コンテンツにスキップ

大陸軍 (フランス)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。龍伯 (会話 | 投稿記録) による 2007年4月7日 (土) 02:29個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (en:La Grande Armée of 20:58, 25 March 2007, Authors: Ahoerstemeier, Angela, Wik, Pcb21, Hammersfan)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
ワーテルローの戦い

大陸軍(だいりくぐん、仏語:La Grande Armee、英語ではthe Great Army あるいはthe Grand Armyと表記される。)は、1805年ナポレオン1世が命名したフランス軍を中核とする軍隊の名称である。最初に歴史的な記録に現れるのは、イギリス侵攻のためにイギリス海峡に面する海岸に軍隊を集結させた時であり、これを東方のオーストリアおよびロシアに対する作戦行動を始めるように配置転換された。この後、1806年-1807年1812年、 および 1813年-1814年の各作戦にもこの名称が使われており、19世紀初頭にナポレオンが作戦を実行するために召集した多国籍軍の総称である。[1]フランス語のarmeeには陸軍とともに軍隊という意味もあり、大軍隊と日本語訳することも可能である。

最初の大陸軍はナポレオン麾下の陸軍元帥(marshals)と上級の将軍の指揮下にある6個軍団で構成された。ナポレオンは1805年にロシアとオーストリアがフランスを侵略する準備をしていることを知ると、大陸軍にすぐさまライン川を渡り南ドイツに入ることを命じた。その結果はウルムの戦い]とアウステルリッツの戦いでの勝利となった。

この軍隊の大きさはナポレオンの力がヨーロッパ中に広がるにつれ拡大していった。1812年の第六次対仏大同盟に対抗してロシア侵攻を始めた時がその最大であり、600,000名を数えた。ポーランドとオーストリアの部隊を除いてすべての部隊はフランスの将軍の指揮下に入った。巨大な多国籍軍はゆっくりと東方に進軍し、ロシアはその前に後退していった。スモレンスクの占領とボロディノの戦いでの勝利の後の1812年9月14日、ナポレオンと大陸軍の大部分はモスクワに到着した。しかし、この時既にロシア軍との死闘と病気(主にチフス)で多くの兵士を失っていたうえに、ロシアの焦土作戦によって大陸軍が確保できる食糧が無かった。大陸軍はモスクワで1ヶ月を過ごし、遂に西方への退却を開始した。寒さと飢えと病気に悩まされ、コサックやロシアの非正規軍に執拗に痛めつけられて、この撤退は大陸軍の戦闘能力を完全に奪ってしまった。およそ400,000人が死に、わずか数万人のやつれきった兵士が帰還できた。[2]

ナポレオンは1813年のライプツィヒでの諸国民の戦い、1814年のすさまじいフランス防衛戦および1815年のワーテルローの戦いで新しい軍隊を率いたが、ナポレオン軍は1812年6月の大陸軍の高みまで戻ることはなかった。

組織

大陸軍の成功の最も重要な要因の一つは、その高度に優れた組織の柔軟性であった。全体をいくつかの軍団(通常5から7個)に分けられ、1軍団は10,000名から50,000名、平均して20,000名から30,000名で構成された。これらの軍団はそれぞれに、下にも記すように各種戦闘兵力と支援部隊を持つ連合型の小軍隊であった。単独でも作戦行動ができる一方で、軍団同士は1日の工程の内にあって互いに密接な協働行動を執れた。軍団はその戦力と課された任務の軽重によって、元帥または旅団将軍(General de division少将)によって指揮された。

ナポレオンは彼の軍団の指揮官を大変信頼しており、彼の戦略目標の範囲内で行動し、協働してそれを達成するのであれば、通常は広い範囲で指揮官達に行動の自由を与えた。仮に指揮官達が失敗して彼を満足させることができなかった場合は、躊躇することなく叱責し、あるいは解任し、多くの場合彼自身がその軍団の指揮を執った。1800年ジャン・ビクトル・マリー・モロー将軍がライン方面軍を4つの軍団に分けたのが軍団の始まりであった。これは一時的な分け方であり、1804年までにナポレオンが恒久的な組織とした。ナポレオンは個々の軍団に騎馬隊を設け、歩兵によって動きが鈍くならないよう素早い離合集散を図った。

軍団の主要な戦術的単位は師団であり、通常4,000名から6,000名の歩兵と騎馬兵で構成された。1師団は2ないし3個旅団で、1旅団は2個連隊で構成され、3ないし4個砲兵大隊からなる砲兵旅団の支援を受けた。砲兵大隊には4門の野砲と2門の榴弾砲が配備されたので、1砲兵旅団には18ないし24門の大砲が配備されていたことになる。旅団にも恒久的な管理部門と実戦部隊があり、旅団将軍(少将)によって指揮され、軍団同様に独立した作戦行動が可能だった。

大陸軍の戦力

皇帝親衛隊

フランスの皇帝親衛隊(Garde Imperiale)は当時のエリート軍人部隊であり、執政衛兵(Garde des Consuls および Garde Consulaire)から発展した。これはそれ自体が軍団(Corps d'Armee )であり、歩兵、騎兵および砲兵部隊を持っていた。ナポレオンは親衛隊が全軍の模範を示すことを望み、彼と共に多くの戦闘に参加したので、絶対の忠誠を強いた。歩兵が戦闘に参加することは希であったが、親衛騎兵隊はしばしば戦闘に参加し敵に大きな打撃を与えた。また砲兵は接近戦の前の砲撃で敵を脅かすことに用いられた。

親衛隊の大きさの変遷
兵士数
1800 3,000
1804 8,000
1805 12,000
1810 56,000
1812 112,000
1813 85,000 (ほとんどが若年親衛兵)
1815 28,000

親衛歩兵

親衛歩兵には経験によって3つの部門があった。

  • 老親衛隊(Vieille Garde):ナポレオンの軍隊の中でも超一流のものであった。老親衛隊は従軍期間の長い古参兵(3から5方面作戦に参加)から構成され2連隊あった。
    • 皇帝親衛歩兵第一連隊(Grenadiers a Pied de la Garde Imperiale):[3][4]皇帝親衛歩兵第一連隊は大陸軍の中でも最も上級の連隊であった。1807年のポーランド方面作戦では、ナポレオン自身によって「不平屋」(les grognards)という渾名を付けられた。構成員は親衛兵の中でも最も経験を積み勇敢な歩兵であり、古参兵の中には20回以上戦闘に参加した者もいた。この連隊に入ろうとする者は少なくとも10年間は連隊旗の下にあり、勇猛さで表彰され、読み書きができ、しかも身長が178 cm以上である必要があった。皇帝親衛歩兵第一連隊は中年近衛兵や若年近衛兵ほど戦闘に参加する機会がなかったが、一度参加したときは賞賛に値する戦果を上げた。1815年に皇帝親衛歩兵連隊は4連隊に拡張された。新しい連隊すなはち第2、第3、第4連隊は即座に皇帝親衛歩兵に格付けされた。この時点では第1連隊ほど力量が望めなかったのは事実である。実際にはこの軍隊は中年親衛歩兵と呼ばれた。ワーテルローでイギリス近衛兵に敗れたのはこれらの連隊であった。第1連隊はプランスノアでプロシア軍と戦った。皇帝親衛歩兵連隊の兵士は赤の折り返しのある濃青のハビットロング(尾の長い上着)を着、赤の肩章と白の襟章を着けていた。最も目に付く特徴は高い熊毛帽であり、彫刻された金の板と赤の羽毛、白の紐で飾られていた。
    • 皇帝親衛猟兵連隊(Chasseurs a Pied de la Garde Imperiale): 皇帝親衛猟兵連隊は大陸軍の中で2番目に上級の連隊であった。猟兵連隊は皇帝親衛歩兵第一連隊の姉妹隊であった。この隊に入るには同じような基準があったが、身長のみ172 cm以上であった。猟兵連隊は皇帝親衛歩兵第一連隊と同様に幾つかの激しい戦闘に参加し戦果を上げた。1815年のナポレオンの帰還では、猟兵連隊も4連隊に拡張されたが、第2、第3、第4連隊は経験年数4年の兵士から構成された。これらの連隊は歩兵連隊の中年親衛兵連隊と共に、ワーテルローの会戦の最終段階で親衛兵突撃に加わった。皇帝親衛歩兵第一連隊と同様に猟兵連隊もプランスノアの戦いに参加した。猟兵連隊の兵士も赤の折り返しのある濃青ハビットロングを着用し、緑の縁のある赤の肩章と白の襟章を着けていた。戦闘時には濃青のズボンを履いた。これも親衛歩兵と同様に、猟兵連隊の顕著な特徴は高い熊毛帽であり、緑に重ねた赤の羽毛と白の紐で飾られていた。[5]
  • 中年親衛兵(Moyenne Garde):[6]2ないし3回方面作戦に参加した古参兵により構成された。
    • フリント銃猟兵連隊(Fusiliers-Chasseurs):フリント銃猟兵連隊は1806年に中年親衛歩兵の連隊として創設された。中年親衛兵のすべての兵士は2ないし3回方面作戦に参加した古参兵であり、戦列連隊の下士官に任命された。全親衛兵の中でも問題なく優秀な歩兵であるフリント銃猟兵は、多くの場合に姉妹連隊であるフリント銃歩兵連隊(下記)と共に親衛フリント銃連隊の一部として戦闘に参加した。フリント銃猟兵連隊は広範な作戦行動に参加し、繰り返しその存在価値を示し続けたが、ナポレオンの退位に続く1814年に解散され、1815年のワーテルローの会戦に向けて再構築されることはなかった。制服は赤の折り返しのある濃青のハビット(上着)を着用し、赤い縁で緑の肩章と白の襟章を着けていた。上着の下は白のチョッキと青か茶色のズボンだった。帽子は円筒帽で、白の紐が着き、緑に重ねた赤の羽毛が着いていた。武器はシャルルビル1777年式マスケット銃銃剣および短いサーベルだった。
    • フリント銃歩兵連隊(Fusiliers-Grenadiers):[7]フリント銃歩兵連隊は1807年に結成された中年親衛歩兵連隊である。フリント銃猟兵連隊と同様な基準で組織化されたが、規模がやや大きかった。フリント銃歩兵連隊は、多くの場合に姉妹連隊であるフリント銃猟兵連隊と共に近衛フリント銃連隊の一部として戦闘に参加した。フリント銃猟兵連隊とほぼ同様な活動履歴を残し、1814年に解散し、1815年にはやはり再結成されなかった。服装は、赤の折り返し着きハビット、赤の肩章と白の襟章、白のチョッキ、白のズボンだった。帽子は円筒帽で白の紐と長い赤の羽毛が着いていた。武器はシャルルビル1777年式マスケット銃と銃剣および短いサーベルだった。
    • 親衛海兵大隊(Marins de la Garde):親衛海兵大隊は1803年に結成された。元々の目的はイギリス本国への侵攻に先立ち、イギリス海峡を越える時に皇帝を乗せて行く船の操船を行うことだった。大隊は実質上5個中隊だった。イギリス侵攻が中止された後は、親衛隊の一部として残され、戦闘員として活動すると同時に、ナポレオンが使うボートやバージあるいはその他の船の操船にあたった。制服は金のレースの飾りのついたネイビーブルーのユサール風ドルマンジャケットと、やはり金のレースの飾りのついたネイビーブルーのハンガリー風ズボンだった。帽子はGold Guardと刺しゅうされた円筒帽だった。[8]武器は歩兵と同様で、シャルルビル1777年式マスケット銃と銃剣であり、多くの水夫は作業中に邪魔にならないような拳銃も持っていた。
  • 若年親衛兵(Jeune Garde):[9]元々は少なくとも1回の方面作戦に参加した古参兵と、頭脳明晰な若い士官および徴集兵の中でも年収の良い者とで創設された。後にはほとんど全員が選ばれた徴集兵と志願兵で満たされることになった。戦闘能力と言うよりも熱心さで知られていた。
    • 狙撃歩兵連隊(Tirailleurs-Grenadiers):1808年にナポレオンの注文で作られた連隊であり、最も知性があり強靱な新兵を若年親衛兵の第1連隊に編入したものであった。新兵の中でも背の高い者が編入された。下士官はすべて中年親衛兵から編成替えされた。この連隊を徐々に鍛えられた古参兵に変えていくことで、士気と戦闘能力を上げていった。制服は濃青の折り返しのある濃青のハビット、赤の肩章、白の管状襟章だった。帽子は赤の紐と赤の長い羽毛が着いた円筒帽だった。
    • 狙撃猟兵連隊(Tirailleurs-Chasseurs):若年近衛兵の中で背の低い新兵がこの連隊に編入された。構成は狙撃歩兵連隊と同様だが、士官は古参親衛兵から、下士官は中年親衛兵から編成替えされた。制服は赤の折り返しのある濃青のハビット、白の管がある濃青の襟章だった。更に赤の縁のある緑の肩章が着いていた。帽子は円筒帽で緑あるいは緑に重ねた赤の大きな羽毛で飾られていた。

