コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

武帝 (漢)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
武帝 劉徹
前漢
第7代皇帝
聖君賢臣全身像冊(国立故宮博物院蔵)より
王朝 前漢
在位期間 景帝後3年1月27日 - 後元2年2月14日
前141年3月9日 - 前87年3月29日
都城 長安
姓・諱 劉徹
諡号 孝武皇帝
廟号 世宗
生年 景帝元年(前156年
没年 後元2年2月14日
前87年3月29日
景帝
王皇后
后妃 陳皇后
衛皇后
陵墓 茂陵
年号 建元 : 前140年 - 前135年
元光 : 前134年 - 前129年
元朔 : 前128年 - 前123年
元狩 : 前122年 - 前117年
元鼎 : 前117年 - 前111年
元封 : 前110年 - 前105年
太初 : 前104年 - 前101年
天漢 : 前100年 - 前97年
太始 : 前96年 - 前93年
征和 : 前92年 - 前89年
後元 : 前88年 - 前87年

武帝(ぶてい)は、前漢の第7代皇帝匈奴討伐などで前漢の最大版図を築いた。

生涯

[編集]

景帝の九男[1]。紀元前141年の景帝の崩御とともに16歳で即位した[1]。即位当初は文帝の皇后であった竇太后が実権を握っていたが、竇太后が死ぬと武帝は自ら親政を始める[2]。文帝・景帝の時代のいわゆる文景の治によって国庫には銭・食料ともに大量の蓄積があったと伝えられている[1]。この蓄積を元に武帝がまず着手したのが国初以来の課題であった匈奴である[2]

外征

[編集]

対匈奴

[編集]
漢匈奴勢力図

高祖劉邦のときに高祖親征軍が冒頓単于率いる匈奴軍に大敗したこと(白登山の戦い)で「匈奴と漢は兄弟となる」「漢の公主を匈奴単于の閼氏とする」「漢から匈奴に対して毎年贈り物をする」という条件で和約が結ばれ[3][4]、その後も何度か交戦と和議が繰り返されたが、概ね匈奴の優勢な状態が続いた[5]。この状態に不満を持っていた武帝は匈奴討伐の前段階として公孫弘を匈奴に派遣して偵察を行わせたり、また張騫を西の大月氏に派遣して同盟を結ぼうとした(#西域で後述)[6]

そして紀元前133年、馬邑[2]の土豪の聶壱という者が考案した策に乗って対匈奴戦争の端緒が開かれた[7][2]。策というのは馬邑が匈奴に降るという偽りを匈奴の軍臣単于(冒頓単于の孫)に伝え、軍臣が馬邑を受け取りに来たところを殺してしまおうというものであった[6][2]。軍臣単于は馬邑の近くまで寄ったものの途中で異常に気づいて引き返してしまい、策戦は失敗に終わった[6][8]馬邑の役中国語版)。

これにより匈奴は完全に戦闘状態に入り、毎年のように漢の領土を荒らし回り、漢も本格的な戦争へと突入していく[6][9]。この戦争で活躍したのが衛青霍去病という二人の名将である。衛青は武帝の寵姫の衛子夫(後に皇后)の同母異父弟で奴隷身分の出身であったが衛子夫を召す時に、一緒に武帝に登用された[10]。紀元前129年に衛青と他三人の将軍に一万ずつ兵を預けて匈奴へ出撃させた。他の将軍が失敗する中で衛青だけが敵の首級数百を獲得する戦果を挙げた。この後、5度に渡って出撃を行い、オルドス地方を制圧・匈奴の右賢王を敗走させるなど赫々たる武功を挙げて大将軍とされた[6][11]。第7回からは衛青のおいである霍去病が主役となる。5回・6回目の出撃の時にまだ20歳に満たないながら衛青に従って軍功を挙げている[6][12]。そして紀元前121年には驃騎将軍とされて春・夏の二回出撃。匈奴の渾邪王を降伏させ、数万の大軍をそのまま長安に連行し、渾邪王の故地には新たに四郡が置かれた[13]。次の第八回遠征では衛青・霍去病二人共に五万騎の兵を率いて匈奴の本拠地を攻めた。衛青は単于の本隊を撃破して北に追い、霍去病も匈奴の王・高官の多数の捕虜を得た[14][15]。この功績により二人共に大司馬とされる[14][16]。この後は匈奴の活動は下火になり、しばらくの間は長城付近には姿を見せなくなった[14][17]

