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「新京特別市」の版間の差分

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[[Image:Manchukuo_Hsinking_avenue.jpg|right|thumb|250px|大同大街]]
[[ファイル:Manchukuo_Hsinking_avenue.jpg|thumb|大同大街。中央は康徳会館、左手前は三中井百貨店。]]
[[Image:Manchukuo Hsinking station.jpg|thumb|right|250px|1934年の新京駅 駅名版に漢字・ローマ字・キリル文字書かれている。日本語・中国語・英語・モンゴル語・ロシア語に対応できるようになっている。]]
[[ファイル:Manchukuo Hsinking station.jpg|thumb|新京駅の[[駅名標]]は[[漢字]][[ローマ字]][[キリル文字]]で書かれており、[[日本語]][[中国語]][[英語]][[モンゴル語]][[ロシア語]]に対応る。]]
'''新京'''(しんきょう)は[[満州国]]の[[首都]]。'''新京特別市'''。現在の[[中華人民共和国]][[吉林省]][[長春市]]にあたる。
'''新京'''(しんきょう)は[[満州国|満洲国]]の[[首都]]。'''新京特別市'''。現在の[[中華人民共和国]][[吉林省]][[長春市]]にあたる。

== 概要 ==
[[ファイル:Symbol_of_Hsinking_Manchukuo.svg|thumb|新京特別市[[記章|徽章]]。1932年(大同元年)9月20日規定<ref>『満洲国政府広報日譯』第53号、1932年(大同元年)10月7日、14頁</ref>。]]

満洲国建国直後の[[1932年]]([[大同 (満州)|大同]]元年)3月9日、長春に於いて建国式典及び[[清]]朝最後の[[皇帝]]・[[愛新覚羅溥儀]]の執政就任式が執り行われた。翌3月10日、[[満州国国務院|満洲国国務院]]は満洲国の国都(首都)を長春に定め<ref name="国務院布告第1号">大同元年4月1日国務院佈告第1号「満洲国国都ヲ長春ニ奠ム」(大同元年3月10日)</ref>、3月14日には国都長春を新[[国家]]の首都に相応しい名称として「'''新京'''」と命名し<ref name="国務院布告第2号">大同元年4月1日国務院布告第2号「国都長春ヲ新京ト命名ス」(大同元年3月14日)</ref>、'''新京特別市'''が誕生した。なお、民政部では1932年(大同元年)5月24日に発令した「衛生調査事項ニ関スル件」(大同元年民政部[[訓令]]第62号)まで旧称の「長春特別市」が使用され、同日発令の「事変時死亡老幼孤児寡婦調査表製発ノ件」(大同元年民政部訓令第61号)以降(大同元年民政部訓令第62号を除く)は「新京特別市」及び「新京特別市政公署」が使用されている<ref>『満洲年鑑』等では「新京市政公署」の記述も見られる。</ref>。同年8月17日の「特別市制」(大同元年8月17日教令第77号)施行及び、翌1933年(大同2年)4月19日の「特別市指定ニ関スル件」(大同2年4月19日教令第23号)により、改めて[[満州国の地方行政区画|満洲国の地方行政区画]]に於ける'''新京特別市'''が成立した。

新京は[[太平洋戦争]]の終結まで[[日本]]からの[[投資]]、及び満洲国政府・新京特別市公署による大規模な国都建設事業が展開され、[[日本人]]移民を含めた満洲各地からの移住者により繁栄し、人口も[[1936年]]([[康徳]]3年)10月時点で30万2千人、[[1940年]](康徳7年)10月時点で55万5千人、[[1942年]](康徳9年)4月時点で65万5千人と増加の一途を辿り、[[1944年]](康徳11年)には86万3千人<ref>『満洲年鑑』昭和20年(康徳12年)版、1944年、389頁</ref>を擁する大都市に発展した。

[[1945年]](康徳12年)、[[日ソ中立条約]]を一方的に破棄した[[ソビエト連邦]]による満洲侵攻と日本の太平洋戦争敗戦により、[[8月18日]]に[[満州国皇帝|満洲国皇帝]]・溥儀が退位して満洲国は滅亡し、新京は[[8月20日]]に[[赤軍]]([[ソビエト連邦軍]])に占領され軍政下に置かれた。12月20日、[[中華民国]][[国民政府]]により旧称の長春に改称されて現在に至っている。

== 位置と地勢 ==
新京は満洲国の中央部、[[吉林省 (満州国)|吉林省]]長春縣内にあり、北緯43度55分、東経125度18分、海抜214メートルに位置した。緯度は日本の[[旭川市|旭川]]、経度は[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]の[[新義州市|新義州]]付近に相当し、標高は[[山梨県]][[甲府市]]付近に匹敵する<ref>新京商工公会刊『新京の概況 建国十周年記念発刊』2頁 </ref>。

市街東部を[[伊通河]]が北流し、飲馬河と陶頼昭付近で合流して第二[[松花江]]に注いでいる。新京は北満平野の南端に位置し、周囲には広漠たる沃野が展開した。南東方向には石碑嶺の連丘を望み、南西には懐徳から[[公主嶺市|公主嶺]]を経て伊通付近に及ぶ丘陵が起伏し、これらは満洲を南北に分かつ[[分水嶺]]を構成している。


== 沿革 ==
== 沿革 ==
ここでは新京特別市成立以前及び満洲国崩壊後の「長春」の沿革も併せて記述する<ref>新京特別市公署『新京市政概要』12-13頁、新京商工公会刊『新京の概況 建国十周年記念発刊』1-7頁、『満洲年鑑』昭和20年(康徳12年)版 389-390頁、他を参照。</ref><ref>吉長道伊公署の改称年等、幾つかの記述は実際と異なるが、前掲資料に基づいた。</ref>。
満州国建国直後の[[1932年]]([[大同 (満州)|大同]]元年)3月10日、[[満州国国務院]]は長春県の市街部に長春特別市を設置するとともに、満州国国都(首都)を長春と定め<ref>大同元年4月1日国務院佈告第1号</ref>、同14日には長春を新[[国家]]の首都に相応しい名称として「'''新京'''」と命名し<ref>大同元年4月1日国務院佈告第2号</ref>、同年6月までに改称した<ref>5月24日に発令された『民生部訓令第62号』では長春特別市の名称が使用され、6月3日発令の『民生部訓令第84号』では新京特別市公所の名称が使用されていることからこの期間中に改称されたと考えられる。</ref>。同年8月17日には特別市制を施行<ref>『満州国政府公報』第36号、1932年8月17日</ref>、翌[[1933年]](大同2年)4月19日に'''新京特別市'''が誕生した。


* [[1800年]]([[嘉慶 (清)|嘉慶]]5年) 吉林将軍管轄下の「長春廳(庁)」が長春堡(新立屯)に設置され、理事通判を駐箚させる。
新京は[[太平洋戦争]]の終結まで日本の[[投資]]による大規模な建設事業などが展開され、[[内地]]から多くの[[日本人]]も移住して繁栄した。
* [[1825年]]([[道光]]5年) 長春庁の所在地が南に偏在していたため、北方の寛城子(後の長春城)へ移転する。
* [[1882年]]([[光緒]]8年) 理事通判を廃止して撫民通判が置かれる。
* [[1889年]](光緒15年) 長春庁が長春府に昇格し、知府が置かれる。
* [[1908年]](光緒34年) 吉林兵備道台が設けられ、長春府及び伊通州を行政下に置く。
* [[1909年]]([[宣統]]元年)
** 満鉄附属地と城内の間に商埠地が画定され、その一般行政を管掌するために商埠局が設置される。
** 吉林兵備道台が吉林西南路観察使と改称され、農安、長嶺、徳恵の3縣をその管内に加える。
* [[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年) 観察使を道伊と改め、[[吉長道|吉長道伊公署]]と改称する。
* [[1913年]](民国2年) 長春府を長春縣と改称し、縣公署を設置する。
* [[1925年]](民国14年) 当時の道伊が新たに「長春市政公所」を設立し、「市自治制」による市制を企画する。
* [[1929年]](民国18年)
** 9月、長春市政公所が商埠局を合併し「長春市政準備処」と改称する。
** 道伊公署の廃止により長春交渉員(長春市政準備処長を兼任)が配置され、城内及び商埠地を行政下に置く。
* [[1932年]](民国21年/大同元年)
** 1月1日 - 軍閥政権消滅に伴い、長春市政準備処は「長春市政府」と改称し、'''長春市'''が正式に成立する(後に'''長春特別市'''と改称)。
** 3月10日 - 満洲国国都が長春に定められる<ref name="国務院布告第1号" />。
** 3月14日 - 長春が新京と改称<ref name="国務院布告第2号" />されたのに伴い、長春市政府は「新京特別市政公署」と改称し、'''新京特別市'''が成立する。
** 8月17日 - 「特別市制」(大同元年8月17日教令第77号)を公布。
** 10月15日 - 首都警察庁が正式成立し、長春市公安局及び長春縣公安局を統合する<ref name="首都警察">首都警察廳正式成立ノ件(大同元年10月18日民政部訓令第286号)</ref>。
** 11月1日 新京に於ける各郵電局台の名称を「長春」から「新京」に改称する<ref>「大同元年十一月一日ヨリ新京ノ各郵電局台ノ名称ヲ改ムル件」(大同元年10月22日交通部佈告第3号)</ref>。また、満鉄附属地側も新京と称するようになる<ref>それまでは住所表記等で、依然「長春」の名称が使用されていた。</ref>。
* [[1933年]](大同2年)4月19日 - 特別市政実施に伴い、新京特別市政公署は「新京特別市公署」と改称する。
* [[1936年]](康徳3年)2月1日 - 北満特別区公署の廃止に伴い、寛城子を編入する。
* [[1937年]](康徳4年)
** 10月1日 - 行政区域の拡大に伴い、[[双陽区|双陽縣]]及び長春縣の一部を編入する<ref>「新京特別市区域ニ関スル件」(康徳4年9月30日勅令第280号)</ref>。
** 12月1日 - 治外法権撤廃により満鉄附属地の行政権が移譲される<ref name="康徳4年勅令第401号">「新京特別市ノ区域ニ関スル件」(康徳4年12月1日勅令第401号)</ref>。市区条例の実施に伴い、18区(市街区12区・農村区6区)を設置する。
* [[1940年]](康徳7年)1月1日 - 14区(市街区8区・農村区6区)に改編する。
* [[1942年]](康徳9年)1月1日 - 16区(市街区10区・農村区6区)に改編する。
* [[1943年]](康徳10年)6月1日 - 行政区域の拡大に伴い、通陽縣<ref>[[1941年]](康徳8年)1月1日に双陽縣と伊通縣を廃止して通陽縣が設置された。</ref>及び長春縣の一部を編入し<ref>「新京特別市竝ニ吉林省長春縣及通陽縣ノ区域変更ノ件」(康徳10年6月1日勅令第172号)</ref>、18区(市街区10区・農村区8区)に改編する。
* [[1945年]](康徳12年/民国34年)
** 8月20日 - 赤軍(ソビエト連邦軍)に占領されて軍政下に置かれる。
** 12月20日 - 中華民国国民政府により長春市政府が設置され、旧称の長春市に改称される(新京特別市の消滅)。


== 市街整備 ==
== 人口 ==
=== 建国前の人口 ===
満州国国務院は移住してくる日本人のため新京市内を案内する[[小冊子|パンフレット]]を製作し、[[宣伝]]に努めた。新京の建設にあたっては[[佐野利器]]など[[後藤新平]]の弟子筋の[[技術]][[官僚]]が多く活躍した。ほとんど更地からの建設だったため[[土地]][[利権]]といったしがらみがなく、新技術を何の障壁もなく投入して建設でき、上下[[水道]]始め社会基盤([[インフラストラクチャー|インフラ]])は内地に比べ立派に整備された。敷設された[[道路]]の道幅は非常に広く、狭いといわれた道でさえ[[自動車]]同士がすれ違える程だった。
満洲国建国以前の人口は、[[1930年]](民国19年)3月末の統計で、城内約46,000人、商埠地約44,000人の計約9万人とされた。[[1931年]](民国20年)12月末の統計で、満鉄附属地は32,636人、寛城子附属地は4,493人であり、合計しても約13万人に過ぎなかった<ref>国務院国都建設局『國都大新京』</ref>。新京[[奠都]]後は満洲国政府官吏とその家族を始め、土木建設業者や商工業者が集中する事により人口の増加が著しくなった。


=== 建国後の人口 ===
[[1945年]]([[康徳]]12年)[[8月]]、日本の太平洋戦争敗戦と[[ソビエト連邦|ソ連]]侵攻に伴う満州国の崩壊に伴い、市名は長春に戻され現在に至っている。
1933年(大同2年)4月15日に臨時戸口調査を実施し、その時点で人口は126,309人(附属地を除く)だった。1934年(康徳元年)3月の首都警察庁の調査によると、総人口は141,712名(同)に増加した<ref>新京特別市公署『新京市政概要』7頁</ref>。その後も人口は増え続け、1936年(康徳3年)10月末に302,075人(附属地含む)、1942年(康徳9年)4月には655,324人(同)に達した。1944年(康徳11年)には863,607人(同)に達している。


なお、満洲国では[[国籍法]]が制定されなかったため、下記の「満洲人」は[[暫行民籍法]]に於ける[[漢民族|漢族]]、[[満州民族|満洲族]]、[[モンゴル族|蒙古族]]の総称である。また「日本人」は内地人(沖縄含む)を指し、[[朝鮮半島]]出身者は「[[朝鮮人]]」又は「半島人」と表記する。外国人・その他は[[ロシア人]]を含む第三国人、民族不明は満洲人だが民族が判らない者である。
[[Image:Hsinking01.jpg|thumb|left|新京市地図(1932年)]]

== 行政区画 ==
==== 1933年 ====
[[1941年]]([[康徳]]8年)段階の下部行政区
{|class="wikitable" style="text-align:right; width:25em; float:left"
;[[長春区]]、[[順天区]]、[[寛城区]]、[[敷島区]]、[[吉野区]]、[[東光区]]、[[承徳区]]、[[恵仁区]]、[[和順区]]、[[浄月区]]、[[大屯区]]、[[大経区]]、[[北河東区]]
|+ 城内及び商埠地人口(大同2年4月15日:特別市調査)<ref name="新京案内">新京特別市公署『新京案内』9-10頁</ref>
|-
! 内訳 !! 合計 !! 男 !! 女
|-
! 総人口
| 126,309人
| 77,197人
| 49,112人
|-
! 満洲人
| 122,040人
| 74,463人
| 47,577人
|-
! 日本人
| 1,519人
| 1,064人
| 455人
|-
! 朝鮮人
| 1,234人
| 663人
| 571人
|-
! 外国人
| 69人
| 48人
| 21人
|-
! 民族不明
| 1,447人
| 959人
| 488人
|}
{|class="wikitable" style="text-align:right; width:25em; float:left"
|+ 附属地人口(大同2年3月末:新京日本警察署調査)<ref name="新京案内"/>
|-
! 内訳 !! 合計 !! 男 !! 女
|-
! 総人口
| 42,677人
| 28,144人
| 14,533人
|-
! 満洲人
| 22,165人
| 16,869人
| 5,296人
|-
! 日本人
| 17,288人
| 9,539人
| 7,749人
|-
! 朝鮮人
| 2,765人
| 1,501人
| 1,264人
|-
! 外国人
| 459人
| 235人
| 224人
|}
<br style="clear:both"/>

==== 1934年 ====
{|class="wikitable" style="text-align:right; width:25em; float:left"
|+ 首都警察庁管内人口(康徳元年9月末)<ref name="新京市政概要">新京特別市公署『新京市政概要』7-11頁</ref>
|-
! 内訳 !! 合計 !! 男 !! 女
|-
! 総人口
| 145,436人
| 88,542人
| 56,894人
|-
! 満洲人
| 139,302人
| 85,054人
| 54,257人
|-
! 日本人
| 4,418人
| 2,591人
| 1,827人
|-
! 朝鮮人
| 1,678人
| 892人
| 786人
|-
! 外国人
| 38人
| 14人
| 24人
|}
{|class="wikitable" style="text-align:right; width:25em; float:left"
|+ 附属地人口(昭和9年9月末:新京日本警察署調査)<ref name="新京市政概要"/>
|-
! 内訳 !! 合計 !! 男 !! 女
|-
! 総人口
| 58,459人
| 39,648人
| 18,811人
|-
! 満洲人
| 26,288人
| 21,214人
| 5,074人
|-
! 日本人
| 29,268人
| 16,721人
| 12,547人
|-
! 朝鮮人
| 2,525人
| 1,517人
| 1,008人
|-
! 外国人
| 378人
| 196人
| 182人
|}
<br style="clear:both"/>