親衛騎兵連隊

親衛騎兵連隊は1804年に創設され、猟騎兵連隊(Chasseurs a Cheval)と騎馬榴弾兵連隊(Grenadiers a Cheval)の2つの連隊とエリート集団であるジェンダーム(Gendarmes)及びマムルーク(Mamelukes)大隊があった。1806年に3番目の連隊として皇帝親衛竜騎兵連隊(Regiment de Dragons de la Garde Imperiale、後の皇帝竜騎兵、皇帝妃竜騎兵)が追加された。1807年のポーランド方面作戦に続いて、ポーランド槍騎兵連隊(Regiment de Chevau-Legers de la Garde Imperiale Polonais)が追加された。1810年にはもう一つの槍騎兵連隊がフランスとオランダの新兵を編入して創設された。これを第2槍騎兵連隊(2e Regiment de Chevau-Legers Lanciers de la Garde Imperiale)あるいは赤い槍騎兵連隊と呼んだ。親衛騎兵連隊は数多く実戦に参加しており、少数の例外を除いてその戦闘力を示してみせた。親衛騎兵連隊の歴史の中で最も有名な逸話はワーテルローの会戦でのポーランド槍騎兵の攻撃である。この時は胸甲騎兵と隊列を組み、スコットランド灰色連隊とイギリス連合旅団を敗走させた。

  • 親衛騎馬榴弾兵連隊(Grenadiers a Cheval de la Garde Imperiale):「神」(Gods)とも「巨人」(Giants)とも呼ばれたこの連隊はナポレオンの親衛騎兵連隊の中でもエリート集団であり、「不平屋」(上述)と並ぶ双璧となった。制服は高い熊毛帽、濃青の上着と襟、白の襟章と特に長い長靴であった。すべて大きな黒馬に乗った。見込みのある新兵は背の高さ176 cm以上、10年以上の軍歴があり、最低4回の方面作戦に参加し、勇猛さで表彰されている必要があった。この連隊はアウステルリッツの戦いでロシア近衛騎兵隊を打ち破る功績を挙げたが、最も有名な戦闘はアイラウの戦いの時のものだった。この時は、ロシアの60門の大砲の砲撃に暫く曝されて隊員達は避難場所を探し始めた。指揮官のルイ・レピック大佐が叫んだ「諸君、頭を上げよ。あれは単なる砲弾であって、糞ではない」[10]間もなく彼らはミュラの攻撃に加わりロシアの前線になだれ込んだ。騎馬榴弾兵連隊はポーランド槍騎兵連隊とともに、一度も負けたことがない親衛騎兵連隊であった。
    親衛猟騎兵
  • 親衛猟騎兵連隊(Chasseurs a cheval de la Garde Imperiale):「寵愛された子供達」(暗に「甘やかされた餓鬼」と言っている)とも言われた猟騎兵連隊は、軽装親衛騎兵であり、大陸軍の中でもナポレオンのお気に入りで、最も認められた部隊の一つと言える。フランス革命の1796年、ナポレオンはイタリア遠征に赴いていたがボルゲットで昼食中にオーストリアの軽装騎兵隊に襲われからくも逃げ出した経験があり、その後ボディガードのための騎兵隊の結成を命じた。[11]この時の200名の護衛隊が猟騎兵連隊の前身となった。部隊と皇帝との密接な関係はナポレオンがしばしば連隊の大佐の制服を着ていたという事実からも肯定された。騎兵はきらびやかな緑と赤と金の騎馬服に身を包み、皇帝のお気に入りという地位を利用していることも知られていたが、時には訓練が足りない様子や不服従の色さえ見せていた。部隊はアウステルリッツの戦いで初陣を飾り、ロシア近衛騎馬隊を破る際に貢献した。半島方面作戦では1808年のベナベンテでイギリス騎兵の大部隊に待ち伏せを受け敗れた。ワーテルローでの特に勇敢な戦い振りで再び評価を上げた。
  • エリート・ジャンダーム(Gendarmerie d’Elite):滅多に戦闘場面に遭遇しないという事実によって「不死身」と渾名されたが、それでも重大な役目を果たした。ジャンダームは大陸軍の憲兵であった。作戦本部の近くにあってその安全と秩序を図るとともに、捕虜を尋問し、賓客を護衛する栄誉に浴し、また皇帝の個人的な持ち物を警護した。制服は濃青の上着と赤の襟章、長い長靴と、騎馬榴弾兵のものより幾分小さい熊毛帽であった。1807年の後は、実際の戦闘に参加する機会が増え、1809年のアスパーン=エスリングでのドナウ橋の防衛で有名である。
  • マムルーク大隊(Escadron de Mamalukes):恐ろしい砂漠の戦士であり、その忠誠心をボナパルトはエジプト遠征で獲得した。狂信的勇気を伴う優れた騎馬術と剣使いを併せ持った部隊であった。ロマンチックに「正真正銘の砂漠の息子」であるとか、「首狩り族」とかに見られているが、士官はフランス人であり、下士官はエジプト人やトルコ人ばかりでなく、ギリシア人、グルジア人、シリア人、キプロス人なども含まれていた。元々は騎馬狙撃兵連隊付属の中隊(あるいは半大隊)であった。1805年のアウステルリッツの戦いで頭角を現し、独自の基準と第2のトランペット奏者を獲得し、大隊に昇格した。この部隊は時には老親衛兵の一部となり、ワーテルローでは皇帝の直参として活躍した。1813年には第2マムルーク中隊が結成され若年親衛兵に付属された。先輩格のマムルーク大隊と同様に、猟騎兵連隊と連携し1815年の百日を戦った。制服は緑(後に赤)の帽子、白のターバン、緩いシャツとチョッキ、赤のズボン、黄または赤または黄褐色の長靴と色使いが華やかであった。武器は長く反った三日月刀に拳銃と短刀の組み合わせだった。その帽子と武器には真鍮製の三日月と星の記章が留められていた。
  • 親衛槍騎兵連隊(Chevau-Legers-Lanciers de la Garde Imperiale):[12]
    • 第1連隊(ポーランド):1807年にナポレオンがポーランド軽装騎兵の親衛連隊を創設することを承認した。フランス人の教官により訓練が施された。しかし、初めての閲兵の時に、ボナパルトの皮肉「彼らは戦い方を知っているだけだ」によって位置付けが不明確になり、教官は即座に解雇された。それにもかかわらずボナパルトはポーランド軽装騎兵を側近に置き、翌年のソモシエラの戦いでは、パレードの代わりに戦いの場でその存在価値を示す機会を与えられた。ナポレオンは彼らに防御の厚いスペイン砲兵陣地への攻撃を命じた。武器といえばサーベルと拳銃に過ぎなかったが、彼らは4大隊を打ち破り20門以上の大砲をろ獲し、戦いの流れを決定的に変えた。このほとんど伝説的な偉業の後で、ナポレオンは「ポーランド人よ、君達は私の老親衛兵と同じ価値がある。君達を私の最も勇敢な騎兵隊と宣言しよう」と言った。老親衛兵連隊に昇格され、槍を与えられたこの連隊はワーテルローまで皇帝の側近にあり、敵の騎兵隊に負けることはなかった。この第1連隊が発展して正規軍の中に第1ビスツラ・ウーランス(1e Vistula Uhlans)というポーランド人の騎兵隊ができた。このことは単により良い部隊であるということだけではなく、深い政治的な信条の違いに基づくものであった。ウーランス槍騎兵の熱狂的なナポレオン支持とともに、その多くは(大部分ではないかもしれないが)強硬な共和制信奉者であった。このような部隊間の政治的あるいはその他の相違点は通常にあるものではなく、ここに表されているようなものである。フランス人に教えられる立場から、同僚のビスツラとともに教える立場に転換し、フランスや大陸軍の他の槍騎兵に対する模範となったし、かれらの恐ろしいばかりの有効性を倍加させることになった。
    • 第2連隊(フランス=オランダ):1810年にフランス人とオランダ人の中核で結成された。部隊はその目に付く制服から赤い槍騎兵と呼ばれた。この部隊もロシアではコサックの攻撃と冬の厳しさのために大変な被害を被り、ほとんどの兵士と馬が失われた。連隊は1813年に再結成され、その最初の4大隊は老親衛兵で構成されたために強力になり、さらに若年兵から6大隊が作られた。その後多くの戦いに参加して目立った働きをし、最後のワーテルローにも出撃した。
    • 第3連隊(ポーランド):1812年に若年親衛兵の一部として結成された。士官や下士官は古参兵であり、隊員はポーランドやリトアニアの学生や地主の息子で熱気はあるが、まだ経験が足りない者で構成された。訓練が足りないままにロシア方面作戦に投入され、1812年の遅く、コサックによって包囲されスロニムで崩壊した。
  • 皇帝妃竜騎兵(Dragons de l’Imperatice):1806年に皇帝親衛竜騎兵連隊(Regiment de Dragons de la Garde Imperiale)として創設され、翌年皇帝妃ジョセフィーヌに敬意を表して改称された。この連隊に入るには、少なくとも6年(後に10年)の軍歴があり、最低2回の方面作戦に参加し、勇猛さで表彰されており背の高さ173 cm以上(騎馬榴弾兵連隊よりやや低い)である必要があった。30個あった正規竜騎兵連隊からは1回の編入が1個連隊当たり12人までとされ、後に10人までに減らされた。他の親衛連隊からの志願者も編入を認められた。この連隊は戦闘用というよりも儀礼用であり、戦闘に参加する機会は滅多になかったので、入隊を求める競争が激しかった。赤い槍騎兵と同様、老親衛兵と若年親衛兵の大隊があり、最後まで皇帝とともにあった。