しかし張騫の行動により、西域諸国と漢とが繋がるようになると匈奴はこれを警戒して、西域諸国に対して圧力をかけるようになる[18][19]。その後、互いの間で交渉が行われるも不調に終わり、紀元前103年に戦闘が再開される[18][19]。この時、衛青も霍去病もすでに亡く[注釈 1]、匈奴戦の主体となったのは李広利将軍であった。

李広利は武帝の寵姫の李夫人の兄で、大宛遠征で汗血馬を獲得するなどの功績を挙げていた[21][22]。前103年の戦いは大敗に終わり[19]、その後双方から使者の往復が行われた。蘇武が匈奴に囚われたのがこの時期の紀元前100年のことである[18][19]。続けて紀元前99年に李広利と李陵をそれぞれ3万・5千の兵を預けて匈奴に攻め込ませたが、これも失敗に終わる[18]。なお李陵は匈奴に奮戦の末に降伏しており、李陵を弁護した司馬遷宮刑に処されたのがこの時である[23]。さらに紀元前97年に出撃するが、戦果無く終わる[18][24]。数年空いて紀元前91年に出撃するも李広利が匈奴に投降するという結果に終わる[18][25]

結局のところ、第二次の匈奴戦争はこれといった戦果を上げることができず、ただ戦費と人命を費やすだけに終わった[26]。この後で武帝は輪台の詔を出して、その後は外征を行わないこととした[26]

西域

[編集]

対匈奴戦が始まる前[注釈 2]に、かつて匈奴に敗れて西へと逃げた大月氏と同盟を結ぶために張騫西域に派遣していた[29][28]。派遣といっても当時の漢には西域の情報は殆どなく、どこにどのような国があるのかもよくわかっておらず[29]、大月氏にしろどこにいるかは全くの不明であった[30]。途中匈奴に捕まり、十余年間抑留されるもそこから脱出して西域に至り、大宛康居などの国を通り、ようやくアム河の北にいた大月氏の国へとたどり着いた[29][31]。しかし大月氏はこの地で大夏を服属させて豊かな生活を送っており、すでに匈奴に対する復讐心は無くなっていた[32][33]。同盟は失敗に終わり、張騫は漢へと帰国の途についた。途中でまたしても匈奴に捕まるが、今度は1年ほどで脱出して長安へたどり着いた。出発から13年[注釈 2]、当初100人ほどいた一行は帰還のときには張騫の他に従者が一人だけになっていた[34][33]。その後に、張騫は続けて身毒(インド)を目指して出発したが、途中で頓挫[34][35]。さらに西域の烏孫と同盟を結ぼうと再び派遣されたが、烏孫との同盟もならずに終わる[34][36]

月氏・烏孫との同盟はならなかったものの張騫のもたらした西域の知識は貴重なものであり、また西域諸国側にしても東に漢という大国があることをはじめて知ったのである。これにより西域諸国は漢に使者を送るようになり、それに伴いこの地に新しい交易路が開かれることになった[34][37]。これが後にシルクロードと呼ばれることとなる[38]

