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「十二支」の版間の差分

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===ベトナム・タイなどの十二支===
===ベトナム・タイなどの十二支===
[[ベトナム]]や[[タイ王国]]にも十二支にあたるものがあるが、割り当てられる動物に若干の異同がある。
[[ベトナム]]や[[タイ王国]]にも十二支にあたるものがあるが、割り当てられる動物に若干の異同がある。
ベトナムでは丑は[[水牛]]、卯は[[猫]]、未は[[山羊]]、亥は[[豚]]に変わる(亥については、むしろ日本が特殊であり、亥は中国でも豚である)。[[モンゴル]]では寅の代わりに[[豹]]を用いることがある。[[韓国]]でも[[豚]]が干支に登場している。
ベトナムでは丑は[[水牛]]、卯は[[猫]]、未は[[山羊]]、亥は[[豚]]に変わる(亥については、むしろ日本が特殊であり、亥は中国でも豚である。中国語で「猪」という単語/文字は一般的にブタを意味する為であろう)。[[モンゴル]]では寅の代わりに[[豹]]を用いることがある。[[韓国]]でも[[豚]]が干支に登場している。


===逸話===
===逸話===

2007年1月29日 (月) 14:47時点における版

十二支(じゅうにし)は、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の総称である(それぞれ音訓2通りの読み方がある:下表参照)。十干を天干というのに対して、十二支を地支(ちし)ともいう。

十二支 日本語 中国語 朝鮮語 ベトナム語
音読み 訓読み
자 (ja)
ちゅう うし chǒu 축 (chuk) sửu
いん とら yín 인 (in) dần
ぼう mǎo 묘 (myo) mão/mẹo
しん たつ chén 진 (jin) thìn
사 (sa) tỵ
うま 오 (o) ngọ
ひつじ wèi 미 (mi) mùi
しん さる shēn 신 (shin) thân
ゆう とり yǒu 유 (yu) dậu
じゅつ いぬ 술 (sul) tuất
がい hài 해 (hae) hợi

概説

古代中国で考えられ、日本に伝えられた。十二支は古く甲骨文では十干と組み合わされて日付を記録するのに利用されている。戦国以降、だけでなく、時刻方位の記述にも利用されるようになる。

戦国時代の中国天文学において天球の分割方法の一つであった十二辰は、天球天の赤道帯に沿って東から西に十二等分したもので、この名称には十二支が当てられた。また、木星が約12年で天球を西から東に一周することから、十二次という別の天球分割法における木星の位置がの記述に利用されていたが、十二辰の方向と順序に対しては逆方向であるため、紀元前4世紀ごろ、十二辰の方向に合わせるべく木星とは一直径を境に逆回りに天球を巡る太歳という架空の星を考え、太歳十二辰における位置で年を示す紀年法が使われるようになった。これが後漢以後に始まり現在まで使われている干支による紀年法の起源である。

また、12という数が1年の数と同じであることから、月を表すのにも用いられるようになった。これを月建といい、建子の月は冬至を含む月、すなわち夏暦11月周暦正月である周正に置かれた。

さらに、時刻十二時辰)や方位の表示にも用いられるようになった。正午(昼の12時)、子夜(夜の12時)、子午線(南北を結ぶ線=経線)、卯酉線(東西を結ぶ線=緯線)の称はこれに由来する。

十二支の各文字は、一説に草木の成長における各相を象徴したものとされる(『漢書』律暦志)。また、各十二支には動物が割り当てられている。これを十二生肖と呼ぶが、日本では十二支という言葉自体で十二生肖を指すことが多い。元々十二支は順序を表す記号であって動物とは関係がない。なぜ動物と組み合わせられたかについては、人々が暦を覚えやすくするために、身近な動物を割り当てたという説(後漢王充『論衡』)やバビロニア天文学十二宮の伝播といった説がある。

十二支 十二生肖 十二時辰 十二辰 方位 五行 陰陽
動物 時刻 天区
1 23時 - 1時 玄枵 宝瓶宮 11月
2 1時 - 3時 星紀 磨羯宮 北東微北 12月
3 3時 - 5時 析木 人馬宮 北東微南 1月
4 5時 - 7時 大火 天蝎宮 2月
5 7時 - 9時 寿星 天秤宮 南東微北 3月
6 9時 - 11時 鶉尾 処女宮 南東微南 4月
7 11時 - 13時 鶉火 獅子宮 5月
8 13時 - 15時 鶉首 巨蟹宮 南西微南 6月
9 15時 - 17時 実沈 双子宮 南西微北 7月
10 17時 - 19時 大梁 金牛宮 西 8月
11 19時 - 21時 降婁 白羊宮 北西微南 9月
12 21時 - 23時 娵訾 双魚宮 北西微北 10月
  • 注意:月は旧暦
  • 天区は十二次十二宮と領域を同じくするが、逆方向に配されている。

日本における十二支

干支(十干と十二支)

