大陸軍(だいりくぐん、仏語:La Grande Armee、英語ではthe Great Army あるいはthe Grand Armyと表記される。)は、1805年にナポレオン1世が命名したフランス軍を中核とする軍隊の名称である。最初に歴史的な記録に現れるのは、イギリス侵攻のためにイギリス海峡に面する海岸に軍隊を集結させた時であり、これを東方のオーストリアおよびロシアに対する作戦行動を始めるように配置転換された。この後、1806年-1807年、1812年、 および 1813年-1814年の各作戦にもこの名称が使われており、19世紀初頭にナポレオンが作戦を実行するために召集した多国籍軍の総称である。[1]フランス語のarmeeには陸軍とともに軍隊という意味もあり、大軍隊と日本語訳することも可能である。
大陸軍の成功の最も重要な要因の一つは、その高度に優れた組織の柔軟性であった。全体をいくつかの軍団(通常5から7個)に分けられ、1軍団は10,000名から50,000名、平均して20,000名から30,000名で構成された。これらの軍団はそれぞれに、下にも記すように各種戦闘兵力と支援部隊を持つ連合型の小軍隊であった。単独でも作戦行動ができる一方で、軍団同士は1日の工程の内にあって互いに密接な協働行動を執れた。軍団はその戦力と課された任務の軽重によって、元帥または旅団将軍(General de division、少将)によって指揮された。
皇帝親衛歩兵第一連隊(Grenadiers a Pied de la Garde Imperiale):[3][4]皇帝親衛歩兵第一連隊は大陸軍の中でも最も上級の連隊であった。1807年のポーランド方面作戦では、ナポレオン自身によって「不平屋」(les grognards)という渾名を付けられた。構成員は親衛兵の中でも最も経験を積み勇敢な歩兵であり、古参兵の中には20回以上戦闘に参加した者もいた。この連隊に入ろうとする者は少なくとも10年間は連隊旗の下にあり、勇猛さで表彰され、読み書きができ、しかも身長が178 cm以上である必要があった。皇帝親衛歩兵第一連隊は中年近衛兵や若年近衛兵ほど戦闘に参加する機会がなかったが、一度参加したときは賞賛に値する戦果を上げた。1815年に皇帝親衛歩兵連隊は4連隊に拡張された。新しい連隊すなはち第2、第3、第4連隊は即座に皇帝親衛歩兵に格付けされた。この時点では第1連隊ほど力量が望めなかったのは事実である。実際にはこの軍隊は中年親衛歩兵と呼ばれた。ワーテルローでイギリス近衛兵に敗れたのはこれらの連隊であった。第1連隊はプランスノアでプロシア軍と戦った。皇帝親衛歩兵連隊の兵士は赤の折り返しのある濃青のハビットロング(尾の長い上着)を着、赤の肩章と白の襟章を着けていた。最も目に付く特徴は高い熊毛帽であり、彫刻された金の板と赤の羽毛、白の紐で飾られていた。
皇帝親衛猟兵連隊(Chasseurs a Pied de la Garde Imperiale): 皇帝親衛猟兵連隊は大陸軍の中で2番目に上級の連隊であった。猟兵連隊は皇帝親衛歩兵第一連隊の姉妹隊であった。この隊に入るには同じような基準があったが、身長のみ172 cm以上であった。猟兵連隊は皇帝親衛歩兵第一連隊と同様に幾つかの激しい戦闘に参加し戦果を上げた。1815年のナポレオンの帰還では、猟兵連隊も4連隊に拡張されたが、第2、第3、第4連隊は経験年数4年の兵士から構成された。これらの連隊は歩兵連隊の中年親衛兵連隊と共に、ワーテルローの会戦の最終段階で親衛兵突撃に加わった。皇帝親衛歩兵第一連隊と同様に猟兵連隊もプランスノアの戦いに参加した。猟兵連隊の兵士も赤の折り返しのある濃青ハビットロングを着用し、緑の縁のある赤の肩章と白の襟章を着けていた。戦闘時には濃青のズボンを履いた。これも親衛歩兵と同様に、猟兵連隊の顕著な特徴は高い熊毛帽であり、緑に重ねた赤の羽毛と白の紐で飾られていた。[5]
親衛海兵大隊(Marins de la Garde):親衛海兵大隊は1803年に結成された。元々の目的はイギリス本国への侵攻に先立ち、イギリス海峡を越える時に皇帝を乗せて行く船の操船を行うことだった。大隊は実質上5個中隊だった。イギリス侵攻が中止された後は、親衛隊の一部として残され、戦闘員として活動すると同時に、ナポレオンが使うボートやバージあるいはその他の船の操船にあたった。制服は金のレースの飾りのついたネイビーブルーのユサール風ドルマンジャケットと、やはり金のレースの飾りのついたネイビーブルーのハンガリー風ズボンだった。帽子はGold Guardと刺しゅうされた円筒帽だった。[8]武器は歩兵と同様で、シャルルビル1777年式マスケット銃と銃剣であり、多くの水夫は作業中に邪魔にならないような拳銃も持っていた。
