コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

アーザム・シャー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アーザム・シャー
اعظم شاہ
ムガル帝国対立皇帝
アーザム・シャー
在位 1707年3月14日 - 6月8日
戴冠式 1707年3月14日
別号 パードシャー

全名 クトゥブッディーン・ムハンマド・アーザム
出生 1653年7月8日
ブルハーンプル
死去 1707年6月19日
アーグラ近郊、ジャージャウー
埋葬 フマーユーン廟
配偶者 ジャハーンゼーブ・バーヌー・ベーグム
他3名の妃
子女 ビーダール・バフト
ワラー・ジャー
他5人の息子と3人の娘
王朝 ムガル朝ティムール朝
父親 アウラングゼーブ
母親 ディルラース・バーヌー・ベーグム
宗教 イスラーム教スンナ派
テンプレートを表示

アーザム・シャーウルドゥー語: اعظم شاہ‎, Azam Shah, 1653年7月8日 - 1707年6月8日)は、北インドムガル帝国の対立君主(在位:1707年)。第7代皇帝バハードゥル・シャー1世と対立した。第6代君主アウラングゼーブの三男で、母はディルラース・バーヌー・ベーグム。皇子時代はアーザムと呼ばれた。

生涯

[編集]

幼少期・青年期

[編集]

1653年7月8日、アーザムはムガル帝国の皇帝アウラングゼーブとその妃ディルラース・バーヌー・ベーグムとの間に生まれた[1]

アーザムの母ディルラース・バーヌー・ベーグムはサファヴィー朝の流れをくむ貴族シャー・ナワーズ・ハーンの娘であった。したがって、アーザムは父方ではティムールの血を、母方からサファヴィー朝の血を受け継いだ皇子であった[1]

アーザムには2人の兄がいたが、彼は父アウラングゼーブからは最初から後継者であるかのように育てられた[1]。2人の兄の母はヒンドゥー教徒の領主(ラージャ)の娘であったからである[2]

アーザムは父の期待にこたえるかのように、優れた知性と卓越性を持った若者となり、父もまたその高潔な人格に感銘を受けたという。

アウラングゼーブの後継者として

[編集]
アーザムと父アウラングゼーブ

1669年1月3日、アーザムは父の兄ダーラー・シコーの娘ジャハーンゼーブ・バーヌー・ベーグムと結婚した[1]。これはアウラングゼーブの後継者としての地位を確立させるものであった。 また、アーザムは各地の太守にも任命され、ベラールマールワーベンガルの地を任された[1]

1679年10月6日、アーザムは父アウラングゼーブに呼び戻され、ベンガルの首府であるダッカを去り、ベンガル太守位はイブラーヒーム・ハーン2世に引き継がれた[1]

1681年8月2日、アウラングゼーブはアーザムは正式に自身の後継者として指名され、皇太子として他の兄弟より上の立場となった[1]。同年、アーザムはビジャープル王国の君主アリー・アーディル・シャー2世の娘と結婚した[1]

1685年10月、アウラングゼーブはビジャープル王国を滅ぼすため、アーザムをシカンダル・アーディル・シャーのいるビジャープルへと向かわせ、1686年9月にアーザムはビジャープルを落とした(ビジャープル包囲戦)。

1701年から1706年まで、アーザムはグジャラート太守にも任命され、グジャラートの首府であるアフマダーバードに滞在していた[1]

同年にアーザムはグジャラート太守の任を解かれたのち、アウラングゼーブがいるアフマドナガルへと移動していた。このとき、アウラングゼーブは老体となり、すっかり弱っていた[1]

1707年2月、アーザムはアウラングゼーブの命により、マールワーへと移動させられた。一方、弟のカーム・バフシュもまた、ハイダラーバードへと移動させられていた[3]。アウラングゼーブは自分の死後に「鎖を解かれた2頭のライオン」を一緒にしておくような危険な行為はできなかった[3]

皇位継承戦争と死

[編集]

1707年3月3日、老帝アウラングゼーブは死亡した。死の数日前、アーザムには自身の悲痛な気持ちをしたためた手紙を送っている[3]。マールワーに行く素振り見せながらもアフマドナガルの外にいたアーザムは、翌日にフルダーバードに埋葬されるアウラングゼーブに哀悼の意を伝えた。

そして、同月14日、アーザムはアウラングゼーブの正統な後継者として、自ら帝位を宣言し、「アーザム・シャー」を号するところとなった[1]。一方、兄のムアッザムと弟のカーム・バフシュもまたそれぞれ帝位を宣し、他の兄弟との対決を鮮明にしていた。

同年6月19日、アーザム・シャーはアーグラ近郊ジャージャウーにおいて、バハードゥル・シャーの名を号する兄ムアッザムとの対決に及んだ(ジャージャウーの戦い[1][4]。戦闘は一日で決着し、アーザム・シャーは息子のビーダール・バフトワラー・ジャーとともに戦闘で敗れて殺害された[1][4]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m Delhi 8
  2. ^ Delhi 7
  3. ^ a b c ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.246
  4. ^ a b ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.248

参考文献

[編集]
  • フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206 - 1925)』創元社、2009年。 

関連項目

[編集]