「クリストファー・コロンブス」の版間の差分

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'''クリストファー・コロンブス'''(Cristoforo Colombo、{{lang-en-short|Christopher Columbus}}、[[1451年]]頃 - [[1506年]][[5月20日]])は[[定説]]の上では[[イタリア]]の[[ジェノヴァ]]出身の[[探検家]]・[[航海者]]・[[コンキスタドール]]、[[奴隷]]商人。[[大航海時代]]において[[キリスト教世界]]の白人としては最初に[[アメリカ州|アメリカ]]海域へ到達したひとりである。


[[日本語]]では「クリストファー・コロンブス」の表記が定着しているが、他国語では通用しないことが多い。英語読みでは'''コロンバス'''である。これは当時の公文書のラテン語式表記の'''クリストフォルス・コルンブス'''(Christophorus Columbus)に由来する。
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'''クリストファー・コロンブス'''('''Cristoforo Colombo'''、英語式表記は'''Christopher Columbus''' , [[1451年]]頃 - [[1506年]][[5月20日]])は[[定説]]の上では[[イタリア]]の[[ジェノヴァ]]出身の[[探検家]]・[[航海者]]・[[コンキスタドール]]、[[奴隷]]商人。[[大航海時代]]において[[キリスト教世界]]の白人としては最初に[[アメリカ州|アメリカ]]海域へ到達したひとりである。


[[日本語]]ではクリストファー・コロンブス」の表記が定着しているが、他国語では通用しないことが多い。英語読みでは'''コロバス'''ある。これ当時の公文書のラテン語式表記の'''クリストフォ・コブス'''(''Christophorus Columbus'')に由来する。
また出身地とされているイタリアでは'''クリストーフォロ・コロン''' (Cristoforo Colombo)、スペインでは'''クリストーバル・コン'''(Cristóbal Colón)と呼ばれる。

また出身地とされているイタリアでは'''クリストーフォロ・コロンボ''' (''Cristoforo Colombo'')、スペインでは、'''クリストーバル・コロン'''(''Cristóbal Colón'')と呼ばれる。


署名は '''Xpo Ferens''' (the cross bearer の意)と読める<ref>[http://danmcquiddy.blogspot.com/2009/10/xpo-ferens.html Xpo Ferens の説明]</ref>。
署名は '''Xpo Ferens''' (the cross bearer の意)と読める<ref>[http://danmcquiddy.blogspot.com/2009/10/xpo-ferens.html Xpo Ferens の説明]</ref>。


==ジェノヴァ時代==
== 生涯 ==
=== 前歴 ===
===生誕===
コロンブスは、1451年8月25日から10月末までの間に、ジェノヴァもしくはその近郊で生まれたという説が有力<ref name="hayashiya-kaisetsu278-280">[[#林屋、解説|林屋、解説p.278-280 (1) 生い立ち]]</ref>だが、これについては異説も多く、はっきりした事は解らない。ともに[[毛織物]]職人一家で育った父ドミニコ・コロンと母スサナ・フォンタナローサの間にはクリストファーを含み7人の子供がいたが、上の2人の子は若くして死亡したと考えられ、何の記録も残っていない<ref name="hayashiya-kaisetsu278-280" />。弟は1~2歳下に[[バルトロメ・コロンブス|バルトロメ]]と17歳下にジャコモ(後にディエゴと呼ばれる)、妹は2人いたが記録に残るのはピアンチネータだけである<ref name="hayashiya-kaisetsu278-280" />。父は毛織物業を自営していたが一家は決して裕福ではなく、[[ワイン]]や[[チーズ]]の売買も行っていた。
[[ファイル:ColombusMap.jpg|350px|thumb|コロンブスの地図(1490)]]
[[毛織物]]業を営むドメニコ・コロンボの息子として[[1451年]]に生まれたとの文書があるが、これについては異説も多く、はっきりした事は解らない。出身地に関しても[[スペイン]]、[[イタリア]]北部等諸説がありはっきりしていない。学会では少数ながら[[ユダヤ人]]の出身であるという説も唱えられている。若い頃から航海に関わっていたようではあるが、これも良く解らない。[[エーゲ海]]の[[キオス島]]へ交易航海に出たりしたといわれるが、はっきりしない。最近、[[ポーランド王]]の実の息子であるという説が出てきてDNAによる調査が開始される模様である(後節参照)。


[[ファイル:Colombus genoa.jpg|180px||thumb|ジェノヴァにあるコロンブスのモニュメント]]
[[1476年]]に航海に出た際に、乗船が戦争に巻き込まれて沈没し、弟のバルトロメがいる[[リスボン]]に身を寄せたという。[[アジア]]を目指していたかどうかは杳として解らないが、[[1477年]]に[[大西洋]]の向こう側の知識を求め[[アイスランド]]へ渡航した。<!--アイスランド・[[サーガ]]を閲覧する為か?-->[[1479年]]に結婚している。その後約一年間、[[マデイラ諸島]]のひとつに住み、1480年代の初めには少なくとも一回は、[[ギニア]]と[[ゴールドコースト]]まで航海をした<ref>「人物アメリカ史(上)」p15 ロデリック・ナッシュ著/足立康訳 新潮選書</ref>。
===海とのかかわり===
コロンブスと海とのかかわりは10代の頃から始まった。最初は父親の仕事を手伝って船に乗り、1472年には[[ルネ・ダンジュー|アンジュー公ルネ]]から対立する[[アラゴン王国]]の[[ガレー船]]・フェルナンディア号拿捕の命を受けた船に乗って[[チュニス]]に向かったという説もある<ref group="注">これはコロンブスがカトリック両王に送った手紙の断片をフェルナンドが記録したものにあるが、この説明には矛盾がある。航海当時20歳前後のコロンブスが船長を務めるには若すぎる事([[#笈川|笈川p23-24]])、[[サルジニア]]で敵の艦隊が見つかったため北へ引き返そうとする船員たちを、[[方位磁針]]の文字板を南北逆にして騙し南へ向かったという点に、[[太陽]]の位置から船員らが方角を間違えるはずが無い([[#笈川|笈川p23-24]]、[[#ルケーヌ|ルケーヌp25-28]])という点が指摘されている。しかしルケーヌは、スペインと敵対した行為を、しかも標的が「フェルナンディア号」であったことをスペインの「フェルナンド2世」が読む手紙に自らへの心象を傷つける可能性がありながら記している点から、脚色を含みつつも航海そのものは事実だったと推察している([[#ルケーヌ|ルケーヌp28-29]])。</ref>。1475年から翌年にはジェノヴァのチェントリオーネ家に雇われ<ref name="masuda17-22">[[#増田|増田p.17-22 海に出る]]</ref><ref group="注">[[#笈川|笈川p27]]では「1478年から翌年」とあるが、同箇所には乗船が沈没しポルトガルに渡った時を「1476年8月」と明記しており、矛盾がある。</ref>、ロクサーナ号で<ref name="oikawa27-29">[[#笈川|笈川p.27-29 ポルトガル領、聖ヴィセンテ岬に漂着]]</ref>[[エーゲ海]]の[[キオス島]]へ行って乳香([[マスチック]])取引に関わったと、第一次航海誌にて述べている。


1476年5月にはチェントリオーネ家やスピノラ家、ディ・ネグロ家などジェノヴァ商人団に雇われ、乳香を[[イギリス]]や[[フランドル]]へ運ぶ商船隊に参加し、ベカッラ号に乗り込んだ。しかし8月13日<ref name="oikawa27-29" />、この船団が[[ブルゴーニュ]]の旗を掲げていたため、[[ポルトガル]]の[[サン・ヴィセンテ岬]]沖で当時敵対していた[[フランス]]艦船から攻撃を受け、船が沈没した。コロンブスは[[櫂]]につかまって泳ぎ、ポルトガルのラゴス[[:en:Lagos, Portugal|(en)]]まで辿り着いた。なお、コロンブスが乗船していたのはフランスと[[カタルーニャ州|カタルーニャ]]連合の船であり、いわばジェノヴァ船団を攻撃した側にいたという主張もある<ref group="注">[[#ルケーヌ|ルケーヌp32]]でルケーヌは、この海戦は本当はフランス・カタルーニャ連合に加わっていたカズノヴ・クーロン船長の私掠船にコロンブスが乗っていた際の戦いを指していたものを、同郷人の船を襲った良心の呵責から偽って1485年に起こった別の海戦の内容へ差し替えたと主張している。</ref>
このリスボンで[[エラトステネス]]や[[パオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリ|トスカネッリ]]の[[地球球体説]]に影響され、自分の航海経験を加味して西へ西へ進み続ければアジアへと到達できるという考えに達した。この時にコロンブスが想定していた地球像は実際のものより2割ほど小さいものであった。


==ポルトガル時代==
=== 船出 ===
===リスボンでのコロンブス===
[[1484年]]、[[ポルトガル]]の[[ジョアン2世 (ポルトガル王)|ジョアン2世]]に航海のための援助を求める。ジョアン2世はこの提案を専門家に相談し、これを断った。コロンブスの航海距離の見積もりが短すぎる(2,400マイル, 3,860 km)というのがその理由であった。[[1488年]]に再び提案を行ったが、再度断られた。その頃ポルトガルは[[バルトロメウ・ディアス]]がアフリカの[[喜望峰]]に達して帰国したばかりであり、わざわざ新しい航路を開拓しなくても[[インド]]に着くと考えられていたからである。ポルトガルは自身を必要としていないと考えたコロンブスは、[[1486年]]に[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]の[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル1世]]とその夫[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド5世]]([[アラゴン王国|アラゴン]]王としてはフェルナンド2世)にも援助を願い出るが、良い返事は得られなかった。
彼はジェノヴァ人共同体の助けを借りて[[リスボン]]へ移った<ref name="hayashiya-kaisetsu278-280" />。この時期は1477年春以降と考えられる<ref name="hayashiya-kaisetsu280-282">[[#林屋、解説|林屋、解説p.280-282 (2) ポルトガルでの滞在]]</ref>。そこには、[[地図]]製作に従事する弟のバルトロメが住んでいた。コロンブスは弟と一緒に地図作成や売買をしながら、たびたび航海にも加わっていた。1477年2月にはイギリスの[[ブリストル]]を経て[[アイルランド]]の[[ゴールウェイ]]そして[[アイスランド]]まで向かった。アイスランドには、かつて[[ヴァイキング]]が[[北アメリカ]]に植民地を築いたという「[[ヴィンランド]]伝説」があったが、コロンブスがこの伝承を耳にしたかどうかは判っていない<ref name="oikawa36-38">[[#笈川|笈川p.36-38 「ヴィンランド」伝説]]</ref>。


