麻酔
麻酔 | |
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治療法 | |
MeSH | E03.155 |
MedlinePlus | anesthesia |
eMedicine | 1271543 |
麻酔(ますい、痲酔とも)とは、薬物などによって人為的に疼痛をはじめとする感覚をなくすことである。主に医療で治療などにおける患者・動物の苦痛を軽減させると同時に、筋の緊張を抑える目的で用いられる。これにより、手術を受けることができ、また、耐え難い苦痛を取り除くことができる。麻酔は通常、局所の感覚のみを失わせる局所麻酔と全身に作用する全身麻酔がある。
薬物以外の麻酔として、催眠術、鍼灸、低体温法があるが一般的に行われていない。薬草を起源とするものに、古くからアヘンや大麻があり、19世紀前後には亜酸化窒素の麻酔作用が発見された。コカインの局所麻酔作用は19世紀中ごろに発見され、改良されたリドカインは1943年に登場している。
広義の麻酔
上記、狭義の麻酔に加えて、手術中の生命維持を行う医療も麻酔に含まれている。このことは、麻酔医療は、痛みや意識を取るという狭い意味での麻酔に加えて、生命維持に必要な、呼吸管理、循環管理、体液管理、中枢神経管理を手術中にリアルタイムで病態治療を行ってゆく。したがって、術前・術中・術後の生命維持の総合医学として高度に専門的な知識と実践が要求され、きわめて専門的な知識が必要とされるため、医師、歯科医師、獣医師においても別に研修を積む必要がある。
資格
診療科として麻酔科を名乗るには、厚生労働大臣の「麻酔科標榜医」の許可を取る必要がある。医療法第70条2項、及び医療法施行規則第42条の4に基づく。ただし麻酔科標榜医制度の適用は、医師に限られる。
麻酔の種類
局所麻酔
麻酔薬を局部に作用させ末梢神経の活動を抑える。投与法、遮断部位によって表面麻酔、浸潤麻酔、周囲浸潤麻酔、伝達麻酔に分けられる。
全身麻酔
静脈注射ないしガスの吸入によって中枢神経に薬物を作用させる。多くの全身麻酔では中枢神経系の機能を抑制したり、大脳新皮質を解離させたりして意識を可逆的に失わせるが、NLA(neurolept anaesthesia)では意識を保った麻酔も可能である。筋弛緩を伴う吸入麻酔の際は人工呼吸器が必須であり、気化器と一体になった麻酔装置(麻酔器)が用いられる。
副作用
薬物を用いる場合、体質によっては使うと危険な場合(アナフィラキシーなど)があり注意を要する。国にもよるがかつては阿片やモルヒネなどの麻薬が用いられたこともあり、これらを使用した患者や取り扱いを行なう者に依存症が発生することもあった。現在使われている麻酔薬はこういった危険が少ないものが増えてきているが、これらも使い過ぎるのはやはり危険である。
せん妄
麻酔からの覚醒時にせん妄と呼ばれる意識変容が起こることがある。大半の患者はせん妄を覚えており、苦痛な経験だったとの調査報告がある。せん妄は意識障害だから覚えていない、というのは全くの誤解である[1]。
歴史
薬物を用いない麻酔
薬物を用いない麻酔として催眠術が長い歴史を持っている[2]。このほか、低体温法、電気麻酔や針麻酔というものも存在する。日本では江戸時代には既に氷を用いた低体温法が存在したという。針麻酔は、一般には1958年に上海市第一人民病院で行われた扁桃腺摘出手術を嚆矢とし、過去に類似の麻酔法があったとの説もあるが明確な記録がない[3]。1972年の米中国交回復時のニクソン大統領訪中のニュースとともに針麻酔が報道され世界に知られるようになった[4]。
薬草を起源とするもの
