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「カンボジア特別法廷」の版間の差分

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[[ファイル:Eccc.jpg|thumb|right|280px|カンボジア特別法廷]]
'''カンボジア特別法廷'''(カンボジアとくべつほうてい、{{Lang-en|Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia}})は、[[1975年]]から[[1979年]]の[[カンボジア]]で[[クメール・ルージュ]]政権によって行われた虐殺等の重大な犯罪について、政権の上級指導者・責任者を裁くことを目的として、[[2001年]]、同国裁判所の特別部として設立された裁判所。[[2003年]]6月、カンボジア政府と[[国際連合]]との協定が成立し、国連の関与の下、[[2006年]]7月から運営を開始した。略称、'''ECCC'''。

2011年現在までに、5人の[[被告人]]が[[起訴]]され、裁判が係属中である。

== 沿革 ==
=== クメール・ルージュによる虐殺とその後 ===
{{See also |カンボジア内戦}}
[[ファイル: Tuolsleng1.JPG|thumb|right|240px|多くの拷問・処刑が行われたとされる[[S21 (トゥール・スレン)|S21]]収容所(現在は博物館)。]]
カンボジアでは、1970年代後半、[[ポル・ポト]]率いる共産主義政党[[クメール・ルージュ]]が政権を握った。[[1975年]]4月17日、クメール・ルージュ軍は首都[[プノンペン]]を占領し、親米の[[ロン・ノル]]政権([[クメール共和国]])を打倒した(後に国名を[[民主カンボジア|民主カンプチア]]と改称)。クメール・ルージュは、中国[[文化大革命]]の思想の影響の下に、知識人批判、[[学校]]・[[教育制度]]の解体、[[仏教]]を含む伝統的な価値観の否定など、過激な政策を実行していった。都市住民の強制大量疎開や、[[強制労働]]を実施したほか、ロン・ノル政権時代の行政官・軍関係者をはじめとして、知識人、教育関係者、仏教・[[イスラム教]]関係者、[[少数民族]]、党内外の反対派を次々に[[粛清]]した。クメール・ルージュが政権を握っていた約3年8箇月の間にカンボジアで失われた人命は、アメリカ[[中央情報局]]の推計によれば約170万人から約200万人、ミィ・サムディ教授(プノンペン国立医科大学)の推計によれば224万人とされる<ref>小倉 (2003: 58-63);熊岡 (2008)。</ref>。

[[1979年]]1月7日に[[ベトナム]]軍の侵攻によりクメール・ルージュは政権を追われ、[[ゲリラ]]勢力となった。その後、反ベトナムのクメール・ルージュ、[[ノロドム・シハヌーク|シハヌーク]]王党派、[[ソン・サン]]共和派の3派連合政権と、プノンペンに成立した親ベトナム(親[[ソ連]])の[[ヘン・サムリン]]政権([[カンプチア人民共和国]])との間で内戦が続いた<ref>小倉 (2003: 59);熊岡 (2008)。</ref>。1979年7月15日、カンボジア人民革命評議会の緊急命令によりプノンペン特別市法廷 ([[:en: People's Revolutionary Tribunal (Cambodia)|en]]) が設置され、被告人欠席のまま、同年8月15日から19日まで裁判が行われ、ポル・ポトとイエン・サリに[[死刑]]が宣告された<ref>小倉 (2003: 60)。</ref>。

1990年、プノンペン政府の[[フン・セン]]首相と3派連合政権のシハヌークとの会談を機に和平プロセスが急速に進行し、1991年のパリ和平協定、1993年の制憲議会選挙を経て、シハヌークを国王としてカンボジア王国政府が成立した。しかし、クメール・ルージュは国連が要請した武装解除を拒否、選挙をボイコットして、和平プロセスから脱落した。[[1996年]]、クメール・ルージュのナンバー2と言われた[[イエン・サリ]]が同党を離脱してカンボジア王国政府に投降した。[[1998年]]にはポル・ポトが死亡し、[[タ・モク]]が逮捕され、さらに[[キュー・サムファン]]、[[ヌオン・チア]]が投降し、クメール・ルージュは崩壊した<ref>小倉 (2003: 58-60);熊岡 (2008)。</ref>。

=== 特別法廷設立の経緯 ===
[[1997年]]、カンボジア王国政府は、国連に対し、クメール・ルージュの上級指導者の訴追のための法廷の設立について支援を求めた<ref name="Introduction">{{Cite web |url= http://www.eccc.gov.kh/en/about-eccc/introduction |title=Introduction to the ECCC |publisher= Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-08 }}</ref>。[[国際連合総会|国連総会]]は、同年12月、[[国際連合事務総長|事務総長]]に対し、この要請について、専門家グループの派遣を含め検討するよう求める[[国際連合総会決議|決議]]を採択した<ref>{{PDFlink|[http://unakrt-online.org/Docs/GA%20Documents/A-RES-52-135.pdf 国連総会決議52/135. Situation of human rights in Cambodia]}}(1997年12月12日)。</ref>。専門家グループは、1999年2月、国際法上・国内法上の重大な犯罪の存在が認められ、クメール・ルージュ指導者に対する法的手続の実施を正当化するに足りる証拠も存在するとの報告書を提出した<ref>{{Cite web |url=http://unakrt-online.org/Docs/GA%20Documents/1999%20Experts%20Report.pdf |format=PDF |title=Report of the Group of Experts for Cambodia established pursuant to General Assembly resolution 52/135 |date=1999-02-18 |publisher=United Nations Assistance to the Khmer Roughe Trials (UNAKRT) |accessdate=2011-08-20 }}</ref>。

