アーザム・シャー
アーザム・シャー اعظم شاہ | |
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ムガル帝国対立皇帝 | |
アーザム・シャー | |
在位 | 1707年3月14日 - 6月8日 |
戴冠式 | 1707年3月14日 |
別号 | パードシャー |
全名 | クトゥブッディーン・ムハンマド・アーザム |
出生 |
1653年7月8日 ブルハーンプル |
死去 |
1707年6月19日 アーグラ近郊、ジャージャウー |
埋葬 | フマーユーン廟 |
配偶者 |
ジャハーンゼーブ・バーヌー・ベーグム 他3名の妃 |
子女 |
ビーダール・バフト ワラー・ジャー 他5人の息子と3人の娘 |
王朝 | ムガル朝(ティムール朝) |
父親 | アウラングゼーブ |
母親 | ディルラース・バーヌー・ベーグム |
宗教 | イスラーム教(スンナ派) |
アーザム・シャー(ウルドゥー語: اعظم شاہ, Azam Shah, 1653年7月8日 - 1707年6月8日)は、北インド、ムガル帝国の対立君主(在位:1707年)。第7代皇帝バハードゥル・シャー1世と対立した。第6代君主アウラングゼーブの三男で、母はディルラース・バーヌー・ベーグム。皇子時代はアーザムと呼ばれた。
生涯
[編集]幼少期・青年期
[編集]1653年7月8日、アーザムはムガル帝国の皇帝アウラングゼーブとその妃ディルラース・バーヌー・ベーグムとの間に生まれた[1]。
アーザムの母ディルラース・バーヌー・ベーグムはサファヴィー朝の流れをくむ貴族シャー・ナワーズ・ハーンの娘であった。したがって、アーザムは父方ではティムールの血を、母方からサファヴィー朝の血を受け継いだ皇子であった[1]。
アーザムには2人の兄がいたが、彼は父アウラングゼーブからは最初から後継者であるかのように育てられた[1]。2人の兄の母はヒンドゥー教徒の領主(ラージャ)の娘であったからである[2]。
アーザムは父の期待にこたえるかのように、優れた知性と卓越性を持った若者となり、父もまたその高潔な人格に感銘を受けたという。
アウラングゼーブの後継者として
[編集]1669年1月3日、アーザムは父の兄ダーラー・シコーの娘ジャハーンゼーブ・バーヌー・ベーグムと結婚した[1]。これはアウラングゼーブの後継者としての地位を確立させるものであった。 また、アーザムは各地の太守にも任命され、ベラール、マールワー、ベンガルの地を任された[1]。
1679年10月6日、アーザムは父アウラングゼーブに呼び戻され、ベンガルの首府であるダッカを去り、ベンガル太守位はイブラーヒーム・ハーン2世に引き継がれた[1]。
1681年8月2日、アウラングゼーブはアーザムは正式に自身の後継者として指名され、皇太子として他の兄弟より上の立場となった[1]。同年、アーザムはビジャープル王国の君主アリー・アーディル・シャー2世の娘と結婚した[1]。
1685年10月、アウラングゼーブはビジャープル王国を滅ぼすため、アーザムをシカンダル・アーディル・シャーのいるビジャープルへと向かわせ、1686年9月にアーザムはビジャープルを落とした(ビジャープル包囲戦)。
1701年から1706年まで、アーザムはグジャラート太守にも任命され、グジャラートの首府であるアフマダーバードに滞在していた[1]。
同年にアーザムはグジャラート太守の任を解かれたのち、アウラングゼーブがいるアフマドナガルへと移動していた。このとき、アウラングゼーブは老体となり、すっかり弱っていた[1]。
1707年2月、アーザムはアウラングゼーブの命により、マールワーへと移動させられた。一方、弟のカーム・バフシュもまた、ハイダラーバードへと移動させられていた[3]。アウラングゼーブは自分の死後に「鎖を解かれた2頭のライオン」を一緒にしておくような危険な行為はできなかった[3]。
皇位継承戦争と死
[編集]1707年3月3日、老帝アウラングゼーブは死亡した。死の数日前、アーザムには自身の悲痛な気持ちをしたためた手紙を送っている[3]。マールワーに行く素振り見せながらもアフマドナガルの外にいたアーザムは、翌日にフルダーバードに埋葬されるアウラングゼーブに哀悼の意を伝えた。
そして、同月14日、アーザムはアウラングゼーブの正統な後継者として、自ら帝位を宣言し、「アーザム・シャー」を号するところとなった[1]。一方、兄のムアッザムと弟のカーム・バフシュもまたそれぞれ帝位を宣し、他の兄弟との対決を鮮明にしていた。
同年6月19日、アーザム・シャーはアーグラ近郊ジャージャウーにおいて、バハードゥル・シャーの名を号する兄ムアッザムとの対決に及んだ(ジャージャウーの戦い)[1][4]。戦闘は一日で決着し、アーザム・シャーは息子のビーダール・バフト、ワラー・ジャーとともに戦闘で敗れて殺害された[1][4]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m Delhi 8
- ^ Delhi 7
- ^ a b c ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.246
- ^ a b ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.248
参考文献
[編集]- フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206 - 1925)』創元社、2009年。