南方・東方

[編集]
南越
衛氏朝鮮

南の南越国の崩壊の後に漢人の趙佗によって建てられた国で、文帝時代に漢の外藩国[注釈 3]として服属していたが、武帝の代になり、漢朝廷は内藩国となるように南越に圧力をかけた[14][40]。漢人の南越王趙興とその母の樛太后はこれを承諾しようとしたが、越人の宰相呂嘉がこれに反発して、王と宰相の間で対立が深まった[14][41]。南越の民は大半が越人であるので呂嘉を支持し、呂嘉は紀元前113年に趙興と樛太后を殺して趙興の庶兄の趙建徳を立てて南越の実権を握った[14][42]。武帝はこれに対して紀元前112年に路博徳楊僕を将軍とした10万の遠征軍を送り、南越を滅ぼした。その地に新たに9郡を設けた[14][43]。またこの出兵の際に西南地方にいる異民族たちに出兵を要請したが、その使者が殺されたので漢はこの地を征服し、ここにも郡を置いた[44][45]。ただ夜郎だけは残して王に封じた[44][46]

東の衛氏朝鮮は漢人の衛満箕子朝鮮を滅ぼして立てた国で、こちらも漢の外藩国となっていた[47][48]。しかし衛満の孫の衛右渠が王になると漢に対して反抗的になり、周辺の小国が漢に対して入朝しようとするのを妨害するようになる[47][49]。問責の使者として渉何を派遣してこの行動を責めたが、不調に終わる。その帰路で渉何が朝鮮の副王を殺したので、衛右渠は渉何を攻めてこれを殺した[47][49]。これに対して武帝は出兵を命じ、陸路から荀彘・海路から楊僕を将軍とした軍をもって朝鮮の首都の王険を攻めた。荀彘軍の将軍同士の不和もあって戦争は長引いたが、紀元前108年に衛氏朝鮮を滅ぼして、その地に漢四郡を置いた[47][50]

内政

[編集]

このように武帝期には毎年のように外征が行われ、領土を大きく拡大した。しかしこれにより漢の財政は悪化し、それに対する対応策が必要とされた[51]

経済政策

[編集]
専売制
[編集]

その対応策の一つが紀元前119年に開始された塩鉄専売制である。塩は人間の生存に不可欠であるが、中国では塩を製造できるのが海岸地帯・山西省の解池(塩湖)・四川省の円井(地下塩水)などに生産場所が限られていた[52][53]。また鉄に関しても戦国時代以降に普及が進んだ鉄製農具は農民にとって必要不可欠なものとなっていた[52][54]

塩鉄に対してはそれまで業者に対して課税するのみであり、その収入は帝室財政を司る少府に入ることになっていた[55]。これに対して専売制の収入は国家財政を司る大司農に入ることにされた[56][55]御史大夫張湯の主導のもと、全国の塩生産地36箇所に塩官・鉄鉱石産地50箇所に鉄官という官庁を設置した[56][55]。鉄に関しては国が直接製鉄を行い、その労働力として一般民の徭役・囚人・官奴婢などが用いられた。鉄を産しない土地には小鉄官という官庁が設けられて、くず鉄の回収と再鋳造を行った[56][57]。塩は鉄と違い、国の募集に応じた民間業者が製造を行い、塩官がそれを一括して買い上げた[56][58]。なお設備・器具については塩官の管理となった[56]

専売制によって得られる収入は非常に大きなものがあり、国家財政の立て直しに大きな貢献をした[52]

均輸・平準
[編集]

専売に続いて、桑弘羊の建議で行われたのが、均輸法と平準法(それぞれ紀元前115年・紀元前110年に実施)である。均輸法についてはその具体的な内容については詳しいことは解らないが、民が納めるべき税の代わりにその地の特産品や絹織物など国が必要とする物品を収めさせてその輸送も国が行うことにより商人の中間利益を除くと共にその差額を国の収入とする[59]、あるいは商人に行わせていた物資の買付と輸送を直接国が行う[60]、といった政策であったらしい。平準法は地方から中央へと運ばれてきた物資を倉庫に集積し、必要な時期に必要な地域に対して売却、また低価な時に買い占めることによって流通物価の安定と差額の利益を狙ったものである[59][61]

この政策も大きな効果を挙げ、財政の好転に貢献したが、商人たちには大打撃を与えることになった[59][62]