先史時代には薬草による麻酔が利用されていた。アヘンと大麻の二つが最も重要な薬草として利用されていた。それらは経口で摂取するか、燃やしてその煙を吸い込むことで利用された。アルコールもまた利用された(血管を拡張させる作用の存在は知られていなかった)。南アメリカではチョウセンアサガオから抽出されたスコポラミンがコカのように用いられた。インカ文明ではコカと酒を麻酔に使用した穿頭術が行われていた。中世ヨーロッパでは用意された多くのマンドレークがヒヨス(ヒヨスチアミン)のように用いられようと試された。中国では後漢末期、華佗が「麻沸散」という麻酔を使い、手術を行ったと『三國志』に記録されている。麻沸散の成分は不明だが、これも大麻を使ったものではないかといわれている。
日本においては、江戸時代に外科医であった華岡青洲が曼陀羅華の実(チョウセンアサガオ)、草烏頭(トリカブト)、当帰(トウキ)などの6種類の薬草に麻酔効果があることを発見し、実母の於継と妻の加恵の実験協力と犠牲の上に全身麻酔薬「通仙散」を完成させた[5]。文化元年(1804年)10月13日、華岡青洲は経口の通仙散を用いた全身麻酔下での手術により、大和国宇智郡五條村の藍屋勘の乳癌摘出に成功している[5]。はっきりした記録が残っているものでは世界最初の麻酔手術である[6]。
初期の吸入麻酔薬
19世紀における有効な麻酔薬の開発は、リスターによる消毒の技術とともに、手術の成功の鍵の一つとなった。ヘンリー・ヒックマンは1820年代に二酸化炭素を用いた実験を行った。ジョセフ・プリーストリーによって分離された亜酸化窒素(笑気ガス)の麻酔作用は1795年にトマス・ベドーズの助手である、イギリスの化学者ハンフリー・デービーにより証明され、1800年に論文として発表された。しかし、初期には亜酸化窒素の医学的な用途は限られており、その主な役割は娯楽であった。1844年12月、アメリカ合衆国の歯科医師であるホーレス・ウェルズは抜歯を無痛で行うために亜酸化窒素を使用した。翌1845年、彼はマサチューセッツ総合病院で公開デモを行ったが、失敗を犯し、患者に大きな痛みを感じさせた。この失敗のために彼はすべての支援を失った。
歯科医師であるウィリアム・クラークは1842年1月、1540年に発見されていた硫酸エーテル(ジエチルエーテル)の抽出を行った。同年3月、ジョージア州のDanielsvilleにおいてクロフォード・ロングが最初に麻酔を手術で用いた。少年の首にある嚢胞をとる手術であった。しかし、彼は後になるまでこの情報を発表しなかった。
1846年10月16日、歯科医師であるウィリアム・T・G・モートンはマサチューセッツ総合病院に招待され、硫酸エーテルを麻酔として用いた最初の公開手術を行った。首から腫瘍を切除する手術であった。
モートンがLetheonと名づけ、アメリカ合衆国での特許をとった化合物を彼は秘密にしようと努力したが、それにもかかわらず、1846年末までにはこの発見と化合物の性質に関するニュースはヨーロッパに広まった。ロバート・リストン、エルンスト・ディーフェンバッハ、ニコライ・ピロゴフ、ジェームズ・サイムなどの評価の高い外科医たちはジエチルエーテルを用いた手術を試みるようになった。
クロロホルムもジエチルエーテルと並んで急速に発達した。クロロホルムはジエチルエーテルと異なり手術室では常温で引火せず、また、麻酔導入にはジエチルエーテルより扱いやすいと考えられていた。クロロホルムは1831年に発見され、有機化合物に関する幅広い研究の中で、1847年にクロロホルムの有効性が発見され、ジェームズ・シンプソンが無痛分娩に成功した。クロロホルムの使用は広がり、1853年、ジョン・スノーがレオポルド王子出生時にヴィクトリア女王にそれを与えた時に国王の認可を受けた。しかし、クロロホルム麻酔は重篤な心毒性、不整脈を引き起こし、死者が相次いだため、まったく用いられなくなった。
