石川重次
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 永禄4年(1561年) |
死没 | 慶長18年12月14日(1614年1月23日) |
別名 | 重政(諱)、八左衛門、又四郎(通称) |
戒名 | 浄雲 |
主君 | 松平信康、徳川家康、秀忠 |
氏族 | 石川氏 |
父母 | 石川重政 |
兄弟 | 重次、坂部与三右衛門室 |
妻 | 犬塚氏 |
子 | 政次、重勝、重俊、今村正長室、大河内正勝室 |
石川 重次(いしかわ しげつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。徳川氏の家臣。
生涯
[編集]最初は徳川家康の子信康付きの家臣だったが、天正7年(1579年)信康が処刑されると、内藤家長の与力との話もあったがこれを固辞して逐電した。天正8年(1580年)家康が駿河に出兵した際、密かに石川数正隊に属して武田氏の足軽大将須藤左門を討ち、それが評判となって再度家康に召し抱えられた。天正10年(1582年)天正壬午の乱で武功があり、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは大須賀康高隊に属し、同年の蟹江城合戦では先鋒となった。天正18年(1590年)小田原征伐にも従軍。慶長3年(1598年)朝鮮半島から撤兵指示を伝えるための使者を務めた。後年、徳川秀忠の使番、普請奉行となった。
参考文献
[編集]- 「寛政重修諸家譜」巻第121