その他の経済政策
[編集]

漢代には農業に対する田租人頭税である算賦中国語版・口賦、財産税である算貲があり、この内の算貲は財産1万銭に対して1算(=120銭)となっていた[63]。紀元前119年に算緡令を出し、商人に対する財産税(算緡)を一般民の五倍になる財産2千銭に対して1算、手工業者に対しては5千銭に対して1算とした[64][65]。財産を偽って申告した者には財産没収した上で1年間の辺境防衛につかせるという厳しい処罰があり、かつ他者の財産隠蔽を告発した者にはその財産の半分が与えられるという告緡令も出された[64]

紀元前113年にそれまで郡国でバラバラに鋳造させていた銅銭を中央で独占的に鋳造するようにした[52][66]。この時に作られた五銖銭は以後の銅銭の基本となり、代に開元通宝が作られるまで700年にわたって使い続けられた[52][67]

儒教政策

[編集]

武帝以前の官吏登用は主に任子という制度で行われていた。ある程度以上の地位の官僚の子を登用する制度である[68][69]。これに対して地方の諸侯王・公卿・郡太守などに人材を推薦させることも行われていた[69]。これを察挙と呼び、これにより採用される者たちを賢良などと呼ぶ[68]。武帝も即位直後の紀元前140年に察挙を行ったが、この時に法家・縦横家の学を修めた者は除外するとされた[68][69]。また紀元前134年には董仲舒の建言により毎年郡国に孝(行)と廉(潔)な者を一人ずつ挙げさせてこれを採用するようにした[68][70]。また紀元前124年に公孫弘の建言により首都長安に太学を作り、その学生からも登用するようにした[68]。また紀元前136年には五経博士が設置され、ここで五経の研究が行われたとされる[71][72]

それ以外に紀元前113年に汾陰(山西省栄県の南西[73])から銅鼎が出土したことを受けて、この年の元鼎四年と定めた。これが元号の始まりである。ここから遡って建元元光元朔元狩が制定された[74][2]。これもまた年代表示に儒教的な考えを取り入れたものといえる[68]

このような政策によりかつては武帝代に儒教が国教化されたとみなされていたが、現在ではそれは否定されている[75]

諸侯王対策

[編集]

景帝代から続く諸侯王抑制策の一つとして紀元前127年に推恩の令を出した[76][77]。それまで諸侯王はその王太子にその国を受け継がせていたが、これを王の男子全てに分割してそれぞれを王・諸侯として建てさせるものである[78][77]。これにより諸侯王の封地は細分化されて、中央集権が完成した[77]

社会不安の醸成と酷吏の登場

[編集]

しかし儒家官僚は少なくとも武帝の時代の政治の中心を担うものではなかった[71][79]。武帝の元で実際に政治を担ったのは実務的能力の長けた法家的官僚であり、それらを司馬遷は『史記』の中で酷吏と呼んだ。酷吏の代表格と言えるのが張湯である[80][81]。張湯は紀元前120年に御史大夫となり、その元で先に挙げた専売制・五銖銭の発行・均輸法などの諸政策が行われた[82]。張湯は紀元前115年に冤罪により自殺に追い込まれるが[83]、その後もこれら酷吏が活躍する時代が続く[84][85]

元々製塩・製鉄に関わっていたのは豪族・大商人の類であり、これらの利益で土地を購入することで大土地所有者が出てきていた。対して土地を失った貧農はこれらの土地を耕すことで生計を立てるようになるが、国家の田租が30分の1に対して小作料は五割という暴利なものだったという[86]。そして専売制他の政策により商人たちも大打撃を受けて没落し、貧農たちと結んで盗賊集団を形成するようになった[87][88]。これら盗賊集団は大きなものだと数千人規模となった[88]。盗賊を討伐しない・討伐しても人数が満たない場合はその地方の担当官を死罪とするという沈命法を出して[注釈 4]取締を強化しようとしたが、死罪を恐れた地方官が盗賊が発生したことを隠蔽したので逆効果となった[87][89]。これらに対する対抗として酷吏が必要とされたのである[84][90]