1479年末頃、コロンブスはフェリパ・ペレストレリョ(ペレストレーロ<ref name="oikawa40-42">[[#笈川|笈川p.40-42 名家の娘、フェリパと結婚]]</ref>)・エ・モイス(またはフェリパ・モニス・ペレストレロ<ref name="Lequenne43-48">[[#ルケーヌ|ルケーヌp.43-48 弟のように、彼も地図製作者になる]]</ref>)と[[結婚]]した。なりそめはロス・サントス修道院のミサで彼女を見初めたという<ref name="hayashiya-kaisetsu278-280" />。しかし、フェリパの父は[[マデイラ諸島]]にある[[ポルト・サント島]]の世襲領主バルトロメウ・ペレストレリョ(ペレストレーロ)であり、いわば[[貴族]]階級の女性であった。この釣り合わない結婚の背景には、フェリパが25歳という、当時としては晩婚と言える年齢であった事、父バルトロメウは20年前に死去し、以後のペレストレリョ家は没落しており持参金を準備できなかった事、逆にコロンブスは航海士・地図製作者として一定の成功を収めていた事などがあったと考察されている<ref name="oikawa40-42" /><ref name="Lequenne43-48" /><ref name="masuda23-27">[[#増田|増田p.23-27 ポルトガルとコロンブス]]</ref>。
当時のスペインでは[[イスラム]]勢力が占拠する[[グラナダ]]を攻めるために準備を整えていて、余裕がなかったためである。しかし[[1492年]][[1月2日]]に、スペインはグラナダを攻め落とし[[レコンキスタ]]を完遂すると、「地理上の発見」のための財政上の余裕ができ、またポルトガルに対する対抗心も手伝い、フェルナンド国王の財務長官であった[[ルイス・デ・サンタンヘル]]を初めとしたスペイン王室は、コロンブスに援助を与えることに決めた。4月17日、フェルナンドとイザベルは正式にコロンブスと契約した。イザベルは宝石まで与えたが、それは自身の指輪一つだけだったとも言われている。


===西廻り航海の着想===
結婚後は妻のゆかりの地ポルト・サント島(またはマデイラ島)に夫婦で行くこともあり、1480年頃にそこで長男[[ディエゴ・コロン|ディエゴ]]に恵まれた。1481年ディオゴ・デ・アザンプージャ[[:en:Diogo de Azambuja|(en)]]が [[西アフリカ]]を南下し、[[エルミナ城]]を築く航海に出ているが、これにコロンブスが加わり[[ギニア]]と[[ゴールドコースト]]まで行った<ref>「人物アメリカ史(上)」p15 ロデリック・ナッシュ著/足立康訳 新潮選書</ref>と考えられている。ポルトガル側にこれを証拠付ける資料は無いが、コロンブスは第一次航海の日誌([[バルトロメ・デ・ラス・カサス]]編纂)にて西アフリカの情景を引き合いに出しているところや<ref name="masuda23-27" />、所蔵していた[[ピエール・ダイイ]]著『イマゴ・ムンディ(世界像)』の「熱帯地方には人間は住めない」という箇所に「実際に行ってみたが、熱帯にも人は住んでいた」と書き込んでいる<ref name="oikawa38-39">[[#笈川|笈川p.38-39 「熱帯にも人が住んでいた」]]</ref>点がその根拠とされる。

また、当時のある事件をラス・カサスは『インディアス史』(第一巻十四章)に記している。それは、マデイラ島に漂着した白人漂流者がいたというものである。この漂流者はポルトガル交易船員だったが、嵐のために[[キューバ]]まで流されてしまい、船を修理して東へ出航したが生きてマデイラ島に辿り着いた数名はほとんどすぐ死に、最後の一人をコロンブスが保護したが、やがて彼も亡くなった。『インディアス自然一般史』(Historia General y Natural de las Indias)を著したフェルナンデス・オヴェイド[[:en:Gonzalo Fernández de Oviedo y Valdés|(en)]]も1535年にこの説話を懐疑的ながら採録している。コロンブス自身が著述したどの文章にもこの話は書かれていないが、ラス・カサスはこの事件がコロンブスをして西廻り航路の発想に至らす原点になったと述べている。<ref group="注">[[#笈川|笈川p.98-100]]、ただし[[#増田|増田p.75]]では西アフリカ航海中に漂流者を拾い上げたとある。</ref>

この頃、コロンブスは積極的に[[スペイン語]]や[[ラテン語]]などの[[言語]]や[[天文学]]・[[地理]]そして航海術の習得に勤めた。仕事の拠点であるリスボンで彼は[[パオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリ]]と知り合う機会を得て、手紙の交換をしている。当時はすでに[[地球球体説]]は一般に信じられていたが、トスカネッリは[[マルコ・ポーロ]]の考えを取り入れ、大西洋を挟んだヨーロッパとアジアの距離は[[プトレマイオス]]の試算よりもずっと短いと主張していた。『東方見聞録』にある[[黄金]]の国・[[ジパング]]に惹かれていたコロンブスはここに西廻りでアジアに向かう計画に現実性を見出した。また、現存する最古の地球儀を作ったマルティン・ベハイム[[:en:Martin Behaim|(en)]]とも交流を持ち意見を交換した説もある<ref>[[#笈川|笈川p.116-118 ベハイムとコロンブスのかかわり]]</ref><ref group="2-">アントニオ・デ・ヘレラ『インディアス一般史』17世紀</ref>。これらの収集情報や考察を経てコロンブスは西廻り航海が可能だとする5つの理論根拠を構築した。ラス・カサス『インディアス史』(第5章)に記載されたその内容は、<ref>[[#笈川|笈川p.100-101 5つの根拠]]</ref>
#地球は球体であり、西に進めば東端にたどりつく。
#地球の未知の部分はアジア東端から[[カーボベルデ|ベルデ岬諸島]]以西だけになった。
#2世紀の[[ギリシア]]人地理学者のマリヌス[[:en:Marinus of Tyre|(en)]]はヨーロッパからアジアまでは地球の15/24に当たる。したがって未知の領域は9/24=約1/3となる。
#マリヌスが認識していたアジアは(当時認識されていたという意味で)現在のアジア東端までに比べれば狭い。したがって未知の領域はさらに狭くなる。
#9世紀の[[イスラム]]人天文学者[[アルフラガヌス]]は経度1度=約56.6マイルと計算した。したがって未知の領域は56.6×360/3=約6.800マイル。しかもこれは赤道上であり北寄航路ならば距離はさらに縮まる。
この考えの根底には[[アリストテレス]]の地理観を引き継いだ中世[[キリスト教]]の[[普遍史]]観から、世界はヨーロッパ・アジア・アフリカの3大陸で成り立っていという概念がある。地球の大きさについても、北緯28度におけるカナリア諸島から[[日本]]までを実際の10,600[[海里]]に対しコロンブスは2,400海里と、非常に小さく見積もっていた<ref>[[#笈川|笈川p.126-128 実際の距離ははるかに長く]]</ref>。

===王室への提案===
1484年末頃<ref group="注">[[#増田|増田p.28]]では1483年末。</ref>、コロンブスはポルトガル王[[ジョアン2世 (ポルトガル王)|ジョアン2世]]に航海のための援助を求めた。自信に溢れた弁舌に<ref group="2-">ポルトガル王室付き歴史家ジョアン・デ・バロス(1496年 - 1570年)『アジア』</ref>、ジョアン2世は興味をそそられた<ref name="masuda28-36">[[#増田|増田p.28-36 西廻り航海の構想]]</ref>。コロンブスは資金援助に加え成功報酬も求めたが、高い地位や権利、そして収益の10%という大きなものだった<ref group="注">ラス・カサス『インディアス史』にある内容だが、これは後にスペイン王室と結んだサンタフェ条約とまったく同一であり、[[#笈川|笈川(p45)]]はラス・カサスが誤った可能性を示唆している。</ref>。王室は数学委員会(フンタ・ドス・マテマティコス)の諮問にかけて検討したが、回答は否決だった。コロンブス以前にも大西洋への航海は何度か試みられたがすべて失敗し、一方でアフリカ探検はディオゴ・カンが[[コンゴ王国]]との接触に成功し<ref name="masuda28-36" />[[喜望峰]]に達する寸前まで来ていたこと、さらにコロンブスの要求があまりに過剰だと受け止められたことも影響した<ref name="Lequenne48-49">[[#ルケーヌ|ルケーヌp.48-49 コロンブスはジョアン2世に、冒険を試みるために「許可状」と船を求めた]]</ref>。

再度コロンブスは提案を上奏したが決定は覆らず<ref name="Lequenne48-49" />、ジョアン2世はコロンブスが自費で航海をするならばよいと言うのみだったが、コロンブスにはそのような資金が無く<ref name="masuda28-36" />借金さえ抱えていた<ref name="hayashiya-kaisetsu280-282" />。この頃、コロンブスは妻フェリパを亡くし、1485年中頃、8年間過ごしたポルトガルに別れを告げる決心をつけた<ref name="hayashiya-kaisetsu280-282" />。

==スペイン時代==
コロンブスはリスボンから海路、スペインの[[パロス・デ・ラ・フロンテーラ|パロス]]に着いた。そこから彼は[[ウエルバ]]のティント川沿いの丘に建つラ・ラビダ修道院を訪ねた<ref group="注">この行動について、[[#ルケーヌ|ルケーヌp.50]]は亡き妻フェリパの姉妹が当地におり、その伝を頼ったという。同書では、修道院長のフアン・ペレス・デ・マルチェーネ神父はポルトガル人で、この姉妹と面識があった可能性を示唆している。</ref>。5歳の息子ディエゴを伴ったみすぼらしい姿の彼を、修道院長のフアン・ペレス・デ・マルチェーネ神父は招き入れた。そこでコロンブスの話を聞いたペレス院長は感銘を受け、彼を天文学者でもある<ref name="oikawa45-48">[[#笈川|笈川p.45-48 ポルトガルからスペインへ]]</ref>[[セビリア]]のアントニオ・マルチェーナ神父へ紹介し、そこへ向かうために息子デォエゴを修道院で預かった。さらにコロンブスはメディナ・シドニーア公ドン・エンリケ・デ・グスマン<ref name="masuda28-36" />、そしてメディナ・セリ公(伯爵<ref name="oikawa45-48" />)ドン・ルイス・デ・ラ・セルダ<ref name="masuda28-36" />と面会する機会を得た。メディナ・セリ公は興味を抱き、コロンブスが求めた数隻の船や食料など3,000-4,000[[ドゥカート]]相当の物資を準備することに合意した<ref name="oikawa45-48" /><ref group="2-">ラス・カサス『インディアス史』</ref>。