==== 1936年 ====
{|class="wikitable" style="text-align:right; width:25em"
|+ 民政部調査(全満洲人口調査:康徳3年10月末)<ref>満州日日新聞、1937年1月16日</ref>
|-
! 内訳 !! 合計 !! 特別市 !! 附属地
|-
! 新京全体
| 302,075人
| 237,723人
| 64,352人
|-
! 満洲人
| 236,825人
| 209,991人
| 26,834人
|-
! 日本人
| 57,663人
| 23,707人
| 33,956人
|-
! 朝鮮人
| 6.806人
| 3,531人
| 3,275人
|-
! 外国人
| 781人
| 494人
| 287人
|}

==== 1942年 ====
{|class="wikitable" style="text-align:right; width:25em"
|+ 新京特別市民族別人口表(康徳9年4月20日時点)<ref>新京商工公会刊『新京の概況 建国十周年記念発刊』18-19頁</ref>
! 内訳 !! 人口
|-
! 総人口
| 655,324人
|-
! 満洲人
| 506,768人
|-
! 日本人(朝鮮人含む)
| 147,724人
|-
! その他(蒙露を含む)
| 728人
|}

==== 1944年 ====
{|class="wikitable" style="text-align:right; width:25em"
|+ 新京特別市民族別人口表(康徳11年11月25日時点)<ref>『満洲年鑑』昭和20年(康徳12年)版、1944年、389頁</ref>
! 内訳 !! 人口
|-
! 総人口
| 863,607人
|-
! 満洲人
| 680,216人
|-
! 日本人
| 153,614人
|-
! 半島人
| 29,185人
|-
! その他
| 592人
|}

== 特別市制 ==
新京は、満洲国内で唯一の[[特別市]]であり、地方都市がそれぞれの省及び縣の管轄に属しているのに対し、新京特別市は省と同格とされ、直接国家の監督を受け省及び縣の行政範囲に属さなかった<ref>特別市制(大同元年8月17日教令第77号)第1条「特別市ハ法人トシテ直接国ノ監督ヲ承ケ省ノ行政範囲ニ入ラス(後略)」</ref><ref>自治縣制(大同元年7月5日教令第55号)第2条「縣ハ特別市ヲ包含セス」。</ref>。なお、長春縣に新京特別市は含まれないが、長春縣公署は新京特別市内に置かれている。

ちなみに、1933年(大同2年)7月1日から2年間、[[ハルビン市|哈爾濱特別市]]が存在していたが<ref>「特別市指定ニ関スル件」(大同2年6月21日教令第51号)</ref>、1937年(康徳4年)7月1日に[[浜江省|濱江省]]管轄の普通市に改編されている<ref>「特別市指定ニ関スル件廃止ニ関スル件」(康徳4年6月27日勅令第142号)</ref>。

1933年(大同元年)8月17日の「特別市制」(大同元年教令第77号)施行により、[[満州国の地方行政区画|満洲国の行政区分]]に於ける「特別市」が規定されたが、第2条「特別市ノ区域ハ別ニ之ヲ定ム」、第49条「特別市ハ教令ヲ以テ別ニ之ヲ指定ス」により特別市は別途指定されるとされた。そのため、1933年(大同2年)4月19日の「特別市指定ニ関スル件」(大同2年教令第23号)で新京が特別市に指定されて特別市区域が定められるまで、厳密には新京は満洲国の行政区分に於ける「特別市」には当たらない<ref>長春が特別市と称したため「新京」に改称後も特別市と称していた。1933年(大同2年)7月1日以前の哈爾濱特別市も同様。</ref>。1937年(康徳4年)10月1日の「新京特別市制」(康徳4年9月30日勅令第279号)施行により「特別市制」は廃止され、改めて新京のみが特別市に指定されている。

== 特別市区域 ==
[[ファイル:新京国都建設計画区域.jpg|thumb|新京特別市区域及び国都建設計画略図(1936年)]]
新京特別市の区域(国都建設計画区域)は、1933年(大同2年)の「特別市指定ニ関スル件」(大同2年教令第23号)により次の地域と定められた([[現代仮名遣い]]に改めて[[句読点]]を追加。原文では「km」は「粁」と表記)。

* 大同広場より北西7.6kmの崔家営子を北西端とし、之より東の上白子を経て約9kmの金銭堡を東北端の地点とする。
* 金銭堡より南1.9km、王家皮舗を経て東1.5km、八里堡より南の吉林街道に至り、十里堡、靠山屯を経て更に南の柳貫竇子に至る。
* 柳貫竇子より南10.5km、四河腰、逯家窩棚、三家子及び呉家店を経て西十里堡を南東端の地点とする。
* 西十里堡より西の小朝陽溝を経て無名河に至る6.3kmの地点を南西端とする。
* 南西端より北へ三家子、司家屯、二十五里堡、五弧林、大隋窩堡、李家屯、范家店、火李子及び車家窩棚を経て北西端の崔家営子に至る。

大同広場を中心に、南方は高野店付近の丘陵地、東方は石碑嶺付近、西方は小隋窩棚に及ぶ200km²の長方[[多角形]]の地域が特別市区域とされたが、その後、1937年(康徳4年)の「新京特別市制」(康徳4年勅令第279号)施行に伴い「大同2年教令第23号特別市指定ニ関スル件」は廃止され、以降は「新京特別市区域ニ関スル件」(康徳4年勅令第280号)等の[[勅令]]の別図([[地図]])によって市域が示されるようになった。なお「新京特別市竝ニ吉林省長春縣及通陽縣ノ区域変更ノ件」(康徳10年6月1日勅令第172号)では文章で市域が示されており、別図は付属しない。

== 行政範囲 ==
前述の通り、新京の行政範囲は1933年(大同2年)時点で近郊を含めて200km²(6500万[[坪]])に及び、従来の行政範囲である城内及び商埠地の約300余万坪と比較して約20倍に拡大された。1933年(大同2年)当時の城内、商埠地、満鉄附属地及び寛城子の面積は次の通りである<ref>新京特別市公署『新京市政概要』6頁</ref>。

{|class="wikitable"
! 市街地名
! 面積
|-
| 城内
| 1,755,160坪
|-
| 商埠地
| 1,631,982坪
|-
| 満鉄附属地
| 1,528,118坪
|-
| 寛城子
| 1,674,000坪
|}

1937年(康徳4年)10月の「新京特別市区域ニ関スル件」(康徳4年9月30日勅令第280号)で双陽・長春両縣の一部を編入して市域が大幅に拡張され、同年12月の満鉄附属地の移譲<ref name="康徳4年勅令第401号"/>により総面積は437.65km²となった。1942年(康徳9年)4月20日時点では444.19km²まで拡張されている。当時の全市域の面積を大別すると、旧附属地6.24km²、旧市街(寛城子を含む)17.88km²、新市街地83.33km²、農村地区(長春縣管内より130km²、通陽縣管内より107km²)336.74km²、合計444.19km²となっている。

[[1943年]](康徳10年)6月1日、[[建国神廟]]造営用地の決定に伴う行政区域の拡大に伴い、通陽縣及び長春縣の一部を編入して勧農区・春陽区を設置し、市域は938.29km²まで拡張された<ref>『満洲年鑑』昭和20年(康徳12年)版(1944年、390頁)による。『満洲年鑑』昭和19年(康徳11年)版(1943年、408頁)では772.44km²と記されている。</ref>。

=== 行政区 ===
市区条例の実施に伴い、新京特別市の市域を複数の行政区に分け、それぞれに区長を設置した(「新京特別市制」第13条)。当初、区長は[[名誉職]]のため無給だったが、後に一部は有給となっている。

* 1937年:吉野、興安、敷島、寛城、大経、長春、和順、順天、東光、東站、承徳、恵仁の12市街区、合隆、大屯、南河東、北河東、双徳、浄月の6農村区を設ける。
* 1940年:敷島、寛城、長春、和順、順天、東光、承徳、恵仁の8市街区、合隆、大屯、南河東、北河東、双徳、浄月の6農村区に改編。
* 1942年:敷島、寛城、長春、和順、順天、東光、西陽、安民、大同、東栄の10市街区、合隆、大屯、南河東、北河東、双徳、浄月の6農村区に改編。
* 1943年:敷島、寛城、長春、和順、順天、東光、西陽、安民、大同、東栄の10市街区、合隆、大屯、南河東、北河東、双徳、浄月、勧農、春陽の8農村区に改編。

下記は1942年(康徳9年)4月20日時点に於ける各区の面積と人口を記したものである<ref>新京商工公会刊『新京の概況 建国十周年記念発刊』16-17頁</ref>。

{|class="wikitable" style="text-align:right;"
|+ 各区別面積及び人口表
! 区名 !! 面積(km²)!! 人口(名)
|-
| 大同区 || 3.570 || 107,128
|-
| 長春区 || 3.960 || 139,726
|-
| 敷島区 || 4.960 || 67,603
|-
| 寛城区 || 11.900 || 25,221
|-
| 東光区 || 15.920 || 27,720
|-
| 順天区 || 8.640 || 59,962
|-
| 安民区 || 21.700 || 8,079
|-
| 西陽区 || 18.260 || 4,715
|-
| 和順区 || 10.320 || 83,757
|-
| 東栄区 || 8.520 || 41,805
|-
| 浄月区 ||124.010 || 15,938
|-
| 双徳区 || 50.120 || 12,785
|-
| 大屯区 || 34.230 || 16,251
|-
| 合隆区 || 39.310 || 36,990
|-
|南河東区|| 50.760 || 9,381
|-
|北河東区|| 38.310 || 8,803
|-
| 合計 ||444.190 || 655,324
|}

浄月区の面積が広大なのは、新京の[[水源]]として設けられた[[:zh:净月潭|浄月潭]]貯水池(貯水面積4.7km²)とその[[水源林]]を含むためである。

== 行政組織 ==
=== 一般行政 ===
1932年(大同元年)の「特別市制」(大同元年8月17日教令第77号)により、市長の下に総務処、行政処、工務処が設けられ、この他に議決機関として特別市自治委員会が設けられるとされた。その後1937年(康徳4年)の「新京特別市官制」(康徳4年6月27日勅令第179号)により、市長の下に副市長1人、処長5人が設置され、その下に官房、行政処、財務処、衛生処、工務処が設けられ、特別市自治委員会は廃止されている。その後、市行政機構改革により、市長の下に副市長が置かれ、その下に官房、行政処、実業処、衛生処、工務処、水道処が設置された。

また市政補助行政部門について、「新京特別市制」第13条による市政補助機関として区長が置かれ、区長の下に町(屯)会長を置いている。この下部組織は、1937年(康徳4年)12月1日の満鉄附属地の行政権移譲<ref name="康徳4年勅令第401号"/>を契機として、首都警察庁、[[満州国協和会|満洲国協和会]]と図り、[[保甲制度]]の廃止に伴い実施された。[[1941年]](康徳8年)2月、在来の町会を発展的解消して、協和会分会を以って町会事務を運営するよう改められた。

なお、満洲国建国当初、満鉄附属地の一般行政は[[南満州鉄道|南満洲鉄道]]長春地方事務所(後に新京地方事務所と改称)が所管していたが、1937年(康徳4年)12月に治外法権が撤廃されると、正式に新京特別市の行政区域に組み込まれた<ref name="康徳4年勅令第401号"/>。

=== 警察組織 ===
城内及び商埠地の[[治安]]維持は、長春市長監督の下に長春市公安局が一般[[警察]]事務を担当し、また長春縣知事の指揮を受けた長春縣公安局が縣内の警察事務を司っていたが、1932年(大同元年)6月の「首都警察廳(庁)官制」(大同元年6月11日教令第29号)により同年10月に首都警察庁が正式に成立し<ref name="首都警察" />、新京特別市及び長春縣内を管掌する事となった<ref>後に「首都警察廳官制中改正ノ件」(康徳4年9月30日勅令第282号)により、新京特別市のみを管轄とした。</ref>。首都警察庁は民政部直轄として新京特別市の警察、消防、警護に関する事項を管掌したが<ref>「首都警察廳官制」(大同元年6月11日教令第29号)第2条及び第4条</ref>、1940年(康徳7年)10月の「首都警察廳官制」(康徳7年10月23日勅令第259号)により新京特別市の外局とされて新京特別市長の管理に属し、市長の下に警察総監及び副総監が置かれ、その下に警務、特務、保安、刑事等の各科、敷島署、長春署、大同署等の各警察署、新京消防署、新京地方警察学校が置かれた。

満鉄附属地の警察行政は[[関東庁]]が管掌し、新京では長春警察署(後に新京警察署に改称)が居住民の安寧秩序維持の任に当たった。城内及び商埠地の居住日本人の警察行政は、[[領事館警察|長春日本総領事館警察署]]がその任に当たっていた。1937年(康徳4年)12月に治外法権が撤廃され、満鉄附属地の行政権が新京特別市に移譲されると、警察行政も新京特別市に移管された。

== 財政 ==
新京は新興都市として、また一国の首都として飛躍的に発展し、市営事業収入、市有財産収入、課税収入のほかに市債借入、一時借入金等の方法で市財政を賄った。その経費は奠都の行われた1932年(大同元年)は69万5千[[満州国圓|圓]]に過ぎなかったが、1934年(康徳元年)に512万6千圓、1941年(康徳8年)に2339万6千圓、1944年(康徳11年)予算では9038万5668圓と1932年(大同元年)の経費と対比して約130倍と激増した<ref>『満洲年鑑』昭和20年(康徳12年)版、1944年、390頁</ref>。

== 交通 ==
* 鉄道:[[哈大線|京濱線]]、[[長図線|京図線]]、京白線の各[[満州国有鉄道|満洲国有鉄道]]本線起点、南満洲鉄道[[満鉄連京線|連京本線]]終点。
* バス:吉林、農安、伊通、双陽、双城堡、伏龍泉等には国営、交通会社、満洲自動車経営のバスが運行。
* その他:市内電車、市内バス、[[タクシー]]、豆タク(小型タクシー)、[[馬車]]、洋車([[人力車]])等。

新京特別市の交通政策は、[[地下鉄|地下鉄道]]を市内交通機関の大根幹とし、路面にはバス、タクシー等を配置して補助交通機関とする方針が建てられていた。国都建設計画第二期事業が開始されると、日本内地で地下鉄について最も経験と技術があった大阪市電気局(現在の[[大阪市交通局]])の技術陣を招聘し、半年を費やして地下鉄計画を作成した。市当局は1940年(康徳7年)度より全長12kmの工事着手を考えていたが、戦争による資材不足によりセメント配給が難しいため断念された。その代替として[[トロリーバス]]の導入を検討したが、1941年(康徳8年)1月に[[路面電車]]の敷設が決定された。当初、路面電車は架空線が必要で騒音が大きく、また交通事故の危険があるため採用しない方針だったが、交通難緩和のために導入が決定され、都市美観の観点からメインストリートを避けたルートが選定された。同年6月着工、12月には第一期51kmが開通し、新京交通が運営した。1942年(康徳9年)度には第二期工事が進められ、総延長73kmに及んだ。

== 新京市街 ==
[[ファイル:Manchukuo Hsinking Map 1933.jpg|thumb|新京特別市地図(1933年)]]
新京の市街は既成市街(旧長春市)と国都建設事業により造られた新市街に大別され、既成市街は南から城内(長春城)、商埠地、満鉄長春附属地、寛城子附属地と大きく4つに区分されていた。これらの地名はその後も通称として使用されていた。ここでは、既成市街それぞれの沿革も記述する。

=== 新京既成市街 ===
==== 城内(長春城)====
新京の地は、[[遼]]の黄龍府地、[[金 (王朝)|金]]の済洲地、[[明]]の兀良合部とされ、清朝に入りモンゴル族の公王(札薩克と呼ばれるジンギス汗の子孫)の領地である、[[内蒙古]][[前ゴルロス・モンゴル族自治県|郭爾羅斯(ゴルロス)前旗]]に属する放牧地(蒙地)だった。当時、清朝は「柳条辺牆」と呼ばれる柵を設け、満洲平原の東側である満洲族故地への漢人・蒙古人の侵入を禁じる満洲封禁政策が執られていたが、満洲平原への漢人の入植が相次いでいた。

[[1791年]]([[乾隆]]56年)、郭爾羅斯前旗の公王が放牧地へ密かに漢人を入植させ、永年小作契約を結んで農地を開墾させた。[[伊通河]]右岸に「長春堡」が建設されると、[[1800年]]([[嘉慶]]5年)7月に吉林将軍管轄下の「長春廳(庁)」が新立屯に設置された。[[1825年]]([[道光]]5年)、長春庁の所在地が南に偏在していたため、北方の寛城子(後の長春城)へ移転したが、名称は変わらず長春庁と称した。これが長春の起源であり、別名を寛城子と称した所以とされている。