この流れの一環として行われたのが紀元前106年のの設置である。漢は地方制度として郡県制を採用していたが、全国に13の州(長官は刺史)を設けて、郡県の監察を行わせるようにしたのである[87][91]

神秘思想と巫蠱の乱

[編集]

武帝は紀元前133年に五畤を行った。五畤とは天帝(五帝[注釈 5])を祀る場所のことである。さらに紀元前114年には天帝と対になる后土を汾陰で、さらに五帝の上位者である太一も離宮である甘泉宮で祀ることとした[93]。これを郊祀と呼ぶ[94]。このような儀式の増加に伴い、武帝の周辺には方士の数が増えるようになる[92]。方士とは神仙の術を会得したと称した者たちであり、武帝に対して不老不死の術を勧めるなどを行った[92]。さらに武帝は紀元前110年に泰山に赴き、始皇帝以来の封禅の儀を行った[87]。この時に封禅のやり方について儒家に下問したが誰もわからなかったので方士の指導によって行った[87][95]。紀元前104年には暦を太初暦にし、それまでは10月歳首(年の初め)から正月歳首に変更した。また漢の徳を土徳とし、色は黄色・数は五を尊ぶこととした[87][96]

このような武帝の行動に影響されてか当時の社会でもまた巫蠱という呪術信仰が流行した[97]。巫蠱とは木の人形を作って土中に埋めることで相手を呪うとする呪術である[97][98]。かつて武帝の最初の皇后である陳皇后衛子夫に対して巫蠱を行ったとして廃位されている[98]。そして紀元前91年には丞相公孫賀が巫蠱を行って武帝を呪ったとされて獄死した[98]

酷吏の江充は皇太子劉拠(武帝と衛子夫との長男)とかねてより仲が悪く、武帝が死んで太子が即位すれば身が危ういと考えて太子を巫蠱の罪に陥れようとした[97][99]。この時に武帝は甘泉宮で療養中で、江充の上奏を聞いた武帝は劉拠の宮殿を調べた所果たして針を突き刺した人形が出てきた[99]。陥れられたことを知った劉拠は先んじて江充を捕らえて処刑し、遂には反乱を起こした(巫蠱の乱)。武帝はすぐに長安城へと戻り、太子の軍と対峙した。親子相討つ戦いは5日間に及んだ後に太子軍が破れて太子は逃亡。太子は貧家に隠れていたところを見つかり最後は首を吊って死んだ[100]。太子死後に衛皇后は廃位された後に自殺させられ、太子の家族は孫の劉病己を除いて全て殺害された[97][100]

反乱は無事に鎮圧されたものの、太子の巫蠱は冤罪であると訴える声が相次ぎ、反乱は陥られたことによるものであったと徐々に明らかになっていった[97][101]。太子の無実を悟った武帝はすでに殺されていた江充の一族を族誅の刑とし、太子の死に関わった者たちの多くも処刑された[97][101]。更には新たに思子(子を思う)宮を建て、また高台を設けてここに太子の魂が返ってくるようにと「帰来望思の台」と名付けたという[101]

崩御

[編集]

劉拠の死後、新たな皇太子は決められないままだった。そこに李広利将軍と丞相劉屈氂が結んで李広利の妹の李夫人が生んだ劉髆を太子に冊立しようと画策して巫蠱を行ったとされる。これが発覚して劉屈氂とその一族が族誅・李広利の一族も族誅の目にあった[101]。李広利は遠征に出ていたので誅殺は免れたが、匈奴軍に敗れて投降した[25]。その後で武帝が「輪台の詔」を出して当分は外征を行わないとした[26]

信頼できる者を次々と失った孤独の中で、紀元前87年に在位55年にして武帝は病死した[97][102]