[[ファイル:ColombusMap.jpg|300px|thumb|コロンブスが作成したと言われる地図。これは19世紀に発見されたものだが、アイスランドとフェローズ諸島の位置が逆になっているなど、疑問も提示されている。<ref name="Lequenne51-54">[[#ルケーヌ|ルケーヌp.51-54 落胆と困窮のうちに、5年間の歳月が流れた]]</ref>]]
===カトリック両王への売り込み===
コロンブスへの援助に同意したメディナ・セリ公は、しかしこのような計画は王室への許可を得るべきだと考え[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]の[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル1世]]へ計画を知らせると、彼女自身がこれに興味を覚えた<ref name="masuda28-36" />。1486年5月1日<ref group="注">[[#ルケーヌ|ルケーヌp.51]]によると「4月または5月」</ref>、メディナ・セリ公が紹介してコロンブスは[[コルドバ]]でイサベル1世とその夫[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]([[カトリック両王]])に謁見した。コロンブスの話しにフェルナンド2世はあまり興味を持たなかったが、イサベル1世は惹きつけられた。計画は、懺悔聴聞師のエルナンド・デ・タラベラ(フライ・エルナンド・デ・タラベーラ)神父を中心とする諮問委員会が設けられそこで評価されることになった。1486年だけで二度<ref group="注">[[#林屋、解説|林屋、解説p.283]](第1回会議は1486 年夏にコルドバにて、第2回は同年に[[サラマンカ]]にて)に準拠する。[[#増田|増田p.33]]は1486年秋と1487年春と表記。[[#笈川|笈川p.49]]は増田が示す場所のみ表記し、時期には触れず。</ref>委員会は開かれたが、特にコロンブスが示したアジアまでの距離が疑問視され、結論は持ち越された。

メディナ・セリ公の支援を受けながらコルドバの彼の城に滞在しカトリック両王との面談を模索していた時期、コロンブスは[[医師]]や学者らと交流と持ち、この中の一人から当時20歳(または21歳)の小作人の娘[[ベアトリス・エンリケス・デ・アラーナ]]を紹介された<ref name = "Columbus essay1"> [http://www.megaessays.com/viewpaper/10276.html Christopher Columbus essay] </ref>。ふたりは恋愛関係となり、1488年8月15日に[[フェルナンド・コロンブス|フェルナンド]]が生まれた。だが、コロンブスはベアトリスと正式に結婚しなかった。

スペイン王室からは一向に判断が届かなかった。委員会長のタラベラやメンバーのひとり[[ドミニコ会]]のディエゴ・デ・デサらはコロンブスに好意を持ち、委員会が否定的結論を出そうとすると引き伸ばしにかかっていた<ref name="masuda28-36" /><ref group="注">委員長のタラベラが取った態度について、文献に差がある。[[#増田|増田p.33-34]]では「コロンブスに好意的」と言う。ところが[[#ルケーヌ|ルケーヌp.53]]では、サンタフェ条約締結後にタラベラはイサベル1世に手紙を送り、世界の果てを越えることは神に対する不遜な行為であり、コロンブスを[[異端審問]]にかけるよう主張したとある。</ref>。これに抉れたコロンブスはポルトガルのジョアン2世に手紙を送ったが、[[バルトロメウ・ディアス]]の[[喜望峰]]発見もあり、話が纏まることはなかった<ref group="注">[[#増田|増田p.34-36]]の内容に準ずる。[[#笈川|笈川p.50]]ではジョアン2世はコロンブスを招待したが喜望峰の件で頓挫したと、[[#林屋、解説|林屋、解説p.283]]ではコロンブスはポルトガルに向かい再度謁見したが同じ理由で立ち消えになったとある。[[#ルケーヌ|ルケーヌp.53-54]]では、手紙の返事にジョアン2世は旅券を送ったが、コロンブスは用心深くポルトガルに向かわなかったとある。</ref>。また弟バルトロメを[[イギリス]]の[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]や[[フランス]]の[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]の元に差し向け、計画の宣伝をさせた。いずれの王からも支持は得られなかったが、シャルル8世の姉[[アンヌ・ド・ボージュー]]の歓待を得てバルトロメは[[フォンテーヌブロー]]の宮殿に数年間滞在した<ref name="hayashiya-kaisetsu282-285">[[#林屋、解説|林屋、解説p.282-285 (3)スペインでの7年間]]</ref>。しかしこれらの行動も実を結ばなかった。

一方のスペイン王室は、1489年5月12日付けでコロンブスが王室に謁見する時に必要な宿泊費を無料にする通達を出す<ref name="hayashiya-kaisetsu282-285" />など不規則ながら金銭的援助を行い<ref name="Lequenne51-54" />、決して彼を邪険にしていた訳ではなかった。しかし1490年、タラベラの委員会は提案に反対する結論を出した。コロンブスは諦め気味にパロスに戻り、ラ・ラビダ修道院に向かった。話しを聞いたペレス院長はコロンブスを慰留し、イサベル1世の側近セバスチャン・ロドリゲスを頼り、王室に再検討を促した。この動きへの反応はわずか2週間後、コロンブスの下に王室の書簡が届き、旅金を添えて出頭するよう勧告する内容があった。提案の検討はカスティリャ枢機院に移された。

[[ファイル:Elizabeth1SpainSacramentoCA.jpg|180px||thumb|イザベル1世とコロンブス。カリフォルニア州議事堂]]
しかし1491年、枢機院もまた案を否決した。コロンブスはこれで万策尽きたと、弟バルトロメが滞在するフランスへ向かう決意を固めた。ここに、[[ルイス・デ・サンタンヘル]]が登場し、状況を一変させた。[[財務大臣|財務長官]]であった彼は女王説得に乗り出し、コロンブスが提示した条件は見込める収入からすれば充分に折り合い、また必要な経費も自らが都合をつけると申し出た。元々興味を持っていたイサベル1世はこれで勢いを得てフェルナンド2世を説き伏せ、スペインはついにコロンブスの計画を承認した。この時、コロンブスはまさにフランスへ向けてグラナダを出発したところだった。女王の伝令は彼を追いかけ、15kmほど先のピノス・プエンテ村の橋の上でコロンブスに追いついた。この橋には、劇的とも言える出来事を解説する銅版がある<ref>[[#笈川|笈川p.52-53 西航計画、実現]]</ref>。

===サンタフェ契約===
1492年4月17日、[[グラナダ]]郊外の[[サンタフェ (アンダルシア州)|サンタフェ]]にて、コロンブスは王室と「サンタフェ契約」を締結した。その内容は、
#コロンブスは発見された土地の終身提督(アルーランテ)となり、この地位は相続される。
#コロンブスは発見された土地の副王(ピリレイ)及び総督(ゴベルナドール・ヘネラール)の任に就く。各地の統治者は3名の候補をコロンブスが推挙し、この中から選ばれる。
#提督領から得られたすべての純益のうち10%はコロンブスの取り分とする。
#提督領から得られた物品の交易において生じた紛争は、コロンブスが裁判権を持つ。
#コロンブスが今後行う航海において費用の1/8をコロンブスが負担する場合、利益の1/8をコロンブスの取り分とする。
というものだった。<ref>[[#林屋、訳注|林屋、訳注p.254-255 (6)]]</ref>

航海の経費は、ルイス・デ・サンタンヘルが中心となって調達された。彼は、警察機構サンタ・エルマンダーの経理担当であったジェノヴァ人フランチェスコ・ピネリと協力して140万[[マラベディ]]を、さらにアラゴン王国の国庫から35万マラベディを調達しコロンブスに提供した<ref name="masuda37-42">[[#増田|増田p.37-42 イザベル女王の決断]]</ref>。これは、イサベル1世が戴冠用宝玉を担保に供出することを防ぐことが目的だった<ref>{{cite web|url= http://www.amuseum.org/jahf/virtour/index.html#santangel |title= Luis de Santangel|publisher=JEWISH-AMWRICAN HALL OF FAME|accessdate=2010-03-15}}</ref>。コロンブスは25万マラベディを調達したが、これはメディナ・セリ公やセビリアのフィレンツェ人銀行家ベラルディなどから借金をしてかき集めたものだった<ref name="Lequenne58-60">[[#ルケーヌ|ルケーヌp.58-60 これほど大それた冒険だというのに、資金の心細さは前代未聞だった]]</ref>。

== 航海 ==
=== 船出 ===
1492年[[8月3日]]、[[大西洋]]を[[インド]](インディア)を目指して[[パロス・デ・ラ・フロンテーラ|パロス]]港を出航した。この時の編成は[[キャラベル船]]の[[ニーニャ号]]と[[ピンタ号]]、[[キャラック船|ナオ船]]の[[サンタ・マリア号]]の3隻で総乗組員数は約90人(120人という説も)。
1492年[[8月3日]]、[[大西洋]]を[[インド]](インディア)を目指して[[パロス・デ・ラ・フロンテーラ|パロス]]港を出航した。この時の編成は[[キャラベル船]]の[[ニーニャ号]]と[[ピンタ号]]、[[キャラック船|ナオ船]]の[[サンタ・マリア号]]の3隻で総乗組員数は約90人(120人という説も)。


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=== 「新大陸」上陸 ===
=== 「新大陸」上陸 ===

[[ファイル:Columbus routes.png|300px|thumb|コロンブスの航路]]
[[ファイル:Columbus routes.png|300px|thumb|コロンブスの航路]]
そして[[10月11日]]の日付が変わろうとする時、ピンタ号の水夫が陸地を発見した。翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領して[[サン・サルバドル島]]と名づける(サン・サルバドルという名前には、「聖なる救世主」という意味がある。この名前は、上にあるように船内が荒れていた時に発見し、ほっとして思わず付けてしまったという説もある。又以前スペインに滞在した際、近くの教会の名をつけた)。
そして[[10月11日]]の日付が変わろうとする時、ピンタ号の水夫が陸地を発見した。翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領して[[サン・サルバドル島]]と名づける(サン・サルバドルという名前には、「聖なる救世主」という意味がある。この名前は、上にあるように船内が荒れていた時に発見し、ほっとして思わず付けてしまったという説もある。又以前スペインに滞在した際、近くの教会の名をつけた)。
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[[黒人]]作家の[[w:Ishmael Reed|イスマエル・リード]]はこう発言している。「コロンブスの上陸をきっかけに、人類の災厄が起こったということがありうるでしょうか? たとえばオゾンがどんどん減っていくことで地球は暖まります、そして、熱帯雨林は破壊されますね?」<ref>『First Things』(Dinesh D'Souza、1995年)</ref>
[[黒人]]作家の[[w:Ishmael Reed|イスマエル・リード]]はこう発言している。「コロンブスの上陸をきっかけに、人類の災厄が起こったということがありうるでしょうか? たとえばオゾンがどんどん減っていくことで地球は暖まります、そして、熱帯雨林は破壊されますね?」<ref>『First Things』(Dinesh D'Souza、1995年)</ref>


== 出自に関する諸説 ==
== その他 ==
コロンブスに関してはその出自が明らかではない事、また大航海の目的自体があまり明確に語り継がれていない事等から様々な異聞が流れている。また、残されている肖像画は全て本人の死後に描かれたものであり、今となってはコロンブスの真の素顔を知る術は無い。
コロンブスに関してはその出自が明らかではない事、また大航海の目的自体があまり明確に語り継がれていない事等から様々な異聞が流れている。また、残されている肖像画は全て本人の死後に描かれたものであり、今となってはコロンブスの真の素顔を知る術は無い。


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[[ナショナル・ジオグラフィック]]がこれに強い興味を持ち、プロデューサーを急遽スペインとポルトガルに派遣している。<ref>http://www.prnewswire.com/news-releases/polish-king-in-exile-was-christopher-columbus-true-father-110810919.html</ref>
[[ナショナル・ジオグラフィック]]がこれに強い興味を持ち、プロデューサーを急遽スペインとポルトガルに派遣している。<ref>http://www.prnewswire.com/news-releases/polish-king-in-exile-was-christopher-columbus-true-father-110810919.html</ref>