[[1865年]]([[同治]]4年)、[[匪賊]]の襲撃を防ぐために地元商人らが資金を集め、独力で周囲20支里<ref>1支里は500mに相当。</ref>、高さ1丈5尺の城壁(長春城)を築き、後に「城内」と呼ばれる市街地を形成した。なお、[[1920年]]頃までに城壁はその多くが撤去されている。満洲国建国後、新市街に新庁舎が完成するまで、交通部、立法院、監察院、総商会、中央銀行等の仮庁舎がこの区域に存在した。

==== 商埠地 ====
商埠地とは1905年(光緒31年/明治38年)に「日清満洲善後条約」第1条に準拠して、清が外国人居留地として自ら指定・開放した地域である。長春は同条約1条で、遼陽、吉林、哈爾濱、満洲里等と共に16ヵ所の開埠通商(外国人に交易地として開放)の都市のひとつとされた。

長春の商埠地は、1909年(宣統元年)に満鉄附属地により商業的地位が脅かされると考えた現地官憲が、長春城北門外と満鉄附属地の間及び附属地を囲む土地を買収して設置したものである。これは満鉄附属地への対抗策として設けられたものだったが、商業者の移住を奨励し、満鉄附属地と城内を結びつける役割を果たすことにより、長春全体の発展に貢献した。

なお、商埠地及び城内に於いても主要な道路は整備されていたが、市街地外の道路は殆ど整備されておらず、降雨時には馬車が泥濘に嵌まるような悪路も多かった。商埠地は西の大経路、東の大馬路(北門外大街から改称)の二大道路を基軸としており、附属地及び城内に通ずる幹路としている。これに数十条の道路を以って市街を形成していた。最も活況を呈したのは大馬路で、道の両側に大小の商店が軒を連ね、満鉄附属地の日本橋通と連絡して長春駅に達していた。

満洲国建国後、道路橋梁の修築や新道路の建設、上水道を整備して市街が再整備された。新市街整備まで満洲国政府の重要機関も概ねこの区域に存在した。

==== 寛城子 ====
[[1901年]](光緒27年)、[[ロシア帝国]]の国策会社である[[東清鉄道]](後の中東鉄路)により東清鉄道南満支線が敷設され、長春城から北西の二道溝に駅が設置された。長春の旧称から寛城子駅と名付けられ、駅周辺を取り囲む553[[ヘクタール]]に及ぶ長方形の土地が「東清鉄道寛城子附属地」とされた。なお、寛城子駅周辺の地名が正式に「寛城子」となったのは鉄道附属地となってからである。

[[1936年]](康徳3年)1月、満洲国が北満鉄路(中東鉄路)をソビエト連邦から買収した事に伴い、それまでソ連(ロシア)の管理下だった鉄道附属地が満洲国に編入され、これにより寛城子附属地も正式に新京特別市の行政区域に組み込まれた。

==== 満鉄付属地 ====
[[ファイル:CC cjl old.jpg|thumb|満鉄付属地の繁華街・吉野町]]
[[ファイル:Yamato_Hotel_Changchun.jpg|thumb|新京[[ヤマトホテル]]]]
[[1905年]](明治38年)にロシア帝国と締結した[[ポーツマス条約]]により、日本は長春(寛城子)から[[旅順]]に至る東清鉄道南満支線を譲渡され、[[南満州鉄道]](満鉄)と改名した。またロシアが“鉄道保護に必須の土地”として東清鉄道沿線で獲得していた鉄道附属地も日本に譲渡され、“[[南満州鉄道附属地|満鉄附属地]]”と改称した。

この時、鉄道の分割点を巡って日露両国の意見が対立した。日本は寛城子駅での分割を主張したが、ロシアは寛城子駅を含まない長春以南での分割を主張し、寛城子駅及び附属地は日本と共有する事を提案した。1907年4月に分割点を孟家屯北方4kmの八里堡(後の南新京駅付近)と決定し、寛城子駅び附属地は日露共有とした上で、実際の便宜上ロシアの占有に帰する事とし、56万3193[[ロシア・ルーブル|ルーブル]]<ref>南満洲鉄道株式会社編『南満洲鉄道株式会社十年史』63頁</ref><ref>新京特別市長官房庶務科編『國都新京』康徳7年版(1940年、6頁)では56万393ルーブルと記されている。</ref>でロシアに有償譲渡した<ref>「日露鐵道接続仮条約附属議定書」第一條による。</ref>。

満鉄は寛城子駅及び附属地を得る事ができず、新たに長春に停車場を設けるため、長春城の北側、寛城子附属地の南東側に位置する「頭道溝」と呼ばれる一帯の買収に着手した。

当時、頭道溝付近は僅か十数戸の農家が点在する一面の[[モロコシ|高粱]]畑に過ぎなかった。1907年(明治40年)3月、満鉄は城内に進出していた[[三井物産]]を通じて用地買収を実施したが、途中で現地官憲に発覚したため、日清両国政府間の外交交渉を経て、改めて現地官憲と用地交渉が開始された。買収価格は現地商埠公司の標準買収価格([[円 (通貨)|日本円]]に換算して1坪あたり約10[[銭 (曖昧さ回避)|銭]]に相当)に若干上乗せを行い、立木・建物への補償も行った。同年9月までに買収が完了し、買収地は“満鉄長春附属地”と命名された。買収総面積は150万3448坪7[[合]]<ref>三井物産名義の買収:33万4196坪、中国側官憲経由の買収:108万9272坪、条約による無償収納:2万9997坪、ロシアからの引継ぎ:1万9608坪、未詳地3万383坪。</ref>、買収代金は33万875円74銭(坪あたり平均22銭強)に上り<ref>新京商工公会刊『新京の概況 建国十周年記念発刊』8頁</ref>、この他に郭爾羅斯前旗王府にも上納金を納め、買収総額は約40万円となっている。

その後、水源地用に伊通河支流沿いの北方隣接地、日本領事館用に商埠地の一部(1万坪)を買収したため、1912年(明治45年)までに満鉄附属地の面積は152万8085坪となった。1932年(昭和7年)に国都建設区域に連なる地域(飛行場、練兵場、官舎用地等:西部附属地と通称)を買収して、1933年(昭和8年)までに面積は210万6900坪まで拡がっている。

1906年(明治39年)に設立された南満洲鉄道株式会社は、1907年(明治40年)4月1日に鉄道の引継ぎを受け、寛城子駅と長春城の中間地(満鉄長春附属地の北部)に長春停車場([[長春駅]])の建設を開始し、同年8月31日に孟家屯と寛城子の間に仮停車場<ref>仮長春駅。長春駅開業後、西寛城子駅と改称したが、その後廃止されている。</ref>を設け、東清鉄道との接続運輸を開始した。同年11月3日の長春駅竣成に伴い貨物業務を開始、次いで12月2日から旅客業務を開始した。1909年(明治42年)2月22日から東清鉄道との接続運輸も長春駅で開始した。

長春駅の建設に合わせて市街地建設も着手し、1908年(明治41年)に第一期の市街計画が立案された。街路は矩形式街路と4本の斜路によって構成され、短辺60[[間]](109m)、長辺120間(218m)の長方形を標準に、地形に応じて形状を変更した。

長春駅南側に半径50間(91m)の円形広場(北広場)を設け、この広場を中心に放射状に道路網を建設した。駅前広場から南方に長春大街(1920年代に中央通に改称)、それに並行する道路として、西一條街~西三條街、東一條街~東六條街の街道、斜路として東斜街(後の日本橋通)、西斜街(後の敷島通)、広安街(後の大和通)、慎徳街(後の八島通)が設けられ、街路と斜路の交点には西広場、東広場(後に南広場に改称)、北角広場(後に東広場に改称)等の広場が設けられた。また南端には西公園(後に児玉公園と改称)が設けられた。中央通は幅員20間(36m)、日本橋通は幅員15間(27m)で建設されたが、商埠地と結ばれた日本橋通沿いに商店が建ち並んで発展した。

満鉄は電気・ガス・上下水道のインフラを整備し、日本領事館(後に商埠地側の新取得地に移転)、病院、学校、公園等の公共施設、長春[[ヤマトホテル]]、満鉄事務所、憲兵隊分遣所、警察署、郵便局等を建設した。市街地造成後、公共用地以外の土地は華人を含む民間に有料で貸付けられた。1920年代末には附属地人口は26,000人に達していた。

なお、新京特別市が成立した後も暫くは満鉄付属地として存続し、1937年(康徳4年)12月の治外法権撤廃により、正式に特別市の行政下に置かれている。

=== 新京新市街 ===
[[ファイル:Manchukuo Hsinking Map 1936.jpg|thumb|新京特別市地図(1936年)]]
1932年(大同元年)3月、[[満鉄調査部|満鉄経済調査会]]に於いて新京[[都市計画]]の立案が開始された。一方、同年4月1日に満洲国国務院直属の「国都建設局」が設置され、新京の地形[[測量]]及び地籍測量と国都建設の立案を開始した。同年8月、[[関東軍]]特務部の主催による、関東軍・満鉄・満洲国国務院の3者による連合打合会が開催され、満鉄経済調査会と国都建設局の両案が比較された。執政府及び[[官庁]]街の位置を巡って満鉄経済調査会、国都建設局の双方が対立したが、同年11月17日、満鉄経済調査会案を取り入れた国都建設局の最終変更案が決定された。また、事業開始に先立ち、国都建設計画区域内及びその周囲一円内に対する地債売買禁止令を発布し、民間に於ける土地の売買・担保等が禁止され、土地の[[買い占め]]や地価高騰等の弊害を除去した。

新京の都市計画は満鉄附属地を基準に、新京駅(長春駅から改称)前から南に延びる中央通を更に南に延長し、大同大街と呼ばれる大通りを建設した。途中には大同広場と呼ばれる大[[ロータリー交差点|ロータリー]]が建設されて新京の都心とされた。大同広場の西方には執政府(後の帝宮)造営地が設けられ、その南面を東西に興仁大路、南方へ順天大街と呼ばれる幹線道路が造られた。政治の中枢は順天大街から南方の安民広場に亘る官庁街、文化・教育中枢は南嶺地区、交通の中枢は新京駅と孟家屯駅との中間に新設する中央大停車場(後の南新京駅)を建設して市の玄関口とした。また、東方の伊通河沿岸を区画して工業地域とし、市民を煤煙と騒音から遠ざけるようにした。その他に、国際飛行場、国際大運動場、競馬場、建国大記念塔、大記念門、建国記念公会堂等の建設が計画された。

財務部、文教部、司法部、外交部、国都建設局、国道局等の諸官庁は新市街に建設され、国務院、首都警察庁等の大建築物の建設も行われた。なお、満洲国官吏の多くもこの区域に住居を建設した。

新京の公園、広場、街路の名称は、建国の理想を如実に表現し得るもの、及び満洲国内各地の名称中で含蓄、余韻があるもので、音調宜しく記憶しやすい物を選定し、1933年(大同2年)4月19日付で布告された<ref>「国都建設計画区域内ノ新設公園広場等ノ名称」(大同2年国都建設局佈告第3号)、『満洲國政府広報日譯』第127号、1933年5月3日、13-14頁</ref>。また、建設計画区域内の村落で適当な名称は、その因縁を考慮して該当地点の街路名に保留採用した。

== 国都建設計画 ==
新京の国都建設計画は、国務院国都建設局による第一期事業5ヵ年計画と、新京特別市臨時国都建設局による第二期事業3ヵ年計画に分けられる。第二期事業終了後は、新京特別市の通常の建設行政として市街の建設が進められた。

新市街の建設にあたっては[[佐野利器]]など[[後藤新平]]の弟子筋の[[技術]][[官僚]]が多く活躍した。ほとんど更地からの建設であり、新技術を何の障壁もなく投入して建設でき、上下水道始め社会基盤([[インフラストラクチャー|インフラ]])は内地に比べ立派に整備された。敷設された[[道路]]の道幅は非常に広く、狭いといわれた道でさえ[[自動車]]同士がすれ違える程だった。

=== 国都建設計画第一期事業 ===
[[ファイル:Hsinking master plan.jpg|thumb|国都建設計画事業第一次施行区域図(1934年)]]
国都建設計画第一期事業は、30年後の予想人口50万人の都市を目指して、国務院国都建設局により1933年(大同2年)3月から1937年(康徳4年)12月までの5ヵ年計画、国庫特別会計3400万圓を投じて実施された。

「国都建設計画法」(大同2年4月19日教令第24号)第2条により、新京特別市の区域(約200km²)を以って国都建設計画区域とされた。それに先立って「国都建設事業区域ニ関スル件」(大同2年1月24日国務院指令第3号)により、国都建設事業区域は下記のように指定されている。

{| class="wikitable"
| colspan="2" | 国都建設計画区域(特別市区域)
| colspan="2" | 約200km²
|-
| colspan="2" | 近郊隣接地
| colspan="2" | 約100km²
|-
| colspan="2" | 国都建設事業区域
| colspan="2" | 約100km²
|-
| rowspan="2" | 実際事業除外区域
| 南満鉄道付属地
| 約5km²
|-
| 中東鉄路付属地
| 約4km²
|-
| rowspan="2" | 将来逐次整理区域
| 商埠地
| 約4km²
|-
| 長春縣城内
| 約8km²
|-
| colspan="2" | 国都建設計画事業面積
| colspan="2" | 約79km²
|}

満鉄附属地及び寛城子附属地は、行政上その性質を異にするため「実際事業除外区域」とされ、商埠地及び長春縣城内などの既存市街地は、取り急ぎ建設事業の執行を必要としないため「将来逐次整理区域」とされた。これらを除いた「国都建設計画事業面積」は約79km²とされ、このうち官公用途10km²、私用途10km²の合計20km²(後に21.4km²に改定)が執行区域とされた。

国都建設計画区域内では、一般人による独占的買収・その他人為的騰貴を防止するため、1932年(民国21年)2月1日付の吉林省令(土地売買禁止令)を公布して、長春を中心とする30支里以内の民間による土地売買が禁止された。同時に収穫等による土地の算出価格を基礎として、妥当適切な土地買収価格を決定した。これにより最終的に面積100km²に及ぶ広大な地域の買収に当たり、[[土地収用]]令の適用を必要としなかった。

国都建設局は事業区域の民有地を買収し、道路、上下水道、その他施設を建設して市街地に整備した後、公用・公共用地以外の土地については、原則として[[一般競争入札]]により払い下げた。小売商店街では、一筆を間口12m、奥行き30mの360m²(約110坪)とし、必要に応じて隣接地との[[合筆]]も許可した。商館、卸売等の大建築を要する幹線道路沿いでは、一筆を1650m²(約500坪)としている。

住宅地は、地域に応じて第一級(875m²:約265坪)から第四級(330m²:100坪)に分かれており、一筆が狭ければ隣接地との合筆も可能だった。また宅地の背後に幅4m - 6mの背割道路を設け、道路に面さない宅地は存在しないよう区画整理されたので、物資の搬出入には極めて便利だった。

国都建設計画第一期計画区域では、払い下げ価格は目抜きの商店街で坪20 - 25圓、住宅地で坪8圓前後と予想された。これは国都建設局によると、当時の[[大連市|大連]]郊外の住宅地で坪25 - 60圓、繁華な商店街で千圓近い地価であり、第一期計画区域が新京市街の中心を成す事を考えると「破格の値段」であり、「国都建設局は全然利益を目的とするものではない」としている<ref>国務院国都建設局『國都大新京』(日譯)24-25頁</ref>。

区画された市街地は、事業の着手が早かった北部から南部へ順に売却された。1933年(大同2年)度に大同広場、興安大路、豊楽路、安達街一帯、1936年(康徳3年)度には興仁大路、吉林大路、伊通河東方の一帯が払い下げられた。伊通河東方の一帯(和順街)は、主に買収地域に居住していた農民の移転用地や一般満洲人の新規取得地として想定され、幹線道路の吉林大路で城内と結ばれている。

国都建設計画第一期事業は計画通り完成し、1937年(康徳4年)9月に大同広場で国都建設紀念式典が挙行され、大同大街では[[パレード]]が行われた。

=== 国都建設計画第二期事業 ===
第一期事業の完成に伴い、国都建設事業は国の直轄事業から新京特別市の事業に移管された。1937年(康徳4年)12月27日勅令により、新京特別市の外局として臨時国都建設局が設置され、翌1938年(康徳5年)1月1日から3ヵ年計画で第二期事業が開始された。第二期事業は第一期事業実施区域内の整備充実と残余工事の完成を主目的としていたが、新京の人口増加が著しく、市街地の膨張傾向が窺えたため、1939年(康徳6年)度から方針を変更し、既設区域の整備と共に人口増加に対処すべく、事業費の許す限り区域外への拡張事業に従って、宅地造成、道路築造、上下水道その他施設の応急的施行を実施する事とした。また、南嶺一帯の文化都市化が検討され、国立総合運動場の改修、動植物園、協和広場、大学の整備が決定された。