後継は直前まで決められていなかったが、死の前々日になって末子の劉弗陵が選ばれて即位した(昭帝[97][103]。遺詔により霍光金日磾上官桀桑弘羊らが8歳の昭帝の補佐をすることとなった[97][103]

評価

[編集]

武帝の在位は実に54年に及ぶ。中国歴代皇帝でこれを上回るのは康熙帝乾隆帝の62年と60年の二例のみである[1]

漢書』「武帝紀」の賛において班固は「(文景の治を継いだ)武帝はの風がある。『詩』(『詩経』)・『書』(『書経』)に称えられていることも、どうしてこれ(武帝の功績)を超えるものであるだろう。」と称賛している[104]

対して西嶋定生は「輝かしい外征の勝利は、そのために異域に骨を埋めた軍士の怨念を残すのみならず、社会矛盾の原因となり。人民は不安と焦燥のうちに日々の生活をおくることとなる。すなわち、武帝時代とは、このような矛盾を五十年にわたって創出した時代であって、かならずしも栄光と繁栄のみの時代ではなかった」と述べる[105]

また「秦皇漢武」といい、始皇帝との共通する部分が多いと評される[106]

年譜

[編集]
西暦 元号 事件
前141 景帝後 景帝崩御。武帝即位
前140 建元 この頃に張騫を西域に派遣[注釈 2]
前136 五経博士を設置。
前135 西南地方に犍為郡を設置。夜郎を封建。
前134 元光 董仲舒の建議により孝廉制度を始める。
前133 馬邑の役。匈奴との開戦。
前129 第一次匈奴遠征。
前128 元朔 第二次匈奴遠征。
前127 オルドス地方を奪回。ここに朔方郡・五原郡を置く。推恩の令を発する。
前126 この頃に張騫が西域より帰還[注釈 2]
前125 劉安により『淮南子』が纏められる。
前124 公孫弘の建言により長安に太学が設けられ、太学の生徒を官吏に登用するようになる。第四次匈奴遠征、右賢王を敗走させる。
前123 第五次・六次匈奴遠征。
前121 元狩 第七次匈奴遠征。渾邪王を降伏させ、その地に四郡を置く。
前119 第八次匈奴遠征。単于軍を破り、匈奴は北へと逃れる塩鉄専売制の開始
前118 五銖銭の発行開始。
前115 元鼎 桑弘羊の建言により均輸法を開始。
前113 汾陰で銅鼎が出土したことでこの年を元鼎四年と定める。元号制の開始
前112 南越を滅ぼす。
前110 元封 均輸・平準法の本格的開始。武帝が封禅の儀を行う。
前108 衛氏朝鮮を滅ぼし、漢四郡を置く。
前106 新たに刺史を設置。
前101 太初 李広利大宛を破って凱旋。
前91 征和 巫蠱の乱勃発。衛太子が死去。
前90 李広利が匈奴に投降。この頃に司馬遷が『史記』を完成させる
前87 後元 武帝崩御。後を末子の劉弗陵(昭帝)が継ぐ。

宗室

[編集]
前漢王朝系図】(編集
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
太上皇
劉煓
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
代王
劉喜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(1)高祖
劉邦
 
 
 
 
 
 
 
 
 
楚王
劉交
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
呉王
劉濞
 
斉王
劉肥
 
(2)恵帝
劉盈
 
趙王
劉如意
 
(前3)文帝
劉恒
 
 
 
 
 
淮南王
劉長
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
斉王
劉襄
 
城陽王
劉章
 
*前少帝
劉某
 
*後少帝
劉弘
 
(4)景帝
劉啓
 
梁王
劉武
 
淮南王
劉安
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
臨江王
劉栄
 
中山王
劉勝
 
長沙王
劉発
 
 
 
 
 
(5)武帝
劉徹
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
左丞相
劉屈氂
 
(追)戻太子
劉拠
 
燕王
劉旦
 
(6)昭帝
劉弗陵
 
昌邑王
劉髆
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(追)悼皇
劉進
 
 
 
 
 
 
 
 
 