=== 「コロンブスの卵」 ===
== 「コロンブスの卵」 ==
「新大陸発見」を祝う凱旋式典で「誰でも西へ行けば陸地にぶつかる。造作も無いことだ」などとコロンブスの成功を妬む人々に対し、コロンブスは「誰かこの卵を机に立ててみて下さい」と言い、誰も出来なかった後でコロンブスは軽く卵の先を割ってから机に立てた。「そんな方法なら誰でも出来る」と言う人々に対し、コロンブスは「人のした後では造作もないことだ」と返した。これが「'''コロンブスの卵'''」の逸話であり、「誰でも出来る事でも、最初に実行するのは至難であり、柔軟な発想力が必要」「逆転の発想」という意の故事で今日使われているが、逸話自体は「後世の創作である」とする説が一般的である。
「新大陸発見」を祝う凱旋式典で「誰でも西へ行けば陸地にぶつかる。造作も無いことだ」などとコロンブスの成功を妬む人々に対し、コロンブスは「誰かこの卵を机に立ててみて下さい」と言い、誰も出来なかった後でコロンブスは軽く卵の先を割ってから机に立てた。「そんな方法なら誰でも出来る」と言う人々に対し、コロンブスは「人のした後では造作もないことだ」と返した。これが「コロンブスの卵」の逸話であり、「誰でも出来る事でも、最初に実行するのは至難であり、柔軟な発想力が必要」「逆転の発想」という意の故事で今日使われている。

しかし、[[ヴォルテール]]は『習俗論』(第145章)にてこれは[[建築家]][[フィリッポ・ブルネレスキ]]の逸話が元になった創作だと指摘し、会話の内容などもそのまま流用されていると説明した<ref>[[#ルケーヌ|ルケーヌp.154-155 コロンブスの卵の真実]]</ref>。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{commons|Christophorus Columbus}}
{{commons|Christophorus Columbus}}
* 航海に参加した船
** [[サンタ・マリア号]] - [[新大陸]]への最初の航海における旗艦
** [[ピンタ号]] - 新大陸への最初の航海に参加。船長は[[マルティン・アロンソ・ピンソン]]
** [[ニーニャ号]] - 第3回までの3つの航海に参加。第1回の時の船長は[[ビセンテ・ヤーニェス・ピンソン]]
* [[コロンビア]] - コロンブスの名に由来して命名された国
* [[コロンビア]] - コロンブスの名に由来して命名された国
* [[クリストバル・コロン山]] - コロンビア北部の山
* [[クリストバル・コロン山]] - コロンビア北部の山
* [[コロンビア (曖昧さ回避)]] - その他、コロンブスの名に由来するものの一覧
* [[コロンビア (曖昧さ回避)]] - その他、コロンブスの名に由来するものの一覧
* [[レイフ・エリクソン]] - コロンブス以前に[[北アメリカ|北米]]へ達していた[[ノルマン人]]
* [[レイフ・エリクソン]] - コロンブス以前に[[北アメリカ|北米]]へ達していた[[ノルマン人]]
** [[アイスランド]]へ赴いた理由は、[[北ヨーロッパ|北欧]]の[[伝承]]「[[サガ]]」を閲覧するのが目的だったと言われている
* [[アメリカ大陸の発見]] - 公式には、ヨーロッパ人初の「発見」者と見なされる
* [[アメリカ大陸の発見]] - 公式には、ヨーロッパ人初の「発見」者と見なされる
**[[アメリカ州]]
* [[先コロンブス期]] - コロンブス到達以前を表す南北アメリカ大陸の時代区分
* [[先コロンブス期]] - コロンブス到達以前を表す南北アメリカ大陸の時代区分
* [[コロンブス交換]] - 新大陸発見により相互の世界にもたらされた効果
* [[コロンブス交換]] - 新大陸発見により相互の世界にもたらされた効果
* [[1492 コロンブス]] - 新大陸発見を描いた[[1992年]]公開の映画
* [[冒険者 (テレビアニメ)|冒険者]] - コロンブスの生涯を描いたテレビアニメ
* [[ディエゴ・デ・アラーナ]] - コロンブスの航海に同行
* [[ディエゴ・デ・アラーナ]] - コロンブスの航海に同行
* [[ディエゴ・コロン]] - 長子、後継者
* コロンブスの名を付した[[スペイン海軍]]の軍艦
* コロンブスの名を付した[[スペイン海軍]]の軍艦
** [[クリストーバル・コロン (巡洋艦)]]
** [[クリストーバル・コロン (巡洋艦)]]
216行目: 257行目:
** [[クリストーバル・コロン (フリゲート)]]
** [[クリストーバル・コロン (フリゲート)]]
* [[アメリゴ・ヴェスプッチ]] - コロンブスより後にアメリカ海域に到達に成功したものの、アメリカ大陸の名前の由来となった人物。
* [[アメリゴ・ヴェスプッチ]] - コロンブスより後にアメリカ海域に到達に成功したものの、アメリカ大陸の名前の由来となった人物。
* [[民族浄化]]
* [[大量虐殺]]
* [[奴隷]]
* [[植民地]]
* [[植民地主義]]
* [[白人至上主義]]
* [[人種差別]]
* [[ホロコースト]]


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<div class="references-small"><references/></div>
{{脚注ヘルプ}}
<div class= "references-small">
<references group="注"/>
</div>
=== 脚注 ===
{{Reflist}}
=== 脚注2 ===
本脚注は、出典・脚注内で提示されている「出典」を示しています。
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* [[ラス・カサス]] 『インディアス史』([[岩波文庫]]全7冊) [[長南実]]訳、石原保徳編、2009年<br> 元版は[[岩波書店]]〈[[大航海時代叢書]]〉 、コロンブス(クリストバル・コロン)の生い立ちと航海について記述がある。
* [[ラス・カサス]] 『インディアス史』([[岩波文庫]]全7冊) [[長南実]]訳、石原保徳編、2009年<br> 元版は[[岩波書店]]〈[[大航海時代叢書]]〉 、コロンブス(クリストバル・コロン)の生い立ちと航海について記述がある。
*{{Cite book|和書|author=ラス・カサス|year=1977|title=コロンブス航海誌|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4-00-334281-X|ref=カサス}}

*{{Cite book|和書|author=林屋永吉|year=1977|title=コロンブス航海誌/ラス・カサス、訳者解説|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4-00-334281-X|pages=273-297|ref=林屋、解説}}
*『コロンブス航海誌』 岩波文庫、[[林屋永吉]]訳-元版は同じく「大航海時代叢書」
*{{Cite book|和書|author=林屋永吉|year=1977|title=コロンブス航海誌/ラス・カサス、訳註|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4-00-334281-X|pages=253-272|ref=林屋、訳注}}
*{{Cite book|和書|author=ミシェル・ルケーヌ|others=訳:大貫良太|year=1992|title=コロンブス-聖者か破壊者か-|publisher=創元社|isbn=4-422-21071-8|pages=|ref=ルケーヌ}}
*{{Cite book|和書|author=[[笈川博一]]|year=1992|title=コロンブスは何を「発見」したか|publisher=[[講談社]]現代新書|isbn=4-06-149100-8|ref=笈川}}
*{{Cite book|和書|author=[[増田義郎]]|year=1979|title=コロンブス|publisher=[[岩波書店]]|isbn=|pages=|ref=増田}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2011年1月22日 (土) 14:43時点における版

クリストファー・コロンブス

Cristoforo Colombo
クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)
生誕 1451年
ジェノヴァ共和国 ジェノヴァ
死没 1506年5月20日
カスティーリャ王国 バリャドリッド
職業 探検家、航海者、奴隷商人
配偶者 フェリパ・ペレストレリョ・エ・モイス
ベアトリス・エンリケス・デ・アラーナ内縁
子供 ディエゴ・コロンフェルナンド・コロン
署名
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クリストファー・コロンブス(Cristoforo Colombo、: Christopher Columbus1451年頃 - 1506年5月20日)は定説の上ではイタリアジェノヴァ出身の探検家航海者コンキスタドール奴隷商人。大航海時代においてキリスト教世界の白人としては最初にアメリカ海域へ到達したひとりである。

日本語では「クリストファー・コロンブス」の表記が定着しているが、他国語では通用しないことが多い。英語読みではコロンバスである。これは当時の公文書のラテン語式表記のクリストフォルス・コルンブス(Christophorus Columbus)に由来する。

また出身地とされているイタリアではクリストーフォロ・コロンボ (Cristoforo Colombo)、スペインでは、クリストーバル・コロン(Cristóbal Colón)と呼ばれる。

署名は Xpo Ferens (the cross bearer の意)と読める[1]

ジェノヴァ時代

生誕

コロンブスは、1451年8月25日から10月末までの間に、ジェノヴァもしくはその近郊で生まれたという説が有力[2]だが、これについては異説も多く、はっきりした事は解らない。ともに毛織物職人一家で育った父ドミニコ・コロンと母スサナ・フォンタナローサの間にはクリストファーを含み7人の子供がいたが、上の2人の子は若くして死亡したと考えられ、何の記録も残っていない[2]。弟は1~2歳下にバルトロメと17歳下にジャコモ(後にディエゴと呼ばれる)、妹は2人いたが記録に残るのはピアンチネータだけである[2]。父は毛織物業を自営していたが一家は決して裕福ではなく、ワインチーズの売買も行っていた。

ジェノヴァにあるコロンブスのモニュメント

海とのかかわり

コロンブスと海とのかかわりは10代の頃から始まった。最初は父親の仕事を手伝って船に乗り、1472年にはアンジュー公ルネから対立するアラゴン王国ガレー船・フェルナンディア号拿捕の命を受けた船に乗ってチュニスに向かったという説もある[注 1]。1475年から翌年にはジェノヴァのチェントリオーネ家に雇われ[3][注 2]、ロクサーナ号で[4]エーゲ海キオス島へ行って乳香(マスチック)取引に関わったと、第一次航海誌にて述べている。

1476年5月にはチェントリオーネ家やスピノラ家、ディ・ネグロ家などジェノヴァ商人団に雇われ、乳香をイギリスフランドルへ運ぶ商船隊に参加し、ベカッラ号に乗り込んだ。しかし8月13日[4]、この船団がブルゴーニュの旗を掲げていたため、ポルトガルサン・ヴィセンテ岬沖で当時敵対していたフランス艦船から攻撃を受け、船が沈没した。コロンブスはにつかまって泳ぎ、ポルトガルのラゴス(en)まで辿り着いた。なお、コロンブスが乗船していたのはフランスとカタルーニャ連合の船であり、いわばジェノヴァ船団を攻撃した側にいたという主張もある[注 3]