1941年(康徳8年)12月、第二期事業終了により国都建設事業の特別会計は廃止され、臨時国都建設局は新京特別市の工務処に吸収された。以降は新京特別市の一般財源による通常の建設行政として都市建設が行われた。なお、1930年代末から新京の人口増加が著しくなり、1941年(康徳8年)には計画人口の50万人を突破してしまい、従来の国都建設計画では急激な都市化に対応出来なくなってきたため、臨時国都建設局内で計画の改定作業が進められ、1942年(康徳9年)2月に計画人口100万人、市街計画区域を従来の100km²から160km²に改め、環状道路近くまで市街を拡大する事とした。市街計画区域の外周は緑地帯([[グリーンベルト]])で囲まれて市街地の膨張を遮断しており、人口が100万人を超す場合は、緑地区の外に衛星都市を建設して対処する事とした。また、大房身地区の帝宮用地は廃止され、住宅地に変更されている。

== 国都建設概況 ==
=== 街路 ===
新京の街路は、放射状、環状、方形式の街路を巧みに組み合わせたもので、大同広場や駅を基準に放射状道路を設け、それを囲むように環状道路を配した。また、大同大街、順天大街などのメインストリート沿いは二線直角を原則とした方形式の街路を配した。

また、街路方向の一般観念を示すため、南北方向を「街」、東西方向を「路」とし、幅員38m以上のものはそれぞれ「大街」「大路」と称した。また、補助道路は最寄りの街路を採って「胡同」と称した<ref name="国都建設局">国務院国都建設局『國都大新京』</ref>。なお、斜路については、北東 - 南西方向を「街」、北西 - 南東方向を「路」としている。

新京の都市計画では、街路を幹線、支線、補助線の3つに区分し、幹線は24 - 80m、支線は10 - 18m、補助線はそれ以下の幅員(最低幅員4m)とした。幹線、支線はすべて[[車道]]と[[歩道]]に分けられ、幹線道路の車道は、中央を[[自動車]]・[[バス]]等の高速度車用、その両側を[[馬車]]・[[人力車]]等の緩速車用に分離し、さらにその両端を安全な歩道とした。各道の間には[[街路樹]]が植えられて区切られている。

幅員60mの幹線の場合、中央部に幅16mの遊歩道が設けられ、その両外側に幅12m(3車線)の道路が併設され、更に両端に幅10mの歩道が設置されていた。また遊歩道と歩道は街路樹による緑地帯で車道と区切られていた。幅員45mの幹線の場合、幅16m(上下4車線)の中央高速車道の左右に、それぞれ幅2.5mの樹林帯、幅6mの緩速度車道、幅6mの歩道が設けられた。幅員26mの幹線の場合、幅18mの車線の両側に幅4mの歩道が設けられた。

幅員10m以上の道路は総て[[舗装]]され、交通の頻繁な主要道路は[[歴青|瀝青]]舗装([[アスファルト]]及び[[:zh:柏油路|タールマカダム舗装]])、荷馬車専用道路は荷重に耐えられるよう小舗石又は硬質[[煉瓦]]舗装、歩道の主要部分は[[コンクリート]]板石張りとされた。14m以上の街路は必ず街路樹で両側を飾り、同時に美観を保つために[[電信]]、[[電話]]、[[電灯]]用の[[電柱]]や架空線その他の一切の路上施設を禁じて地下配管とし、宅地の背後にある裏通り(背割道路)に電気・電話の架設線、上下水道管・ガス管を設置した([[電線類地中化]])。なお、市街地建設中の箇所については暫定的に架空線の設置を許可している。

これらの道路建設には、当時の日本でも珍しかった[[ブルドーザー]]、[[モーターグレーダー]]、[[ロードローラー]]、牽引式[[スクレイパー]]等の[[建設機械]]が投入されている。

=== 環状道路 ===
1933年(大同2年)に軍部の要請により、新京防衛のため外周部に環状道路が建設された(国務院国道局施工)。これにより匪賊及び抗日ゲリラの襲撃が激減し、治安状況が改善した。後に環状道路の沿道では植樹が行われ、新京のグリーンベルトを形成した。なお、新京北西部及び南部には、これとは別に環状緑地帯が設けられている。

=== 上下水道 ===
==== 上水道 ====
旧長春時代の水飢饉に鑑みて、新京の水源獲得は喫緊の課題だった。そのため国都建設局は満鉄の協力を得て水源調査を実施し、地下約100mに一大地下水層を発見した。1932年(大同元年)9月、大同公園内に深井戸を築造したのを始めとして、新京各地20箇所に水源井を設け、1日あたり11,000[[立方メートル|m³]]の涌水能力を保持したが、地下水による給水量にも限度があり、改めて新京全人口に対する水道計画樹立を認め、新京市街から南東12kmにある伊通河支流の小河台河を堰き止めて[[人造湖|貯水池]]を設けた。[[ダム|堰提]]の長さ550m、貯水面積4.7km²、総工費350万圓、1933年(大同2年)10月に現地調査を開始し、1934年(康徳元年)5月着工、1935年(康徳2年)10月(附帯設備は11月)に完成した貯水池は「[[:zh:净月潭|浄月潭]]」と命名された。

上水道は1937年(康徳4年)末の第一期建設事業の完成に伴い、市水道科に引き継ぎ施行された。1936年(康徳3年)1月に於ける1日の給水能力は32,000m³を保持したが、1939年(康徳6年)度より給水量の不足が感じられたため、1940年(康徳7年)に3ヵ年継続事業として工費713万圓を投じて第2次拡張工事を実施した。浄月潭貯水池からの取水量を10,000m³増加し、更に伊通河地表水を1日20,000m³取水して合計30,000m³に増加、これに伴う浄化送配水設備を増設し、既存の分と併せて合計62,000m³を確保した。しかし、新京特別市の異常な発展により給水量の増加が著しく、計画給水量1日62,000m³を即に消費しつつあったため、抱擁人口100万人を目標に1942年(康徳9年)度より第3次拡張工事として飲馬河の流水採取を企画した。

なお、浄月潭貯水池の上流には水源林を目的とした植樹が行われ、現在では中国最大級の[[人工林]]とされている。1988年に「浄月潭国家森林公園」に指定され、浄月潭と併せて[[:zh:中国国家级风景名胜区|中国国家風景名勝区]]、[[:zh:中国国家4A级旅游景区|中国国家4A級旅游景区]]等に指定されている<ref>[http://j.peopledaily.com.cn/94475/6932072.html 長春浄月潭]、[[人民網]]日本語版、2010年3月26日</ref>。

==== 下水道 ====
新京では、国都建設局顧問の佐野利器の強い要望により、新市街全域で水洗便所の普及を実施した。当時の中国大陸の各都市では一般的に便所が存在せず、井戸に汚物が流れ込むなど極めて不衛生だった。新市街においては建築規則に基づき強制的に実施して、100%の便所の水洗化が達成され、アジア初の水洗便所が全面普及した都市となった。汚水は伊通河河畔の汚水浄化施設で処理された後、河川に放流された。

下水道は新市街では汚水と雨水を分ける分流式が全面的に採用され、その他の地域では合流式が採用された<ref>分流式は1939年当時の日本国内でも3ヵ所([[東京市]]麹町区の一部、京都、岐阜)のみで、部分的な採用だった。</ref>。雨水は新市街を流れる伊通河支流を堰き止めた人口湖(雨水調整池)に蓄えられ、非常水源として確保された。また、伊通河支流は総て親水緑地帯とされ、人工湖を利用した臨水公園が建設された。この結果、新京は世界最高水準の緑化・親水都市の様相を呈するに至った。

下水道は1937年(康徳4年)末の第一期建設事業の完成に伴い、土木科に引き継がれて管理経営すると同時に、新設も土木科で行う事とされた。下水道計画は地形に応じて9箇所の独立した排水区域に分割し、更に50余りの排水系統に分けて、分流式及び合流式により伊通河へ放流した。下水工事の完成区域は、1943年(康徳10年)時点で安民大路、至聖大路以北の殆ど全市にわたり、敷設延長は43万mに及んでいる。

=== 市街地域 ===
市街地域は[[住宅地|住居]]、[[商業地|商業]]、[[工業地|工業]]の三地域に大別され、特に住居地域は住居専用地域を設定して工場の設置を厳重に制限した。商業地域(卸売地域、小売地域、商館地域)は原則として路線式を採用した。工業地域(準重工業、軽工業)は、伊通河の水流と風向きを考慮して市街地東北部に指定された。特に重工業地域は東方の伊通河沿岸を区画整地し、煤煙と騒音が市域に及ばないように配慮された。農村地域は郊外公園或いは[[生産緑地地区|生産緑地]]として緑化を助長し、農耕、山林、牧場等の指定により、無秩序な市街化の防止に考慮されている。

国都建設計画事業区域に於ける建築活動は、「国都建設局建築指示条項」(国都建設局指示第1号)により規制され、建築物の構造、形態、工事執行手続きが定められた。これにより建築物の高さは全市域に亘って22m以下(塔部を除く)とされ、オフィスビルと大型商業建築物は、道路との境界から10 - 15m後退して建設するよう指導した。その後「国都の目抜通りに高低の揃わない建物が歯の抜けた櫛のように並ぶのは都市美観上からも国都の面目にかけても面白くない」ため、広場及び主要道路に[[美観地区]](甲種・乙種・丙種・丁種・戊種及び特殊の6区分)を指定して、主要道路に面した建築物の軒高を規制した。この他に[[風致地区]]も指定されている。

[[人口密度]]は住居地域に於いて、一平方キロメートルに付き第一級4000人(宅地875m²)、第二級5000人(宅地770m²)、第三級10,000人(宅地440m²)、第四級12,000人(宅地330m²)とされ、商業地域の密度は12,000人とされた。新京特別市全体では一人当り占有面積が約180平方メートル(約55坪)とされた<ref name="国都建設局"/>。

==== 大同大街 ====
新京の市街地を南北に縦断する全長7.5kmに達する[[大通り]]。新京駅前のロータリーから始まる中央通は、西公園(1938年(昭和13年)11月3日に児玉公園と改称)付近で幅員がそれまでの36mから54mに拡がり、「大同大街」と名前を変えて市街地南端の[[建国忠霊廟]]、[[建国大学]]まで達していた。

大同大街には関東軍司令部兼在満洲国日本[[大使館]]<ref>現在は[[中国共産党]]吉林省委員会。吉林省重点文物。</ref>、[[関東局]]・関東憲兵隊司令部<ref>現在は吉林省人民政府。吉林省重点文物。</ref>や、第三庁舎(財政部、後に建築局)、民生部、[[:zh:滿洲國蒙政部|蒙政部]](後に国務院官用需品局、水利電気建設局が使用)等の官庁の他、[[三菱地所|三菱]]康徳会館、[[三中井百貨店]]、大興ビル([[満州興業銀行|満洲興業銀行]]本店)、[[東京海上日動火災保険|東京海上]]ビル<ref>現在は長春市中心医院。長春市重点文物。</ref>、[[東洋拓殖]]ビル([[満州重工業開発]]本社が入居)等の商業ビルが建ち並び、新京のメインストリートを形成した。これらの建物は、前述の建築指示により軒高が揃うように建設されている。

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ファイル:Kwantung Army Headquarters.JPG|関東軍司令部
ファイル:State Foundation Martyrs Shrine in Manchukuo.JPG|[[建国忠霊廟]]
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==== 大同広場 ====
大同広場は新京駅の南2.5km(満鉄付属地南端から1km)に位置し、道路を含む直径300m、外周約1kmの大ロータリーで、中心部に直径200mの公園広場が設けられている。「特別市指定ニ関スル件」(大同2年教令第23号)で新京特別市の区域が明文化されているが、大同広場を基準に区域が指定されているように、大同広場は新京の都心に位置付けられている。また、満洲国の[[水準点|水準原点]]は大同広場の中央に設置されており、[[1934年]](康徳元年)に、[[大連湾]]の中等海水面に基づいて標高が218.170mと定められている。

大同広場からは、放射状に長春大街(東北東方面)、興安大路(西北西方面)、建国路(西南西方面)、民康大路(東南東方面)の各幹線道路が延びており、大同広場の外側を天安路と煕光路が六角形に囲んでいた。これらの街路に囲まれた用地には、[[満州中央銀行|満洲中央銀行]]総行(本店)<ref>現在は[[中国人民銀行]]長春中心支行。吉林省重点文物。</ref>、[[満洲電信電話株式会社|満洲電信電話会社]]<ref>現在は長春人民広播電台と使われている。長春市指定文物。</ref>、第一庁舎(国都建設局・文教部の後、[[:zh:新京特别市公署|新京特別市公署]])<ref>爆破解体され、現在は中国共産党長春市委員会の建物が建つ。</ref>、第二庁舎(司法部・外交部の後、[[:zh:首都警察厅|首都警察庁]])<ref>現在は長春市公安局として使われている。吉林省重点文物。</ref>等の大型公共施設が建設された。

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ファイル:CC rmgc.jpg|現在の大同広場(人民広場)
ファイル:Central Bank of Manchou.JPG|[[満州中央銀行|満洲中央銀行総行]]
ファイル:Manchukuo Telegraph and Telephone Company.JPG|[[満洲電信電話株式会社]]
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==== 順天大街 ====
帝宮造営地から順天広場を抜け、安民大街、至聖大路の交点にあたる安民広場まで一直線に南へ延びる順天大街は、全長1.7km、幅員60mを誇る大通りで、満洲国政府各機関が建ち並ぶ官庁街として建設された。沿道には国務院や軍政部<ref>1937年(康徳4年)に「治安部」に改組。</ref>、司法部、財政部<ref>1937年(康徳4年)に「経済部」に改組。</ref>、交通部の庁舎が建設された。南端には安民広場と呼ばれる大ロータリー(道路を含む直径244m)が設けられ、広場に面して[[満州国法院|綜合法衙]](そうごうほうえ<ref>最高法院、最高検察庁、新京高等法院及び高等検察庁の合同庁舎</ref>)が置かれた。これらの建築物は[[吉林大学]]の学舎や病院等として現在も使われており、[[:zh:八大部|八大部]]」(偽満洲国の八大統治機構<ref>治安部(軍事部)、司法部、経済部、交通部、興農部、文教部、外交部、民生部の総称</ref>)として[[:zh:吉林省文物保护单位|吉林省重点文物]]に指定されている。

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ファイル:Manchukuo state concil.jpg|[[満州国国務院]]
ファイル:Manchukuo Police Ministry Building.JPG|満州国治安部
ファイル:Manchukuo Justice ministry.jpg|満州国司法部
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== 宮殿 ==
[[ファイル:Imperial Household Office of Manchukuo.JPG|thumb|[[満州国宮内府|宮内府正門]]]]
[[ファイル:Manchukuo Palace - Qinmin building.jpg|thumb|勤民楼]]
[[ファイル:Manchukuo Palace - Jixi Building.jpg|thumb|緝煕楼]]
[[ファイル:Manchukuo palace.jpg|thumb|仮宮殿・同徳殿]]
[[ファイル:Office of the Prime Minister of Manchukuo.JPG|thumb|国務総理大臣官邸]]
執政府(後の帝宮)造営地は国都建設計画策定時、新京の地形及び執政・溥儀の「絶対南面<ref>中国古来の都城が宮殿正面を南に面し、正門から南へ直線道路が延びて官庁街を形成した伝統による。日本の[[平城京]]や[[平安京]]も同様。</ref>」の要望から大房身、杏花村、南嶺の3箇所に限定され、最終的に既存市街に近い杏花村が選定された。

=== 執政府 ===
1932年(大同元年)3月9日の溥儀の執政就任式は、臨時執政府に指定された旧吉長道尹公署で行われた。同年4月3日、執政府は旧商埠地北東部の高台にある旧運局跡<ref>旧運局跡は『満洲國政府広報邦譯』による表記。旧吉黑榷運局公署(塩専売の役所)。</ref>へ移転した。敷地面積は4万3000m²、旧運局の建物は「勤民楼」「緝煕楼」(しょうきろう)と名付けられた。

=== 宮内府 ===
1934年(康徳元年)3月1日の帝制移行に伴い、執政府は[[満州国宮内府|宮内府]]と改められた。宮内府は溥儀が政治活動を行う「外廷」と日常生活を過ごす「内廷」に分かれ、現在は偽満皇宮博物院(吉林省重点文物)として一般に公開されている。