騎兵

皇帝自身の布告により、騎兵は大陸軍の5分の1から6分の1の間の構成であった。騎兵連隊は800名から1,200名であり、3ないし4個大隊、大隊は2個中隊とされ、これに支援部隊が付いた。各連隊の第1大隊の第1中隊は常に「エリート」と称され、最高の兵士と馬があてられた。フランス革命の流れの中で、封建制度(アンシャン・レジーム)の王室に忠誠で経験を積んだ貴族出身の騎馬士官や下士官の多くが失われていた。この結果フランス軍の騎兵隊はその質をひどく落としていた。ナポレオンはこの部門を再建し、世界でも最高のものに変えた。1812年まで、連隊間の大きな戦闘では負けることがなかった。役割に応じて重装騎兵と軽装騎兵に分けられた。

重装騎兵

  • 胸甲騎兵(Cuirassiers):重装騎兵は昔の騎士よろしく重い真鍮や鉄製の胸甲や兜を着け、長く真っ直ぐなサーベルと拳銃、後にはカービン銃で武装していた。騎士と同様にこの部隊は騎兵の突撃部隊だった。かれらの着けている甲冑や武器の重みのために、騎手も馬も大きくて強い必要があり、その結果戦闘時には大きな効果を生み出すはずであった。しかし、かれらは多くの場合軽装騎兵や竜騎兵の支援に回った。それにも関わらず、重装騎兵は戦場でその能力を証明し、敵に強い印象を残した。特にイギリス軍は胸甲騎兵がナポレオンのボディガードだと誤って信じ込み、その特徴ある胸甲や兜を自軍(Horse Guards)にも採用しようとした。当初25個連隊あり後に18個連隊となった。
  • 竜騎兵(Dragoons):重装騎兵とも思われていたが、フランス騎兵の中重量主力戦闘部隊であり、戦闘、散兵戦や偵察にも用いられた。彼らは高度に融通が利く存在であり、伝統的なサーベル(トレド鋼製のよく切れる3つ刃のもの)だけでなく、拳銃やマスケット銃(乗馬時には鞍に着けていた)で武装し、騎乗のままでも歩兵のように徒でも戦えるようになっていた。その融通性は騎手としての能力によるものであり、剣の腕の方は他の騎馬部隊のレベルに届いていないことがあったので、冷笑や愚弄のタネにされた。このパートタイム騎馬兵に適した馬を見つけることも大変であった。歩兵士官の中には竜騎兵になることを諦めるよう求められた者がおり、互いに反感を抱くこともあった。当初25個連隊、後に30個連隊あった。1815年の「百日」の時はわずか15個連隊しかできなかった。
  • 憲兵騎兵(Carabiniers-a-Cheval):竜騎兵と武器や役割で類似。しかし、甲冑が軽く元々は胸甲を着けていなかったので、接近戦や白兵戦には向いていなかった。その結果融通性もなくなり、連隊数も少なかった(当初2個連隊)ので、竜騎兵ほど認識されていない。1809年にオーストリアのウーランによって打撃を被り、ナポレオンは甲冑を着けるように命令した。しかし、1812年のボロディノでロシア胸甲騎兵になすところなく敗れ、翌年のライプツィヒでは、ハンガリーのユサールを前に恐怖に震えることになった。

軽装騎兵

  • ユサール(Hussards):この速度があり軽装の騎兵隊はナポレオン軍の目であり、耳であり、自尊心でもあった。自身、全軍の中でも一番の騎手であり、剣の使い手と自負していた。この意見は全面的に否定できないし、その華やかな制服は品格を映し出していた。戦術的には偵察や散兵戦に、また指揮官に敵の動きを知らせ続ける一方で敵には情報を与えないようにする操作や、逃げる敵を追いかける際にも使われた。曲がったサーベルと拳銃のみを携行し、ほとんど自殺行為と思われるほどの向こう見ずな勇猛さで評判だった。30歳まで生き延びたユサールは、真の古参兵でありしかも幸運だと言われた。1804年には10個連隊、1810年に11個連隊、1813年には13個連隊あった。
  • 猟騎兵隊(Chasseurs-a-Cheval):フッサールと武装や役割が同じ軽装騎馬隊。ただし、上述の皇帝親衛猟騎兵連隊や歩兵の類似部隊とは異なり、特権的なものもなく、エリートでもなかった。制服は色遣いが少なく、歩兵とおなじような円筒帽(フッサールの目立つ熊毛帽と対照)、緑の上着、緑の乗馬用ズボンと短い長靴だった。しかし、最も数の多い部隊であり、1811年に31個連隊あった。このうち6個連隊は非フランス人部隊であり、ベルギー人、スイス人、イタリア人、ドイツ人で構成された。
  • 槍騎兵(Lancers):ナポレオン軍で最もおそれられた騎馬隊はポーランドのビスツラ・ウーラン槍騎兵であった。「地獄の闘牛士」とかスペイン語で「ポーランドの悪魔(Los Diablos Polacos)」と称され、中装および軽装の騎兵隊はフッサールと同じくらいの速度と胸甲騎兵と同じくらいの攻撃力を備え、竜騎兵と同様な融通性もあった。名前が示す通り、槍とサーベルと拳銃を携行した。槍騎兵は槍が歩兵の銃剣より先に届くために、歩兵を正面攻撃するには一番効果があった(1811年のアルブエラの戦いでイギリスのコルボーン連隊に対して実証された)。また行軍する敵を追い詰めることにも優れていた。他の種類の騎兵隊に対しても同様に効果があり、有名な例としてはワーテルローでスコットランド・グレーとその指揮官ウィリアム・ポンソンビー卿の息の根を止めたことである。親衛兵以外に槍騎兵は9連隊あった。戦争の終結後、イギリスはフランス軍に刺激されて独自の槍騎兵連隊を結成した。

歩兵

19世紀のフランス海軍の円筒帽

歩兵隊はたぶん大陸軍で最も魅力的な戦闘をしたわけではないが、ほとんどの戦闘で矛先となり、その成果が勝敗を分けることになった。歩兵隊は大きく2つに分けられた。1つは戦列歩兵隊(Infanterie de Ligne)であり、1つは軽装歩兵隊(Infanterie Legere)であった。

戦列歩兵連隊

戦列歩兵連隊は大陸軍の大部分を占めていた。1803年、ナポレオンは連隊という言葉を復権させた。フランス革命中のことば半旅団(demi-brigade、2つで1旅団となり王立という意味合いがなかった事実による)は、暫定的な部隊や補助部隊にのみ使われるようになった。大陸軍の結成の時、89個戦列歩兵連隊(Regiments de Ligne)があったが、この数はフランスの県の数であった。最終的には156個連隊となった。

戦列歩兵連隊はナポレオン戦争中にその大きさが変わったが、基本的な構成要素は大隊であった。1個歩兵大隊は約840名であり、これが大隊の定員となり、ほとんどどの隊も変わらなかった。別に400名から600名の大隊もあった。1800年から1803年にかけては、戦列歩兵大隊には8個フリント銃兵中隊と1個榴弾兵中隊が付属していた。1804年から1807年にかけては、7個フリント銃兵中隊と1個榴弾兵中隊、1個特別(voltigeur)中隊が付属していた。1804年から1807年にかけては、4個フリント銃兵中隊と1個榴弾兵中隊、1個特別中隊が付属していた。

