コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

大正ロマン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。219.106.210.91 (会話) による 2007年6月18日 (月) 16:50個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (新しいページ: ''''大正ロマン'''(たいしょうろまん:しばしば「'''大正浪漫'''」とも表記される)とは、大正時代の雰囲気を伝える...')であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)

大正ロマン(たいしょうろまん:しばしば「大正浪漫」とも表記される)とは、大正時代の雰囲気を伝える思潮や文化事象を指して呼ぶことばである。
19世紀を中心にヨーロッパで展開した精神運動である「ロマン主義」の影響が、その根底にあると思われる。なお「浪漫」という当て字は夏目漱石によって付けられたとされる。


時代の背景

大正時代は明治と昭和にはさまれ15年と短いながらも国内外が激動の時代で、とくに日本では江戸時代から明治を経て、二度の戦勝(日清日露)による好景気も得て国力も高まり、欧米列強と肩を並べ、勢いを得て第一次大戦にも参戦して勝利の側につき、国中が国威の発揚に沸いた時代である。

封建主義鎖国の影響も影をひそめ、欧米から近代文化が流入し、印刷技術の発達による新しいメディアの出現もあり、文化・情報の伝播がいっそう促進された時代でもある。「大正デモクラシー」とよばれる民主(本)主義が台頭(民衆と女性の地位向上)し、西洋文化の影響を受けた新しい文芸・絵画・音楽・演劇などの芸術が流布して、思想的にも自由と開放・躍動の気分が横溢し、都市を中心とする大衆文化が花開いた。

しかし、経済の激しい浮き沈みや新時代への急激な変化に対応できないストレスも底辺にあり、未だ克服されなかった肺結核などの病による著名人の死や自由恋愛の流行による事件も多かった。大衆紙の流布とともにそれらの情報が増幅して伝えられ、時代の不安の上にある種の退廃的な気分も醸し出され、むしろこれらの事々のほうが「大正浪漫」に負の彩りを添えて人々をさらに蠱惑する側面もある。これには19世紀後半にヨーロッパで興った文芸における耽美主義の影響もあろう。芸術作品にはアール・ヌーボーアール・デコ表現主義などからの影響を受けたものも多い。

また「大正ロマン」は、新しい時代の萌芽を示す意味合いから、モダニズム(近代化)から派生した「大正モダン」ということばと同列に扱われることもある。「大正モダン」と「大正ロマン」は同時代の表と裏を表象する対立の概念であろう。在位の短かった天皇の崩御により、震災復興などによる経済の閉塞感とともにこの時代は終わり、世界的大恐慌で始まる昭和の時代に移るが、大衆化の勢いは衰えることなく昭和モダンの時代へと引き継がれる。

いっぽう歴史を振り返って、第二次大戦後の昭和後期~平成の現代からは、余りにも急激に近代文明が発展を遂げ時代が進歩したことで、その反動として、捨てられた過去を懐かしむ気分が「旧き良き時代」としての大正ロマンの雰囲気を求める傾向もあり、当時の文化事象がしばしば取り上げられ再評価されることもある。  


歴史的事件と「大正ロマン」を象徴する文化事象

  • 大正元年(1912年):
    • 映画会社「日活」設立
  • 大正5年(1916年):
    • 歌謡「ゴンドラの唄」大流行、


「大正ロマン」を象徴する文化人

年代が短いこともあり、大正時代に限ってのみ活躍した人物というものをあげるのは難しいが、以下のような明治から昭和への過渡の時代に生きた人物の名があげられ、この時代を彩る数々の芸術作品や新思潮が生み出された。

竹久夢二高畠華宵西条八十野口雨情北原白秋中山晋平山田耕筰島村抱月松井須磨子小山内薫倉田百三久保田万太郎室生犀星萩原朔太郎芥川龍之介有島武郎菊池寛直木三十五谷崎潤一郎阿部次郎吉野作造宮武外骨大杉栄伊藤野枝平塚らいてう等・・・

とくに「竹久夢二」に限っていえば、彼の場合、実質的に活躍した年代が大正期と重なり、その思索や行動そして作品において時代の浮き沈みと一体化しており、この時代とともに生きた人物であり「大正ロマン」を代表する名として、しばしば掲げられる。


関連項目