ポルトガル時代

リスボンでのコロンブス

彼はジェノヴァ人共同体の助けを借りてリスボンへ移った[2]。この時期は1477年春以降と考えられる[5]。そこには、地図製作に従事する弟のバルトロメが住んでいた。コロンブスは弟と一緒に地図作成や売買をしながら、たびたび航海にも加わっていた。1477年2月にはイギリスのブリストルを経てアイルランドゴールウェイそしてアイスランドまで向かった。アイスランドには、かつてヴァイキング北アメリカに植民地を築いたという「ヴィンランド伝説」があったが、コロンブスがこの伝承を耳にしたかどうかは判っていない[6]

1479年末頃、コロンブスはフェリパ・ペレストレリョ(ペレストレーロ[7])・エ・モイス(またはフェリパ・モニス・ペレストレロ[8])と結婚した。なりそめはロス・サントス修道院のミサで彼女を見初めたという[2]。しかし、フェリパの父はマデイラ諸島にあるポルト・サント島の世襲領主バルトロメウ・ペレストレリョ(ペレストレーロ)であり、いわば貴族階級の女性であった。この釣り合わない結婚の背景には、フェリパが25歳という、当時としては晩婚と言える年齢であった事、父バルトロメウは20年前に死去し、以後のペレストレリョ家は没落しており持参金を準備できなかった事、逆にコロンブスは航海士・地図製作者として一定の成功を収めていた事などがあったと考察されている[7][8][9]

西廻り航海の着想

結婚後は妻のゆかりの地ポルト・サント島(またはマデイラ島)に夫婦で行くこともあり、1480年頃にそこで長男ディエゴに恵まれた。1481年ディオゴ・デ・アザンプージャ(en)西アフリカを南下し、エルミナ城を築く航海に出ているが、これにコロンブスが加わりギニアゴールドコーストまで行った[10]と考えられている。ポルトガル側にこれを証拠付ける資料は無いが、コロンブスは第一次航海の日誌(バルトロメ・デ・ラス・カサス編纂)にて西アフリカの情景を引き合いに出しているところや[9]、所蔵していたピエール・ダイイ著『イマゴ・ムンディ(世界像)』の「熱帯地方には人間は住めない」という箇所に「実際に行ってみたが、熱帯にも人は住んでいた」と書き込んでいる[11]点がその根拠とされる。

また、当時のある事件をラス・カサスは『インディアス史』(第一巻十四章)に記している。それは、マデイラ島に漂着した白人漂流者がいたというものである。この漂流者はポルトガル交易船員だったが、嵐のためにキューバまで流されてしまい、船を修理して東へ出航したが生きてマデイラ島に辿り着いた数名はほとんどすぐ死に、最後の一人をコロンブスが保護したが、やがて彼も亡くなった。『インディアス自然一般史』(Historia General y Natural de las Indias)を著したフェルナンデス・オヴェイド(en)も1535年にこの説話を懐疑的ながら採録している。コロンブス自身が著述したどの文章にもこの話は書かれていないが、ラス・カサスはこの事件がコロンブスをして西廻り航路の発想に至らす原点になったと述べている。[注 4]

この頃、コロンブスは積極的にスペイン語ラテン語などの言語天文学地理そして航海術の習得に勤めた。仕事の拠点であるリスボンで彼はパオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリと知り合う機会を得て、手紙の交換をしている。当時はすでに地球球体説は一般に信じられていたが、トスカネッリはマルコ・ポーロの考えを取り入れ、大西洋を挟んだヨーロッパとアジアの距離はプトレマイオスの試算よりもずっと短いと主張していた。『東方見聞録』にある黄金の国・ジパングに惹かれていたコロンブスはここに西廻りでアジアに向かう計画に現実性を見出した。また、現存する最古の地球儀を作ったマルティン・ベハイム(en)とも交流を持ち意見を交換した説もある[12][2- 1]。これらの収集情報や考察を経てコロンブスは西廻り航海が可能だとする5つの理論根拠を構築した。ラス・カサス『インディアス史』(第5章)に記載されたその内容は、[13]

  1. 地球は球体であり、西に進めば東端にたどりつく。
  2. 地球の未知の部分はアジア東端からベルデ岬諸島以西だけになった。
  3. 2世紀のギリシア人地理学者のマリヌス(en)はヨーロッパからアジアまでは地球の15/24に当たる。したがって未知の領域は9/24=約1/3となる。
  4. マリヌスが認識していたアジアは(当時認識されていたという意味で)現在のアジア東端までに比べれば狭い。したがって未知の領域はさらに狭くなる。
  5. 9世紀のイスラム人天文学者アルフラガヌスは経度1度=約56.6マイルと計算した。したがって未知の領域は56.6×360/3=約6.800マイル。しかもこれは赤道上であり北寄航路ならば距離はさらに縮まる。

この考えの根底にはアリストテレスの地理観を引き継いだ中世キリスト教普遍史観から、世界はヨーロッパ・アジア・アフリカの3大陸で成り立っていという概念がある。地球の大きさについても、北緯28度におけるカナリア諸島から日本までを実際の10,600海里に対しコロンブスは2,400海里と、非常に小さく見積もっていた[14]

王室への提案

1484年末頃[注 5]、コロンブスはポルトガル王ジョアン2世に航海のための援助を求めた。自信に溢れた弁舌に[2- 2]、ジョアン2世は興味をそそられた[15]。コロンブスは資金援助に加え成功報酬も求めたが、高い地位や権利、そして収益の10%という大きなものだった[注 6]。王室は数学委員会(フンタ・ドス・マテマティコス)の諮問にかけて検討したが、回答は否決だった。コロンブス以前にも大西洋への航海は何度か試みられたがすべて失敗し、一方でアフリカ探検はディオゴ・カンがコンゴ王国との接触に成功し[15]喜望峰に達する寸前まで来ていたこと、さらにコロンブスの要求があまりに過剰だと受け止められたことも影響した[16]

再度コロンブスは提案を上奏したが決定は覆らず[16]、ジョアン2世はコロンブスが自費で航海をするならばよいと言うのみだったが、コロンブスにはそのような資金が無く[15]借金さえ抱えていた[5]。この頃、コロンブスは妻フェリパを亡くし、1485年中頃、8年間過ごしたポルトガルに別れを告げる決心をつけた[5]

スペイン時代

コロンブスはリスボンから海路、スペインのパロスに着いた。そこから彼はウエルバのティント川沿いの丘に建つラ・ラビダ修道院を訪ねた[注 7]。5歳の息子ディエゴを伴ったみすぼらしい姿の彼を、修道院長のフアン・ペレス・デ・マルチェーネ神父は招き入れた。そこでコロンブスの話を聞いたペレス院長は感銘を受け、彼を天文学者でもある[17]セビリアのアントニオ・マルチェーナ神父へ紹介し、そこへ向かうために息子デォエゴを修道院で預かった。さらにコロンブスはメディナ・シドニーア公ドン・エンリケ・デ・グスマン[15]、そしてメディナ・セリ公(伯爵[17])ドン・ルイス・デ・ラ・セルダ[15]と面会する機会を得た。メディナ・セリ公は興味を抱き、コロンブスが求めた数隻の船や食料など3,000-4,000ドゥカート相当の物資を準備することに合意した[17][2- 3]

コロンブスが作成したと言われる地図。これは19世紀に発見されたものだが、アイスランドとフェローズ諸島の位置が逆になっているなど、疑問も提示されている。[18]

カトリック両王への売り込み

コロンブスへの援助に同意したメディナ・セリ公は、しかしこのような計画は王室への許可を得るべきだと考えカスティーリャイサベル1世へ計画を知らせると、彼女自身がこれに興味を覚えた[15]。1486年5月1日[注 8]、メディナ・セリ公が紹介してコロンブスはコルドバでイサベル1世とその夫フェルナンド2世カトリック両王)に謁見した。コロンブスの話しにフェルナンド2世はあまり興味を持たなかったが、イサベル1世は惹きつけられた。計画は、懺悔聴聞師のエルナンド・デ・タラベラ(フライ・エルナンド・デ・タラベーラ)神父を中心とする諮問委員会が設けられそこで評価されることになった。1486年だけで二度[注 9]委員会は開かれたが、特にコロンブスが示したアジアまでの距離が疑問視され、結論は持ち越された。

メディナ・セリ公の支援を受けながらコルドバの彼の城に滞在しカトリック両王との面談を模索していた時期、コロンブスは医師や学者らと交流と持ち、この中の一人から当時20歳(または21歳)の小作人の娘ベアトリス・エンリケス・デ・アラーナを紹介された[19]。ふたりは恋愛関係となり、1488年8月15日にフェルナンドが生まれた。だが、コロンブスはベアトリスと正式に結婚しなかった。

スペイン王室からは一向に判断が届かなかった。委員会長のタラベラやメンバーのひとりドミニコ会のディエゴ・デ・デサらはコロンブスに好意を持ち、委員会が否定的結論を出そうとすると引き伸ばしにかかっていた[15][注 10]。これに抉れたコロンブスはポルトガルのジョアン2世に手紙を送ったが、バルトロメウ・ディアス喜望峰発見もあり、話が纏まることはなかった[注 11]。また弟バルトロメをイギリスヘンリー7世フランスシャルル8世の元に差し向け、計画の宣伝をさせた。いずれの王からも支持は得られなかったが、シャルル8世の姉アンヌ・ド・ボージューの歓待を得てバルトロメはフォンテーヌブローの宮殿に数年間滞在した[20]。しかしこれらの行動も実を結ばなかった。

一方のスペイン王室は、1489年5月12日付けでコロンブスが王室に謁見する時に必要な宿泊費を無料にする通達を出す[20]など不規則ながら金銭的援助を行い[18]、決して彼を邪険にしていた訳ではなかった。しかし1490年、タラベラの委員会は提案に反対する結論を出した。コロンブスは諦め気味にパロスに戻り、ラ・ラビダ修道院に向かった。話しを聞いたペレス院長はコロンブスを慰留し、イサベル1世の側近セバスチャン・ロドリゲスを頼り、王室に再検討を促した。この動きへの反応はわずか2週間後、コロンブスの下に王室の書簡が届き、旅金を添えて出頭するよう勧告する内容があった。提案の検討はカスティリャ枢機院に移された。

イザベル1世とコロンブス。カリフォルニア州議事堂

しかし1491年、枢機院もまた案を否決した。コロンブスはこれで万策尽きたと、弟バルトロメが滞在するフランスへ向かう決意を固めた。ここに、ルイス・デ・サンタンヘルが登場し、状況を一変させた。財務長官であった彼は女王説得に乗り出し、コロンブスが提示した条件は見込める収入からすれば充分に折り合い、また必要な経費も自らが都合をつけると申し出た。元々興味を持っていたイサベル1世はこれで勢いを得てフェルナンド2世を説き伏せ、スペインはついにコロンブスの計画を承認した。この時、コロンブスはまさにフランスへ向けてグラナダを出発したところだった。女王の伝令は彼を追いかけ、15kmほど先のピノス・プエンテ村の橋の上でコロンブスに追いついた。この橋には、劇的とも言える出来事を解説する銅版がある[21]