  • フリント銃兵:フリント銃兵は歩兵大隊の大部分を占めており、大陸軍の典型的な歩兵と考えてよい。武器は旋条のない前込め・フリント式シャルルビル1777年式マスケット銃と銃剣であった。訓練は行軍速度と持続時間に重点が置かれ、接近戦や白兵戦での個々に狙いを定めた射撃が続いた。このことはヨーロッパの敵国の大多数と異なるところであり、他国ではきちんとした隊形で動き一斉射撃を行うことに重点が置かれた。ナポレオン戦争初期のフランス軍の勝利は、長い距離を素早く移動できる能力によっており、その能力は歩兵に課された訓練の賜物だった。1803年から1個大隊は8個フリント銃兵中隊となり、1個中隊はおよそ120名であった。1805年にフリント銃兵中隊の1つを改組して1個特別中隊を作った。1808年、ナポレオンは歩兵大隊を9個中隊から6個中隊に変えた。新しい中隊は構成員の数が140名となり、このうち4個中隊はフリント銃兵、1個中隊は榴弾兵中隊、1個中隊は特別中隊であった。帽子は二角帽子であり、1807年に円筒帽に変わった。制服は白のズボン、白の外衣と濃青の上着(1812年まではハビットロング、その後はハビットベスト)に白の襟章を着け、赤の襟と袖口であった。帽子には色のついたポンポンを着けていた。このポンポンの色は中隊毎に異なっていた。1808年以後の編成替えで、第1中隊は濃緑のポンポン、第2中隊は空色の、第3中隊は橙色の、第4中隊はすみれ色のポンポンという按配だった。
  • 榴弾兵:榴弾兵はナポレオン歩兵の中でもエリート中隊であり、古参兵で占められた。新しく作られた大隊には榴弾兵中隊が無かった。ナポレオンは、2回の方面作戦に参加させた後に最強で勇敢で背の高いフリント銃兵を榴弾兵中隊に昇格させ、大隊の中には2個以上の榴弾兵中隊ができたものもあった。榴弾兵の新兵の条件は連隊の中でも背が高く恐ろしげであり、しかも口ひげを生やしているということになった。これに加えて帽子が熊毛になり上着には赤の肩章を着けた。1807年以後熊毛帽は赤い線と赤の羽毛のついた円筒帽に置き換えられた。しかし多くの者が熊毛帽を好んだ。標準のシャルルビル1777年式マスケット銃と銃剣に加えて榴弾兵は短いサーベルを帯びた。これは接近戦で使うためであるが、焚き火の木を切る道具となってしまった。榴弾兵中隊は通常最も伝統的栄誉ある場所として隊列の右端に位置した。作戦行動中、榴弾兵中隊は榴弾兵大隊を結成したり、時には連隊や旅団を形成することもあった。この配置はより大きな戦闘隊形の前衛に置かれた。
  • 特別兵:
    榴弾兵(左)と特別兵(右)
    特別兵(Voltigeurs、意味合いからは飛び上がる者)は戦列連隊のエリート軽装歩兵であった。1805年、ナポレオンは戦列大隊の中で背は小さいが敏捷な者を選んで特別兵中隊を作るよう命じた。この中隊は大隊の階層の中では榴弾兵中隊に次ぐものである。その名前はもともとの使命からきている。特別兵中隊は敵の騎兵に対し馬に飛び上がって戦うものであり、風変わりなアイデアだったが戦闘ではうまくいかなかった。それにも拘わらず、特別兵は価値ある任務をこなし、散兵戦や各大隊の偵察、また各戦列連隊の軽装騎兵隊にもなった。その訓練では射撃技術や素早い動きに重点が置かれた。帽子は二角帽で黄と緑あるいは黄と赤の大きな羽毛が付いていた。1807年以後、円筒帽に変わり黄の線と同様な羽毛が付いた。上着には緑の線のある黄の肩章と黄の襟が付いた。もともとの武器は短い竜騎兵用マスケット銃であったが、実際にはシャルルビル1777年式マスケット銃と銃剣を装備した。榴弾兵と同様に、接近戦用に短いサーベルを帯びたがやはりあまり使われなかった。特別兵中隊は連隊や旅団につけかえられて軽装騎兵隊を作ることがあった。1808年以後戦列の左端に位置した。この位置は伝統的に戦列戦闘の2番目に栄誉あるものであった。

軽装歩兵

戦列歩兵隊が大陸軍の歩兵の大部分を占めていたが、軽装歩兵(Infanterie Legere)も重要な役割を果たした。軽装連隊は35個連隊を超えることはなかった(戦列歩兵の155連隊と対照)。また散兵戦を含め戦列歩兵と同じ作戦行動を取れた。その違いは訓練方法であり、高い団結心を生んだことである。

軽装歩兵の訓練は射撃術と素早い動きに特に重点が置かれた。その結果、軽装歩兵は戦列歩兵よりも正確な射撃の腕前と迅速な行動力を身につけた。軽装歩兵連隊は多くの戦闘行為に参加し、さらに大きな作戦の哨戒に利用されることが多かった。当然ながら、指揮官達は戦列歩兵よりも軽装歩兵に任務を任せることが多く、軽装歩兵部隊の団結心が上がり、またその華やかな制服や態度でも知られた。軽装歩兵隊員は戦列歩兵隊員よりも背が低いことが要求されており、森林を抜ける際の敏捷性や散兵戦の場合の物陰に隠れる能力に生かされた。

軽装歩兵大隊の構成は戦列歩兵大隊のものそのものであったが、榴弾兵、フリント銃兵、特別兵については異なった種類の部隊があてられた。

  • 猟兵(Chasseurs):猟兵は軽装歩兵大隊のフリント銃兵である。これが大隊の大部分を占めた。武器はシャルルビル1777年式マスケット銃と銃剣であったが、接近戦用の短いサーベルも帯びていた。ナポレオン軍に共通することだが、この武器も直ぐに焚き火の木を切る道具となってしまった。1803年からは、各大隊に8個追撃兵中隊があった。1個中隊は約120名であった。1808年、ナポレオンの命令で各大隊が9個中隊から6個中隊に編成替えされた。新しい中隊は構成員の数が140名となり、このうち4個中隊は猟兵中隊であった。猟兵の制服はフリント銃兵よりも華美なものであった。1806年までは円筒帽に濃緑の大きな羽と白の紐が付いていた。制服は戦列歩兵よりも暗い青で小競り合いのときのカムフラージュにもなった。上着は戦列歩兵と同じだったが、折り返しと袖口は濃青だった。また濃青と赤の肩章を付けていた。ズボンは濃青で長靴は騎兵のような長いものだった。1807年以降円筒帽は標準の円筒帽に置き換えられたが白の飾り紐は付いていた。戦列フリント銃兵と同様、帽子には色のついたポンポンを着けていたが、その色は連隊毎に異なるものだった。
  •  憲兵(Carabiniers):憲兵は軽装歩兵大隊の榴弾兵である。2回の方面作戦参加を経験し、背が高く勇敢な猟兵が憲兵中隊に選ばれた。彼らは大隊のエリート部隊であった。榴弾兵と同様に口ひげを蓄えることを要求された。武器はシャルルビル1777年式マスケット銃と銃剣、および短いサーベルであった。帽子は高い熊毛帽だった(1807年に赤の縁のある円筒帽で赤の羽毛の付いたものに置き換えられた)。制服は猟兵と同じだが、赤の肩章だった。憲兵中隊はより大きな憲兵部隊を構成することがあり、突撃を要するような作戦に使われた。
  • 特別兵(Voltigeurs):特別兵は戦列歩兵大隊のものと同じ任務であったが、さらに敏捷性と射撃の腕を求められた。制服はフリント銃兵と同様であったが、黄と緑の肩章であり、1806年より前に毛皮製高帽(colpack)が円筒帽に取って代わった。毛皮製高帽には赤の上に黄の大きな羽毛と緑の紐が付いていた。1807年以降、円筒帽に変わり黄の大きな羽毛と黄の紐だった。この特別兵中隊も必要に応じて大きな部隊を構成することがあった。

砲兵

皇帝は砲兵士官の出身であり、次の様に言ったと伝えられている。「砲兵が良ければ神が味方する」[13] ここで期待されているように、フランスの大砲は大陸軍の基幹であり、三軍の中でも大きな火力を有し、少ない時間で敵に大きな打撃を与える可能性があった。フランスの大砲はしばしば集中砲火(大砲兵大隊)に用いられ、歩兵や騎兵が接近戦を挑む前に敵の戦列を乱した。砲兵部隊の絶妙な訓練によって、ナポレオンは高速でその武器を動かし、弱っている防衛線を支援したり、敵の戦列を破る道具にした。 [[画像:Canon-p1000754.jpg|right|250px]18世紀後期の大砲] 絶妙な訓練以外にもナポレオンの砲兵隊は多くの戦術的な改良によって戦力を上げた。ジャン・バプティスト・ド・グリボーバルが作ったフランス砲は軽く早く移動でき照準を合わせやすく、また台車を強化したり口径を標準化したりした。通常のフランス砲は4ポンド、8ポンド、12ポンドのものがあり、6インチの榴弾砲があったが、戦争後期はすべて6ポンドのものに置き換えられた。砲身は真鍮製で、台車、車輪、および前車は黄緑色のペンキで塗られていた。砲兵を歩兵や騎兵の部隊とうまく融合させて、互いに支え、時には単独で行動することも出来た。砲兵隊には2つの分類、徒歩砲兵隊(Artillerie a Pied)と騎乗砲兵隊(Artillerie a Cheval)があった。

徒歩砲兵隊

この名前が示唆するように、砲兵は大砲の横に行軍し、大砲はもちろん馬で曳かせた。このために行動速度は歩兵の速度に準じ遅かった。1805年には8個連隊、後に10個連隊があり、さらに親衛連隊に2個連隊あった。しかし騎兵や歩兵の連隊とは異なり、これらは管理上の組織であった。主要な作戦上および戦術上の部隊は120名からなる大隊(または中隊)であり、旅団の中に作られるか師団や軍団に割り当てられた。