*昌邑王
劉賀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(7)宣帝
劉詢
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(8)元帝
劉奭
 
 
 
 
 
楚王
劉囂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(9)成帝
劉驁
 
(追)恭皇
劉康
 
中山王
劉興
 
劉勲
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(10)哀帝
劉欣
 
(11)平帝
劉衎
 
劉顕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
*孺子
劉嬰

  • 正室:陳皇后(廃) - 陳午と館陶公主の娘
  • 継室:衛皇后(贈思后) - 廃位された。また宣帝により后位・諡号を追贈される
    • 長女:富利公主
    • 次女:陽石公主
    • 三女:諸邑公主
    • 長男:戾太子 劉拠 - 第10代皇帝宣帝の祖父
  • 側室:李夫人(贈孝武皇后)
    • 五男:昌邑哀王 劉髆 - 第9代皇帝海昏侯劉賀の父
  • 側室:鉤弋夫人(趙婕妤、贈孝昭太后)
  • 側室:王夫人
    • 次男:斉懐王 劉閎 - 早世
  • 側室:尹婕妤
  • 側室:李姫
  • 生母不詳の子女
    • 女子:鄂邑公主

登場作品

[編集]

評伝

小説

漫画

テレビドラマ

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 霍去病は紀元前117年に24歳で早世。衛青は紀元前106年に死去[20]
  2. ^ a b c d 張騫の出発・帰還の具体的な年は不明[27][28]
  3. ^ 郡国制において国内におかれた諸侯王たちのことを内藩国と呼び、対して外国の長に対して王などの称号を授けて漢の臣下としたのが外藩国である[39]
  4. ^ 沈命法の施行年は不明[84]
  5. ^ 三皇五帝のそれではなく、黄帝・青帝・赤帝・白帝・黒帝[92]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d 西嶋 1997, p. 200.
  2. ^ a b c d e f 西嶋 1997, p. 203.
  3. ^ 太田 2003, p. 384.
  4. ^ 西嶋 1997, p. 188.
  5. ^ 西嶋 1997, pp. 188–191.
  6. ^ a b c d e f 太田 2003, p. 386.
  7. ^ 太田 2003, p. 186.
  8. ^ 西嶋 1997, p. 204.
  9. ^ 西嶋 1997, p. 384.
  10. ^ 西嶋 1997, p. 205.
  11. ^ 西嶋 1997, p. 206.
  12. ^ 西嶋 1997, p. 207.
  13. ^ 西嶋 1997, p. 208.
  14. ^ a b c d e f g 太田 2003, p. 387.
  15. ^ 西嶋 1997, pp. 209–211.
  16. ^ 西嶋 1997, p. 210.
  17. ^ 西嶋 1997, p. 211.
  18. ^ a b c d e f 太田 2003, p. 401.
  19. ^ a b c d 西嶋 1997, p. 233.
  20. ^ 西嶋 1997, p. 212-213.
  21. ^ 太田 2003, p. 392.
  22. ^ 西嶋 1997, pp. 230–232.
  23. ^ 西嶋 1997, pp. 234–235.
  24. ^ 西嶋 1997, pp. 237–238.
  25. ^ a b 西嶋 1997, pp. 238–239.
  26. ^ a b c 太田 2003, p. 402.
  27. ^ 太田 2003, p. 467.
  28. ^ a b 西嶋 1997, p. 223.
  29. ^ a b c 太田 2003, p. 390.
  30. ^ 西嶋 1997, p. 224.
  31. ^ 西嶋 1997, pp. 224–225.
  32. ^ 太田 2003.
  33. ^ a b 西嶋 1997, p. 225.
  34. ^ a b c d 太田 2003, p. 391.
  35. ^ 西嶋 1997, p. 226.
  36. ^ 西嶋 1997, pp. 227–228.
  37. ^ 西嶋 1997, pp. 228–229.
