コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「山本七平」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Ga wa ra (会話 | 投稿記録)
経歴: 目次を見やすくするために年譜を追加・大平内閣・中曽根内閣諮問機関の委員就任を追加・受賞歴を追加・ベンダサンとの関係を大幅に変更
3行目: 3行目:


==経歴==
==経歴==
===年譜===
[[1921年]][[12月18日]]、[[東京府]]荏原郡三軒茶屋(現在の[[東京都]][[世田谷区]]三軒茶屋)で、[[クリスチャン]]の両親(山本文之助、山本八重)の間に長男として生まれる。名の「七平」は神の安息日(日曜)生まれから命名される。兄弟姉妹は姉2人と妹1人。
[[1921年]][[12月18日]]、[[東京府]]荏原郡三軒茶屋(現在の[[東京都]][[世田谷区]]三軒茶屋)で、[[クリスチャン]]の両親(山本文之助、山本八重)の間に長男として生まれる。名の「七平」は神の安息日(日曜)生まれから命名される。兄弟姉妹は姉2人と妹1人。


14行目: 15行目:
[[1956年]]、世田谷区の自宅で[[聖書学]]を専門とする[[出版社]]、山本書店株式会社を創業する。のち山本書店は[[新宿区]]市ヶ谷に移転。
[[1956年]]、世田谷区の自宅で[[聖書学]]を専門とする[[出版社]]、山本書店株式会社を創業する。のち山本書店は[[新宿区]]市ヶ谷に移転。


[[1970年]]、[[イザヤ・ベンダサン]]著『日本人とユダヤ人』を山本書店より発売する。単行本・文庫本を合わせて300万部を超える大[[ベストセラー]]となる。本文で、“日本([[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]]の[[北野町山本通|山本通]])に生まれた[[ユダヤ人]]が[[日本語]]で書いた”と告白しているだけで、著者紹介は無かった
[[1970年]]、[[イザヤ・ベンダサン]]著『日本人とユダヤ人』を山本書店より発売する。

1979年、大平内閣の諮問機関「文化の時代」研究グループの議長を務める 。

1984年、中曽根内閣の諮問機関「臨時教育審議会」の第一部会専門委員を務める 。


[[1991年]]、[[膵癌|膵臓癌]]により自宅で死去した。遺骨の一部は[[イスラエル]]で散骨された。
[[1991年]]、[[膵癌|膵臓癌]]により自宅で死去した。遺骨の一部は[[イスラエル]]で散骨された。

===受賞歴 ===

1973年、第35回文芸春秋読者賞受賞

1981年、第29回菊池寛賞受賞

1989年、和歌山県文化表彰にて文化賞受賞



===イザヤ・ベンダサンとの関係===
===イザヤ・ベンダサンとの関係===
====山本による説明====
「たまに寄るホテル内のコーヒーハウスで出会ったのが、ホテルの住人ジョン・ジョセフ・ローラーと、山本の友人ミンシャ・ホーレンスキーだった。二人とも私と同様ライトマニアで、ライトマニアが三人集まっていろいろ話をしたのが『日本人とユダヤ人』のそもそもの始まりである。」(平成4年3月月刊誌『Voice』「山本七平追悼記念号」)
当初『日本人とユダヤ人』の著者ではないかと言われることについて、山本は「私は著作権を持っていないので、著作権法に基づく著者の概念においては著者ではない」と述べる一方で、「私は『日本人とユダヤ人』において、エディターであることも、ある意味においてコンポーザーであることも否定したことはない。」とも述べている。(山本七平「ベンダサン氏と山本七平氏」『実業の日本』1977年10/1(1899号)49-50頁)


後に、1987年のPHP研究所主催の研究会では以下のように説明している。
「山本自身は、この謎について、昭和62年のPHP研究所の研究会で、ホーレンスキーの日本人妻が、山本を加えた3人のディスカッションを日本語に直して筆記したものが原本となったと説明した。」(『怒りを抑えし者』[[稲垣武]])
:山本書店を始めた頃に帝国ホテルのロビーを原稿の校正作業にしばしば使用していたら、フランク・ロイド・ライトのマニアということがきっかけでジョン・ジョセフ・ローラーとその友人ミンシャ・ホーレンスキーと親しくなった。
:キリスト教が日本に普及しなのはなぜかという問題意識のもと3人でいろいろ資料を持ち寄って話し合っているうちにまとまった内容を本にしたのが『日本人とユダヤ人』である。
:ベンダサン名での著作についてはローラーの離日後はホーレンスキーと山本の合作である。
:ローラーは在日米軍の海外大学教育のため来日していたアメリカのメリーランド大学の教授で、1972年の大宅壮一ノンフィクション賞受賞式にはベンダサンの代理として出席した。
:ホーレンスキーは特許関係の仕事をしているウィーン生まれのユダヤ人、妻は日本人。
(山本七平「一出版人の人生論」『Voice』PHP研究所、1992年3月、特別増刊山本七平追悼記念号、28-30頁)


