前野高康
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時代 | 室町時代 |
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生誕 |
南朝:正平5年 / 北朝:観応元年 (1350年) |
死没 | 応永25年2月16日(1418年3月23日) |
別名 |
通称:小次郎兵衛 前野髙康 |
官位 | 京職 - 右京 |
幕府 | 室町幕府尾張国守護/守護代家臣 |
主君 |
尾張守護土岐頼康/島田満貞 尾張守護代織田信広(織田郷広)[注釈 1] |
氏族 | 良岑氏流前野氏 |
父母 | 父:前野宗義、母:不詳 |
兄弟 | 前野高康、今井俊氏 |
子 | 前野綱宗、前野守久、前野成住、女 |
前野 高康(まえの たかやす)は、室町時代頃の武将・土豪[1]。前野家八代目当主で、織田伊勢守家当主織田信広(後の常松)の家臣[1]。通称・小次郎兵衛[1]。
経歴
[編集]尾張国の土豪前野家の前野宗義の嫡男として正平5年 / 観応元年(1350年)に生まれる[1]。前野小次郎兵衛高康を名乗った[1]。
右京職に所属した[1]が、職員の階級は明確に分かっていない[1]。
織田信広(常松、織田郷広)が尾張守護斯波氏の守護代として越前から尾張に入国した際、上郡十家の一つとして仕えた[1]。高康が守護代織田家に早くから仕えたことで、土岐氏の横領を受けて失った本貫の領地を取り戻し、その後しばらく前野家の領土は安堵された。
六歌仙の一人である遍昭僧正の子孫にあたるといわれる[3][4]。
前野氏
[編集]前野氏は、桓武天皇の子の良岑安世を始祖とする良岑氏の系統で、(立木田)良岑高成の子である良岑(前野)高長が尾張国丹羽郡前野村(現在の愛知県江南市前野町〜大口町辺り)に移り住んで前野を自称し、その曽孫である前野時綱が正式に名乗ったのが始まりとされている[1][3]。
系譜
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]注釈
[編集]参考
[編集]- “武家家伝_前野氏”. 2021年7月23日閲覧。
- “前野家|一万人の戦国武将”. 2021年7月23日閲覧。
- 吉田蒼生雄『武功夜話』新人物往来社、1987年。