親衛騎兵連隊は1804年に創設され、猟騎兵連隊(Chasseurs a Cheval)と騎馬榴弾兵連隊(Grenadiers a Cheval)の2つの連隊とエリート集団であるジェンダーム(Gendarmes)及びマムルーク(Mamelukes)大隊があった。1806年に3番目の連隊として皇帝親衛竜騎兵連隊(Regiment de Dragons de la Garde Imperiale、後の皇帝竜騎兵、皇帝妃竜騎兵)が追加された。1807年のポーランド方面作戦に続いて、ポーランド槍騎兵連隊(Regiment de Chevau-Legers de la Garde Imperiale Polonais)が追加された。1810年にはもう一つの槍騎兵連隊がフランスとオランダの新兵を編入して創設された。これを第2槍騎兵連隊(2e Regiment de Chevau-Legers Lanciers de la Garde Imperiale)あるいは赤い槍騎兵連隊と呼んだ。親衛騎兵連隊は数多く実戦に参加しており、少数の例外を除いてその戦闘力を示してみせた。親衛騎兵連隊の歴史の中で最も有名な逸話はワーテルローの会戦でのポーランド槍騎兵の攻撃である。この時は胸甲騎兵と隊列を組み、スコットランド灰色連隊とイギリス連合旅団を敗走させた。
親衛騎馬榴弾兵連隊(Grenadiers a Cheval de la Garde Imperiale):「神」(Gods)とも「巨人」(Giants)とも呼ばれたこの連隊はナポレオンの親衛騎兵連隊の中でもエリート集団であり、「不平屋」(上述)と並ぶ双璧となった。制服は高い熊毛帽、濃青の上着と襟、白の襟章と特に長い長靴であった。すべて大きな黒馬に乗った。見込みのある新兵は背の高さ176 cm以上、10年以上の軍歴があり、最低4回の方面作戦に参加し、勇猛さで表彰されている必要があった。この連隊はアウステルリッツの戦いでロシア近衛騎兵隊を打ち破る功績を挙げたが、最も有名な戦闘はアイラウの戦いの時のものだった。この時は、ロシアの60門の大砲の砲撃に暫く曝されて隊員達は避難場所を探し始めた。指揮官のルイ・レピック大佐が叫んだ「諸君、頭を上げよ。あれは単なる砲弾であって、糞ではない」[10]間もなく彼らはミュラの攻撃に加わりロシアの前線になだれ込んだ。騎馬榴弾兵連隊はポーランド槍騎兵連隊とともに、一度も負けたことがない親衛騎兵連隊であった。親衛猟騎兵
親衛猟騎兵連隊(Chasseurs a cheval de la Garde Imperiale):「寵愛された子供達」(暗に「甘やかされた餓鬼」と言っている)とも言われた猟騎兵連隊は、軽装親衛騎兵であり、大陸軍の中でもナポレオンのお気に入りで、最も認められた部隊の一つと言える。フランス革命の1796年、ナポレオンはイタリア遠征に赴いていたがボルゲットで昼食中にオーストリアの軽装騎兵隊に襲われからくも逃げ出した経験があり、その後ボディガードのための騎兵隊の結成を命じた。[11]この時の200名の護衛隊が猟騎兵連隊の前身となった。部隊と皇帝との密接な関係はナポレオンがしばしば連隊の大佐の制服を着ていたという事実からも肯定された。騎兵はきらびやかな緑と赤と金の騎馬服に身を包み、皇帝のお気に入りという地位を利用していることも知られていたが、時には訓練が足りない様子や不服従の色さえ見せていた。部隊はアウステルリッツの戦いで初陣を飾り、ロシア近衛騎馬隊を破る際に貢献した。半島方面作戦では1808年のベナベンテでイギリス騎兵の大部隊に待ち伏せを受け敗れた。ワーテルローでの特に勇敢な戦い振りで再び評価を上げた。