====山本死後の扱い====
「私は『日本人とユダヤ人』において、エディターであることも、ある意味においてコンポーザーであることも否定したことはない。ただ、私は著作権を持っていないという事実は最初からはっきりいっている。事実だからそういっているだけであって、そのほかのことを何も否定したことはない」(昭和52年10月『実業の日本』)
稲垣武は、上記研究会での説明および夫人の山本れい子の証言をもとに『怒りを抑えし者』(PHP研究所、1997年)「第9章ベンダサンとその時代」において、『日本人とユダヤ人』は、二人のユダヤ人(ローラーとホーレンスキー)との対話を参考とはしているが構成も文章も山本のものと結論付けている。


同様に、『山本七平ライブラリー』編集部もライブラリー13および14(文芸春秋、1997年)の奥付の初出一覧の脇に、ベンダサン名の諸作品はほぼ山本の著作、もしくは山本を中心とする複数の外国人との共同作業と考えられるというコメントを付している。
「平成二年に膵臓癌の手術を受けた後、『あの本はあなたが書いたんでしょ』と訊きくと、『まあね、そうだよ』と言っていました。多少、知り合いのユダヤ系アメリカ人からヒントはもらっていたそうです。でも、あの本に書いてあることは、普段主人が話していたことばかりですもの。」(山本夫人の証言)


2004年『日本人とユダヤ人』が角川oneテーマ21シリーズから(角川書店、2004年)が山本七平名で出版されたり、ベンダサン名で連載された「ベンダサン氏の日本歴史」(『諸君!』文芸春秋1973年1月以降22回掲載)が山本著『山本七平の日本の歴史』(ビジネス社、2005年)として単行本化されるなど、山本の死後10年以上経過してからはベンダサン名の著作が事実上山本のものとして扱われることが多い。
以上の証言から考えると、山本は、ほかの2人のアイディアのオリジナリティ(著作権)、言い換えればイザヤ・ベンダサンの独自性にこだわりを持っていたようである。しかし、そんな山本の思いとはうらはらに、現在では、ベンダサンの著作は、事実上山本の著作であるという考えが主流となっている。そのため、「大ベストセラーの著者・山本七平」という賞賛もあれば、「にせユダヤ人・山本七平」という批判もある。


==思想==
==思想==

2007年8月4日 (土) 03:43時点における版

山本 七平やまもと しちへい1921年12月18日 - 1991年12月10日)は、山本書店店主。評論家

経歴

年譜

1921年12月18日東京府荏原郡三軒茶屋(現在の東京都世田谷区三軒茶屋)で、クリスチャンの両親(山本文之助、山本八重)の間に長男として生まれる。名の「七平」は神の安息日(日曜)生まれから命名される。兄弟姉妹は姉2人と妹1人。

1937年青山学院教会洗礼を受ける。

1942年9月、太平洋戦争中のため、青山学院専門部高等商業学部を21歳で繰り上げ卒業する。10月、第二乙種合格で徴兵され、陸軍近衛野砲連隊へ入隊。その後、愛知県豊橋市の豊橋陸軍第一予備士官学校に入学する。

1944年5月、第103師団砲兵隊本部付陸軍砲兵見習士官(のち少尉)として門司を出航、ルソン島における戦闘に参加。1945年8月15日、ルソン島北端のアパリで終戦を迎える。同年9月16日、マニラの捕虜収容所に移送される。 1947年、帰国。

