県衛生協会副会長なども務めた[1]

俳人としては同人誌『鮎』を主宰し、政界引退後には「紫石巣」と名付けた家で句想を練る日々を送った[2]。戦前より「紫石叢書刊行会」「紫石出版社」といったレーベルで著書を刊行した(下記参照)。

1958年(昭和33年)熊谷市第一号名誉市民となる[2]

著書

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  • 『別の視角から埼玉を語る』紫石叢書刊行会、1936年(「斎藤紫石」名義)
  • 『武蔵野百話』紫石叢書刊行会、1940年(「紫石斎藤茂八」名義)
  • 『面白史話 俳人篇』紫石出版社《埼玉文化叢書 第1篇》、1951年(「斎藤紫石(茂八)」名義)
  • 『埼玉の笑ひ』紫石出版社、1953年(「斎藤紫石」名義)
  • 『画人晴湖』紫石叢書刊行会、1958年(「斎藤紫石」名義)
  • 『苔の花』清水正吉、1960年(「斎藤紫石(茂八)」名義)

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『埼玉人物事典』366頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 斎藤紫石”. 熊谷デジタルミュージアム. 2024年11月2日閲覧。
  3. ^ 埼玉県立熊谷中学校一覧』埼玉県立熊谷中学校、1917年3月、p.77(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション
  4. ^ 林有章 1928, pp. 70–78.
  5. ^ a b 林有章 1928, pp. 41–44.

参考文献

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