マムルーク大隊(Escadron de Mamalukes):恐ろしい砂漠の戦士であり、その忠誠心をボナパルトはエジプト遠征で獲得した。狂信的勇気を伴う優れた騎馬術と剣使いを併せ持った部隊であった。ロマンチックに「正真正銘の砂漠の息子」であるとか、「首狩り族」とかに見られているが、士官はフランス人であり、下士官はエジプト人やトルコ人ばかりでなく、ギリシア人、グルジア人、シリア人、キプロス人なども含まれていた。元々は騎馬狙撃兵連隊付属の中隊(あるいは半大隊)であった。1805年のアウステルリッツの戦いで頭角を現し、独自の基準と第2のトランペット奏者を獲得し、大隊に昇格した。この部隊は時には老親衛兵の一部となり、ワーテルローでは皇帝の直参として活躍した。1813年には第2マムルーク中隊が結成され若年親衛兵に付属された。先輩格のマムルーク大隊と同様に、猟騎兵連隊と連携し1815年の百日を戦った。制服は緑(後に赤)の帽子、白のターバン、緩いシャツとチョッキ、赤のズボン、黄または赤または黄褐色の長靴と色使いが華やかであった。武器は長く反った三日月刀に拳銃と短刀の組み合わせだった。その帽子と武器には真鍮製の三日月と星の記章が留められていた。
親衛槍騎兵連隊(Chevau-Legers-Lanciers de la Garde Imperiale):[12]
皇帝妃竜騎兵(Dragons de l’Imperatice):1806年に皇帝親衛竜騎兵連隊(Regiment de Dragons de la Garde Imperiale)として創設され、翌年皇帝妃ジョセフィーヌに敬意を表して改称された。この連隊に入るには、少なくとも6年(後に10年)の軍歴があり、最低2回の方面作戦に参加し、勇猛さで表彰されており背の高さ173 cm以上(騎馬榴弾兵連隊よりやや低い)である必要があった。30個あった正規竜騎兵連隊からは1回の編入が1個連隊当たり12人までとされ、後に10人までに減らされた。他の親衛連隊からの志願者も編入を認められた。この連隊は戦闘用というよりも儀礼用であり、戦闘に参加する機会は滅多になかったので、入隊を求める競争が激しかった。赤い槍騎兵と同様、老親衛兵と若年親衛兵の大隊があり、最後まで皇帝とともにあった。
歩兵隊はたぶん大陸軍で最も魅力的な戦闘をしたわけではないが、ほとんどの戦闘で矛先となり、その成果が勝敗を分けることになった。歩兵隊は大きく2つに分けられた。1つは戦列歩兵隊(Infanterie de Ligne)であり、1つは軽装歩兵隊(Infanterie Legere)であった。
戦列歩兵連隊
戦列歩兵連隊は大陸軍の大部分を占めていた。1803年、ナポレオンは連隊という言葉を復権させた。フランス革命中のことば半旅団(demi-brigade、2つで1旅団となり王立という意味合いがなかった事実による)は、暫定的な部隊や補助部隊にのみ使われるようになった。大陸軍の結成の時、89個戦列歩兵連隊(Regiments de Ligne)があったが、この数はフランスの県の数であった。最終的には156個連隊となった。
皇帝は砲兵士官の出身であり、次の様に言ったと伝えられている。「砲兵が良ければ神が味方する」[13] ここで期待されているように、フランスの大砲は大陸軍の基幹であり、三軍の中でも大きな火力を有し、少ない時間で敵に大きな打撃を与える可能性があった。フランスの大砲はしばしば集中砲火(大砲兵大隊)に用いられ、歩兵や騎兵が接近戦を挑む前に敵の戦列を乱した。砲兵部隊の絶妙な訓練によって、ナポレオンは高速でその武器を動かし、弱っている防衛線を支援したり、敵の戦列を破る道具にした。
[[画像:Canon-p1000754.jpg|right|250px]18世紀後期の大砲]
絶妙な訓練以外にもナポレオンの砲兵隊は多くの戦術的な改良によって戦力を上げた。ジャン・バプティスト・ド・グリボーバルが作ったフランス砲は軽く早く移動でき照準を合わせやすく、また台車を強化したり口径を標準化したりした。通常のフランス砲は4ポンド、8ポンド、12ポンドのものがあり、6インチの榴弾砲があったが、戦争後期はすべて6ポンドのものに置き換えられた。砲身は真鍮製で、台車、車輪、および前車は黄緑色のペンキで塗られていた。砲兵を歩兵や騎兵の部隊とうまく融合させて、互いに支え、時には単独で行動することも出来た。砲兵隊には2つの分類、徒歩砲兵隊(Artillerie a Pied)と騎乗砲兵隊(Artillerie a Cheval)があった。