  • 師団砲兵隊:各師団は3ないし4個大隊の1個連隊があり、1個大隊は大砲8門(大砲6、榴弾砲2)を持っていた。
  • 軍団砲兵隊:各軍団も独自の1個連隊以上の砲兵隊があり、たいていは大きく重い大砲を装備していた。

大隊の要員は砲兵、下士官、士官の他に金属加工、木工、毛皮などの加工作業者も含んでいた。彼らは予備品を作ったり、大砲、台車、弾薬箱、馬車の維持・修理にあたり、馬の世話や軍需品の保管も行った。

騎乗砲兵隊

騎兵は騎乗砲兵隊の素早い動きと素早い砲撃に支援された。この部隊は騎兵と砲兵の組み合わせであり、馬や台車に乗って戦闘に参加した。前線に非常に近く活動するために、士官や砲兵は竜騎兵のように接近戦用の武器を携え訓練も施されていた。一度配置につくや、彼らは素早く下馬し、大砲を据え、照準を定め敵に集中砲火を浴びせた。さらに大砲をまた台車に載せ新しい場所に素早く移動した。このことを成し遂げるために訓練を積んでいたので砲兵の中でもエリート部隊であった。親衛騎乗砲兵隊は全速で駆けてきて最初の砲弾を放つまでに1分とかからなかった。そのような動きを目にして驚いたウェリントン将軍は次のように記している「かれらは拳銃を撃つように大砲をぶっ放している」。管理上の連隊は6個、さらに親衛兵に1個あった。騎兵部隊に割り当てられた大隊に加えて、ナポレオンは各軍団にまた可能ならば各師団に少なくとも1個大隊を割り当てようとした。その能力は十分高かったものの、その結成と維持にかかる費用もかなりのものであった。そのために、騎乗砲兵隊の数は徒歩砲兵隊の数より少なく、構成比は5分の1程度であった。皇帝が騎乗砲兵隊の兵士すべての名前を覚えているなどという自慢たらたらの冗談もあったくらいである。積まれた訓練、馬、武器や装備以外にも、彼らは多くの軍需品を使った。騎乗砲兵隊は徒歩砲兵隊の2倍、近衛砲兵隊の3倍の費用を要した。

砲車牽引隊

砲車牽引隊(Train d’artillerie)はボナパルトによって1800年1月に創設された。その機能は砲車を曳く馬を御する御者であった。[14] それまでのフランスでは民間の御者を雇っていたが、彼らは戦火の中では大砲を放棄して自分達や価値ある馬の命を守ろうとした。[15] 砲車牽引隊の要員は、以前の民間人とは異なり、武装し、訓練を施され、兵士と同じように制服を与えられた。閲兵の時の見栄えもさることながら、このことは軍隊としての規律を守り、攻撃されれば反撃することも可能にした。御者はカービン銃と歩兵と同じ型の短い刀および拳銃を携行した。彼らはそれらの武器を使う機会はほとんど無かったが、賭け事や、喧嘩その他各種の遊びごとで確かに評判をとった。彼らの制服と上着は灰色であり、その頑丈な外観をさらに強めていた。しかし、彼らが戦闘可能ということはコサックやスペイン人またチロルのゲリラに襲われたときに有効であることが証明された。

各砲車牽引隊は当初5個中隊で構成された。第1中隊はエリートと看做され、騎乗砲兵大隊に配属された。中間の3個中隊は徒歩砲兵大隊に配属され、予備品箱、物資用荷車の管理や屋外での鍛冶、なども担当した。最後の1個中隊は予備役で、新兵や馬のの訓練を行った。1800年の方面作戦に続いて、砲車牽引隊は8大隊に編成替えされ、それぞれ7個中隊を擁した。ナポレオンが砲兵隊を増強するにつれ、大隊が追加されて1810年には14個大隊を数えた。1809年、1812年および1813年には最初の13個大隊が倍増され27個大隊となった。さらに1809年以降、大隊の中には旅団の大砲を取り扱う中隊を創設するものがあり、歩兵隊に付属された。[15]

親衛兵は独自の牽引隊を持っており、親衛砲兵隊が増えるにつれて拡張し、大隊よりもむしろ連隊として組織化された。頂点は1813年から1814年にかけてで、親衛古参砲兵隊は12個牽引中隊に、親衛若年砲兵隊は16個牽引中隊に支援され、砲兵大隊に1個中隊づつ配備された。[16]

支援部隊

技師

騎兵、歩兵、砲兵に戦闘の脚光が及ぶ影で、軍隊には様々なタイプの軍事技師がいた。

大陸軍の橋梁技師(pontonniers)はナポレオンの軍隊維持機構の重要な役目を果たした。特に艀(はしけ)をつなぎ合わせた簡易橋梁を構築して水の障害物を越える際の貢献が大きい。橋梁技師の技術によって敵が居そうにない川を渡り敵の虚を突いたり、あるいはモスクワからの撤退時のベレジナでは全滅の危機から自軍を救うことができた。

技師達が脚光を浴びることはなかったが、ナポレオンは橋梁技師の価値を明らかに認め、その軍隊に14個中隊を配備し、その指揮は輝かしい経歴を持つ技師ジャン・バプティスト・エーブレ将軍に任せた。彼の道具や装置を使った訓練によって、素早く橋の様々な部品を造り、組み立てさらに後に再利用できるようになった。必要な資材、工具、部品は中隊の荷車で運ばれた。もし部品などが不足する場合は、即座に荷車に積んである鍛造機などの装置で製作された。1個技師中隊で80杯のはしけの橋(長さは120 mから150 m)を7時間以下で組み立てた。これは今日の基準から見ても驚異的である。

橋梁に加えて、敵の防御施設に対応するための土木工兵の中隊もあった。橋梁技師よりは意図した役割に添って使われる頻度は少なかった。皇帝がエーカーの包囲戦など初期の方面作戦の経験をもとに、固定された防御施設に正面攻撃するよりも可能な限り回避し孤立化させた方がよいことを覚え、土木工兵中隊は通常他の任務に回された。

ジニーと呼ばれる異なったタイプの技師中隊が大隊や連隊内に作られた。ジニーとは大陸軍内部の通り言葉で技師を指していたが、元々の意味は今日でも使われる「言葉遊び」(jeu de mot) と願い事を受け入れて魔法の力で現実にしてくれる精霊(Genie)にも掛けていた。

輜重兵

ナポレオンの語録の中でもよく引用される言葉は「軍隊は胃で行進する生き物」である。このことは軍隊の兵站の重要性を明確に表したものである。大陸軍の部隊は各人に4日分の食料を与えられていた。これに従う荷車には8日分が積まれていたが、これは緊急時にのみ消費されるものだった。ナポレオンは兵士達が狩猟採集と食糧の徴発(略奪、La Maraude)で日々を暮らしていくことを勧めていた。

補給物資は作戦開始前に建設しておいた前進基地や倉庫に蓄えられた。これらの物資は軍隊が前進するにつれ前方に移動された。大陸軍の補給基地から軍団や師団の補給庫にに物資が配られ、そこから旅団や連隊の輜重部隊に配られ、各部隊には狩猟採集の量を補うだけの食料が配られた。狩猟採集に対する依存度は政治的な圧力で決まることがあった。友好的な国の領土を通過するときは、「その国が供給するもので食っていけ」と言われたが、中立の立場をとる国を通過するときは、補給の問題が生じた。大陸軍が5週間に渡って1日15マイル(24 km)の速さで行軍することを可能にしたのは、上記のような計画によるもの半分、行き当たりばったり半分の兵站であった。兵站のしくみを助けたのがこれも技術的な革新であり、例えばニコラ・アペールが発明した今日の缶詰につながる保存食の技術であった。

医療関係者

傷ついて戦場を去る胸甲騎兵

医療関係者ほど栄光とも権威とも関係の薄い部門は無かったが、彼らは戦闘後の恐ろしい光景に対処する必要があった。あらゆる旅団、師団、軍団にはそれぞれの医療関係者がおり、衛生兵は負傷者を見つけて運び、看護兵は介護や看護を行い、他に薬剤師や医師、外科医がいた。これらの医療関係者には、しばしば訓練の足りない者や不適切な者がいて他の仕事を担当する部隊もあった。大陸軍の医療の状態は、当時のあらゆる軍隊と同じく原始的なものであった。戦闘よりも負傷や病気で死ぬ者の方が多かった。衛生抗生物質に関する知識も無かった。外科施療といえばそれは切断であった。麻酔とは、強いアルコールを飲ませること、あるいは時によって患者を殴って意識を失わせることであった。大体手術を受けた患者の3分の1しか生き残れなかった。

ナポレオン戦争の間、軍隊の医療技術や施療技術は大きな進歩を生まなかったが、大陸軍では医療関係者の組織化では改善の恩恵を受けた。外科将軍のドミニック・ジャン・ラリー男爵の提唱になるいわゆる空飛ぶ救急システムである。戦場でフランス軍空飛ぶ砲兵隊が行っているその移動速度を観察したラリー将軍は、これを負傷者を迅速に運び、訓練された御者と衛生兵と担架運搬要員のいる馬車に乗せる仕組みに置き換えた。これは現代の軍事救急システムの先駆けであり、続く数十年間に世界中の軍隊によって採用されることになった。ラリーは移動力を上げ、野戦病院の組織を改善することにより、現代の移動陸軍外科病院の原型を作った。

負傷者の苦難についての証言を読むと恐ろしいものがある。ナポレオン自身も「死ぬよりも苦痛に耐える方が勇気がいる」と言ったことがあった。彼は生き残った者達にフランス中でも最善の病院で静養できるような保証を与えた。更に傷痍軍人は英雄として扱われ、勲章を授与され、恩給と必要ならば義肢も与えられた。負傷者が迅速に世話され、栄誉が与えられ、帰郷後の面倒を見られることが知れ渡ると、大陸軍の中の士気も高揚し、戦闘能力を上げることにもなった。

