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ラミロ1世 (アラゴン王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ラミロ1世
Ramiro I
アラゴン国王
在位 1035年 - 1063年

出生 1007年
死去 1063年5月8日
サラゴサ王国グラウサ
配偶者 ジェルベルジュ・ド・ビゴール(エルメシンダ)
  アニェス・ダキテーヌ(イネス)
子女 一覧参照
家名 ヒメノ家
王朝 ヒメノ朝
父親 ナバラ王サンチョ3世
母親 サンチャ・デ・アイバル
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ラミロ1世

ラミロ1世スペイン語Ramiro I, 1007年頃 - 1063年5月8日)は、アラゴン王国の初代国王(在位:1035年 - 1063年)。ナバラサンチョ3世(大王)とサンチャ・デ・アイバルの間の庶長子。ナバラ王ガルシア3世(5世)カスティーリャフェルナンド1世、ソブラルベ伯ゴンサロの異母兄。

生涯

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1035年、ラミロ1世は「王」の称号と共にハカを中心とするアラゴン川の渓谷(現在のウエスカ県北西部)を相続した。さらに1043年、ソブラルベ伯となっていた三弟ゴンサロの死去により、ソブラルベ(現ウエスカ県中央北部)とリバゴルサ(現ウエスカ県北東部)を獲得した[1][2]

しかし領土は他の兄弟に比べて小さいため、領土拡大を目指し出兵を繰り返した。西のナバラとの国境にある町タファリャを攻撃したが、長弟ガルシア3世が救援にかけつけ失敗、次弟フェルナンド1世もナバラの肩を持ったためアラゴンは領土を少しナバラへ譲ることになり、ラミロ1世の目論見は挫かれた[3]。それでも出兵を止めず1052年1054年ベナバーレロアーレ(現ウエスカ県北東部、西部)を手に入れた[4]

南にも目を向けたラミロ1世は1063年にサラゴサ王国タイファ)の都市グラウサを包囲したが、サラゴサを庇護していたカスティーリャは援軍を送った。ラミロ1世は甥のサンチョ(後のサンチョ2世)とエル・シッドが率いるカスティーリャとサラゴサの連合軍に敗れ戦死、息子のサンチョ・ラミレスが王位を嗣いだ[1][4][5]

子女

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1036年8月22日、ビゴール伯ベルナール1世・ロジェ(コマンジュ家)の娘ジェルベルジュ(結婚時にエルメシンダと改名)と結婚し[6][7]、以下の子女をもうけた。

  • テレサ(1037年頃 - ?) - プロヴァンス伯ギヨーム・ベルトランと結婚
  • サンチョ・ラミレス(1042年頃 - 1094年) - アラゴン王サンチョ1世、ナバラ王サンチョ5世
  • サンチャ(1045年頃 - 1097年) - 1065年にウルジェイ伯アルマンゴル3世と結婚
  • ガルシア(1046年頃 - 1086年) - ハカ司教
  • ウラカ(? - 1077年) - サンタ・クルス・デ・ラ・セロスの修道女

2度目にアキテーヌ公ギヨーム6世またはギヨーム7世の娘とみられるアニェス(イネス)と結婚したが、子は無かった。

脚注

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  1. ^ a b 関、P205。
  2. ^ ローマックス、P74、芝、P72、西川、P82、P111。
  3. ^ 西川、P111 - P112。
  4. ^ a b ローマックス、P80。
  5. ^ 芝、P74 - P76、西川、P112。
  6. ^ Reilly 1995, p. 71.
  7. ^ ローマックス、P77。

参考文献

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  • D.W.ローマックス著、林邦夫訳『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動刀水書房、1996年。
  • 芝修身『真説レコンキスタ <イスラームVSキリスト教>史観をこえて書肆心水、2007年。
  • 関哲行立石博高中塚次郎『世界歴史大系 スペイン史 1 -古代~中世-山川出版社、2008年。
  • 西川和子『スペイン レコンキスタ時代の王たち 中世800年の国盗り物語彩流社、2016年。
  • Reilly, Bernard F. (1995). The Contest of Christian and Muslim Spain 1031-1157. Blackwell Publishers Inc.