1956年、世田谷区の自宅で聖書学を専門とする出版社、山本書店株式会社を創業する。のち山本書店は新宿区市ヶ谷に移転。

1970年イザヤ・ベンダサン著『日本人とユダヤ人』を山本書店より発売する。

1979年、大平内閣の諮問機関「文化の時代」研究グループの議長を務める 。

1984年、中曽根内閣の諮問機関「臨時教育審議会」の第一部会専門委員を務める 。

1991年膵臓癌により自宅で死去した。遺骨の一部はイスラエルで散骨された。

受賞歴

1973年、第35回文芸春秋読者賞受賞

1981年、第29回菊池寛賞受賞

1989年、和歌山県文化表彰にて文化賞受賞


イザヤ・ベンダサンとの関係

山本による説明

当初『日本人とユダヤ人』の著者ではないかと言われることについて、山本は「私は著作権を持っていないので、著作権法に基づく著者の概念においては著者ではない」と述べる一方で、「私は『日本人とユダヤ人』において、エディターであることも、ある意味においてコンポーザーであることも否定したことはない。」とも述べている。(山本七平「ベンダサン氏と山本七平氏」『実業の日本』1977年10/1(1899号)49-50頁)

後に、1987年のPHP研究所主催の研究会では以下のように説明している。

山本書店を始めた頃に帝国ホテルのロビーを原稿の校正作業にしばしば使用していたら、フランク・ロイド・ライトのマニアということがきっかけでジョン・ジョセフ・ローラーとその友人ミンシャ・ホーレンスキーと親しくなった。
キリスト教が日本に普及しなのはなぜかという問題意識のもと3人でいろいろ資料を持ち寄って話し合っているうちにまとまった内容を本にしたのが『日本人とユダヤ人』である。
ベンダサン名での著作についてはローラーの離日後はホーレンスキーと山本の合作である。
ローラーは在日米軍の海外大学教育のため来日していたアメリカのメリーランド大学の教授で、1972年の大宅壮一ノンフィクション賞受賞式にはベンダサンの代理として出席した。
ホーレンスキーは特許関係の仕事をしているウィーン生まれのユダヤ人、妻は日本人。

(山本七平「一出版人の人生論」『Voice』PHP研究所、1992年3月、特別増刊山本七平追悼記念号、28-30頁)

山本死後の扱い

稲垣武は、上記研究会での説明および夫人の山本れい子の証言をもとに『怒りを抑えし者』(PHP研究所、1997年)「第9章ベンダサンとその時代」において、『日本人とユダヤ人』は、二人のユダヤ人(ローラーとホーレンスキー)との対話を参考とはしているが構成も文章も山本のものと結論付けている。

同様に、『山本七平ライブラリー』編集部もライブラリー13および14(文芸春秋、1997年)の奥付の初出一覧の脇に、ベンダサン名の諸作品はほぼ山本の著作、もしくは山本を中心とする複数の外国人との共同作業と考えられるというコメントを付している。

2004年『日本人とユダヤ人』が角川oneテーマ21シリーズから(角川書店、2004年)が山本七平名で出版されたり、ベンダサン名で連載された「ベンダサン氏の日本歴史」(『諸君!』文芸春秋1973年1月以降22回掲載)が山本著『山本七平の日本の歴史』(ビジネス社、2005年)として単行本化されるなど、山本の死後10年以上経過してからはベンダサン名の著作が事実上山本のものとして扱われることが多い。

思想

日本社会・日本文化日本人の行動様式を「空気」「実体語・空体語」といった概念を用いて分析した。その独自の業績を総称して「山本学」と呼ばれる。

山本は、『現人神の創作者たち』のあとがきで、「もの心がついて以来、内心においても、また外面的にも、常に『現人神』を意識し、これと対決せざるを得なかった」と語っている。山本は、クリスチャンであるだけでなく、母親の親族に大逆事件で処刑された大石誠之助をもっていた。これらのことが、山本の日本社会・日本文化・日本人に対する思考の原点であるといえよう。

その山本が、最も力を入れて執筆した作品が、『現人神の創作者たち』と『洪思翊中将の処刑』である。前者は、「そんなに打ち込んでは命がもたないよ」と言われながら執筆されたものであり、後者は、「一番書きたいものを書いてくれ」と請われて執筆したものであった。

『現人神の創作者たち』は、題名の通り、いかにして尊皇思想が生まれたかを探求した作品である。山本は、日本に亡命してきたの儒学者朱舜水を起点とし、山崎闇斎浅見絅斎安積澹泊栗山潜峰三宅観瀾らの議論を追いながら、どのように尊皇思想が形成されていく様子を描いた。そして、その尊皇思想が、社会全体にどのような影響を与えたかを、元禄赤穂事件をめぐる当時の言論状況をたどることであきらかにしたのであった。山本は、尊皇思想の影響は今もなお残っているのだと語っている。