情報通信

以下に述べる情報通信は、確かに少なからぬ基本的支援業務であった。ほとんどの命令は、それまでの数世紀と同様に馬に乗った伝令によって運ばれた。騎兵はその勇敢さと騎馬技術によってこの任務を課されることが多かった。短距離の戦術的な信号は視覚的には旗で、聴覚的にはドラムや軍隊ラッパ、トランペット、など楽器で伝えられた。これらの旗手や楽器奏者は象徴的、儀式的、また士気を上げる機能に加えて重要な情報通信の役割を果たした。

シャップの腕木通信塔

大陸軍はフランス革命の間には長距離の情報通信手段に革新的なものを得られなかった。フランス軍は大規模かつ組織的な形で伝書鳩を伝令に採用し、また観測用熱気球を偵察と通信に用いたた最初の軍隊である。しかしクロード・シャップによって発明された巧妙な光学的テレグラフ信号装置(腕木通信)という形で長距離通信の本当の進歩が得られた。

シャップの装置は、互いに目視できる距離に置いた小さな塔の入り組んだネットワークであった。塔は9 mの高さがあり、その最頂部に3本の大きな木製の稼動棒(腕木)が取り付けられた。この棒はレギュレター(regulateur)と呼ばれ、プーリーと梃子を使って訓練された操作員によって操作された。腕木の位置によって4つの意味があり、その組み合わせで196通りの信号になった。習熟した操作員がおり、悪くない視界が保たれておれば、パリ=リール間193 km(123マイル)にある15の塔を経由して、わずか9分間で1つの信号を送ることができ、36の信号から成る電文は約32分間で送れた。パリからベニスの間でも、電文をわずか6時間で送ることができた。

シャップの腕木通信はナポレオンのお気に入りの一つになり、最も重要な秘密兵器となった。特別の携帯版腕木通信装置を彼の作戦本部とともに移動させた。これを使ってナポレオンは長距離でも敵よりもはるかに短い時間で兵站と軍隊の戦略的調整を図ることができた。1812年には、荷車に載せた装置による通信の研究が始められたが、戦争そのものには間に合わなかった。

外国人部隊

ポーランド兵

多くのヨーロッパ諸国が外国人部隊を採用したが、ナポレオンのフランスも例外ではなかった。ナポレオン戦争中の大陸軍で、外国人部隊は重要な役目を果たし、特徴ある戦い方をした。ほとんどすべてのヨーロッパ諸国は様々な段階で大陸軍の一部となった。戦争末期には、数万名の兵士が従軍した。1805年には、ライン同盟の35,000名の部隊が情報通信線と本隊の側面を守るために使われた。1806年、27,000名が追加され同じ用途に使われた。さらに20、000名のサクソン人部隊はプロイセンに対する掃討作戦に使われた。1806年から1807年にかけての冬季方面作戦では、ドイツ、ポーランド、およびスペインが大陸軍の左翼を担い、バルト海に面したシュトラールズントダンツィヒの港の占領を助けた。1807年のフリートラントの戦いでは、ランヌ元帥の軍団はかなりの数がポーランド、サクソンオランダの兵で占められた。このときは外人部隊が始めて戦闘における主要な役割を演じ、目だった働きをした。1809年のオーストリア方面作戦では、大陸軍のおよそ3分の1がライン連合の兵士だった。[17] またイタリア方面軍の4分の1はイタリア人だった。1812年大陸軍の頂点を迎えた時、ロシアに侵攻した部隊の半分以上はフランス人以外でありオーストリアやプロシアを含み20か国に上った。

大陸軍の階級

封建制度や他の君主政治の時の軍隊とは異なり、大陸軍の昇進制度は社会的な階級や富よりも能力に重点をおいて成された。ナポレオンは彼の軍隊が実力社会であることを欲し、どの兵士でもその生まれによらず、成した業績によって(もちろん、彼らがあまりに高く、あるいはあまりに急速に昇進していなければ)指揮官の最上級まで急速に上り詰めることができた。概してこの目的は達せられた。その能力を発揮できる場を与えられれば、能力のある者は数年間で頂点まで辿り着けた。他の軍隊であれば数十年掛かったであろう。身分の低い兵士ですら彼の軍嚢に元帥杖を持てると言われた。下の表は現在の米英軍と対照した階級のリストである。またギャラリーには頂点まで登った人物を示す。

大陸軍の階級 現在の米英軍の階級
指揮官(Commissioned officers)
元帥(Marechal)[18] 中将(Lieutenant General)
師団将軍(General de division) 少将(Major General)
旅団将軍(General de brigade) 准将(Brigadier General)
大佐(Colonel) 大佐(Colonel)
2等大佐(Colonel en second) 連隊長(Chef de brigade) 1793-1803) 該当なし
少佐(Major) 中佐(Lieutenant Colonel)
大隊長(Chef de bataillonまたはChef d'escadron)[19] 少佐(Major)
大尉(Capitaine 大尉(Captain)
中尉(Lieutenant) 1等中尉(First Lieutenant)
副中尉(Sous-lieutenant) 2等中尉(Second Lieutenant)
下士官(Non-commissioned officers)
兵曹長(Adjudant-Chef) 准尉(Warrant Officer)
兵曹(Adjudant) 兵曹長(Sergeant-Major)
曹長(Sergent-MajorまたはMarechal des logis Chef)[19] 上等兵曹(First sergeant)
軍曹(SergentまたはMarechal des Logis)[19] 軍曹 (Sergeant)
伍長(Caporal-FourrierまたはBrigadier-Fourrier)[19] 伍長(Company clerk/supply Sergeant)
上等兵(CaporalまたはBrigadier)[19] 上等兵(Corporal)
一等兵(SoldatまたはCavalier(Cavalry)またはCanonnier(Artillery)) 一等兵(Private)


陣形および戦術

ナポレオンは優れた戦略家として知られており戦場に立つとカリスマ的であったが、戦術の発明家でもあった。彼は何千年もの間使われてきた古典的な陣形と戦術を組み合わせ、されにフレデリック大王の斜角陣形(ロイテンの戦いで使われた)や、革命の初期リビー・アン・マス(Levee en masse)軍隊で使われた群衆戦術といったより新しいものを取り入れた。ナポレオンの戦術は高度に流動的で柔軟性があった。対照的に敵の軍隊の多くは固定的な戦列(Linear)戦術や陣形に執着していた。戦列戦術とは歩兵の集団が単純に戦列をなし一斉射撃を交わすもので、戦場の敵軍に打撃を与えるか、側面から包囲するものであった。戦列陣形は側面からの攻撃に弱いものであるので、敵の側面を衝くように部隊を操作するのが高等戦術と考えられていた。これが成功するとしばしば敵は撤退するか降伏した。その結果、このやり方に固執する指揮官は側面を安全にすることに重点を置き、強い中衛や後衛部隊を回すことがあった。ナポレオンが度々やったことは、この戦列の考え方を逆手にとることであり、側面攻撃をする振りをしたり、あるいは敵に自軍の側面が餌であるように見せて(アウステルリッツの戦いや後のリュッツェンの戦いで実践された)、自軍の主力を敵の中央に進めさせ、戦列に割って入り追い詰めてしまった。ナポレオンは常に主に彼の親衛隊からなる強力部隊を温存しておき、戦況がうまくいっているときは止めを打つために、うまくいっていない時は流れを変えるために投入した。