2001年、カンボジア[[国民議会 (カンボジア)|国民議会]]は、1975年から1979年までの民主カンプチア時代に行われた重大な犯罪を裁くため、'''民主カンプチア時代に発生した犯罪の訴追に関するカンボジア裁判所内の特別法廷設置法'''(以下「特別法廷設置法」)を制定した(8月10日公布)<ref name="Introduction" />。

しかし、その後、裁判官の構成や対人管轄権の範囲をめぐって国連とカンボジアとの交渉が頓挫し、国連は、2002年2月8日、カンボジアとの交渉を終了する声明を発表した。その後、[[日本]]を含む関係諸国が交渉再開に向けて外交交渉を行った結果、国連総会は、[[2002年]]12月18日、事務総長に対し交渉の再開を求める決議を採択した<ref>権 (2005: 153)。</ref><ref>[http://daccess-dds-ny.un.org/doc/UNDOC/GEN/N02/554/25/PDF/N0255425.pdf?OpenElement 国連総会決議57/228. Khmer Rouge trials: A]</ref>。これを受けて、[[2003年]]1月、交渉が再開され、国連とカンボジア政府との合意内容が明記された草案が作成された。同年5月13日、国連総会もこれを歓迎する決議を採択した<ref>権 (2003: 153)。</ref><ref>[http://unakrt-online.org/Docs/GA%20Documents/A-Res-57-228B.pdf 国連総会決議57/228. Khmer Rouge trials: B]</ref>。

そして、2003年6月6日、国連とカンボジア政府との間で、民主カンプチア時代の犯罪の訴追に関する'''協定'''が締結され、{{仮リンク|ソック・アン|en|Sok An}}内閣官房長官と国連のハンス・コレル代理弁護士との間で調印が行われた<ref>権 (2005: 153)。</ref>。協定では、「1975年4月17日から1979年1月6日までに行われた、カンボジア刑事法、国際人道法・慣習及びカンボジアによって承認された国際条約についての犯罪及び重大な違反」について、「民主カンプチアの上級指導者及び最も責任を有する者」を本特別法廷の管轄とし、第一審裁判部はカンボジア人判事3人と国際判事2人、最高審裁判部はカンボジア人判事4人と国際判事3人で構成されることなどが合意された。最高刑は終身[[禁錮]]とされた<ref>{{Cite web |url= http://www.eccc.gov.kh/sites/default/files/legal-documents/Agreement_between_UN_and_RGC.pdf |format=PDF |title=Agreement between the United Nations and the Royal Government of Cambodia Concerning the Prosecution under Cambodian Law of Crimes Committed during the Period of Democratic Kampuchea |year=2003 |publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-20 }}</ref>。

その後、カンボジア国内において協定を承認するとともに、特別法廷設置法をこれに整合するように改正する必要があったが、2003年7月の総選挙後の与野党対立から1年以上議会が開かれず、[[2004年]]8月、ようやく議会が開会して審議が行われた。そして、カンボジア国民議会は、同年10月、国連との協定を承認するとともに、それに沿うように、特別法廷設置法を改正した<ref>権 (2005: 152-53)、山本 (2011: 89)。</ref>。改正の要点は、(1)[[三審制]]から[[二審制]]への変更、(2)特別法廷設置法と協定との関係について、設置法を優位に置くことを前提に、協定に国内法としての効力を与えること、(3)被告人等の権利保障に関する規定の改正、(4)カンボジア法の解釈・適用に不明確な点がある場合や、国際基準との整合性に問題が生じた場合に、国際的に確立された手続規則がガイダンスとして使用されるとの協定に沿った改正、(5)設置法制定前に与えられることとされていた[[恩赦]] (amnesty)・[[大赦]] (pardon) の範囲は特別法廷が決定する事項とすることである<ref>権 (2005: 153-54)。</ref>。

[[2006年]]7月に特別法廷が運営を開始して最初の司法官会議が開かれ、'''内部規則'''(Internal Rules)を定めることを決定した。特別法廷の手続は、基本的には国連との協定、特別法廷設置法、カンボジアの[[刑事訴訟法]]に従って行われるが、特別法廷に特殊な部分、国内法が国際基準に合致していない部分などがあったことから、内部規則によって補充する必要があったためである。しかし、司法官内部のカンボジア側と国連側の対立があり、またカンボジア政府の介入も取り沙汰されて長引き、同年11月に原案が公開されて[[パブリックコメント]]手続を経たが、[[2007年]]6月12日にようやく採択された<ref>ヒューマンライツ・ナウ (2008: 1)。</ref><ref>山本 (2011: 89-90)。</ref><ref>{{ Cite news | url = http://www.afpbb.com/article/politics/2191507/1396129 | title = 開廷遅れるポル・ポト派特別法廷、判事らが規定調整協議 - カンボジア |date=2007-03-07 | publisher =AFP.BB.NEWS | accessdate = 2010-09-17 }}</ref>。