外廷([[満州国皇宮|皇宮]])の主要な建物として、「勤民楼」、「懐遠楼」、「嘉楽楼」があり、勤民楼では溥儀が公務を執り、各種の典礼が行われた。懐遠楼には宮内府の事務部門と清朝歴代皇帝の祭祀を司る「奉先殿」が設けられた。内廷(帝宮)は溥儀とその家族の生活区域で東西両院に分かれており、西院に「緝煕楼」、東院に仮宮殿「同徳殿」が建設された。緝煕楼は溥儀と皇后[[婉容]]の住居とされ、日常生活を過ごしていた。

=== 仮宮殿 ===
新宮殿建設が長期間となることから、宮内府敷地内に仮宮殿が建設された。東洋式外観の仮宮殿の設計は、営繕需品局営繕処宮廷造営科長の相賀兼介が担当し、施工は[[戸田建設|戸田組]]が行った。1937年(康徳4年)施工、1938年(康徳5年)末に竣工し「同徳殿」と命名されたが、関東軍の盗聴を恐れて溥儀自身は使用しなかった。後に同徳殿には[[側室]]の[[:zh:李玉琴|李玉琴]](福貴人)の住居が置かれた。また、同徳殿の南側に満洲民族の故地である[[白頭山|長白山]]の風景をイメージした築山が築かれ、築山林泉回遊式庭園が造られた。

=== 新宮殿 ===
かつての杏花村に定められた帝宮造営地は、東西約450m、南北約1200m、馬蹄形で総面積は51万2000m²。南側は興仁大路に面し、東西はそれぞれ東万壽大街と西万壽大街で囲われている。正門前から順天大街が南へ延びており、官庁街を形成していた。造営(設計・施工)は営繕需品局営繕処宮廷造営課<ref>1939年(康徳6年)に建築局第二工務処宮廷造営科に改組。</ref>が担当し、造営予算は約1400万圓、8ヵ年連続事業として1938年(康徳5年)9月に着工して建設が進められた。

宮廷用地は3つの区域から構成されており、南部の正門外広場である「順天広場」、中部の政殿を中心とする「内廷」、北部の西洋風回遊式庭園の「宮苑」に大別された。政殿は東西220m、高さ31m、鉄骨鉄筋コンクリート造り2階建で、屋根瓦は清朝宮殿と同様の黄金色の瑠璃瓦が葺かれ、外壁は花崗石張り、内装は大理石仕上げの壮大な東洋式建築物だった。政殿は構造物は完成したものの、戦争の激化による建築資材不足に配慮して1943年(康徳10年)1月に建設が中断された。この建物は中華人民共和国が設計図を元に4階建で完成させて長春地質学院教学楼として使われ、「地質宮」と通称された。現在は吉林大学地質博物館として一般公開されている。

また帝宮造営地に隣接して、[[国務総理大臣]]官邸等が建設されている。

=== 帝室保留地 ===
大房身地区と南嶺地区の帝宮候補地は、杏花村に帝宮が定められた後も帝室保留地(皇宮関係用地)として残されていた。そのうち、南嶺地区は文教地区として国立総合運動場や動植物園、大学等の用地として整備された。満鉄連京本線西側の大房身地区は、将来新京が拡大した際の本宮殿造営地として、200ヘクタールに及ぶ“帝宮保留地”が計画されていたが、数度に亘り建設計画が見直され、最終的に1942年(康徳9年)の国都建設計画の改定で本宮殿の建設計画は廃止され、住宅地に変更されている。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* 国務院総務庁『満洲國政府広報邦譯』、1932年(大同元年)
* 国務院総務庁『満洲國政府広報日譯』、1932年(大同元年) - 1933年(大同2年)
* 国務院総務庁『政府広報日譯』、1934年(康徳元年) - 1935年(康徳2年)
* 国務院総務庁『政府広報』、1936年(康徳3年) - 1945年(康徳12年)
* 国務院国都建設局『國都大新京』(日譯)、1934年(康徳元年)
* 満洲経済事情案内所編『國都・新京事情』、満洲文化協会會、1933年(昭和8年)4月20日初版発行
* 新京特別市公署『新京案内』、1933年(大同2年)6月10日発行
* 新京特別市公署『新京市政概要』、1934年(康徳元年)11月20日発行
* 新京商工公会刊『新京の概況 建國十周年記念發刊』、1942年(康徳9年)8月30日発行
* 日本図書センター刊『満洲年鑑』8-11《植民地年鑑》(満洲日報社『満洲年鑑』の復刻)、2000年 ISBN 4-8205-2835-1
* 越沢明『満洲国の首都計画 ―東京の現在と未来を問う―』第3刷、日本経済評論社、1997年 ISBN 4-8188-0259-X


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|大東亜共栄圏}}
{{ウィキポータルリンク|大東亜共栄圏}}
*[[南満州鉄道]]
* [[南満州鉄道]]
*[[満州国・関東州の高等教育機関]]
* [[満州国・関東州の高等教育機関]]
*[[満州国の地方行政区画]]
* [[満州国の地方行政区画]]
* [[田園都市]]


== 外部リンク ==
{{wikisource|國都ヲ長春ニ定ムル件}}
{{wikisource|國都ヲ長春ニ定ムル件}}
{{wikisource|國都長春ヲ新京トスル件}}
{{wikisource|國都長春ヲ新京トスル件}}
* 新京の建築物など
** [http://www.shenyang.cn.emb-japan.go.jp/jp/northeast/sence/sence_j_cc.htm 東北風景]、在瀋陽日本国総領事館
** [http://library.jsce.or.jp/Image_DB/koshashin/ta/ta03-a01.html 満洲]・[http://library.jsce.or.jp/Image_DB/koshashin/ta/ta03-a02.html その他]、[[土木学会]][http://www.jsce.or.jp/library/page/report.shtml 附属土木図書館 デジタルアーカイブス]
** [http://www.geocities.jp/adiospekin/chgchn/top.html 残雪の長春建築紀行]
** [http://www.geocities.jp/ramopcommand/page035.html 満洲写真館]
*** [http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/080813/shinkyou1.html 新京その1]、[http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/080923/shinkyou2.html 新京その2]、[http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/090322/shinkyou3.html 新京その3]
* 新京を紹介した絵葉書
** [http://www.library.pref.nara.jp/event/booklist/W_2008_04/hitosyo08.html 絵葉書 新京]、[[奈良県立図書情報館]]
** [http://iccs.aichi-u.ac.jp/postcard/manzhou/hsinking/category-39/MX506/ 新京]、中国戦前絵葉書データベース、[[愛知大学]]国際中国学研究センター


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満州国 新京
1932年 - 1945年
別称:国都
旧称:長春
新京特別市の位置
新京特別市の位置
新京特別市の位置
中心座標 北緯43度55分0秒 東経125度18分0秒 / 北緯43.91667度 東経125.30000度 / 43.91667; 125.30000
簡体字 新京
繁体字 新京
ウェード式 Hsinking
カタカナ転記 シンキン
国家 満州国
行政級別 特別市
建置 1932年
廃止 1945年 
面積
- 総面積(1944年) 938.29 km²
人口
- 総人口(1944年) 86.3 万人
大同大街。中央は康徳会館、左手前は三中井百貨店。
新京駅の駅名標漢字ローマ字キリル文字で書かれており、日本語中国語英語モンゴル語ロシア語に対応する。

新京(しんきょう)は満洲国首都新京特別市。現在の中華人民共和国吉林省長春市にあたる。

概要

新京特別市徽章。1932年(大同元年)9月20日規定[1]

満洲国建国直後の1932年大同元年)3月9日、長春に於いて建国式典及び朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀の執政就任式が執り行われた。翌3月10日、満洲国国務院は満洲国の国都(首都)を長春に定め[2]、3月14日には国都長春を新国家の首都に相応しい名称として「新京」と命名し[3]新京特別市が誕生した。なお、民政部では1932年(大同元年)5月24日に発令した「衛生調査事項ニ関スル件」(大同元年民政部訓令第62号)まで旧称の「長春特別市」が使用され、同日発令の「事変時死亡老幼孤児寡婦調査表製発ノ件」(大同元年民政部訓令第61号)以降(大同元年民政部訓令第62号を除く)は「新京特別市」及び「新京特別市政公署」が使用されている[4]。同年8月17日の「特別市制」(大同元年8月17日教令第77号)施行及び、翌1933年(大同2年)4月19日の「特別市指定ニ関スル件」(大同2年4月19日教令第23号)により、改めて満洲国の地方行政区画に於ける新京特別市が成立した。

新京は太平洋戦争の終結まで日本からの投資、及び満洲国政府・新京特別市公署による大規模な国都建設事業が展開され、日本人移民を含めた満洲各地からの移住者により繁栄し、人口も1936年康徳3年)10月時点で30万2千人、1940年(康徳7年)10月時点で55万5千人、1942年(康徳9年)4月時点で65万5千人と増加の一途を辿り、1944年(康徳11年)には86万3千人[5]を擁する大都市に発展した。

1945年(康徳12年)、日ソ中立条約を一方的に破棄したソビエト連邦による満洲侵攻と日本の太平洋戦争敗戦により、8月18日満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡し、新京は8月20日赤軍ソビエト連邦軍)に占領され軍政下に置かれた。12月20日、中華民国国民政府により旧称の長春に改称されて現在に至っている。

位置と地勢

新京は満洲国の中央部、吉林省長春縣内にあり、北緯43度55分、東経125度18分、海抜214メートルに位置した。緯度は日本の旭川、経度は朝鮮新義州付近に相当し、標高は山梨県甲府市付近に匹敵する[6]

市街東部を伊通河が北流し、飲馬河と陶頼昭付近で合流して第二松花江に注いでいる。新京は北満平野の南端に位置し、周囲には広漠たる沃野が展開した。南東方向には石碑嶺の連丘を望み、南西には懐徳から公主嶺を経て伊通付近に及ぶ丘陵が起伏し、これらは満洲を南北に分かつ分水嶺を構成している。

沿革

ここでは新京特別市成立以前及び満洲国崩壊後の「長春」の沿革も併せて記述する[7][8]

  • 1800年嘉慶5年) 吉林将軍管轄下の「長春廳(庁)」が長春堡(新立屯)に設置され、理事通判を駐箚させる。
  • 1825年道光5年) 長春庁の所在地が南に偏在していたため、北方の寛城子(後の長春城)へ移転する。
  • 1882年光緒8年) 理事通判を廃止して撫民通判が置かれる。
  • 1889年(光緒15年) 長春庁が長春府に昇格し、知府が置かれる。
  • 1908年(光緒34年) 吉林兵備道台が設けられ、長春府及び伊通州を行政下に置く。
  • 1909年宣統元年)
    • 満鉄附属地と城内の間に商埠地が画定され、その一般行政を管掌するために商埠局が設置される。
    • 吉林兵備道台が吉林西南路観察使と改称され、農安、長嶺、徳恵の3縣をその管内に加える。
  • 1912年民国元年) 観察使を道伊と改め、吉長道伊公署と改称する。
  • 1913年(民国2年) 長春府を長春縣と改称し、縣公署を設置する。
  • 1925年(民国14年) 当時の道伊が新たに「長春市政公所」を設立し、「市自治制」による市制を企画する。
  • 1929年(民国18年)
    • 9月、長春市政公所が商埠局を合併し「長春市政準備処」と改称する。
    • 道伊公署の廃止により長春交渉員(長春市政準備処長を兼任)が配置され、城内及び商埠地を行政下に置く。
  • 1932年(民国21年/大同元年)
    • 1月1日 - 軍閥政権消滅に伴い、長春市政準備処は「長春市政府」と改称し、長春市が正式に成立する(後に長春特別市と改称)。
    • 3月10日 - 満洲国国都が長春に定められる[2]
    • 3月14日 - 長春が新京と改称[3]されたのに伴い、長春市政府は「新京特別市政公署」と改称し、新京特別市が成立する。
    • 8月17日 - 「特別市制」(大同元年8月17日教令第77号)を公布。
    • 10月15日 - 首都警察庁が正式成立し、長春市公安局及び長春縣公安局を統合する[9]
    • 11月1日 新京に於ける各郵電局台の名称を「長春」から「新京」に改称する[10]。また、満鉄附属地側も新京と称するようになる[11]
  • 1933年(大同2年)4月19日 - 特別市政実施に伴い、新京特別市政公署は「新京特別市公署」と改称する。
  • 1936年(康徳3年)2月1日 - 北満特別区公署の廃止に伴い、寛城子を編入する。
  • 1937年(康徳4年)
    • 10月1日 - 行政区域の拡大に伴い、双陽縣及び長春縣の一部を編入する[12]
    • 12月1日 - 治外法権撤廃により満鉄附属地の行政権が移譲される[13]。市区条例の実施に伴い、18区(市街区12区・農村区6区)を設置する。
  • 1940年(康徳7年)1月1日 - 14区(市街区8区・農村区6区)に改編する。
  • 1942年(康徳9年)1月1日 - 16区(市街区10区・農村区6区)に改編する。
  • 1943年(康徳10年)6月1日 - 行政区域の拡大に伴い、通陽縣[14]及び長春縣の一部を編入し[15]、18区(市街区10区・農村区8区)に改編する。
  • 1945年(康徳12年/民国34年)
    • 8月20日 - 赤軍(ソビエト連邦軍)に占領されて軍政下に置かれる。
    • 12月20日 - 中華民国国民政府により長春市政府が設置され、旧称の長春市に改称される(新京特別市の消滅)。

人口

建国前の人口

満洲国建国以前の人口は、1930年(民国19年)3月末の統計で、城内約46,000人、商埠地約44,000人の計約9万人とされた。1931年(民国20年)12月末の統計で、満鉄附属地は32,636人、寛城子附属地は4,493人であり、合計しても約13万人に過ぎなかった[16]。新京奠都後は満洲国政府官吏とその家族を始め、土木建設業者や商工業者が集中する事により人口の増加が著しくなった。

建国後の人口

1933年(大同2年)4月15日に臨時戸口調査を実施し、その時点で人口は126,309人(附属地を除く)だった。1934年(康徳元年)3月の首都警察庁の調査によると、総人口は141,712名(同)に増加した[17]。その後も人口は増え続け、1936年(康徳3年)10月末に302,075人(附属地含む)、1942年(康徳9年)4月には655,324人(同)に達した。1944年(康徳11年)には863,607人(同)に達している。

なお、満洲国では国籍法が制定されなかったため、下記の「満洲人」は暫行民籍法に於ける漢族満洲族蒙古族の総称である。また「日本人」は内地人(沖縄含む)を指し、朝鮮半島出身者は「朝鮮人」又は「半島人」と表記する。外国人・その他はロシア人を含む第三国人、民族不明は満洲人だが民族が判らない者である。

1933年

城内及び商埠地人口(大同2年4月15日:特別市調査)[18]
内訳 合計
総人口 126,309人 77,197人 49,112人
満洲人 122,040人 74,463人 47,577人
日本人 1,519人 1,064人 455人
朝鮮人 1,234人 663人 571人
外国人 69人 48人 21人
民族不明 1,447人 959人 488人
附属地人口(大同2年3月末:新京日本警察署調査)[18]
内訳 合計
総人口 42,677人 28,144人 14,533人
満洲人 22,165人 16,869人 5,296人
日本人 17,288人 9,539人 7,749人
朝鮮人 2,765人 1,501人 1,264人
外国人 459人 235人 224人


1934年

首都警察庁管内人口(康徳元年9月末)[19]
内訳 合計
総人口 145,436人 88,542人 56,894人
満洲人 139,302人 85,054人 54,257人
日本人 4,418人 2,591人 1,827人
朝鮮人 1,678人 892人 786人
外国人 38人 14人 24人
附属地人口(昭和9年9月末:新京日本警察署調査)[19]
内訳 合計
総人口 58,459人 39,648人 18,811人
満洲人 26,288人 21,214人 5,074人
日本人 29,268人 16,721人 12,547人
朝鮮人 2,525人 1,517人 1,008人
外国人 378人 196人 182人


1936年

民政部調査(全満洲人口調査:康徳3年10月末)[20]
内訳 合計 特別市 附属地
新京全体 302,075人 237,723人 64,352人
満洲人 236,825人 209,991人 26,834人
日本人 57,663人 23,707人 33,956人
朝鮮人 6.806人 3,531人 3,275人
外国人 781人 494人 287人

1942年

新京特別市民族別人口表(康徳9年4月20日時点)[21]
内訳 人口
総人口 655,324人
満洲人 506,768人
日本人(朝鮮人含む) 147,724人
その他(蒙露を含む) 728人