『洪思翊中将の処刑』は、朝鮮人でありながら、帝国陸軍で中将まで昇進した洪中将を扱った作品である。洪は、中将に昇進したことからもわかるように、帝国陸軍の優秀な軍人である一方で、抗日運動家と秘密裡に関係を持ち、その家族を支援するなど(自身が抗日運動に参加することは拒んでいる)、きわめて複雑な生き方を強いられた人物であった。山本の洪に対する執着の理由のひとつは、そこにあったと思われる。洪は、太平洋戦争後、戦犯として処刑されるが、軍事法廷において一言も発することはなかった。山本は、この作品で、その沈黙の意味をあきらかにしようとしたのであった。

評価

山本は、その評価をめぐっては賛否が激しく分かれており、きわめて毀誉褒貶の激しい人物といえよう。

死後10年以上経った現在でも、著作が復刻されたり、文庫・新書化されたりすることがあらわしているように、山本の著作は今なお読者を惹きつけている。惹きつけられた人々にとって、山本は日本社会・文化に対する深い洞察を示した人物ということになろう。

その一方で、山本の著作には記憶にたよった不正確な引用や、出所のあきらかでないエピソードの披露などが多く、評論家としては信用に値しないと考える人間もまた少なくない。その中には、山本は読者をあざむくために意図的・積極的に虚偽の事実を示しており、ほとんど詐欺師に近い人物であると考えるものもいる。浅見定雄は、『にせユダヤ人と日本人』において、山本をそのような人物として批判している。

具体的な批判

  • 『私の中の日本軍』において、自らの軍隊経験から、日本刀は2~3人切ると使い物にならなくなると主張した。しかし、これについては、日本軍の特に質の悪い日本刀に限った話であり、本来の日本刀の性能について誤解を招くものだという批判がある。さらに、同書における『戦ふ日本刀』からの引用は、自説に都合の良い部分のみを引用した不正確なものだという批判もある。ちなみに日本刀を用いた通り魔殺人事件が1985年9月19日下関で起きているが、山口大学医学部付属病院精神科に通院していた犯人(当事37歳)は、亡くなった父親が箪笥にしまっていた日本刀を持ち出し母親ら4人を殺害、さらに6人に重症を負わせている。また、本多勝一とのいわゆる百人斬り競争における論議で、彼はイザヤ・ベンダサンの名義のまま、山本七平の持論である「日本刀は2~3人斬ると使い物にならなくなる」という誤った論理を中心に本多を批判した。この論理はこの論争の後に一般に広がるものの、この理論がユダヤ人からわざわざ「ヒントをもらった」とは考えにくい。
  • 自分が外国人であると言い、発言に重みを増す行為はヤン・デンマンポール・ボネなども行っていたとされる。また、『醜い韓国人』の著者が韓国人ではなく日本人ではないかと言われた際にも、韓国側から当時公然の秘密であったイザヤ・ベンダサンの事例が提示され(雑誌SAPIO)日本の出版界の体質が批判された。(『醜い韓国人』は韓国人協力者はいるものの、韓国人なら当然知っているような事柄にも誤りがあり、ほとんどの内容は加瀬英明が書いたものとされている)
  • 浅見定雄は、『にせユダヤ人と日本人』において、『日本人とユダヤ人』における翻訳の誤りを指摘し(たとえば、聖書の「蒼ざめた馬」を山本は間違った訳であると言うが、これは正しい訳であるなど)、山本の語学力の低さを批判した。山本が訳者となった、浅見自身の師である聖書学者の著書を題材に、山本が高校生レベルの英文を理解できず、明らかな誤訳をしていることも具体的に示し、「ヘブル語アラム語はおろか、英語もろくに読めない」人物だと批判した。また浅見によると『日本人とユダヤ人』によって、一般の人に広く広がっていった「ユダヤ人は全員一致は無効」という話も、実は完全な嘘あるいは間違いであり、「こんな無知な人が何をどう言おうとも、現代イスラエル国の裁判所や国会で全員一致が無効とされるわけではなく、また世界各地のユダヤ人が、さまざまな集会から家族会議まで、あらゆる生活場面で全員一致をやっている事実が消えてなくなるわけでもない」と批判した。また「ニューヨークの老ユダヤ人夫婦の高級ホテル暮らし」というエピソードも、実際にはあり得ない話で、「この話は全部、一つ残らず、まったく、ウソ」であることも明らかにした。英語版(リチャード・ゲイジ訳)の『日本人とユダヤ人』からは完全にこのエピソードはカットされている。アメリカ人には全くあり得ない話と感じる内容だからカットされたわけで、このような状態で「ユダヤ人」からヒントを得たというのは、きわめて疑問であるとする人もいる。あるホステルの主人が、ユダヤ人を「においで嗅ぎ分けた」という話や、「関東大震災で朝鮮人が虐殺されたのは、体臭が違うからと語った老婦人」なども、山本が捏ち上げた作り話だと断じた。この他にも、浅見により数多くの誤りが指摘されている。