サンタフェ契約

1492年4月17日、グラナダ郊外のサンタフェにて、コロンブスは王室と「サンタフェ契約」を締結した。その内容は、

  1. コロンブスは発見された土地の終身提督(アルーランテ)となり、この地位は相続される。
  2. コロンブスは発見された土地の副王(ピリレイ)及び総督(ゴベルナドール・ヘネラール)の任に就く。各地の統治者は3名の候補をコロンブスが推挙し、この中から選ばれる。
  3. 提督領から得られたすべての純益のうち10%はコロンブスの取り分とする。
  4. 提督領から得られた物品の交易において生じた紛争は、コロンブスが裁判権を持つ。
  5. コロンブスが今後行う航海において費用の1/8をコロンブスが負担する場合、利益の1/8をコロンブスの取り分とする。

というものだった。[22]

航海の経費は、ルイス・デ・サンタンヘルが中心となって調達された。彼は、警察機構サンタ・エルマンダーの経理担当であったジェノヴァ人フランチェスコ・ピネリと協力して140万マラベディを、さらにアラゴン王国の国庫から35万マラベディを調達しコロンブスに提供した[23]。これは、イサベル1世が戴冠用宝玉を担保に供出することを防ぐことが目的だった[24]。コロンブスは25万マラベディを調達したが、これはメディナ・セリ公やセビリアのフィレンツェ人銀行家ベラルディなどから借金をしてかき集めたものだった[25]

航海

船出

1492年8月3日大西洋インド(インディア)を目指してパロス港を出航した。この時の編成はキャラベル船ニーニャ号ピンタ号ナオ船サンタ・マリア号の3隻で総乗組員数は約90人(120人という説も)。

一旦、カナリア諸島へ寄り、大航海の準備を整えた後、一気に西進した。大西洋は極端に島の少ない大洋であり、船員の間には次第に不安が募っていった。当時の最新科学では地球が球体であるということはほぼ常識となっていたが、船員の間では地球を平面とする旧来の考えも根強く残っていた。

コロンブス自身は平気な振りをしていたが、計算を越えて長い航海となったことに不安を感じるようになる。10月6日には小規模な暴動が起こり、3日後には船員の不安は頂点に達し、コロンブスに迫って「あと3日で陸地が見つからなかったら引き返す」と約束させた。その後、流木などを発見し陸が近くにあると船員を説得する。

「新大陸」上陸

コロンブスの航路

そして10月11日の日付が変わろうとする時、ピンタ号の水夫が陸地を発見した。翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領してサン・サルバドル島と名づける(サン・サルバドルという名前には、「聖なる救世主」という意味がある。この名前は、上にあるように船内が荒れていた時に発見し、ほっとして思わず付けてしまったという説もある。又以前スペインに滞在した際、近くの教会の名をつけた)。

最初に上陸した島でコロンブス一行は、アラワク族インディアン達から歓待を受ける。アラワク族は船から上がったコロンブス達に水や食料を贈り、オウムや綿の玉、槍やその他見たことのないたくさんのものを持ってきた。コロンブス一行はそれをガラスのビーズや鷹の鈴と交換した。だがしかし、コロンブスの興味は、ただ黄金にしかなかった。彼はこう書き残している[26]

「私がインディアに到着するとすぐに、私が見つけた最初の島で、彼ら原住民(アラワク族インディアン)たちに、私に差し出さなければならないものがこの品々の中にあるのかどうか教え込むために、私は力ずくで原住民の何人かを連行した。」
「彼らは武器を持たないばかりかそれを知らない。私が彼らに刀を見せたところ、無知な彼らは刃を触って怪我をした。 彼らは鉄を全く持っていない。彼らの槍は草の茎で作られている。彼らはいい身体つきをしており、見栄えもよく均整がとれている。彼らは素晴らしい奴隷になるだろう。50人の男達と共に、私は彼らすべてを征服し、思うままに何でもさせることができた。」
「原住民たちは所有に関する概念が希薄であり、彼らの持っているものを『欲しい』といえば彼らは決して『いいえ』と言わない。逆に彼らは『みんなのものだよ』と申し出るのだ。彼らは何を聞いてもオウム返しにするだけだ。彼らには宗教というものがなく、たやすくキリスト教徒になれるだろう。我々の言葉と神を教え込むために、私は原住民を6人ばかり連行した。」

コロンブスはこの島で略奪を働き、次に現在のキューバ島を発見。ここを「フアナ島」と名づけたあと、ピンタ号船長であるマルティン・アロンソ・ピンソンの独断によりピンタ号が一時離脱してしまうが、12月6日にはイスパニョーラ島と名付けた島に到達。24日にサンタ・マリア号が座礁してしまう。しかし、その残骸を利用して要塞を作り、アメリカにおけるスペイン初の入植地を作った。この入植地には39名の男が残った。

年が明け、1493年1月6日にピンタ号と再び合流する。1月16日、スペインへの帰還を命じ、3月15日にパロス港へ帰還した。

帰還したコロンブスを歓迎して宮殿では盛大な式典が開かれた。コロンブスは航海に先んじて、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地から上がる収益の10分の1を貰う契約を交わしていた。この取り決めに従い、コロンブスはインディアンから強奪した金銀宝石、真珠などの戦利品の10分の1を手に入れた。また陸地を発見した者には賞金が王夫婦から与えられるとされていたのだが、コロンブスは自分が先に発見したと言い張り、これをせしめている。

国王に調査報告を終え、少しばかりの援助を求めたコロンブスは、次の航海目標としてこう述べている。

「彼らが必要とするだけのありったけの黄金… 彼らが欲しがるだけのありったけの奴隷を連れてくるつもりだ。このように、永遠なる我々の神は、一見不可能なことであっても、主の仰せに従う者たちには、勝利を与えるものなのだ。」

インディアンへの大虐殺

1493年の9月に17隻・1500人で出発したコロンブスの2度目の航海はその乗員の中に農民や坑夫を含み、植民目的であった。11月にドミニカ島と名付けた島に到着したが、前回作った植民地に行ってみると基地は原住民であるインディアンにより破壊されており、残した人間は全て殺されていた。コロンブスはここを放棄して新しく「イサベル植民地」を築いた。しかし白人入植者の間では植民地での生活に不満の声が上り、周辺諸島ではアラワク族タイノ族ルカヤン族カリブ族などのインディアンの間で白人の行為に対して怒りが重積していた。

これに対し、コロンブスの率いるスペイン軍はインディアンに対して徹底的な虐殺弾圧を行った。行く先々の島々で、コロンブスの軍隊は、海岸部で無差別殺戮を繰り返した。まるでスポーツのように、動物も鳥もインディアンも、彼らは見つけたすべてを略奪し破壊した。コロンブスがイスパニョーラ島でしばらく病に臥せると、コロンブスの軍勢は凶暴性を増し、窃盗殺人強姦放火拷問を駆使して、インディアンたちに黄金の在処を白状させようとした。

インディアンたちは、ゲリラ作戦でコロンブスに報復を試みたが、疫病と軍事力を合併させたスペイン軍の力は、インディアンの想像をはるかに超えていた。最終的に彼らは最善の策は「逃亡」であると決めた。 置き去りにされた作物は腐るにまかされ、やがてインディアンたちを飢餓が襲ったのだった。

コロンブスが何カ月もの間病いに臥せっている間、コロンブスの軍勢はやりたい放題の大虐殺を続けた。コロンブスが快復するまでに、5万人以上のインディアンの死が報告されている。やがて完全復帰したコロンブスの最初の仕事は、彼の軍勢に対し、略奪を組織化することだった。

1495年3月、コロンブスは数百人の装甲兵と騎兵隊、そして訓練された軍用犬からなる一大軍団を組織した。再び殺戮の船旅に出たコロンブスは、スペイン人の持ち込んだ病いに倒れ、非武装だったインディアンの村々を徹底的に攻撃し、数千人単位の虐殺を指揮した。コロンブスの襲撃戦略は、以後10年間、スペイン人が繰り返した殺戮モデルとなった[27]

コロンブスと同行し、虐殺を目にしていたキリスト教宣教師のバルトロメ・デ・ラス・カサスは、日記にこう記している。

「一人でもインディアンが森にいたら、すぐに一隊を編成し、それを追いました。スペイン人が彼らを見つけたときはいつも、柵囲いのなかの羊のように、情け容赦なく彼らを虐殺しました。 『残虐である』ということは、スペイン人にとって当たり前の規則であって、それは『単に残虐なだけ』なのです。しかしそのように途方もなく残虐な、とにかく苛烈な取り扱いは、インディアンに対しては、自分たちを人間だとか、その一部だなどと金輪際思わせないよう、それを防ぐ方法になるでしょう。」
「そういうわけで、彼らはインディアンたちの手を切り落として、それが皮一枚でぶらぶらしているままにするでしょう、そして、『ほら行け、そして酋長に報告して来い』と言って送り返すのです。 彼らは刀の切れ味と男ぶりを試すため、捕虜のインディアンの首を斬り落とし、または胴体を真っ二つに切断し、賭けの場としました。彼らは、捕えた酋長を火炙りにしたり、絞首刑にしました。」

コロンブスは、イスパニョーラ島のインディアン部族の指導者と睨んでいた一人の酋長を殺さずに、引き回しの刑と投獄のあと、鎖に繋いで船に乗せ、スペインへ連行しようとした。しかし他のインディアンたちと同様に、この男性はセビリアに着く前に船中で死んでいる。

晩年

インディアンの殺戮に勝利した後、コロンブスは予定通り、捕らえたインディアンを奴隷として本国に送るが、イザベル女王はこれを送り返し、コロンブスの統治に対する調査委員を派遣した。驚いたコロンブスは慌てて本国へ戻って釈明し、罪は免れた。

コロンブスがカリブ海諸島で指揮した行き当たりばったりの大虐殺は、「黄金探し」を使命としたスペイン海軍によって体系化され、 あらゆる部族の子供以外のインディアンが、3カ月以内に一定量の黄金を差し出すよう脅迫された。金を届けたインディアンには、「スペイン人に敬意を表した」という証しとして、その男女に首かけの標章が贈られた。金の量が足りなかった者は、男だろうと女だろうと手首が斬り落とされた。

コロンブスらスペイン人の幻想よりも当地の金の量ははるかに少なかったので、死にたくなかったインディアンたちは、生活を犠牲にして金を捜さざるを得なかった。インディアンが逃亡を始めると飢饉はさらに悪化した。コロンブスらスペイン人が運び込んだ疫病は、栄養失調となったインディアンたちの弱められた身体をより激しく蝕んだ。そしてコロンブスたちと同じく、スペイン軍は面白半分に彼らを殺す楽しみを決してやめなかった。

ジェノヴァにあるコロンブスのモニュメント

1498年5月、6隻の船で3度目の航海に出る。今度は南よりの航路を取り、現在のベネズエラオリノコ川の河口に上陸した。その膨大な量の河水が海水ではなく真水であったことから、それだけの大河を蓄えるのは大陸であるということをコロンブスは認めざるを得なかった。しかし彼は、最期まで自らが発見した島をアジアだと主張し続けたという。