より有名で広く使われ、効果的かつ興味ある陣形や戦術を下記に示す。

  • 横隊(Ligne):基本的な3階層の横隊を組んだ陣形。歩兵や騎兵が一斉射撃を行ったり、正面攻撃を行うときに適していいたが、動きが比較的鈍く、側面からの攻撃に弱かった。.
  • 行軍縦隊(Colonne de Marche):軍隊の急な動きや持続する移動、および正面攻撃には最善の隊形であったが、集中できる火力が少なく、側面攻撃や待ち伏せ、砲撃及び突入には弱かった。
  • V 字形隊形(Colonne de Charge):鏃(やじり)あるいは槍の穂先の形をした騎兵の陣形。急速に接近したり敵の戦列を破るために考案された。歴史的にもよく使われ効果のあった陣形であり、今日でも戦車隊が使っている。しかし突進が止められた時やタイミングを失った時にその側面への反撃に弱い。
  • 攻撃縦隊(Colonne d'Attaque):歩兵の広い縦隊であり、戦列と縦隊の組み合わせであった。軽装歩兵の散兵線で適を混乱させたり、縦列での前進を排斥するために用いられた。縦隊が接近すると散兵が側面を防御し、縦隊が一斉射撃と銃剣による攻撃を行った。通常の薄い戦列陣形には効果的な陣形であった。攻撃縦隊はフランス革命初期のフランス軍が使った「群衆」あるいは「大群」戦術から発展した。その欠点は火力の集中度が劣り、大砲の攻撃に弱いことだった。
  • 混成陣形(Ordre Mixte):ナポレオンの好んだ歩兵隊形である。複数の部隊(多くは連隊か大隊)が戦列陣に配置され、その背後や間に縦列攻撃部隊を配するものだった。これは戦列の火力と速度を組み合わせ、縦列攻撃部隊の行う混戦や散兵戦に利点をもたらした。多少の欠点もあったが、この戦術を成功させるためには、砲兵や騎兵の支援が特に重要だった。
  • 散兵(Ordre Ouvert):歩兵や騎兵が部隊毎にあるいは個兵毎に散開する戦術。この戦術は軽装の部隊や散兵部隊には効果的だった。この戦術では丘や森のある荒れた地形では特に移動速度が速く、散開しているので敵の攻撃に対しても防御面で有効だった。その欠点は一斉射撃のような手段がなく、接近戦の場合は特に騎兵に弱かった。
  • 方陣(Carre):騎兵に対する歩兵の古典的防御陣形。兵士が中空の四角形を構成し、1辺は3層ないし4層とする。士官や砲兵、騎兵が中に入る。歩兵にとっては最も防御に適した陣形であり、特に丘の頂上や下り坂に面している時、有効だった。この陣形では動きが緩慢になり、固定された目標とされることがあった。その密度を濃くすると大砲の攻撃に弱く、それほどまでではないにしても歩兵の銃撃にも弱かった。この陣形が一旦壊れると完敗に終わる傾向があった。
  • 空飛ぶ砲兵大隊(Batterie Volante):フランス砲兵の移動性能と訓練を生かした隊形。一つの大隊が戦場のある地点に移動し、短時間で鋭い砲撃を行い、続いてまた荷車に積んで別の地点に移動し、攻撃を加え、といった操作を繰り返すものであった。多くの大隊がこの攻撃を組み合わせ集積していくことで、敵の戦列に壊滅的な打撃を与えた。騎乗砲兵隊はこの戦術に特に適していた。ナポレオンは初期の方面作戦でこの戦術を使い、大きな成果を得た。この戦術の柔軟性で、攻撃を加えたい目標に素早く攻撃を集中できた。この戦術は特別の訓練を必要とし、また砲兵と馬が整然と行動できるように密接な指揮と連携を必要とした。
  • 大砲兵大隊(Grande Batterie):もう一つの砲兵戦術であり、空飛ぶ砲兵大隊が使えない時に用いられた。大砲を単一の急所となる地点(多くは敵の中央)に集中するものである。敵が恐怖に捕らわれたり、陣形が崩れると大きな損害を与えられた。ただし、敵の情報が不足したままで単一の地点に多くの砲火を合わせることには細心の注意を払わなければならなかった。一旦砲門を開き目標が明確になると、照準を合わせ直すことで上記のことを回避できた。この戦術は敵の大砲からの反撃に弱く、騎兵の攻撃に対する防御も必要だった。これがフランス砲兵の最も良く知られた戦術であったが、ナポレオンは空飛ぶ砲兵大隊の方を好み、この戦術を使う必要のある時、あるいは使った方が成功の機会が増えると思われた時のみに、この戦術を使った。戦闘の開始時点で、ナポレオンは多くの砲兵大隊を更に大きな大砲兵大隊にして、集中砲火を浴びせ、その後にそれを解いて空飛ぶ砲兵大隊に変えた。初期の方面作戦ではあまり使われなかったが、大陸軍の馬の数や砲兵の質が落ちてくると、この戦術を使う機会を増やさざるを得なかった。
  • イノシシの頭(Tete du Sanglier):複合した陣形であり、混成陣形に似ているところもあるが、三軍(歩兵、騎兵、砲兵)がV字形のような方形に組むもので、集中攻撃や防御の場面で使われた。歩兵が最前線で短く何層にも厚く隊形を組み、これをイノシシの鼻とした。その後ろに2組の砲兵隊を置き、イノシシの目とした。側面と最後尾は斜角陣で縦列、横列、方形陣の歩兵がイノシシの顔を作った。さらに側面と後ろを守るのが2組の騎兵隊であり、イノシシの牙の役目を果たした。高度に複雑な陣形であり、容易にまた急速に組めるものではなかった。一旦組まれると、牙を除いて、動きは緩慢であった。しかし、伝統的な方形陣よりも動きが速く、砲兵や歩兵の攻撃に対しても防御が堅かった。牙は強い攻撃能力も持っていた。後の1830年代1840年代に行われた北アフリカ制圧ではこの戦術が効果的に用いられ、1920年代まで使われていた。

戦歴

1804年 - 1806年

レジオンドヌール勲章を渡すナポレオン

大陸軍は当初、大西洋岸軍(L'Armee des cotes de l'Ocean)として組まれた。イギリスへの侵攻を目ざし、1803年ブローニュの港に集結した。1804年のナポレオンのフランス皇帝戴冠式に続いて、第三次対仏大同盟が結成され、大陸軍は1805年にその視線を東に向けた。大陸軍は8月遅くにブローニュを出発し、急速に行軍してウルムの要塞でカール・マック将軍の孤立したオーストリア軍を包囲した。ウルムの戦いでは、フランス軍の損害2,000名に対し、60,000名のオーストリア兵士が捕虜となった。11月にウィーンが占領されたが、オーストリアは抵抗を止めず、野戦での軍隊を維持していた。また同盟のロシアはまだ戦闘に加わっていなかった。この戦争はもっと長く続いていた可能性がある。1805年12月2日、アウステルリッツの戦いで事態は決定的に変わった。数的には劣勢であった大陸軍がアレクサンドル1世の率いるロシア=オーストリア連合軍を破った。この見事な勝利によって、12月26日プレスブルクの和約が結ばれ、翌年、神聖ローマ帝国は解体された。[20]

中部ヨーロッパにおけるフランスの力の増大は、前年の戦争で中立の立場を取ったプロイセンを不安にさせた。政治的な駆け引きの後に、プロイセンはロシアに軍事的な援助をすることを約束し、1806年第四次対仏大同盟が結成された。大陸軍はプロイセン領に侵入したが、このとき取った陣形が方陣である。この時軍団同士が互いに支援し合う距離を保って行軍し、時には前衛にも、後衛にも、また側面を守る部隊にもなり、1806年10月14日イェナの戦いとアウエルシュタットの戦いでプロイセン軍を徹底的に叩き潰した。伝説にも残る追撃戦でプロイセン軍捕虜140,000名を掴まえ、死傷者は25,00名に上った。ルイ=ニコラ・ダヴー将軍の第三軍団がアウエルシュタットの戦勲でベルリンに最初に入場する栄誉に浴した。フランス軍は再び同盟軍が到着する前に敵を叩き、平和は訪れなかった。[21]

1807年 - 1809年

ナポレオンはポーランドにその視線を向けた。そこでは残存するプロイセン軍が友邦ロシアと手を結んでいた。難しい冬季の方面作戦が展開されたが手詰まりとなり、1807年2月7日から8日にかけてのアイラウの戦いでは事態が悪化した。この時のロシアとフランスの損害は大きく、得るものはほとんど無かった。この方面作戦は春に再開され、ベニグセンのロシア部隊は6月14日フリートラントの戦いで完敗した。7月にフランスとロシアの間でティルジット条約が結ばれ、大陸にはナポレオンの敵が居なくなった。[22]

ポルトガル大陸封鎖令に組み込まれることを拒否し、フランスは1807年遅くに懲罰的な遠征を行った。この作戦が6年間続く半島戦争の始めとなり、フランス第一帝政の資源と人を浪費させることになった。フランスは1808年スペインを占領しようとしたが、一連の悲惨な戦いによって後年ナポレオンが個人的に介入せざるを得なくなった。125,000名の強力な大陸軍が容赦なく侵攻し、ブルゴスの要塞を占領し、ソモシエラの戦いマドリッドへの道が開け、スペイン軍を撤退させた。続いてイギリスのムーア軍に鉾先を向け、1809年1月16日コルナの戦いで英雄的な勝利をつかみ、イギリス軍をイベリア半島から追い出した。この方面作戦は成功であったが、南スペインの占領までまだ暫しの時間を要した。[23]

一方で、オーストリアが息を吹き返して反攻の準備をしていた。フランシス1世の宮廷におけるタカ派の人間が、フランスがスペインに関わっている間に機会を掴まえようと王を説得した。1809年4月、オーストリアは公式の宣戦布告なしで方面作戦を開始し、フランスを驚かせた。しかし、オーストリア軍の歩みが鈍くいくらも進まないうちにナポレオンがパリから到着し、事態が沈静化された。オーストリア軍はエックミュールの戦いに敗れ、ドナウ川を越えて逃亡し、ラティスボンの要塞を失った。しかしオーストリア軍はまだ粘り強く軍隊を維持していたので、この問題の解決のために新たな方面作戦が必要となった。フランス軍はウィーンを占領し、オーストリアの首都の南西にあるローバウ島を経てドナウ川を渡ろうとした。しかし、続くアスペルン・エスリンクの戦いに敗れた。これは大陸軍の初めての敗北であった。7月に再度ドナウ渡河を試み、2日間にわたるヴァグラムの戦いで勝利を得てオーストリア軍に40,000名の損害を与えた。オーストリアはこの敗北で意気消沈し、その後直ぐに停戦に同意した。この結果10月にシェーンブルンの和約が結ばれた。大陸軍は第五次対仏大同盟を終わらせ、オーストリア帝国は領土割譲の結果、3百万人の領民を失った。[24]

1810年 - 1812年

スペインを除いて一時的な平和が続いた。しかし、ロシアとの外向的な緊張関係が高まり、1812年の戦争につながった。ナポレオンはこの脅威に対処するためにこれまでにない最大の軍隊を結成した

新しい大陸軍はそれまでと変わっていた。士官の半分以上はフランスと同盟する衛星諸国と地方から徴兵した非フランス人で占められた。巨大な軍隊は1812年6月23日ネマン川を越え、ナポレオンは迅速に行軍すればロシアの2つの主力部隊、ミハイル・バルクライ・ド・トーリ軍とピョートル・バグラチオン軍の間に割って入れることを期待していた。しかしロシア軍が3回以上もナポレオンの鉾先を避ける事態になり、ナポレオン軍にイライラが溜まっていった。モスクワを守る最後の防衛戦として9月7日ボロディノの戦いが行われた。その結果は、大陸軍が勝ったもののほぼ間違いなく犠牲が多くて引き合わない勝利だった。ボロディノの7日後、大陸軍はモスクワに入ったが、そこにはもぬけの空で炎上する町があるだけだった。兵士達は消火活動の一方で放火犯狩りをやり、モスクワの歴史的地区の守りも強いられた。フランスが無為にロシア皇帝に和平の探りを入れている間、ナポレオンとその軍隊はモスクワで1ヶ月以上を過ごした。この試みが失敗に終わると、10月19日、フランス軍は以前の姿の裏返し、すなわち撤退を開始した。壮大なロシアの冬の撤退というのが一般的なこの戦争の認識であるが、フランス軍の半分以上は夏の間に既に失われていた。フランス軍は集まってくるロシア軍に繰り返し襲撃された。ミシェル・ネイが有名な殿軍を引き受け、ロシア軍との間の分離を図ったがベレジナ川に到着したのは、約49,000名の兵士と40,000名の戦闘には使えない落伍者に過ぎなかった。ベレジナの戦いの結果とジャン・バプティスト・エーブレの技師達のとてつもない作業で、ナポレオン軍の残兵が救われた。ナポレオンは新しい軍を起こすことと政治的な用向きを果たすために兵を残してパリに帰った。軍を起こした時の690,000名の兵士の内、93,000名のみが生還した。[25]