主要著書

1.日本人の行動原理について考察したもの

『「空気」の研究』文芸春秋、1977年(山本七平ライブラリー1所収)
『日本資本主義の精神』光文社、1979年(山本七平ライブラリー9所収)
『勤勉の哲学』PHP研究所、1979年(山本七平ライブラリー11所収)
『現人神の創作者たち』文芸春秋、1983年(山本七平ライブラリー12所収)
『日本的革命の哲学』PHP研究所、1982年
『日本人とは何か。(上、下)』PHP研究所、1989年
『山本七平の日本の歴史(上、下)』ビジネス社、2005年
『受容と排除の軌跡』主婦の友社、1978年(山本七平ライブラリー11所収)
山本七平・小室直樹『日本教の社会学』講談社、1981年(山本七平全対話4所収)
山本七平・岸田秀『日本人と「日本病」について』文芸春秋、1980年(山本七平全対話5所収)

2.自らの軍隊経験を中心に述べたもの

『ある異常体験者の偏見』文芸春秋、1974年(山本七平ライブラリー7所収)
『私の中の日本軍(上、下)』文芸春秋、1975年(山本七平ライブラリー2所収)
『一下級将校の見た帝国陸軍』朝日新聞社、1984年(山本七平ライブラリー7所収)

3.評伝

『洪思翊中将の処刑』文芸春秋、1986年(山本七平ライブラリー8所収)
『昭和天皇の研究』祥伝社、1989年
『徳川家康』プレジデント社、1992年(山本七平ライブラリー6所収)
『江戸時代の先覚者たち』PHP研究所(山本七平ライブラリー9所収)

4.中国古典に関するもの

『論語の読み方』祥伝社、1981年(山本七平ライブラリー10所収)
『参謀学-「孫子」の読み方』日本経済新聞社、1986年(山本七平ライブラリー3所収)
『帝王学-「貞観政要」の読み方』日本経済新聞社、1983年(山本七平ライブラリー3所収)
『指導力-「宋名臣言行録」の読み方』日本経済新聞社、1986年(山本七平ライブラリー3所収)

5.コラム・時事評論

『「あたりまえ」の研究』ダイヤモンド社、1981年(山本七平ライブラリー1所収)
『「常識」の研究』日本経済新聞社、1981年(山本七平ライブラリー4所収)
『「常識」の非常識』日本経済新聞社、1986年(山本七平ライブラリー4所収)
『「常識」の落とし穴』日本経済新聞社、1989年(山本七平ライブラリー4所収)
『時評「にっぽん人」』読売新聞社、1981年
『無所属の時間』旺史社、1975年
『日本人的発想と政治文化』日本書籍、1979年

6.聖書・キリスト教関連

『聖書の常識』講談社、1980年(山本七平ライブラリー15所収)
『山本七平の旧約聖書物語』三省堂、1984年
山本七平、山本れい子、山本良樹『山本家のイエス伝』山本書店、1996年

7.その他

『人間集団における人望の研究』祥伝社、1983年(山本七平ライブラリー10所収)
『存亡の条件』ダイヤモンド社、1975年
『静かなる細き声』PHP研究所、1992年(山本七平ライブラリー16所収)
『危機の日本人』角川書店、1986年
『日本はなぜ敗れるのか-敗因21か条』角川書店、2004年
『人生について』PHP研究所、1994年
『宗教について』PHP研究所、1995年
『比較文化論の試み』富山県教育委員会、1975年
『日本人の人生観』講談社、1978年
『現代の超克』ダイヤモンド社、1977年
『日本型リーダーの条件』講談社、1987年
『空想紀行』講談社、1981年
山本七平・山本良樹『父と息子の往復書簡』日本経済新聞社、1991年
山本七平・山本夏彦『意地悪は死なず』講談社、1984年
山本七平・山本夏彦『夏彦・七平の十八番づくし』サンケイ出版、1983年

8.全集

『山本七平ライブラリー1-16』文芸春秋、1997年
『山本七平全対話1-8』学習研究社、1984-1985年
  • 日本人とユダヤ人
  • 日本教について
  • にっぽんの商人
  • 日本教徒

参考文献

関連項目

外部リンク