その後、北上してサントドミンゴに着くと後を任せていた弟・バルトロメの統治の悪さから反乱が起きていた。コロンブスは説得を続けるが、入植者たちはこれを中々受け入れず、1500年8月に本国から来た査察官により逮捕され、本国へと送還された。罪に問われる事は免れたものの全ての地位を剥奪される。

それでもコロンブスは4度目となる航海を企画するが、王からの援助は小型のボロ舟4隻というものであった。1502年に出航したが、イスパニョーラ島への寄港は禁じられており、パナマ周辺を6か月さまよったが、最後は難破して救助され、1504年11月にスペインへ戻った。しかし1504年末には彼に信頼を寄せていたイサベル女王が死去し、スペイン王室はコロンブスに対してさらに冷淡になった。

帰国後は病気になり、1506年5月20日スペインバリャドリッドにて死去。その遺骨はセビリアの修道院に納められたが1542年サントドミンゴの大聖堂に移された。サントドミンゴ大聖堂の地下にあるコロンブスの墓碑銘には「輝く、有名な紳士、ドン・クリストバル・コロン」と書かれている。コロンブスの死後、ドイツの地理学者マルティーン・ヴァルトゼーミュラーが手がけた地図には、南米大陸の「発見者」としてコロンブスではなく、アメリゴ・ヴェスプッチの名前が記されてしまった。この結果、ヨーロッパでは「新大陸」全域を指す言葉として「コロンビア」ではなく「アメリカ」が使われるようになった。

航海などの関係略年表

評価

一般的にコロンブスの「功績」はアメリカ大陸を“発見したこと”と語られることが多いが、アメリカ大陸にはこれ以前からインディアンインディオなどのモンゴロイド系先住民族が一万年以上前から居住し独自の文明を築いていたことを考えると、“発見”という言葉自体がヨーロッパ中心で世界を見る視点に立脚した発言と言わざるを得ない。

従って、中立的な視点では「大西洋航路の発見」、つまりヨーロッパとアメリカ大陸を結ぶ「航海路を発見した」というのが、その真の功績であると言える。コロンブスのアメリカ大陸到着以前はユーラシア大陸と北米大陸の住人や国家、文明の間には相互の文化や経済、政治などに影響を与え合うほどの交流がほとんど無かった(ヴァイキングが到達し、北米大陸をヴィンランドと呼んでいたが、交流は極めて限定的であった)ことから、「世界の一体化を促進した」とする評価もできる。

しかし、ヨーロッパ白人もアメリカ大陸のインディアンも、双方が互いを知らなかった状況において、ヨーロッパ白人がアメリカ大陸に来訪したのを、「アメリカ大陸を発見」と呼んでも、必ずしも不公平ではないという意見も白人の中にはある。またアメリカ大陸を本人は最後までアジアだと思っていた。そう考えれば、あたかも1492年にコロンブスが「新大陸を発見した」ようにいわれることもおかしいともいえる。

1492年の「新大陸」へのコロンブスの上陸時に約800万人いたインディアンの人口は、1496年の末までに、その3分の1までに減った。さらに1496年以降、死亡率は倍加していった。量的にもスケール的にも、コロンブスは、エルナン・コルテスフランシスコ・ピサロに並ぶ、虐殺目的で戦争を楽しんだ最も悪名高いコンキスタドール、征服者の一人と言えるだろう[28]

コロンブスのインディアンを見下した傲慢さや残虐さについては、多文化主義に基づく歴史家たちは、これを典型的な西側の白人男性の、原住民に対する人種差別的偏見としている。ゲイリー・ナッシュは、コロンブスはインディアンに対して、不合理な敵意に根ざした独特な「ヨーロッパの傲慢な本質」を体現していると告発している。カークパトリック・セールは、「偏見を起因として他の種に対して交戦が見られるということは、ヨーロッパ文化としては空想的なことではない」としている。またステファン・グリーンブラットはコロンブスについてこう述べている。「政治的、経済的、文化的なカニバリズムという、西洋史のなかでも最大の実験を開始したのがコロンブスである」[29]

コロンブスは「アメリカを発見した」のか?

「コロンブスがアメリカを発見した」という「功績」については、現代の多文化主義論者たちは、「“発見”などしていない」との見解で一致している。

歴史家のフランシス・ジェニングスは、「ヨーロッパ白人は処女地に植民したのではない。彼らは先住民族を侵略して、入れ替わったのだ」と述べ[30]、インディアン活動家のマイク・アンダーソンは「コロンブスの上陸の前に、そこには文化があった。そして人々がいた。そしてそこには政府があった」としている。カークパトリック・セールは「我々は“発見”などというイベントは無かったと断言することが出来る」と主張、小説家のホメロ・アジリスはインディアンと白人が「互いに相手を“発見した”のだ」としている。また、ゲイリー・ウィルズやゲイリー・ナッシュ、ロナルド・タカキといった歴史家たちは、「“発見”ではなく、“遭遇”である」との主張で一致している。またレシェク・コワコフスキはこの「遭遇」という言葉に対して、「探検への衝動は、世界の文明の中で決して均一に割り当てられたものではなかった」として、コロンブスがアメリカに到達し、インディアンがヨーロッパに到達しなかったことは、インディアンと白人が「同一水準で文明的な接触をする」という条件面での違いを隠すものだとしている[31]

インディアンからの評価

アメリカ合衆国の記念祝日である10月12日、「コロンブス・デー」は、インディアンにとっては「白人による侵略開始の日」に他ならない。1911年にインディアン運動家たちは「アメリカインディアン協会」を設立し、「全米インディアン・デー」を提唱。オハイオ州コロンバスでの第一回決起大会において、「インディアンが白人のアメリカを発見した日!」とのスローガンを掲げ抗議した。

現在も反「コロンブス・デー」運動は「アメリカインディアン運動AIM)」などに引き継がれ、毎年この日になると全米各地で抗議行進やデモが行われていて、この際多数のインディアンが逮捕されている。

インディアン団体「AIM」のコロラド支局はその公式サイトで、「Transform Columbus Day!(コロンブス・デーを変えろ!)」として、この記念祭の廃絶を求め、以下のように主張している。

  1. コロンブスは何百万人もの先住民族の殺戮の責任者です。
  2. コロンブスはアメリカに侵入してくる前は、アフリカの奴隷商人でした。 彼はアメリカ大陸で奴隷売買を始めました。 彼は何にも値しません。休日にも、パレードにも、彫像にも。
  3. コロンブスの日は、「発見」の意義を祝うものです。今日も続く、インディアンの領土を盗むための法的な過程としての。
  4. コロンブスはアメリカ大陸に、今日も持続されている優位性として、自然環境における優位、異なる信仰・信念に対する優位、男性の女性に対する優位といった、他民族(白人)の優位の哲学を持ち込みました。

AIMスポークスマンであるスー族ラッセル・ミーンズらインディアン運動家はチカーノ団体と連携し、コロラド州デンバーの「コロンブス・デー」に毎年、同州にあるコロンブスの銅像にバケツで真っ赤な絵の具を浴びせている。インディアンによるこの「血の洗礼」は、州警察による逮捕者を出しながらも毎年行われている。

1992年の「コロンブス500年祭」に合わせ、ラッセル・ミーンズは、「コロンブスは大西洋を横断した世界初の奴隷商人だ。コロンブスの前では、アドルフ・ヒトラーはまるでただの不良少年だ」、AIMコロラド支局代表のインディアン、グレン・モリスは、コロンブスを「殺人者であり、強姦者であり、今日も続く大量虐殺思想の大立者である」、ウィノナ・ラデュークは、「生物学的、技術的、生態学的な侵入は、500年前のコロンブスの不幸な航海から始まった」とコメントしている[32]

インディオ、黒人からの評価

ラテンアメリカ諸国やスペインでも、10月12日は"Día de la Raza"(「人種の日」)として「発見」以来讃えられてきたが、20世紀末の1990年代からインディオ団体や黒人(混血を含む)団体らが主体となってコロンブスを「発見者」として讃える歴史観への見直し運動が高まり、「新大陸発見」から500年目の1994年10月12日には、ドミニカ共和国グアテマラなど各国で「人種の日」を記念する政府行事に対抗して、これに反対する諸団体によるデモ行進が行われている。

2000年代に入ってからもこの反ヨーロッパ中心主義運動はラテンアメリカ域内で影響力を強めており、近年左派政権が成立したベネズエラでは10月12日を「人種の日」から"Día de la Resistencia Indígena"(「インディヘナの抵抗の日」)と公式に呼び替える運動が進んでいる。

黒人作家のイスマエル・リードはこう発言している。「コロンブスの上陸をきっかけに、人類の災厄が起こったということがありうるでしょうか? たとえばオゾンがどんどん減っていくことで地球は暖まります、そして、熱帯雨林は破壊されますね?」[33]

出自に関する諸説

コロンブスに関してはその出自が明らかではない事、また大航海の目的自体があまり明確に語り継がれていない事等から様々な異聞が流れている。また、残されている肖像画は全て本人の死後に描かれたものであり、今となってはコロンブスの真の素顔を知る術は無い。

レオナルド・ダ・ヴィンチの日記の中に「ジェノヴァ人の船乗りと地球について話す」という興味深い記述があることから、両者の間に面識があったのではないかという説がある。

ユダヤ人?

多く語られているものとしては、コロンブスはユダヤ人の片親から生まれたのではないか、とする奇説である。また1492年、スペイン王家は同国内に住むユダヤ人に対し8月2日を期限とする国外追放令を発布したが、一方コロンブスがスペイン王家の支援を受けて出航したのは翌8月3日である。この事からコロンブス出航の真の目的はユダヤ人の移住地探しではないか、とする奇説も存在する。また、ローマ法王インノケンティウス8世落胤ではないかとする説も存在する。しかし、これらの仮説を支持する研究者は少なく、俗説の域を出ていない。

ポーランドの王子?