その後、導入麻酔薬と維持麻酔薬は別のものを使用する麻酔法が主流となり、ジエチルエーテルは維持麻酔薬として最も優れているとされた。しかし手術室の電子化にともない、ジエチルエーテルの引火性が問題となり、先進国では使用されなくなった。ただ今でもその優れた特性から、発展途上国では維持麻酔薬として頻用されている。
局所麻酔薬
最初の有効な局所麻酔薬はコカインであった。1859年に分離されたコカインは眼科医であるカール・コラー(en)によって1884年に用いられたのが最初である。その前までは、医師は塩と氷を混ぜたもので冷たさによる麻痺を得るなどしており、これは限られた場合でしか使えないものだった。この感覚脱失はエーテルやクロロエチンのスプレーでも引き起こせた。
コカインはすぐにプロカイン(1905年)、オイカイン(1900年)、ストバイン(1904年)、リドカイン(1943年)などの多くの安全な派生物に置き換えられた。
初期のオピオイド
オピオイドはラコヴィセアヌ=ピテスティによって最初に使用され、1901年に発表された。
20世紀
- チオペンタール (1934年)
- ベンゾジアゼピン
- プロポフォール (2,6-ジ-イソプロピルフェノール)
- エトミデート
- ケタミン
- クラーレ(1942年)
- フェンタニル
- ハロセン
- サクシニールコリン
- エンフルレン
- デルモルフィン
- キセノン
- 新しい合成オピオイド - メペリジン、アルフェンタニル、サフェンタニル(1981年)、レミフェンタニル
- 神経ステロイド - デヒドロエピアンドロステロン、プレグネノロン、プロゲステロン、アロプレグナノロン
全身麻酔にかかわる概念
- 肺胞内濃度
- 吸入麻酔薬の肺胞内における濃度である。これはほぼ、神経組織内での分圧に比例するとされ、麻酔深度を調節する重要な指標となる。実際の測定には、呼気終末濃度がほぼ肺胞内濃度と等しいためこれが用いられる。同じ濃度の吸入麻酔薬を用いるなら、心拍出量は少ない方が肺胞内濃度は上昇しやすい。
- 最小肺胞内濃度(MAC)
- 吸入麻酔薬の強さを比較する手段で、侵害刺激に対し、50%の人が反応をやめるような肺胞内濃度と定義されている。
- 麻酔深度
- 全身麻酔の強弱を表す概念的な用語である。不必要に麻酔深度を深くすると薬剤の過量投与につながる恐れがあるが逆に麻酔深度が浅すぎると手術中に意識がある状態になってしまう。手術中は適切な麻酔深度を保つことが必要である。麻酔深度の定量的な評価をする試みとしてBIS(bispectral index)モニタやエントロピーモニタが開発されている。
- 血液/ガス分配係数
- 麻酔の導入と回復の速さに比例する値である。平衡状態に達した吸入麻酔薬の濃度に対する血液中の吸入麻酔薬の濃度の比であり、吸入麻酔薬の導入と麻酔からの回復の速さを示す指標となる。すなわち、この値が小さい麻酔薬は導入と麻酔からの回復が速くなる。
- 油/ガス分配係数
- 麻酔の強さに比例する値である。
出典
- ^ “進行性がん患者と介護者における、せん妄のインパクトと苦痛の記憶”. 日本緩和医療学会 (2009年8月). 2016年9月5日閲覧。
- ^ アン・ルーニー『医学は歴史をどう変えてきたか:古代の癒やしから近代医学の奇跡まで』立木勝訳 東京書籍 2014年 ISBN 9784487808748 p.158.
- ^ 山下泰徳、村上えい子「針麻酔に関する初歩的研究」『日本東洋医学会誌』1975年、26巻、1号、p39-45
- ^ 後藤修司「世界の代替医療事情:アメリカにおける鍼灸の認識」『漢方と最新治療』2002年、11巻、1号、p13
- ^ a b 松木明知「華岡青洲による最初の全身麻酔の期日について」『日本医史学雑誌』第19巻第2号、1973年、p.p.193-197。
- ^ 「日本の名医:55:503:華岡青洲」『活』第51巻第5号、2009年、p.p.78-79。
関連項目