1944年

新京特別市民族別人口表(康徳11年11月25日時点)[22]
内訳 人口
総人口 863,607人
満洲人 680,216人
日本人 153,614人
半島人 29,185人
その他 592人

特別市制

新京は、満洲国内で唯一の特別市であり、地方都市がそれぞれの省及び縣の管轄に属しているのに対し、新京特別市は省と同格とされ、直接国家の監督を受け省及び縣の行政範囲に属さなかった[23][24]。なお、長春縣に新京特別市は含まれないが、長春縣公署は新京特別市内に置かれている。

ちなみに、1933年(大同2年)7月1日から2年間、哈爾濱特別市が存在していたが[25]、1937年(康徳4年)7月1日に濱江省管轄の普通市に改編されている[26]

1933年(大同元年)8月17日の「特別市制」(大同元年教令第77号)施行により、満洲国の行政区分に於ける「特別市」が規定されたが、第2条「特別市ノ区域ハ別ニ之ヲ定ム」、第49条「特別市ハ教令ヲ以テ別ニ之ヲ指定ス」により特別市は別途指定されるとされた。そのため、1933年(大同2年)4月19日の「特別市指定ニ関スル件」(大同2年教令第23号)で新京が特別市に指定されて特別市区域が定められるまで、厳密には新京は満洲国の行政区分に於ける「特別市」には当たらない[27]。1937年(康徳4年)10月1日の「新京特別市制」(康徳4年9月30日勅令第279号)施行により「特別市制」は廃止され、改めて新京のみが特別市に指定されている。

特別市区域

新京特別市区域及び国都建設計画略図(1936年)

新京特別市の区域(国都建設計画区域)は、1933年(大同2年)の「特別市指定ニ関スル件」(大同2年教令第23号)により次の地域と定められた(現代仮名遣いに改めて句読点を追加。原文では「km」は「粁」と表記)。

  • 大同広場より北西7.6kmの崔家営子を北西端とし、之より東の上白子を経て約9kmの金銭堡を東北端の地点とする。
  • 金銭堡より南1.9km、王家皮舗を経て東1.5km、八里堡より南の吉林街道に至り、十里堡、靠山屯を経て更に南の柳貫竇子に至る。
  • 柳貫竇子より南10.5km、四河腰、逯家窩棚、三家子及び呉家店を経て西十里堡を南東端の地点とする。
  • 西十里堡より西の小朝陽溝を経て無名河に至る6.3kmの地点を南西端とする。
  • 南西端より北へ三家子、司家屯、二十五里堡、五弧林、大隋窩堡、李家屯、范家店、火李子及び車家窩棚を経て北西端の崔家営子に至る。

大同広場を中心に、南方は高野店付近の丘陵地、東方は石碑嶺付近、西方は小隋窩棚に及ぶ200km²の長方多角形の地域が特別市区域とされたが、その後、1937年(康徳4年)の「新京特別市制」(康徳4年勅令第279号)施行に伴い「大同2年教令第23号特別市指定ニ関スル件」は廃止され、以降は「新京特別市区域ニ関スル件」(康徳4年勅令第280号)等の勅令の別図(地図)によって市域が示されるようになった。なお「新京特別市竝ニ吉林省長春縣及通陽縣ノ区域変更ノ件」(康徳10年6月1日勅令第172号)では文章で市域が示されており、別図は付属しない。

行政範囲

前述の通り、新京の行政範囲は1933年(大同2年)時点で近郊を含めて200km²(6500万)に及び、従来の行政範囲である城内及び商埠地の約300余万坪と比較して約20倍に拡大された。1933年(大同2年)当時の城内、商埠地、満鉄附属地及び寛城子の面積は次の通りである[28]

市街地名 面積
城内 1,755,160坪
商埠地 1,631,982坪
満鉄附属地 1,528,118坪
寛城子 1,674,000坪

1937年(康徳4年)10月の「新京特別市区域ニ関スル件」(康徳4年9月30日勅令第280号)で双陽・長春両縣の一部を編入して市域が大幅に拡張され、同年12月の満鉄附属地の移譲[13]により総面積は437.65km²となった。1942年(康徳9年)4月20日時点では444.19km²まで拡張されている。当時の全市域の面積を大別すると、旧附属地6.24km²、旧市街(寛城子を含む)17.88km²、新市街地83.33km²、農村地区(長春縣管内より130km²、通陽縣管内より107km²)336.74km²、合計444.19km²となっている。

1943年(康徳10年)6月1日、建国神廟造営用地の決定に伴う行政区域の拡大に伴い、通陽縣及び長春縣の一部を編入して勧農区・春陽区を設置し、市域は938.29km²まで拡張された[29]

行政区

市区条例の実施に伴い、新京特別市の市域を複数の行政区に分け、それぞれに区長を設置した(「新京特別市制」第13条)。当初、区長は名誉職のため無給だったが、後に一部は有給となっている。

  • 1937年:吉野、興安、敷島、寛城、大経、長春、和順、順天、東光、東站、承徳、恵仁の12市街区、合隆、大屯、南河東、北河東、双徳、浄月の6農村区を設ける。
  • 1940年:敷島、寛城、長春、和順、順天、東光、承徳、恵仁の8市街区、合隆、大屯、南河東、北河東、双徳、浄月の6農村区に改編。
  • 1942年:敷島、寛城、長春、和順、順天、東光、西陽、安民、大同、東栄の10市街区、合隆、大屯、南河東、北河東、双徳、浄月の6農村区に改編。
  • 1943年:敷島、寛城、長春、和順、順天、東光、西陽、安民、大同、東栄の10市街区、合隆、大屯、南河東、北河東、双徳、浄月、勧農、春陽の8農村区に改編。

下記は1942年(康徳9年)4月20日時点に於ける各区の面積と人口を記したものである[30]

各区別面積及び人口表
区名 面積(km²) 人口(名)
大同区 3.570 107,128
長春区 3.960 139,726
敷島区 4.960 67,603
寛城区 11.900 25,221
東光区 15.920 27,720
順天区 8.640 59,962
安民区 21.700 8,079
西陽区 18.260 4,715
和順区 10.320 83,757
東栄区 8.520 41,805
浄月区 124.010 15,938
双徳区 50.120 12,785
大屯区 34.230 16,251
合隆区 39.310 36,990
南河東区 50.760 9,381
北河東区 38.310 8,803
合計 444.190 655,324

浄月区の面積が広大なのは、新京の水源として設けられた浄月潭貯水池(貯水面積4.7km²)とその水源林を含むためである。

行政組織

一般行政

1932年(大同元年)の「特別市制」(大同元年8月17日教令第77号)により、市長の下に総務処、行政処、工務処が設けられ、この他に議決機関として特別市自治委員会が設けられるとされた。その後1937年(康徳4年)の「新京特別市官制」(康徳4年6月27日勅令第179号)により、市長の下に副市長1人、処長5人が設置され、その下に官房、行政処、財務処、衛生処、工務処が設けられ、特別市自治委員会は廃止されている。その後、市行政機構改革により、市長の下に副市長が置かれ、その下に官房、行政処、実業処、衛生処、工務処、水道処が設置された。

また市政補助行政部門について、「新京特別市制」第13条による市政補助機関として区長が置かれ、区長の下に町(屯)会長を置いている。この下部組織は、1937年(康徳4年)12月1日の満鉄附属地の行政権移譲[13]を契機として、首都警察庁、満洲国協和会と図り、保甲制度の廃止に伴い実施された。1941年(康徳8年)2月、在来の町会を発展的解消して、協和会分会を以って町会事務を運営するよう改められた。

なお、満洲国建国当初、満鉄附属地の一般行政は南満洲鉄道長春地方事務所(後に新京地方事務所と改称)が所管していたが、1937年(康徳4年)12月に治外法権が撤廃されると、正式に新京特別市の行政区域に組み込まれた[13]

警察組織

城内及び商埠地の治安維持は、長春市長監督の下に長春市公安局が一般警察事務を担当し、また長春縣知事の指揮を受けた長春縣公安局が縣内の警察事務を司っていたが、1932年(大同元年)6月の「首都警察廳(庁)官制」(大同元年6月11日教令第29号)により同年10月に首都警察庁が正式に成立し[9]、新京特別市及び長春縣内を管掌する事となった[31]。首都警察庁は民政部直轄として新京特別市の警察、消防、警護に関する事項を管掌したが[32]、1940年(康徳7年)10月の「首都警察廳官制」(康徳7年10月23日勅令第259号)により新京特別市の外局とされて新京特別市長の管理に属し、市長の下に警察総監及び副総監が置かれ、その下に警務、特務、保安、刑事等の各科、敷島署、長春署、大同署等の各警察署、新京消防署、新京地方警察学校が置かれた。

満鉄附属地の警察行政は関東庁が管掌し、新京では長春警察署(後に新京警察署に改称)が居住民の安寧秩序維持の任に当たった。城内及び商埠地の居住日本人の警察行政は、長春日本総領事館警察署がその任に当たっていた。1937年(康徳4年)12月に治外法権が撤廃され、満鉄附属地の行政権が新京特別市に移譲されると、警察行政も新京特別市に移管された。

財政

新京は新興都市として、また一国の首都として飛躍的に発展し、市営事業収入、市有財産収入、課税収入のほかに市債借入、一時借入金等の方法で市財政を賄った。その経費は奠都の行われた1932年(大同元年)は69万5千に過ぎなかったが、1934年(康徳元年)に512万6千圓、1941年(康徳8年)に2339万6千圓、1944年(康徳11年)予算では9038万5668圓と1932年(大同元年)の経費と対比して約130倍と激増した[33]

交通

  • 鉄道:京濱線京図線、京白線の各満洲国有鉄道本線起点、南満洲鉄道連京本線終点。
  • バス:吉林、農安、伊通、双陽、双城堡、伏龍泉等には国営、交通会社、満洲自動車経営のバスが運行。
  • その他:市内電車、市内バス、タクシー、豆タク(小型タクシー)、馬車、洋車(人力車)等。

新京特別市の交通政策は、地下鉄道を市内交通機関の大根幹とし、路面にはバス、タクシー等を配置して補助交通機関とする方針が建てられていた。国都建設計画第二期事業が開始されると、日本内地で地下鉄について最も経験と技術があった大阪市電気局(現在の大阪市交通局)の技術陣を招聘し、半年を費やして地下鉄計画を作成した。市当局は1940年(康徳7年)度より全長12kmの工事着手を考えていたが、戦争による資材不足によりセメント配給が難しいため断念された。その代替としてトロリーバスの導入を検討したが、1941年(康徳8年)1月に路面電車の敷設が決定された。当初、路面電車は架空線が必要で騒音が大きく、また交通事故の危険があるため採用しない方針だったが、交通難緩和のために導入が決定され、都市美観の観点からメインストリートを避けたルートが選定された。同年6月着工、12月には第一期51kmが開通し、新京交通が運営した。1942年(康徳9年)度には第二期工事が進められ、総延長73kmに及んだ。

新京市街

新京特別市地図(1933年)

新京の市街は既成市街(旧長春市)と国都建設事業により造られた新市街に大別され、既成市街は南から城内(長春城)、商埠地、満鉄長春附属地、寛城子附属地と大きく4つに区分されていた。これらの地名はその後も通称として使用されていた。ここでは、既成市街それぞれの沿革も記述する。

新京既成市街

城内(長春城)

新京の地は、の黄龍府地、の済洲地、の兀良合部とされ、清朝に入りモンゴル族の公王(札薩克と呼ばれるジンギス汗の子孫)の領地である、内蒙古郭爾羅斯(ゴルロス)前旗に属する放牧地(蒙地)だった。当時、清朝は「柳条辺牆」と呼ばれる柵を設け、満洲平原の東側である満洲族故地への漢人・蒙古人の侵入を禁じる満洲封禁政策が執られていたが、満洲平原への漢人の入植が相次いでいた。

1791年乾隆56年)、郭爾羅斯前旗の公王が放牧地へ密かに漢人を入植させ、永年小作契約を結んで農地を開墾させた。伊通河右岸に「長春堡」が建設されると、1800年嘉慶5年)7月に吉林将軍管轄下の「長春廳(庁)」が新立屯に設置された。1825年道光5年)、長春庁の所在地が南に偏在していたため、北方の寛城子(後の長春城)へ移転したが、名称は変わらず長春庁と称した。これが長春の起源であり、別名を寛城子と称した所以とされている。

1865年同治4年)、匪賊の襲撃を防ぐために地元商人らが資金を集め、独力で周囲20支里[34]、高さ1丈5尺の城壁(長春城)を築き、後に「城内」と呼ばれる市街地を形成した。なお、1920年頃までに城壁はその多くが撤去されている。満洲国建国後、新市街に新庁舎が完成するまで、交通部、立法院、監察院、総商会、中央銀行等の仮庁舎がこの区域に存在した。

商埠地

商埠地とは1905年(光緒31年/明治38年)に「日清満洲善後条約」第1条に準拠して、清が外国人居留地として自ら指定・開放した地域である。長春は同条約1条で、遼陽、吉林、哈爾濱、満洲里等と共に16ヵ所の開埠通商(外国人に交易地として開放)の都市のひとつとされた。

長春の商埠地は、1909年(宣統元年)に満鉄附属地により商業的地位が脅かされると考えた現地官憲が、長春城北門外と満鉄附属地の間及び附属地を囲む土地を買収して設置したものである。これは満鉄附属地への対抗策として設けられたものだったが、商業者の移住を奨励し、満鉄附属地と城内を結びつける役割を果たすことにより、長春全体の発展に貢献した。

なお、商埠地及び城内に於いても主要な道路は整備されていたが、市街地外の道路は殆ど整備されておらず、降雨時には馬車が泥濘に嵌まるような悪路も多かった。商埠地は西の大経路、東の大馬路(北門外大街から改称)の二大道路を基軸としており、附属地及び城内に通ずる幹路としている。これに数十条の道路を以って市街を形成していた。最も活況を呈したのは大馬路で、道の両側に大小の商店が軒を連ね、満鉄附属地の日本橋通と連絡して長春駅に達していた。

満洲国建国後、道路橋梁の修築や新道路の建設、上水道を整備して市街が再整備された。新市街整備まで満洲国政府の重要機関も概ねこの区域に存在した。

寛城子

1901年(光緒27年)、ロシア帝国の国策会社である東清鉄道(後の中東鉄路)により東清鉄道南満支線が敷設され、長春城から北西の二道溝に駅が設置された。長春の旧称から寛城子駅と名付けられ、駅周辺を取り囲む553ヘクタールに及ぶ長方形の土地が「東清鉄道寛城子附属地」とされた。なお、寛城子駅周辺の地名が正式に「寛城子」となったのは鉄道附属地となってからである。

1936年(康徳3年)1月、満洲国が北満鉄路(中東鉄路)をソビエト連邦から買収した事に伴い、それまでソ連(ロシア)の管理下だった鉄道附属地が満洲国に編入され、これにより寛城子附属地も正式に新京特別市の行政区域に組み込まれた。

満鉄付属地

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満鉄付属地の繁華街・吉野町
新京ヤマトホテル

1905年(明治38年)にロシア帝国と締結したポーツマス条約により、日本は長春(寛城子)から旅順に至る東清鉄道南満支線を譲渡され、南満州鉄道(満鉄)と改名した。またロシアが“鉄道保護に必須の土地”として東清鉄道沿線で獲得していた鉄道附属地も日本に譲渡され、“満鉄附属地”と改称した。

この時、鉄道の分割点を巡って日露両国の意見が対立した。日本は寛城子駅での分割を主張したが、ロシアは寛城子駅を含まない長春以南での分割を主張し、寛城子駅及び附属地は日本と共有する事を提案した。1907年4月に分割点を孟家屯北方4kmの八里堡(後の南新京駅付近)と決定し、寛城子駅び附属地は日露共有とした上で、実際の便宜上ロシアの占有に帰する事とし、56万3193ルーブル[35][36]でロシアに有償譲渡した[37]

満鉄は寛城子駅及び附属地を得る事ができず、新たに長春に停車場を設けるため、長春城の北側、寛城子附属地の南東側に位置する「頭道溝」と呼ばれる一帯の買収に着手した。

当時、頭道溝付近は僅か十数戸の農家が点在する一面の高粱畑に過ぎなかった。1907年(明治40年)3月、満鉄は城内に進出していた三井物産を通じて用地買収を実施したが、途中で現地官憲に発覚したため、日清両国政府間の外交交渉を経て、改めて現地官憲と用地交渉が開始された。買収価格は現地商埠公司の標準買収価格(日本円に換算して1坪あたり約10に相当)に若干上乗せを行い、立木・建物への補償も行った。同年9月までに買収が完了し、買収地は“満鉄長春附属地”と命名された。買収総面積は150万3448坪7[38]、買収代金は33万875円74銭(坪あたり平均22銭強)に上り[39]、この他に郭爾羅斯前旗王府にも上納金を納め、買収総額は約40万円となっている。