  38. ^ 西嶋 1997, pp. 229.
  39. ^ 西嶋 1997, p. 198.
  40. ^ 西嶋 1997, p. 214.
  41. ^ 西嶋 1997, pp. 214–215.
  42. ^ 西嶋 1997, pp. 215–216.
  43. ^ 西嶋 1997, p. 216.
  44. ^ a b 太田 2003, p. 388.
  45. ^ 西嶋 1997, pp. 216–217.
  46. ^ 西嶋 1997, p. 217.
  47. ^ a b c d 太田 2003, p. 389.
  48. ^ 西嶋 1997, pp. 217–218.
  49. ^ a b 西嶋 1997, p. 218.
  50. ^ 西嶋 1997, p. 219.
  51. ^ 西嶋 1997, pp. 240–241.
  52. ^ a b c d e 太田 2003, p. 410.
  53. ^ 西嶋 1997, p. 243.
  54. ^ 太田 2003, p. 213.
  55. ^ a b c 西嶋 1997, p. 244.
  56. ^ a b c d e 太田 2003, p. 411.
  57. ^ 西嶋 1997, p. 245.
  58. ^ 西嶋 1997, p. 246.
  59. ^ a b c 太田 2003, p. 412.
  60. ^ 西嶋 1997, p. 247.
  61. ^ 西嶋 1997.
  62. ^ 西嶋 1997, p. 248.
  63. ^ 西嶋 1997, p. 249.
  64. ^ a b 太田 2003, p. 413.
  65. ^ 西嶋 1997, p. 250.
  66. ^ 西嶋 1997, p. 255.
  67. ^ 西嶋 1997, p. 254.
  68. ^ a b c d e f 太田 2003, p. 406.
  69. ^ a b c 西嶋 1997, p. 257.
  70. ^ 西嶋 1997, pp. 258–259.
  71. ^ a b 太田 2003, p. 407.
  72. ^ 西嶋 1997, p. 259.
  73. ^ 西嶋 1997, p. 405.
  74. ^ 太田 2003, p. 405.
  75. ^ 籾山 2006, pp. 63–64.
  76. ^ 太田 2003, p. 404.
  77. ^ a b c 西嶋 1997, p. 178.
  78. ^ 西江 et al. 2003, pp. 404–405.
  79. ^ 西嶋 1997, p. 261.
  80. ^ 太田 2003, p. 408.
  81. ^ 西嶋 1997, pp. 261–263.
  82. ^ 西嶋 1997, p. 264.
  83. ^ 西嶋 1997, p. 265.
  84. ^ a b c 太田 2003, p. 416.
  85. ^ 西嶋 1997, p. 266.
  86. ^ 西嶋 1997, pp. 266–267.
  87. ^ a b c d e f 太田 2003, p. 417.
  88. ^ a b 西嶋 1997, p. 267.
  89. ^ 西嶋 1997, pp. 267–268.
  90. ^ 西嶋 1997, p. 268.
  91. ^ 西嶋 1997, pp. 268–270.
  92. ^ a b c 西嶋 1997, p. 274.
  93. ^ 西嶋 1997, pp. 273–276.
  94. ^ 西嶋 1997, p. 276.
  95. ^ 西嶋 1997, p. 277.
  96. ^ 西嶋 1997, p. 278.
  97. ^ a b c d e f g h i 太田 2003, p. 418.
  98. ^ a b c 西嶋 1997, p. 279.
  99. ^ a b 西嶋 1997, p. 280.
  100. ^ a b 西嶋 1997, p. 281.
  101. ^ a b c d 西嶋 1997, p. 282.
  102. ^ 西嶋 1997, p. 283.
  103. ^ a b 西嶋 1997, p. 284.
  104. ^ 小竹 1997, p. 201.
  105. ^ 西嶋 1997, p. 202.
  106. ^ 鶴間 2004, p. 217.

参考文献

[編集]
  • 漢書』「武帝紀」
    • 小竹武夫『漢書1 帝紀』筑摩書房、1997年。ISBN 978-4-480-08401-9 

外部リンク

[編集]