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洛川君

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洛川君
宗親二世
従一品君
綏徳大夫[1]
五衛都摠府都摠管
続柄 李埰第一子
諡号 漢字:栄僖・忠正
諺文:영희・충정
発音:ヨンヒ・チュンジョン
配偶者 郡夫人達城徐氏
子女 達善君(離縁)
恩信君
  1. ^ 大典会通では崇禄大夫。位階従一品相当。
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洛川君(낙천군、ナチョングン、1720年 - 1737年)は後期の王族。本名は李縕(이온、イ・オン)。権知承文院副正字李埰晋州柳氏の嫡子である。妻は徐宗秀の娘の郡夫人達城徐氏である。元の血筋は宣祖の九男慶昌君昆孫であったが、粛宗の六男延齢君が嗣子なく死去した為に、家督を承襲するために養子となった。17歳で早世しており、死後に正妻が達善君と悶着を起こしたり、養子入りした恩信君が徒党と悪行を起こすなどして家門が一時断絶したが、純祖によって家督が復権され南延君が承襲している。ちなみに恩信君は洛川君の奉祭祀を不快に過ごしていたという噂があったが、兄の正祖に奉祀孫を任されている。


生涯

家内情勢

1720年に権知承文院副正字李埰晋州柳氏の嫡子として出生する。家系は宣祖の九男慶昌君の直系にあたる六代孫であった。五代祖は昌原君高祖父清平君、曾祖父が西川君、祖父が李廷熽である。粛宗の六男延齢君が死去すると家督を承襲するために養子となった。1734年旧暦11月30日に承憲大夫[1]洛川君に封爵された。[2]この縁組関係では曾孫に興宣大院君がおり、それ以降は王統となっている。1735年旧暦2月12日金致萬の娘と婚姻することを検討されたが、洪致中の亡き子と関係を持ち遺腹であった為、関係を持っていたことは不敬不孝とされたが、身篭っている以上は義に背けないので、金致萬を拿處させた。代わりに徐宗秀の娘が上がったが、徐宗秀が拒み、英祖は徐宗秀を軟禁し、1737年旧暦2月16日厳命により宗簿寺に擇日を選別して行礼を行わせるようにした。[3]しかし翌日急死する。ちなみに選別された擇日は旧暦2月29日旧暦3月21日であった。

璿派人時代

延齢君の家督を承襲して1734年旧暦12月8日に都摠管に任官した。[4]1735年旧暦1月25日には崇憲大夫[5]に加資され、[6]旧暦4月7日には副摠管に異動したが、[7]旧暦4月17日には再び都摠管に戻った。[8]1736年旧暦2月29日には英祖が宗室に親臨し殿講を受けた者に施賞があり、洛川君は嘉徳大夫[9]に加資され、旧暦4月11日には父の墓が遠く墓を掃除する余暇を請い、受諾され馬を与えられ、[10]旧暦8月15日に綏徳大夫[11]を加資された。

家系

祖先

祖代 称号 称号諺文 名諺文 続柄 存命期間 備考
六代祖 慶昌君 경창군 李珘 이주 宣祖第九子 1596年旧暦9月23日 - 1644年旧暦1月16日
五代祖 昌原君 창원군 李儁 이준 慶昌君第一子
高祖父 清平君 청평군 李洤 이천 昌原君第一子
曾祖父 西川君 서천군 李榥 이숙 清平君第一子
祖父 李廷熽 이정소 西川君第二子
実父 李埰 이채 李廷熽第一子
養父 延齢君 연령군 李昍 이훤 粛宗第九子
柳氏 柳萬重の娘

系図

外部リンク

脚注

  1. ^ 大典会通では資憲大夫。位階正二品相当。
  2. ^ 承政院日記1734年旧暦11月30日
  3. ^ 朝鮮王朝実録1737年旧暦2月16日3件目
  4. ^ 承政院日記1734年旧暦11月30日
  5. ^ 大典会通では正憲大夫。位階正二品相当。
  6. ^ 承政院日記1735年旧暦1月25日
  7. ^ 承政院日記1735年旧暦4月7日
  8. ^ 承政院日記1735年旧暦4月17日
  9. ^ 大典会通では崇政大夫。位階従一品相当。
  10. ^ 承政院日記1736年旧暦4月11日
  11. ^ 大典会通では崇禄大夫。位階従一品相当。