その後、水源地用に伊通河支流沿いの北方隣接地、日本領事館用に商埠地の一部(1万坪)を買収したため、1912年(明治45年)までに満鉄附属地の面積は152万8085坪となった。1932年(昭和7年)に国都建設区域に連なる地域(飛行場、練兵場、官舎用地等:西部附属地と通称)を買収して、1933年(昭和8年)までに面積は210万6900坪まで拡がっている。

1906年(明治39年)に設立された南満洲鉄道株式会社は、1907年(明治40年)4月1日に鉄道の引継ぎを受け、寛城子駅と長春城の中間地(満鉄長春附属地の北部)に長春停車場(長春駅)の建設を開始し、同年8月31日に孟家屯と寛城子の間に仮停車場[40]を設け、東清鉄道との接続運輸を開始した。同年11月3日の長春駅竣成に伴い貨物業務を開始、次いで12月2日から旅客業務を開始した。1909年(明治42年)2月22日から東清鉄道との接続運輸も長春駅で開始した。

長春駅の建設に合わせて市街地建設も着手し、1908年(明治41年)に第一期の市街計画が立案された。街路は矩形式街路と4本の斜路によって構成され、短辺60(109m)、長辺120間(218m)の長方形を標準に、地形に応じて形状を変更した。

長春駅南側に半径50間(91m)の円形広場(北広場)を設け、この広場を中心に放射状に道路網を建設した。駅前広場から南方に長春大街(1920年代に中央通に改称)、それに並行する道路として、西一條街~西三條街、東一條街~東六條街の街道、斜路として東斜街(後の日本橋通)、西斜街(後の敷島通)、広安街(後の大和通)、慎徳街(後の八島通)が設けられ、街路と斜路の交点には西広場、東広場(後に南広場に改称)、北角広場(後に東広場に改称)等の広場が設けられた。また南端には西公園(後に児玉公園と改称)が設けられた。中央通は幅員20間(36m)、日本橋通は幅員15間(27m)で建設されたが、商埠地と結ばれた日本橋通沿いに商店が建ち並んで発展した。

満鉄は電気・ガス・上下水道のインフラを整備し、日本領事館(後に商埠地側の新取得地に移転)、病院、学校、公園等の公共施設、長春ヤマトホテル、満鉄事務所、憲兵隊分遣所、警察署、郵便局等を建設した。市街地造成後、公共用地以外の土地は華人を含む民間に有料で貸付けられた。1920年代末には附属地人口は26,000人に達していた。

なお、新京特別市が成立した後も暫くは満鉄付属地として存続し、1937年(康徳4年)12月の治外法権撤廃により、正式に特別市の行政下に置かれている。

新京新市街

新京特別市地図(1936年)

1932年(大同元年)3月、満鉄経済調査会に於いて新京都市計画の立案が開始された。一方、同年4月1日に満洲国国務院直属の「国都建設局」が設置され、新京の地形測量及び地籍測量と国都建設の立案を開始した。同年8月、関東軍特務部の主催による、関東軍・満鉄・満洲国国務院の3者による連合打合会が開催され、満鉄経済調査会と国都建設局の両案が比較された。執政府及び官庁街の位置を巡って満鉄経済調査会、国都建設局の双方が対立したが、同年11月17日、満鉄経済調査会案を取り入れた国都建設局の最終変更案が決定された。また、事業開始に先立ち、国都建設計画区域内及びその周囲一円内に対する地債売買禁止令を発布し、民間に於ける土地の売買・担保等が禁止され、土地の買い占めや地価高騰等の弊害を除去した。

新京の都市計画は満鉄附属地を基準に、新京駅(長春駅から改称)前から南に延びる中央通を更に南に延長し、大同大街と呼ばれる大通りを建設した。途中には大同広場と呼ばれる大ロータリーが建設されて新京の都心とされた。大同広場の西方には執政府(後の帝宮)造営地が設けられ、その南面を東西に興仁大路、南方へ順天大街と呼ばれる幹線道路が造られた。政治の中枢は順天大街から南方の安民広場に亘る官庁街、文化・教育中枢は南嶺地区、交通の中枢は新京駅と孟家屯駅との中間に新設する中央大停車場(後の南新京駅)を建設して市の玄関口とした。また、東方の伊通河沿岸を区画して工業地域とし、市民を煤煙と騒音から遠ざけるようにした。その他に、国際飛行場、国際大運動場、競馬場、建国大記念塔、大記念門、建国記念公会堂等の建設が計画された。

財務部、文教部、司法部、外交部、国都建設局、国道局等の諸官庁は新市街に建設され、国務院、首都警察庁等の大建築物の建設も行われた。なお、満洲国官吏の多くもこの区域に住居を建設した。

新京の公園、広場、街路の名称は、建国の理想を如実に表現し得るもの、及び満洲国内各地の名称中で含蓄、余韻があるもので、音調宜しく記憶しやすい物を選定し、1933年(大同2年)4月19日付で布告された[41]。また、建設計画区域内の村落で適当な名称は、その因縁を考慮して該当地点の街路名に保留採用した。

国都建設計画

新京の国都建設計画は、国務院国都建設局による第一期事業5ヵ年計画と、新京特別市臨時国都建設局による第二期事業3ヵ年計画に分けられる。第二期事業終了後は、新京特別市の通常の建設行政として市街の建設が進められた。

新市街の建設にあたっては佐野利器など後藤新平の弟子筋の技術官僚が多く活躍した。ほとんど更地からの建設であり、新技術を何の障壁もなく投入して建設でき、上下水道始め社会基盤(インフラ)は内地に比べ立派に整備された。敷設された道路の道幅は非常に広く、狭いといわれた道でさえ自動車同士がすれ違える程だった。

国都建設計画第一期事業

国都建設計画事業第一次施行区域図(1934年)

国都建設計画第一期事業は、30年後の予想人口50万人の都市を目指して、国務院国都建設局により1933年(大同2年)3月から1937年(康徳4年)12月までの5ヵ年計画、国庫特別会計3400万圓を投じて実施された。

「国都建設計画法」(大同2年4月19日教令第24号)第2条により、新京特別市の区域(約200km²)を以って国都建設計画区域とされた。それに先立って「国都建設事業区域ニ関スル件」(大同2年1月24日国務院指令第3号)により、国都建設事業区域は下記のように指定されている。

国都建設計画区域(特別市区域) 約200km²
近郊隣接地 約100km²
国都建設事業区域 約100km²
実際事業除外区域 南満鉄道付属地 約5km²
中東鉄路付属地 約4km²
将来逐次整理区域 商埠地 約4km²
長春縣城内 約8km²
国都建設計画事業面積 約79km²

満鉄附属地及び寛城子附属地は、行政上その性質を異にするため「実際事業除外区域」とされ、商埠地及び長春縣城内などの既存市街地は、取り急ぎ建設事業の執行を必要としないため「将来逐次整理区域」とされた。これらを除いた「国都建設計画事業面積」は約79km²とされ、このうち官公用途10km²、私用途10km²の合計20km²(後に21.4km²に改定)が執行区域とされた。

国都建設計画区域内では、一般人による独占的買収・その他人為的騰貴を防止するため、1932年(民国21年)2月1日付の吉林省令(土地売買禁止令)を公布して、長春を中心とする30支里以内の民間による土地売買が禁止された。同時に収穫等による土地の算出価格を基礎として、妥当適切な土地買収価格を決定した。これにより最終的に面積100km²に及ぶ広大な地域の買収に当たり、土地収用令の適用を必要としなかった。

国都建設局は事業区域の民有地を買収し、道路、上下水道、その他施設を建設して市街地に整備した後、公用・公共用地以外の土地については、原則として一般競争入札により払い下げた。小売商店街では、一筆を間口12m、奥行き30mの360m²(約110坪)とし、必要に応じて隣接地との合筆も許可した。商館、卸売等の大建築を要する幹線道路沿いでは、一筆を1650m²(約500坪)としている。

住宅地は、地域に応じて第一級(875m²:約265坪)から第四級(330m²:100坪)に分かれており、一筆が狭ければ隣接地との合筆も可能だった。また宅地の背後に幅4m - 6mの背割道路を設け、道路に面さない宅地は存在しないよう区画整理されたので、物資の搬出入には極めて便利だった。

国都建設計画第一期計画区域では、払い下げ価格は目抜きの商店街で坪20 - 25圓、住宅地で坪8圓前後と予想された。これは国都建設局によると、当時の大連郊外の住宅地で坪25 - 60圓、繁華な商店街で千圓近い地価であり、第一期計画区域が新京市街の中心を成す事を考えると「破格の値段」であり、「国都建設局は全然利益を目的とするものではない」としている[42]

区画された市街地は、事業の着手が早かった北部から南部へ順に売却された。1933年(大同2年)度に大同広場、興安大路、豊楽路、安達街一帯、1936年(康徳3年)度には興仁大路、吉林大路、伊通河東方の一帯が払い下げられた。伊通河東方の一帯(和順街)は、主に買収地域に居住していた農民の移転用地や一般満洲人の新規取得地として想定され、幹線道路の吉林大路で城内と結ばれている。

国都建設計画第一期事業は計画通り完成し、1937年(康徳4年)9月に大同広場で国都建設紀念式典が挙行され、大同大街ではパレードが行われた。

国都建設計画第二期事業

第一期事業の完成に伴い、国都建設事業は国の直轄事業から新京特別市の事業に移管された。1937年(康徳4年)12月27日勅令により、新京特別市の外局として臨時国都建設局が設置され、翌1938年(康徳5年)1月1日から3ヵ年計画で第二期事業が開始された。第二期事業は第一期事業実施区域内の整備充実と残余工事の完成を主目的としていたが、新京の人口増加が著しく、市街地の膨張傾向が窺えたため、1939年(康徳6年)度から方針を変更し、既設区域の整備と共に人口増加に対処すべく、事業費の許す限り区域外への拡張事業に従って、宅地造成、道路築造、上下水道その他施設の応急的施行を実施する事とした。また、南嶺一帯の文化都市化が検討され、国立総合運動場の改修、動植物園、協和広場、大学の整備が決定された。

1941年(康徳8年)12月、第二期事業終了により国都建設事業の特別会計は廃止され、臨時国都建設局は新京特別市の工務処に吸収された。以降は新京特別市の一般財源による通常の建設行政として都市建設が行われた。なお、1930年代末から新京の人口増加が著しくなり、1941年(康徳8年)には計画人口の50万人を突破してしまい、従来の国都建設計画では急激な都市化に対応出来なくなってきたため、臨時国都建設局内で計画の改定作業が進められ、1942年(康徳9年)2月に計画人口100万人、市街計画区域を従来の100km²から160km²に改め、環状道路近くまで市街を拡大する事とした。市街計画区域の外周は緑地帯(グリーンベルト)で囲まれて市街地の膨張を遮断しており、人口が100万人を超す場合は、緑地区の外に衛星都市を建設して対処する事とした。また、大房身地区の帝宮用地は廃止され、住宅地に変更されている。

国都建設概況

街路

新京の街路は、放射状、環状、方形式の街路を巧みに組み合わせたもので、大同広場や駅を基準に放射状道路を設け、それを囲むように環状道路を配した。また、大同大街、順天大街などのメインストリート沿いは二線直角を原則とした方形式の街路を配した。

また、街路方向の一般観念を示すため、南北方向を「街」、東西方向を「路」とし、幅員38m以上のものはそれぞれ「大街」「大路」と称した。また、補助道路は最寄りの街路を採って「胡同」と称した[43]。なお、斜路については、北東 - 南西方向を「街」、北西 - 南東方向を「路」としている。

新京の都市計画では、街路を幹線、支線、補助線の3つに区分し、幹線は24 - 80m、支線は10 - 18m、補助線はそれ以下の幅員(最低幅員4m)とした。幹線、支線はすべて車道歩道に分けられ、幹線道路の車道は、中央を自動車バス等の高速度車用、その両側を馬車人力車等の緩速車用に分離し、さらにその両端を安全な歩道とした。各道の間には街路樹が植えられて区切られている。

幅員60mの幹線の場合、中央部に幅16mの遊歩道が設けられ、その両外側に幅12m(3車線)の道路が併設され、更に両端に幅10mの歩道が設置されていた。また遊歩道と歩道は街路樹による緑地帯で車道と区切られていた。幅員45mの幹線の場合、幅16m(上下4車線)の中央高速車道の左右に、それぞれ幅2.5mの樹林帯、幅6mの緩速度車道、幅6mの歩道が設けられた。幅員26mの幹線の場合、幅18mの車線の両側に幅4mの歩道が設けられた。

幅員10m以上の道路は総て舗装され、交通の頻繁な主要道路は瀝青舗装(アスファルト及びタールマカダム舗装)、荷馬車専用道路は荷重に耐えられるよう小舗石又は硬質煉瓦舗装、歩道の主要部分はコンクリート板石張りとされた。14m以上の街路は必ず街路樹で両側を飾り、同時に美観を保つために電信電話電灯用の電柱や架空線その他の一切の路上施設を禁じて地下配管とし、宅地の背後にある裏通り(背割道路)に電気・電話の架設線、上下水道管・ガス管を設置した(電線類地中化)。なお、市街地建設中の箇所については暫定的に架空線の設置を許可している。

これらの道路建設には、当時の日本でも珍しかったブルドーザーモーターグレーダーロードローラー、牽引式スクレイパー等の建設機械が投入されている。

環状道路

1933年(大同2年)に軍部の要請により、新京防衛のため外周部に環状道路が建設された(国務院国道局施工)。これにより匪賊及び抗日ゲリラの襲撃が激減し、治安状況が改善した。後に環状道路の沿道では植樹が行われ、新京のグリーンベルトを形成した。なお、新京北西部及び南部には、これとは別に環状緑地帯が設けられている。

上下水道

上水道

旧長春時代の水飢饉に鑑みて、新京の水源獲得は喫緊の課題だった。そのため国都建設局は満鉄の協力を得て水源調査を実施し、地下約100mに一大地下水層を発見した。1932年(大同元年)9月、大同公園内に深井戸を築造したのを始めとして、新京各地20箇所に水源井を設け、1日あたり11,000の涌水能力を保持したが、地下水による給水量にも限度があり、改めて新京全人口に対する水道計画樹立を認め、新京市街から南東12kmにある伊通河支流の小河台河を堰き止めて貯水池を設けた。堰提の長さ550m、貯水面積4.7km²、総工費350万圓、1933年(大同2年)10月に現地調査を開始し、1934年(康徳元年)5月着工、1935年(康徳2年)10月(附帯設備は11月)に完成した貯水池は「浄月潭」と命名された。

上水道は1937年(康徳4年)末の第一期建設事業の完成に伴い、市水道科に引き継ぎ施行された。1936年(康徳3年)1月に於ける1日の給水能力は32,000m³を保持したが、1939年(康徳6年)度より給水量の不足が感じられたため、1940年(康徳7年)に3ヵ年継続事業として工費713万圓を投じて第2次拡張工事を実施した。浄月潭貯水池からの取水量を10,000m³増加し、更に伊通河地表水を1日20,000m³取水して合計30,000m³に増加、これに伴う浄化送配水設備を増設し、既存の分と併せて合計62,000m³を確保した。しかし、新京特別市の異常な発展により給水量の増加が著しく、計画給水量1日62,000m³を即に消費しつつあったため、抱擁人口100万人を目標に1942年(康徳9年)度より第3次拡張工事として飲馬河の流水採取を企画した。

なお、浄月潭貯水池の上流には水源林を目的とした植樹が行われ、現在では中国最大級の人工林とされている。1988年に「浄月潭国家森林公園」に指定され、浄月潭と併せて中国国家風景名勝区中国国家4A級旅游景区等に指定されている[44]

下水道

新京では、国都建設局顧問の佐野利器の強い要望により、新市街全域で水洗便所の普及を実施した。当時の中国大陸の各都市では一般的に便所が存在せず、井戸に汚物が流れ込むなど極めて不衛生だった。新市街においては建築規則に基づき強制的に実施して、100%の便所の水洗化が達成され、アジア初の水洗便所が全面普及した都市となった。汚水は伊通河河畔の汚水浄化施設で処理された後、河川に放流された。

下水道は新市街では汚水と雨水を分ける分流式が全面的に採用され、その他の地域では合流式が採用された[45]。雨水は新市街を流れる伊通河支流を堰き止めた人口湖(雨水調整池)に蓄えられ、非常水源として確保された。また、伊通河支流は総て親水緑地帯とされ、人工湖を利用した臨水公園が建設された。この結果、新京は世界最高水準の緑化・親水都市の様相を呈するに至った。

