簗田広正
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天正7年6月6日(1579年6月29日) |
改名 | 別喜/戸次右近 |
別名 |
正次、正広、宗行、政辰(諱) 左衛門太郎、出羽守 |
戒名 | 前羽州太守景巌宗徳禅定門 |
官位 | 右近大夫 |
主君 | 織田信秀、信長 |
氏族 | 尾張簗田氏 |
父母 | 父:簗田政綱 |
子 | 長教 |
簗田 広正(やなだ ひろまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。のちに別喜(戸次)姓を下賜されて、別喜右近もしくは戸次右近と名乗っている。
概要
簗田政綱(出羽守)の子として誕生。織田信長に仕え、尾張国九之坪城と沓掛城の城主であった。
元亀元年(1570年)の浅井攻めでは小谷よりの殿軍を務め、天正3年(1575年)、朝廷からの叙任で羽柴秀吉・明智光秀や塙直政らとともに叙位任官を受けて右近大夫となり、九州の名族である別喜(戸次)の姓を下賜された。天正4年(1576年)に加賀国の旗頭になり、大聖寺城を与えられて加賀一向一揆の討伐に当たる。しかし兵力が不足し、調略もうまくいかず討伐は失敗し、尾張に召還された。天正6年(1578年)、織田信忠に属し、別所長治の反乱に対応している。
名は一般に「広正」と言われているが、『尾張群書系図部集』ではその名は父・出羽守の実名とし、別喜右近の実名は正次としている。いずれにしても父子ともに実名は同時代史料では確認できず、広正・正次いずれの説も決定打に欠ける。また同資料によると、子・長教は天正10年(1582年)、甲州征伐の際に信濃国鳥居峠の戦いで戦死。孫の教貞は織田信雄に仕えたとしている。なお『寛政重修諸家譜』では「梁田出羽守」の子を正勝としている。正勝の家は江戸幕府旗本として最大で1,200石を領したが、正勝の曾孫の代で無嗣断絶している。