ヴワディスワフ3世
アレクサンデル・レッセル

アメリカノースカロライナ州にあるデューク大学歴史学者マヌエル・ロサは、2010年10月スペインで出版した『コロンブス:語られなかったストーリー』のなかで、コロンブスがポーランド王ヴワディスワフ3世(晩年にかけてはウラースロー1世としてハンガリー王も兼任)の実の息子であると結論しており、この仮説は合理的な説得力を持つとして歴史学者の間でも急速に支持を獲得している[34][35][36][37][38]。ヴワディスワフ3世はオスマン・トルコとの戦争におけるヴァルナの戦いで戦死したと伝えられるが、生き延びてポルトガルマデイラ島に渡り、ポーランド国内の政治的混乱を避けて現地で亡命生活を送ったという説もあり、ロサによればコロンブスはそのころに生まれたという。

ロサによると、以下のような傍証は、コロンブスがヴワディスワフ3世の実の息子であることを当時のヨーロッパの王侯貴族たちが暗黙裡に承知していたことを指し示しているという:

  1. アメリカ大陸を発見して名を挙げるより15年も前に、平民出身(織物職人の息子)という定説のコロンブスはポルトガル王の認可のもとにポルトガル貴族の娘と結婚しており、当時としてはそのような結婚はあり得ない。
  2. ヨーロッパの4つの王室と直接交渉して航海への出資を引き出すことに成功している。
  3. コロンブスの持っていた地理天文学地図の知識、そして兄弟と通信する際に彼の使っていた暗号法は、高度な教育を必要としたはずで、これは彼が学者であることを示しており、自学自習で学問を身に着けたというこれまでの定説にそぐわない。
ヴワディスワフ2世ヤギェウォの墓所(クラクフヴァヴェル大聖堂
  1. 1498年に書かれた最後の遺書では「私はジェノヴァで生まれた」と書かれているが、この遺書は彼の死後80年たった1586年に彼の遺産を狙うイタリア人たちによって彼の名を「コロンボ」として偽造されたものである。
  2. コロンブスの使っていた家紋はポーランド王家の紋章とよく似ている。
  3. セビリアのスペイン王宮(アルカサル)にあるコロンブスの肖像では、彼の袖に王冠が隠されていた。
  4. 南欧では珍しいがポーランド(一帯)ではよく見かける赤い髪、白い肌、青い目がコロンブスの外見上の特徴である。(彼の祖父のポーランド王ヴワディスワフ2世ヤギェウォ原リトアニア地方の出身で、祖母ゾフィアルテニア地方の出身)。

ロサによると、上に挙げたほかにもコロンブスがポーランド王の息子であることを指し示す傍証が数多く存在するという。

ロサはポーランド、クラクフの王宮内にあるヴァヴェル大聖堂に対し、聖堂内に安置されているヴワディスワフ2世ヤギェウォなどの遺体のDNA採取を要請している。セビリアの大聖堂に遺体のあるコロンブスのDNAはすでに採取されていることから、この照合によってコロンブスがヴワディスワフ3世の実の息子であるかどうかが証明されるからである。

2005年にコロンブスと彼の兄弟のDNAが採取され、全ヨーロッパでコロンブス家系の子孫と思われる477人の人々のDNAと照合されたが、そのときは彼の親類も子孫も発見できなかった。この当時ポーランド説はまだ浮上しておらず、検査の想定外だった。

ナショナル・ジオグラフィックがこれに強い興味を持ち、プロデューサーを急遽スペインとポルトガルに派遣している。[39]

「コロンブスの卵」

「新大陸発見」を祝う凱旋式典で「誰でも西へ行けば陸地にぶつかる。造作も無いことだ」などとコロンブスの成功を妬む人々に対し、コロンブスは「誰かこの卵を机に立ててみて下さい」と言い、誰も出来なかった後でコロンブスは軽く卵の先を割ってから机に立てた。「そんな方法なら誰でも出来る」と言う人々に対し、コロンブスは「人のした後では造作もないことだ」と返した。これが「コロンブスの卵」の逸話であり、「誰でも出来る事でも、最初に実行するのは至難であり、柔軟な発想力が必要」「逆転の発想」という意の故事で今日使われている。

しかし、ヴォルテールは『習俗論』(第145章)にてこれは建築家フィリッポ・ブルネレスキの逸話が元になった創作だと指摘し、会話の内容などもそのまま流用されていると説明した[40]

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ これはコロンブスがカトリック両王に送った手紙の断片をフェルナンドが記録したものにあるが、この説明には矛盾がある。航海当時20歳前後のコロンブスが船長を務めるには若すぎる事(笈川p23-24)、サルジニアで敵の艦隊が見つかったため北へ引き返そうとする船員たちを、方位磁針の文字板を南北逆にして騙し南へ向かったという点に、太陽の位置から船員らが方角を間違えるはずが無い(笈川p23-24ルケーヌp25-28)という点が指摘されている。しかしルケーヌは、スペインと敵対した行為を、しかも標的が「フェルナンディア号」であったことをスペインの「フェルナンド2世」が読む手紙に自らへの心象を傷つける可能性がありながら記している点から、脚色を含みつつも航海そのものは事実だったと推察している(ルケーヌp28-29)。
  2. ^ 笈川p27では「1478年から翌年」とあるが、同箇所には乗船が沈没しポルトガルに渡った時を「1476年8月」と明記しており、矛盾がある。
  3. ^ ルケーヌp32でルケーヌは、この海戦は本当はフランス・カタルーニャ連合に加わっていたカズノヴ・クーロン船長の私掠船にコロンブスが乗っていた際の戦いを指していたものを、同郷人の船を襲った良心の呵責から偽って1485年に起こった別の海戦の内容へ差し替えたと主張している。
  4. ^ 笈川p.98-100、ただし増田p.75では西アフリカ航海中に漂流者を拾い上げたとある。
  5. ^ 増田p.28では1483年末。
  6. ^ ラス・カサス『インディアス史』にある内容だが、これは後にスペイン王室と結んだサンタフェ条約とまったく同一であり、笈川(p45)はラス・カサスが誤った可能性を示唆している。
  7. ^ この行動について、ルケーヌp.50は亡き妻フェリパの姉妹が当地におり、その伝を頼ったという。同書では、修道院長のフアン・ペレス・デ・マルチェーネ神父はポルトガル人で、この姉妹と面識があった可能性を示唆している。
  8. ^ ルケーヌp.51によると「4月または5月」
  9. ^ 林屋、解説p.283(第1回会議は1486 年夏にコルドバにて、第2回は同年にサラマンカにて)に準拠する。増田p.33は1486年秋と1487年春と表記。笈川p.49は増田が示す場所のみ表記し、時期には触れず。
  10. ^ 委員長のタラベラが取った態度について、文献に差がある。増田p.33-34では「コロンブスに好意的」と言う。ところがルケーヌp.53では、サンタフェ条約締結後にタラベラはイサベル1世に手紙を送り、世界の果てを越えることは神に対する不遜な行為であり、コロンブスを異端審問にかけるよう主張したとある。
  11. ^ 増田p.34-36の内容に準ずる。笈川p.50ではジョアン2世はコロンブスを招待したが喜望峰の件で頓挫したと、林屋、解説p.283ではコロンブスはポルトガルに向かい再度謁見したが同じ理由で立ち消えになったとある。ルケーヌp.53-54では、手紙の返事にジョアン2世は旅券を送ったが、コロンブスは用心深くポルトガルに向かわなかったとある。

脚注

  1. ^ Xpo Ferens の説明
  2. ^ a b c d e 林屋、解説p.278-280 (1) 生い立ち
  3. ^ 増田p.17-22 海に出る
  4. ^ a b 笈川p.27-29 ポルトガル領、聖ヴィセンテ岬に漂着
  5. ^ a b c 林屋、解説p.280-282 (2) ポルトガルでの滞在
  6. ^ 笈川p.36-38 「ヴィンランド」伝説
  7. ^ a b 笈川p.40-42 名家の娘、フェリパと結婚
  8. ^ a b ルケーヌp.43-48 弟のように、彼も地図製作者になる
  9. ^ a b 増田p.23-27 ポルトガルとコロンブス
  10. ^ 「人物アメリカ史(上)」p15 ロデリック・ナッシュ著/足立康訳 新潮選書
  11. ^ 笈川p.38-39 「熱帯にも人が住んでいた」
  12. ^ 笈川p.116-118 ベハイムとコロンブスのかかわり
  13. ^ 笈川p.100-101 5つの根拠
  14. ^ 笈川p.126-128 実際の距離ははるかに長く
  15. ^ a b c d e f g 増田p.28-36 西廻り航海の構想
  16. ^ a b ルケーヌp.48-49 コロンブスはジョアン2世に、冒険を試みるために「許可状」と船を求めた
  17. ^ a b c 笈川p.45-48 ポルトガルからスペインへ
  18. ^ a b ルケーヌp.51-54 落胆と困窮のうちに、5年間の歳月が流れた
  19. ^ Christopher Columbus essay
  20. ^ a b 林屋、解説p.282-285 (3)スペインでの7年間
  21. ^ 笈川p.52-53 西航計画、実現
  22. ^ 林屋、訳注p.254-255 (6)
  23. ^ 増田p.37-42 イザベル女王の決断
  24. ^ Luis de Santangel”. JEWISH-AMWRICAN HALL OF FAME. 2010年3月15日閲覧。
  25. ^ ルケーヌp.58-60 これほど大それた冒険だというのに、資金の心細さは前代未聞だった
  26. ^ A People's History of the United States
  27. ^ 『American Holocaust』(David Stannard, Oxford University Press, 1992)
  28. ^ 『American Holocaust』(David Stannard, Oxford University Press, 1992)
  29. ^ First Things』(Dinesh D'Souza、1995年11月号)
  30. ^ 『The Invasion of America: Indians, Colonialism, and the Cant of Conquest』(Norton & Company、1976)
  31. ^ 『First Things』(Dinesh D'Souza、1995年11月号)
  32. ^ 『First Things』(Dinesh D'Souza、1995年11月号)
  33. ^ 『First Things』(Dinesh D'Souza、1995年)
  34. ^ http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/europe/poland/8166041/Christopher-Columbus-was-son-of-Polish-king.html
  35. ^ http://www.dailymail.co.uk/news/article-1333895/Christopher-Colombus-Polish-Portuguese-Historians-claim-explorer-son-exiled-King-Vladislav-III.html?ito=feeds-newsxml
  36. ^ http://www.aolnews.com/world/article/book-christopher-columbus-was-son-of-polish-king/19735940
  37. ^ http://www.ottawacitizen.com/Columbus+have+been+exiled+royal/3898067/story.html
  38. ^ http://www.wbj.pl/article-52239-was-christopher-columbus-polish.html?typ=ise
  39. ^ http://www.prnewswire.com/news-releases/polish-king-in-exile-was-christopher-columbus-true-father-110810919.html
  40. ^ ルケーヌp.154-155 コロンブスの卵の真実

脚注2

本脚注は、出典・脚注内で提示されている「出典」を示しています。

  1. ^ アントニオ・デ・ヘレラ『インディアス一般史』17世紀
  2. ^ ポルトガル王室付き歴史家ジョアン・デ・バロス(1496年 - 1570年)『アジア』
  3. ^ ラス・カサス『インディアス史』

参考文献

  • ラス・カサス 『インディアス史』(岩波文庫全7冊) 長南実訳、石原保徳編、2009年
     元版は岩波書店大航海時代叢書〉 、コロンブス(クリストバル・コロン)の生い立ちと航海について記述がある。
  • ラス・カサス『コロンブス航海誌』岩波書店、1977年。ISBN 4-00-334281-X 
  • 林屋永吉『コロンブス航海誌/ラス・カサス、訳者解説』岩波書店、1977年、273-297頁。ISBN 4-00-334281-X 
  • 林屋永吉『コロンブス航海誌/ラス・カサス、訳註』岩波書店、1977年、253-272頁。ISBN 4-00-334281-X 
  • ミシェル・ルケーヌ『コロンブス-聖者か破壊者か-』訳:大貫良太、創元社、1992年。ISBN 4-422-21071-8 
  • 笈川博一『コロンブスは何を「発見」したか』講談社現代新書、1992年。ISBN 4-06-149100-8 
  • 増田義郎『コロンブス』岩波書店、1979年。 

外部リンク


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