ナポレオンは優れた戦略家として知られており戦場に立つとカリスマ的であったが、戦術の発明家でもあった。彼は何千年もの間使われてきた古典的な陣形と戦術を組み合わせ、されにフレデリック大王の斜角陣形(ロイテンの戦いで使われた)や、革命の初期リビー・アン・マス(Levee en masse)軍隊で使われた群衆戦術といったより新しいものを取り入れた。ナポレオンの戦術は高度に流動的で柔軟性があった。対照的に敵の軍隊の多くは固定的な戦列(Linear)戦術や陣形に執着していた。戦列戦術とは歩兵の集団が単純に戦列をなし一斉射撃を交わすもので、戦場の敵軍に打撃を与えるか、側面から包囲するものであった。戦列陣形は側面からの攻撃に弱いものであるので、敵の側面を衝くように部隊を操作するのが高等戦術と考えられていた。これが成功するとしばしば敵は撤退するか降伏した。その結果、このやり方に固執する指揮官は側面を安全にすることに重点を置き、強い中衛や後衛部隊を回すことがあった。ナポレオンが度々やったことは、この戦列の考え方を逆手にとることであり、側面攻撃をする振りをしたり、あるいは敵に自軍の側面が餌であるように見せて(アウステルリッツの戦いや後のリュッツェンの戦いで実践された)、自軍の主力を敵の中央に進めさせ、戦列に割って入り追い詰めてしまった。ナポレオンは常に主に彼の親衛隊からなる強力部隊を温存しておき、戦況がうまくいっているときは止めを打つために、うまくいっていない時は流れを変えるために投入した。
イノシシの頭(Tete du Sanglier):複合した陣形であり、混成陣形に似ているところもあるが、三軍(歩兵、騎兵、砲兵)がV字形のような方形に組むもので、集中攻撃や防御の場面で使われた。歩兵が最前線で短く何層にも厚く隊形を組み、これをイノシシの鼻とした。その後ろに2組の砲兵隊を置き、イノシシの目とした。側面と最後尾は斜角陣で縦列、横列、方形陣の歩兵がイノシシの顔を作った。さらに側面と後ろを守るのが2組の騎兵隊であり、イノシシの牙の役目を果たした。高度に複雑な陣形であり、容易にまた急速に組めるものではなかった。一旦組まれると、牙を除いて、動きは緩慢であった。しかし、伝統的な方形陣よりも動きが速く、砲兵や歩兵の攻撃に対しても防御が堅かった。牙は強い攻撃能力も持っていた。後の1830年代と1840年代に行われた北アフリカ制圧ではこの戦術が効果的に用いられ、1920年代まで使われていた。
大陸軍は当初、大西洋岸軍(L'Armee des cotes de l'Ocean)として組まれた。イギリスへの侵攻を目ざし、1803年にブローニュの港に集結した。1804年のナポレオンのフランス皇帝戴冠式に続いて、第三次対仏大同盟が結成され、大陸軍は1805年にその視線を東に向けた。大陸軍は8月遅くにブローニュを出発し、急速に行軍してウルムの要塞でカール・マック将軍の孤立したオーストリア軍を包囲した。ウルムの戦いでは、フランス軍の損害2,000名に対し、60,000名のオーストリア兵士が捕虜となった。11月にウィーンが占領されたが、オーストリアは抵抗を止めず、野戦での軍隊を維持していた。また同盟のロシアはまだ戦闘に加わっていなかった。この戦争はもっと長く続いていた可能性がある。1805年12月2日、アウステルリッツの戦いで事態は決定的に変わった。数的には劣勢であった大陸軍がアレクサンドル1世の率いるロシア=オーストリア連合軍を破った。この見事な勝利によって、12月26日のプレスブルクの和約が結ばれ、翌年、神聖ローマ帝国は解体された。[20]
1815年2月エルバ島から帰還するとナポレオンは、彼の帝国を守るための新たな活動に忙殺された。1812年以来初めて来るべき戦いで彼が指揮を執る北部軍(L'Armee du Nord)は職業軍人の集団であり能力が高かった。ナポレオンはロシアやオーストリアが来る前に、ベルギーにいるウェリントンやブリュッヘルの同盟軍に会し打ち破ることを望んだ。1815年6月15日に始まった作戦は当初は成功だった。6月16日にはリグニーの戦いでプロイセン軍を破った。しかし、慣れない部下の作業やまずい指揮により全作戦を通じてフランス軍に多くの問題を引き起こした。エマニュエル・ド・グルーシーが対プロイセン戦で遅れて進軍したことで、リグニーで敗れたブリュッヘルの部隊が回復し、ワーテルローの戦いでウェリントンの援軍に駆けつけることを許した。この戦いはナポレオンと彼の愛した軍隊にとって最後で決定的な敗北となった。[28]
^Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 250. Da Capo Press, 1997
^ abElting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 254-5. Da Capo Press, 1997
^Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 186, 194. Da Capo Press, 1997
^Elting, John R. Swords Around A Throne. Da Capo Press, 1997. Pg.387.
^ 皇帝の元帥(Marechal de l'Empire)あるいは元帥(Marshal)はフランス軍の階級ではない。師団将軍で傑出していると認められた者の個人的な称号であり、それに応じた高い給与と特権が与えられた。ナポレオン軍の最高階級は実際には師団将軍(General de division)である。 Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 124. Da Capo Press, 1997.
^ abcdeChef d'escadronは騎兵、騎乗砲兵、憲兵、砲車牽引の大隊長 and trains
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Royal, Republican, Imperial, a History of the French Army from 1792-1815: Vol 1 - Infantry - History of Line Infantry (1792-1815), Internal & Tactical Organization; Revolutionary National Guard, Volunteers Federes, & Compagnies Franches; and 1805 National Guard., Nafziger, George. 98 pages. (http://home.fuse.net/nafziger/NAFNAP.HTM)
Royal, Republican, Imperial, a History of the French Army from 1792-1815: Vol 2 - Infantry - National Guard after 1809; Garde de Paris, Gendarmerie, Police, & Colonial Regiments; Departmental Reserve Companies; and Infantry Uniforms., Nafziger, George. 104 pages. (http://home.fuse.net/nafziger/NAFNAP.HTM)
Royal, Republican, Imperial, a History of the French Army from 1792-1815: Vol 3 - Cavalry - Line, National Guard, Irregular, & Coastal Artillery, Artillery & Supply Train, and Balloon Companies., Nafziger, George. 127 pages.
Royal, Republican, Imperial, a History of the French Army from 1792-1815: Vol 4 - Imperial Guard, Nafziger, George. 141 pages. (http://home.fuse.net/nafziger/NAFNAP.HTM)
Napoleon's Elite Cavalry: Cavalry of the Imperial Guard, 1804-1815, Edward Ryan with illustrations by Lucien Rousselot, 1999 , 208 pages ISBN 1853673714