十二支は古来、「甲子」「丙午」のように、十干と組み合わせて用いられてきた。字音から言えば、十干は「幹」、十二支は「枝」である。十干十二支を合わせたものを干支(「かんし」または「えと」)という。

「えと」という呼称は本来、十干を「ひのえ」「ひのと」のように、兄(え)と弟(と)の組み合わせとして訓読したことに由来するが、今日では、「干支」(えと)と言えば十二支のことを指すことが多い。この逆転現象は、干支のうち、五行思想とともに忘れ去られつつある十干に対して、動物イメージを付与されることによって具体的で身近なイメージを獲得した十二支のみが、現代の文化の中にかろうじて生き残っていることによると思われる。

現代の十二支

今日の日本では、十二支は、人々の生活との関わりが、近世までと比べて、ずっと希薄になっている。十二支が十干のように忘れ去られずにいるのは、ただ、年賀状の図案にその年の十二支の動物が多く使われることと、人々がその生まれ年の干支によって、「○○年(どし)の生まれ」のような言い方をする習慣が残っていることの2つがあるためであると考えられる。

また、十二支に因んで、12年(=144箇月)を1回りと呼ぶこともある。

古方位

東西南北の四方位が子・卯・午・酉に配当されるのに加えて、北東・南東・南西・北西はそれぞれ「うしとら」「たつみ」「ひつじさる」「いぬい」と呼ばれ、該当する八卦から、「」「」「」「」の字を当てる(→方位)。

北東を「鬼門」、南西を「裏鬼門」として忌むのは、日本独自の風習だが、(ウシのような)角をはやし、トラの皮のふんどしをしめた「(オニ)」という妖怪のイメージは、この「うしとら」から来ていると思われる。

「辰巳芸者(巽芸者、たつみげいしゃ)」とは、深川仲町(辰巳の里)の芸者を指す。この地が江戸城の南東に位置したことから。日本橋葭町の人気芸者、菊弥が移り住んで店を構えたことに始まる。幕府公認の遊里ではないために、巽芸者は男名前を名乗り、男が着る羽織を身につけたため、羽織芸者、また、単に羽織とも呼ばれたが、鉄火で伝法、気風(きっぷ)がよくて粋であることで知られた。

船舶航行時に使われた「おもかじ」「とりかじ」という言葉は、「卯面梶」「酉梶」から来ているとする説もある。

十二生肖

十二生肖(じゅうにせいしょう)または十二属相(じゅうにぞくしょう)は十二支にの十二の動物を当てたものである。

その成立時期は従来、後漢王充論衡』にあることから後漢頃とみなされていたが、1975年湖北省雲夢県睡虎地秦墓から発見された竹簡に十二生肖の記述があり、戦国時代には成立していたことが分かっている。

唐代になると十二生肖を象った彫像が作られるようになり、獣頭人身で手に笏をもち文官の服を着る姿で表された。これらは墳墓の副葬品に入れる陶俑として作られたり、墓誌銘の四周に彫刻されたりした。またこれらの彫像は仏教において薬師如来の眷属である十二神将を表すのに用いられて日本に伝播し、武人像の下に十二生肖を彫刻したり、十二生肖の獣頭人身の姿で作られたりされた。また朝鮮半島には統一新羅時代に伝播し、慶州の墳墓などに見られるが、文官ではなく武官の姿に象られ、ただ十二生肖を象ったものなのか十二神将であるのかは定かではない。

また民間において紀年や人の生年を表すのに使われるようになった。特に新年を迎える際に用いられ、中国では春節(旧正月)になると新年の十二生肖にちなんだ催しが開かれ、日本でも正月のやりとりする年賀状の図案に使用される。なお各国において割り当てる動物に若干の異なりがある。

ベトナム・タイなどの十二支

ベトナムタイ王国にも十二支にあたるものがあるが、割り当てられる動物に若干の異同がある。 ベトナムでは丑は水牛、卯は、未は山羊、亥はに変わる(亥については、むしろ日本が特殊であり、亥は中国でも豚である。中国語で「猪」という単語/文字は一般的にブタを意味する為であろう)。モンゴルでは寅の代わりにを用いることがある。韓国でもが干支に登場している。

逸話

いつ頃生まれた話かは不明であるが、十二支の動物に関しての逸話がある。神様のもとに新年の挨拶に来た順番に動物を割り当てたというものである。

  • 牛は足が遅いので早めに行ったものの、一番乗りしたのは牛の背中に乗っていた鼠だった。
  • 鶏が猿と犬の間になったのは仲の悪い両者を仲裁していたため。
  • 挨拶に行く日について鼠は猫に嘘を教えたため猫は十二支に入れなかった。それで猫は鼠を追いかけるようになった。
  • 13番目であったために十二支に入れなかったイタチをかわいそうに思った神様は、毎月の最初の日を「ついたち」と呼ぶことにした。ただし実際の「ついたち」の語源はこの逸話からではない。

関連項目