1813年 - 1815年

ロシアにおける破滅的状況はドイツやオーストリアの反仏感情を高めることになった。第六次対仏大同盟が結成され、ドイツが次の方面作戦の中心となった。培われた才能によってナポレオンは新しい軍隊を立ち上げ先端を開き、リュッツェンの戦いバウツェンの戦いで連勝した。しかしロシア遠征のためにフランス軍の騎兵の質が落ちていたこと、また部下の将軍の計算違いにより、これらの勝利は決定的に戦争を終わらせるだけのものにならず、休戦になっただけだった。ナポレオンはこの休戦を利用して彼の軍隊の質と量を高めようとしたが、オーストリアが同盟に参加したとき、彼の戦略的立場が暗いものになった。8月に再び戦争が始まり、2日間のドレスデンの戦いでフランスは意味のある勝利を収めた。しかし、ナポレオンとの直接対決を避け、彼の部下に矛先を向けるという同盟側のトラチェンブルグ計画の採用により、フランスはカッツバッハの戦いクルムの戦いグロスベーレンの戦いデネビッツの戦いと負け続けた。

同盟軍の数が増え、フランス軍をライプツィヒで包囲した。有名な3日間の諸国民の戦いが行われ、橋が時期尚早に壊されたために、エルスター川の対岸に30,000名のフランス兵を置き去りにするというナポレオンにとって大きな損失を被った。しかしこの作戦は、ハナウの戦いでフランス軍の撤退を阻止しようとして孤立したババリア軍をフランス軍が破ったとき、勝利の意味合いで終りを告げた。[26]

「大帝国はもはや無い。守らねばならないのはフランス自体だ」とナポレオンは1813年の暮れに議会に向かって語った。ナポレオンはなんとか新しい軍隊を結成したが、戦略的には事実上希望の無い位置に来ていた。同盟軍はピレネー山脈から、北イタリア平原を横切り、さらにフランスの東部国境を越えて侵略してきた。この作戦はナポレオンがラ・ロシエールで敗北を喫したときに不気味に始まったが、彼は以前の精神を直ぐに取り戻した。1814年6日間戦争で30,000名のフランス軍がゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルの散会した軍団に20,000名の損害を与えた。この時のフランス軍の被害は2,000名であった。フランス軍は南に向かい、カール・フィリップ・フルスト・ツー・シュワルツェンベルクモントローの戦いで破った。しかし、これらの勝利は事態を改善するまでには至らず、ラオンの戦いアルシス・シュル・アウベの戦いでのフランス軍の敗北が士気を落としてしまった。3月の末、パリの戦いで同盟軍に破れた。ナポレオンは戦い続けることを望んだが、彼の部下達はそれを拒み、1814年4月6日、皇帝に退位を迫り認めさせた。[27]

1815年2月エルバ島から帰還するとナポレオンは、彼の帝国を守るための新たな活動に忙殺された。1812年以来初めて来るべき戦いで彼が指揮を執る北部軍(L'Armee du Nord)は職業軍人の集団であり能力が高かった。ナポレオンはロシアやオーストリアが来る前に、ベルギーにいるウェリントンやブリュッヘルの同盟軍に会し打ち破ることを望んだ。1815年6月15日に始まった作戦は当初は成功だった。6月16日にはリグニーの戦いでプロイセン軍を破った。しかし、慣れない部下の作業やまずい指揮により全作戦を通じてフランス軍に多くの問題を引き起こした。エマニュエル・ド・グルーシーが対プロイセン戦で遅れて進軍したことで、リグニーで敗れたブリュッヘルの部隊が回復し、ワーテルローの戦いでウェリントンの援軍に駆けつけることを許した。この戦いはナポレオンと彼の愛した軍隊にとって最後で決定的な敗北となった。[28]

関連項目

脚注

  1. ^ Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", pages 60-65. Da Capo Press, 1997
  2. ^ Insects, Disease, and Military History: Destruction of the Grand Armee
  3. ^ Uniform of the Grenadiers-a-Pied de la Garde, Accessed March 16, 2006
  4. ^ Foot Grenadiers in the Imperial Guard, Accessed March 16, 2006
  5. ^ Uniforms of the Chasseurs-a-Pied de la Garde, Accessed March 16, 2006
  6. ^ Napoleon's Guard Infantry - Moyenne Garde, Accessed March 16, 2006
  7. ^ FUSILIERS DE LA GARDE 1806 - 1814 ARMEE FRANCAISE PLANCHE N" 101, Accessed March 16, 2006
  8. ^ Grand Tenue - Marins de la Garde, Accessed March 16, 2006
  9. ^ Tirailleurs de la Garde Imperiale: 1809-1815, Accessed March 16, 2006
  10. ^ "Heads Up, By God!" French Cavalry At Eylau, 1807 And Napoleon's Cavalry Doctrine, Accessed March 16, 2006
  11. ^ By Order of the Commander-in-Chief: the Origin of the Guides-a-cheval, Accessed March 16, 2006
  12. ^ Napoleon's Polish Lancers, Accessed March 16, 2006
  13. ^ Mas, M.A. M., p.81.
  14. ^ Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 250. Da Capo Press, 1997
  15. ^ a b Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 254-5. Da Capo Press, 1997
  16. ^ Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 186, 194. Da Capo Press, 1997
  17. ^ Elting, John R. Swords Around A Throne. Da Capo Press, 1997. Pg.387.
  18. ^ 皇帝の元帥(Marechal de l'Empire)あるいは元帥(Marshal)はフランス軍の階級ではない。師団将軍で傑出していると認められた者の個人的な称号であり、それに応じた高い給与と特権が与えられた。ナポレオン軍の最高階級は実際には師団将軍(General de division)である。 Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 124. Da Capo Press, 1997.
  19. ^ a b c d e Chef d'escadronは騎兵、騎乗砲兵、憲兵、砲車牽引の大隊長 and trains
  20. ^ Todd Fisher & Gregory Fremont-Barnes, The Napoleonic Wars: The Rise and Fall of an Empire. p. 36-54
  21. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 54-74
  22. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 76-92
  23. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 200-209
  24. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 113-144
  25. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 145-171
  26. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 271-287
  27. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 287-297
  28. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 306-312

参照文献

  • Mas, M.A. M. La Grande Armee: Introduction to Napoleon’s Army. Andrea Press, 2005.
  • Swords Around a Throne: Napoleon's Grande Armee, John Robert Elting. 784 pages. 1997. ISBN 0306807572
  • Napoleon's Line Infantry, Philip Haythornthwaite, Bryan Fosten, 48 pages. 1983. ISBN 085045512X
  • Napoleon's Light Infantry, Philip Haythornthwaite, Bryan Fosten, 48 pages. 1983. ISBN 0850455219
  • Campaigns of Napoleon, David G. Chandler. 1216 pages. 1973. ISBN 0025236601
  • Fisher, Todd & Fremont-Barnes, Gregory. The Napoleonic Wars: The Rise and Fall of an Empire. Oxford: Osprey Publishing Ltd., 2004. ISBN 1-84176-831-6
  • Royal, Republican, Imperial, a History of the French Army from 1792-1815: Vol 1 - Infantry - History of Line Infantry (1792-1815), Internal & Tactical Organization; Revolutionary National Guard, Volunteers Federes, & Compagnies Franches; and 1805 National Guard., Nafziger, George. 98 pages. (http://home.fuse.net/nafziger/NAFNAP.HTM)
  • Royal, Republican, Imperial, a History of the French Army from 1792-1815: Vol 2 - Infantry - National Guard after 1809; Garde de Paris, Gendarmerie, Police, & Colonial Regiments; Departmental Reserve Companies; and Infantry Uniforms., Nafziger, George. 104 pages. (http://home.fuse.net/nafziger/NAFNAP.HTM)
  • Royal, Republican, Imperial, a History of the French Army from 1792-1815: Vol 3 - Cavalry - Line, National Guard, Irregular, & Coastal Artillery, Artillery & Supply Train, and Balloon Companies., Nafziger, George. 127 pages.
  • Royal, Republican, Imperial, a History of the French Army from 1792-1815: Vol 4 - Imperial Guard, Nafziger, George. 141 pages. (http://home.fuse.net/nafziger/NAFNAP.HTM)
  • 1812: Napoleon's Fatal March on Moscow, Adam Zamoyski, ISBN 0007123752
  • Blundering to Glory: Napoleon's Military Campaigns (2nd edition) Owen Connelly. 254 pages. 1999. ISBN 0842027807
  • Napoleon on the Art of War, Jay Luvaas. 196 pages. 1999. ISBN 0684851857
  • The Bridges That Eble Built: The 1812 Crossing Of The Berezina, James Burbeck, War Times Journal.
  • With Napoleon in Russia, Armand-Augustin-Louis de Caulaincourt, , Duc de Vicence, Grosset & Dunlap, 1959
  • Dictionary of the Napoleonic Wars, David Chandler London 1979.
  • Who Was Who in the Napoleonic Wars, Phillip Haythornthwaite, London, 1998.
  • The Revolutionary Flying Ambulance of Napoleon's Surgeon, Capt. Jose M. Ortiz.
  • The Encyclopedia Of Military History: From 3500 B.C. To The Present. (2nd Revised Edition 1986), R. Ernest Dupuy, and Trevor N. Dupuy.
  • Memoirs of the Duke Rovigo
  • The Journal of the International Napoleonic Society
  • Supplying War: Logistics From Wallenstein to Patton, 2nd Edition, Martin van Crevald. 2004. ISBN 0521546575
  • Napoleonic Artillery:Firepower Comes Of Age, James Burbeck. War Times Journal
  • Napoleon's Elite Cavalry: Cavalry of the Imperial Guard, 1804-1815, Edward Ryan with illustrations by Lucien Rousselot, 1999 , 208 pages ISBN 1853673714

外部リンク