下水道は1937年(康徳4年)末の第一期建設事業の完成に伴い、土木科に引き継がれて管理経営すると同時に、新設も土木科で行う事とされた。下水道計画は地形に応じて9箇所の独立した排水区域に分割し、更に50余りの排水系統に分けて、分流式及び合流式により伊通河へ放流した。下水工事の完成区域は、1943年(康徳10年)時点で安民大路、至聖大路以北の殆ど全市にわたり、敷設延長は43万mに及んでいる。

市街地域

市街地域は住居商業工業の三地域に大別され、特に住居地域は住居専用地域を設定して工場の設置を厳重に制限した。商業地域(卸売地域、小売地域、商館地域)は原則として路線式を採用した。工業地域(準重工業、軽工業)は、伊通河の水流と風向きを考慮して市街地東北部に指定された。特に重工業地域は東方の伊通河沿岸を区画整地し、煤煙と騒音が市域に及ばないように配慮された。農村地域は郊外公園或いは生産緑地として緑化を助長し、農耕、山林、牧場等の指定により、無秩序な市街化の防止に考慮されている。

国都建設計画事業区域に於ける建築活動は、「国都建設局建築指示条項」(国都建設局指示第1号)により規制され、建築物の構造、形態、工事執行手続きが定められた。これにより建築物の高さは全市域に亘って22m以下(塔部を除く)とされ、オフィスビルと大型商業建築物は、道路との境界から10 - 15m後退して建設するよう指導した。その後「国都の目抜通りに高低の揃わない建物が歯の抜けた櫛のように並ぶのは都市美観上からも国都の面目にかけても面白くない」ため、広場及び主要道路に美観地区(甲種・乙種・丙種・丁種・戊種及び特殊の6区分)を指定して、主要道路に面した建築物の軒高を規制した。この他に風致地区も指定されている。

人口密度は住居地域に於いて、一平方キロメートルに付き第一級4000人(宅地875m²)、第二級5000人(宅地770m²)、第三級10,000人(宅地440m²)、第四級12,000人(宅地330m²)とされ、商業地域の密度は12,000人とされた。新京特別市全体では一人当り占有面積が約180平方メートル(約55坪)とされた[43]

大同大街

新京の市街地を南北に縦断する全長7.5kmに達する大通り。新京駅前のロータリーから始まる中央通は、西公園(1938年(昭和13年)11月3日に児玉公園と改称)付近で幅員がそれまでの36mから54mに拡がり、「大同大街」と名前を変えて市街地南端の建国忠霊廟建国大学まで達していた。

大同大街には関東軍司令部兼在満洲国日本大使館[46]関東局・関東憲兵隊司令部[47]や、第三庁舎(財政部、後に建築局)、民生部、蒙政部(後に国務院官用需品局、水利電気建設局が使用)等の官庁の他、三菱康徳会館、三中井百貨店、大興ビル(満洲興業銀行本店)、東京海上ビル[48]東洋拓殖ビル(満州重工業開発本社が入居)等の商業ビルが建ち並び、新京のメインストリートを形成した。これらの建物は、前述の建築指示により軒高が揃うように建設されている。

大同広場

大同広場は新京駅の南2.5km(満鉄付属地南端から1km)に位置し、道路を含む直径300m、外周約1kmの大ロータリーで、中心部に直径200mの公園広場が設けられている。「特別市指定ニ関スル件」(大同2年教令第23号)で新京特別市の区域が明文化されているが、大同広場を基準に区域が指定されているように、大同広場は新京の都心に位置付けられている。また、満洲国の水準原点は大同広場の中央に設置されており、1934年(康徳元年)に、大連湾の中等海水面に基づいて標高が218.170mと定められている。

大同広場からは、放射状に長春大街(東北東方面)、興安大路(西北西方面)、建国路(西南西方面)、民康大路(東南東方面)の各幹線道路が延びており、大同広場の外側を天安路と煕光路が六角形に囲んでいた。これらの街路に囲まれた用地には、満洲中央銀行総行(本店)[49]満洲電信電話会社[50]、第一庁舎(国都建設局・文教部の後、新京特別市公署[51]、第二庁舎(司法部・外交部の後、首都警察庁[52]等の大型公共施設が建設された。

順天大街

帝宮造営地から順天広場を抜け、安民大街、至聖大路の交点にあたる安民広場まで一直線に南へ延びる順天大街は、全長1.7km、幅員60mを誇る大通りで、満洲国政府各機関が建ち並ぶ官庁街として建設された。沿道には国務院や軍政部[53]、司法部、財政部[54]、交通部の庁舎が建設された。南端には安民広場と呼ばれる大ロータリー(道路を含む直径244m)が設けられ、広場に面して綜合法衙(そうごうほうえ[55])が置かれた。これらの建築物は吉林大学の学舎や病院等として現在も使われており、八大部」(偽満洲国の八大統治機構[56])として吉林省重点文物に指定されている。

宮殿

宮内府正門
勤民楼
緝煕楼
仮宮殿・同徳殿
国務総理大臣官邸

執政府(後の帝宮)造営地は国都建設計画策定時、新京の地形及び執政・溥儀の「絶対南面[57]」の要望から大房身、杏花村、南嶺の3箇所に限定され、最終的に既存市街に近い杏花村が選定された。

執政府

1932年(大同元年)3月9日の溥儀の執政就任式は、臨時執政府に指定された旧吉長道尹公署で行われた。同年4月3日、執政府は旧商埠地北東部の高台にある旧運局跡[58]へ移転した。敷地面積は4万3000m²、旧運局の建物は「勤民楼」「緝煕楼」(しょうきろう)と名付けられた。

宮内府

1934年(康徳元年)3月1日の帝制移行に伴い、執政府は宮内府と改められた。宮内府は溥儀が政治活動を行う「外廷」と日常生活を過ごす「内廷」に分かれ、現在は偽満皇宮博物院(吉林省重点文物)として一般に公開されている。

外廷(皇宮)の主要な建物として、「勤民楼」、「懐遠楼」、「嘉楽楼」があり、勤民楼では溥儀が公務を執り、各種の典礼が行われた。懐遠楼には宮内府の事務部門と清朝歴代皇帝の祭祀を司る「奉先殿」が設けられた。内廷(帝宮)は溥儀とその家族の生活区域で東西両院に分かれており、西院に「緝煕楼」、東院に仮宮殿「同徳殿」が建設された。緝煕楼は溥儀と皇后婉容の住居とされ、日常生活を過ごしていた。

仮宮殿

新宮殿建設が長期間となることから、宮内府敷地内に仮宮殿が建設された。東洋式外観の仮宮殿の設計は、営繕需品局営繕処宮廷造営科長の相賀兼介が担当し、施工は戸田組が行った。1937年(康徳4年)施工、1938年(康徳5年)末に竣工し「同徳殿」と命名されたが、関東軍の盗聴を恐れて溥儀自身は使用しなかった。後に同徳殿には側室李玉琴(福貴人)の住居が置かれた。また、同徳殿の南側に満洲民族の故地である長白山の風景をイメージした築山が築かれ、築山林泉回遊式庭園が造られた。

新宮殿

かつての杏花村に定められた帝宮造営地は、東西約450m、南北約1200m、馬蹄形で総面積は51万2000m²。南側は興仁大路に面し、東西はそれぞれ東万壽大街と西万壽大街で囲われている。正門前から順天大街が南へ延びており、官庁街を形成していた。造営(設計・施工)は営繕需品局営繕処宮廷造営課[59]が担当し、造営予算は約1400万圓、8ヵ年連続事業として1938年(康徳5年)9月に着工して建設が進められた。

宮廷用地は3つの区域から構成されており、南部の正門外広場である「順天広場」、中部の政殿を中心とする「内廷」、北部の西洋風回遊式庭園の「宮苑」に大別された。政殿は東西220m、高さ31m、鉄骨鉄筋コンクリート造り2階建で、屋根瓦は清朝宮殿と同様の黄金色の瑠璃瓦が葺かれ、外壁は花崗石張り、内装は大理石仕上げの壮大な東洋式建築物だった。政殿は構造物は完成したものの、戦争の激化による建築資材不足に配慮して1943年(康徳10年)1月に建設が中断された。この建物は中華人民共和国が設計図を元に4階建で完成させて長春地質学院教学楼として使われ、「地質宮」と通称された。現在は吉林大学地質博物館として一般公開されている。

また帝宮造営地に隣接して、国務総理大臣官邸等が建設されている。

帝室保留地

大房身地区と南嶺地区の帝宮候補地は、杏花村に帝宮が定められた後も帝室保留地(皇宮関係用地)として残されていた。そのうち、南嶺地区は文教地区として国立総合運動場や動植物園、大学等の用地として整備された。満鉄連京本線西側の大房身地区は、将来新京が拡大した際の本宮殿造営地として、200ヘクタールに及ぶ“帝宮保留地”が計画されていたが、数度に亘り建設計画が見直され、最終的に1942年(康徳9年)の国都建設計画の改定で本宮殿の建設計画は廃止され、住宅地に変更されている。

脚注

  1. ^ 『満洲国政府広報日譯』第53号、1932年(大同元年)10月7日、14頁
  2. ^ a b 大同元年4月1日国務院佈告第1号「満洲国国都ヲ長春ニ奠ム」(大同元年3月10日)
  3. ^ a b 大同元年4月1日国務院布告第2号「国都長春ヲ新京ト命名ス」(大同元年3月14日)
  4. ^ 『満洲年鑑』等では「新京市政公署」の記述も見られる。
  5. ^ 『満洲年鑑』昭和20年(康徳12年)版、1944年、389頁
  6. ^ 新京商工公会刊『新京の概況 建国十周年記念発刊』2頁
  7. ^ 新京特別市公署『新京市政概要』12-13頁、新京商工公会刊『新京の概況 建国十周年記念発刊』1-7頁、『満洲年鑑』昭和20年(康徳12年)版 389-390頁、他を参照。
  8. ^ 吉長道伊公署の改称年等、幾つかの記述は実際と異なるが、前掲資料に基づいた。
  9. ^ a b 首都警察廳正式成立ノ件(大同元年10月18日民政部訓令第286号)
  10. ^ 「大同元年十一月一日ヨリ新京ノ各郵電局台ノ名称ヲ改ムル件」(大同元年10月22日交通部佈告第3号)
  11. ^ それまでは住所表記等で、依然「長春」の名称が使用されていた。
  12. ^ 「新京特別市区域ニ関スル件」(康徳4年9月30日勅令第280号)
  13. ^ a b c d 「新京特別市ノ区域ニ関スル件」(康徳4年12月1日勅令第401号)
  14. ^ 1941年(康徳8年)1月1日に双陽縣と伊通縣を廃止して通陽縣が設置された。
  15. ^ 「新京特別市竝ニ吉林省長春縣及通陽縣ノ区域変更ノ件」(康徳10年6月1日勅令第172号)
  16. ^ 国務院国都建設局『國都大新京』
  17. ^ 新京特別市公署『新京市政概要』7頁
  18. ^ a b 新京特別市公署『新京案内』9-10頁
  19. ^ a b 新京特別市公署『新京市政概要』7-11頁
  20. ^ 満州日日新聞、1937年1月16日
  21. ^ 新京商工公会刊『新京の概況 建国十周年記念発刊』18-19頁
  22. ^ 『満洲年鑑』昭和20年(康徳12年)版、1944年、389頁
  23. ^ 特別市制(大同元年8月17日教令第77号)第1条「特別市ハ法人トシテ直接国ノ監督ヲ承ケ省ノ行政範囲ニ入ラス(後略)」
  24. ^ 自治縣制(大同元年7月5日教令第55号)第2条「縣ハ特別市ヲ包含セス」。
  25. ^ 「特別市指定ニ関スル件」(大同2年6月21日教令第51号)
  26. ^ 「特別市指定ニ関スル件廃止ニ関スル件」(康徳4年6月27日勅令第142号)
  27. ^ 長春が特別市と称したため「新京」に改称後も特別市と称していた。1933年(大同2年)7月1日以前の哈爾濱特別市も同様。
  28. ^ 新京特別市公署『新京市政概要』6頁
  29. ^ 『満洲年鑑』昭和20年(康徳12年)版(1944年、390頁)による。『満洲年鑑』昭和19年(康徳11年)版(1943年、408頁)では772.44km²と記されている。
  30. ^ 新京商工公会刊『新京の概況 建国十周年記念発刊』16-17頁
  31. ^ 後に「首都警察廳官制中改正ノ件」(康徳4年9月30日勅令第282号)により、新京特別市のみを管轄とした。
  32. ^ 「首都警察廳官制」(大同元年6月11日教令第29号)第2条及び第4条
  33. ^ 『満洲年鑑』昭和20年(康徳12年)版、1944年、390頁
  34. ^ 1支里は500mに相当。
  35. ^ 南満洲鉄道株式会社編『南満洲鉄道株式会社十年史』63頁
  36. ^ 新京特別市長官房庶務科編『國都新京』康徳7年版(1940年、6頁)では56万393ルーブルと記されている。
  37. ^ 「日露鐵道接続仮条約附属議定書」第一條による。
  38. ^ 三井物産名義の買収:33万4196坪、中国側官憲経由の買収:108万9272坪、条約による無償収納:2万9997坪、ロシアからの引継ぎ:1万9608坪、未詳地3万383坪。
  39. ^ 新京商工公会刊『新京の概況 建国十周年記念発刊』8頁
  40. ^ 仮長春駅。長春駅開業後、西寛城子駅と改称したが、その後廃止されている。
  41. ^ 「国都建設計画区域内ノ新設公園広場等ノ名称」(大同2年国都建設局佈告第3号)、『満洲國政府広報日譯』第127号、1933年5月3日、13-14頁
  42. ^ 国務院国都建設局『國都大新京』(日譯)24-25頁
  43. ^ a b 国務院国都建設局『國都大新京』
  44. ^ 長春浄月潭人民網日本語版、2010年3月26日
  45. ^ 分流式は1939年当時の日本国内でも3ヵ所(東京市麹町区の一部、京都、岐阜)のみで、部分的な採用だった。
  46. ^ 現在は中国共産党吉林省委員会。吉林省重点文物。
  47. ^ 現在は吉林省人民政府。吉林省重点文物。
  48. ^ 現在は長春市中心医院。長春市重点文物。
  49. ^ 現在は中国人民銀行長春中心支行。吉林省重点文物。
  50. ^ 現在は長春人民広播電台と使われている。長春市指定文物。
  51. ^ 爆破解体され、現在は中国共産党長春市委員会の建物が建つ。
  52. ^ 現在は長春市公安局として使われている。吉林省重点文物。
  53. ^ 1937年(康徳4年)に「治安部」に改組。
  54. ^ 1937年(康徳4年)に「経済部」に改組。
  55. ^ 最高法院、最高検察庁、新京高等法院及び高等検察庁の合同庁舎
  56. ^ 治安部(軍事部)、司法部、経済部、交通部、興農部、文教部、外交部、民生部の総称
  57. ^ 中国古来の都城が宮殿正面を南に面し、正門から南へ直線道路が延びて官庁街を形成した伝統による。日本の平城京平安京も同様。
  58. ^ 旧運局跡は『満洲國政府広報邦譯』による表記。旧吉黑榷運局公署(塩専売の役所)。
  59. ^ 1939年(康徳6年)に建築局第二工務処宮廷造営科に改組。

参考文献

  • 国務院総務庁『満洲國政府広報邦譯』、1932年(大同元年)
  • 国務院総務庁『満洲國政府広報日譯』、1932年(大同元年) - 1933年(大同2年)
  • 国務院総務庁『政府広報日譯』、1934年(康徳元年) - 1935年(康徳2年)
  • 国務院総務庁『政府広報』、1936年(康徳3年) - 1945年(康徳12年)
  • 国務院国都建設局『國都大新京』(日譯)、1934年(康徳元年)
  • 満洲経済事情案内所編『國都・新京事情』、満洲文化協会會、1933年(昭和8年)4月20日初版発行
  • 新京特別市公署『新京案内』、1933年(大同2年)6月10日発行
  • 新京特別市公署『新京市政概要』、1934年(康徳元年)11月20日発行
  • 新京商工公会刊『新京の概況 建國十周年記念發刊』、1942年(康徳9年)8月30日発行
  • 日本図書センター刊『満洲年鑑』8-11《植民地年鑑》(満洲日報社『満洲年鑑』の復刻)、2000年 ISBN 4-8205-2835-1
  • 越沢明『満洲国の首都計画 ―東京の現在と未来を問う―』第3刷、日本経済評論社、1997年 ISBN 4-8188-0259-X

関連項目

外部リンク