== 裁判の対象 ==
2004年改正後の特別法廷設置法によれば、特別法廷が裁判の対象とする行為(事物管轄)は、1975年4月17日から1979年1月6日までに行われた、カンボジア刑事法、[[国際人道法]]・慣習、及びカンボジアの承認した国際[[条約]]の犯罪及び重大な違反とされ、裁判の対象とする者(人的管轄)は、「民主カンプチアの上級指導者」及び当該犯罪及び重大な違反に「最も責任を有する者」とされている。特別法廷設置法は、具体的に次の者(上記期間の行為に限る)を訴追する権限を与えている<ref>{{Cite web |url=http://www.eccc.gov.kh/sites/default/files/legal-documents/KR_Law_as_amended_27_Oct_2004_Eng.pdf |format=PDF |title=Law on the Establishment of the Extraordinary Chambers, with inclusion of amendments as promulgated on 27 October 2004 (NS/RKM/1004/006). |publisher= Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-20 }}</ref>。
* 1956年カンボジア刑事法典に定められた、[[殺人]]、[[拷問]]、宗教的迫害の罪を犯した者(3条。なお同法典に定められた[[公訴時効]]は30年延長される。また、刑は最高で終身禁錮までに限られる。)
* [[ジェノサイド条約]]に規定されるジェノサイドの罪を犯した者(4条)
* [[人道に対する罪]]を犯した者(5条)
* 1949年の[[ジュネーヴ諸条約 (1949年)|ジュネーヴ諸条約]]の重大な違反を実行し、又は命令した者(6条)
* [[武力紛争の際の文化財の保護に関する条約]](1954年ハーグ条約)に照らし、武力紛争の際の文化財の破壊に最も責任を有する者(7条)
* [[外交関係に関するウィーン条約]]に照らし、国際的な保護を受ける者に対する犯罪に最も責任を有する者(8条)

== 組織と手続 ==
カンボジア特別法廷は、[[旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷]] (ICTY)、[[ルワンダ国際戦犯法廷]] (ICTR)、[[国際刑事裁判所]] (ICC) のような[[国際法廷]]と異なり、カンボジア国内裁判所の特別部として設置されている点に特色がある。同時に、国連との協定により、判事・検事その他のスタッフに、カンボジア人だけでなく国連の任命する外国人が当てられ、また、カンボジア国内法だけでなく[[国際法]]も適用される。こうした特徴から、「混合法廷」(hybrid tribunal) と呼ばれる<ref>山本 (2011: 88-89)。</ref>。

=== 裁判部 ===
カンボジア特別法廷は、第一審と最高審の[[二審制]]であり、そのほか、捜査段階の裁定を行うための公判前裁判部が設けられている。

'''公判前裁判部''' (Pre-Trial Chamber) は、[[捜査]]段階において、共同捜査判事の決定に対する抗告等を審理する法廷である。カンボジア人判事3人と国際判事2人で構成され、決定には5人中4人の賛成が必要である。現在の構成は次のとおり<ref name="chambers">{{Cite web |url=http://www.eccc.gov.kh/en/judicial-chamber |title=Judicial Chambers |publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-19 }}</ref>。
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* Prak Kimsan({{KHM}}、裁判長)
* Rowan Downing({{AUS}})
* Ney Thol({{KHM}})
{{Col-2}}
* Chung Chang-ho({{KOR}})
* Huot Vuthy({{KHM}})
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'''第一審裁判部''' (Trial Chamber) は、捜査が終結し[[起訴]]された場合に、第一審の[[公判]]([[トライアル (裁判)|トライアル]])を行う法廷である。証人尋問その他の証拠、当事者の弁論を踏まえて、[[被告人]]の有罪・無罪を判断する。カンボジア人判事3人と国際判事2人で構成され、有罪の[[判決]] (verdict) には少なくとも5人中4人の賛成が必要である。現在の構成は次のとおり<ref name="chambers" />。
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{{Col-2}}
* Nil Nonn({{KHM}}、裁判長)
* Silvia Cartwright({{NZL}})
* Ya Sokhan({{KHM}})
{{Col-2}}
* Jean-Marc Lavergne({{FRA}})
* Thou Mony({{KHM}})
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'''最高審裁判部''' (Supreme Court Chamber) は、第一審の決定・判決に対する[[上訴]]を審理する法廷である。カンボジア人判事4人と国際判事3人で構成され、決定には7人中5人の賛成が必要である。現在の構成は次のとおり<ref name="chambers" />。
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{{Col-2}}
* コン・スリム({{KHM}}、裁判長)
* 野口元郎({{JPN}})
* Som Sereyvuth({{KHM}})
* Agnieszka Klonowiecka-Milart({{POL}})
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* Sin Rith({{KHM}})
* Chandra Nihal Jayasinghe({{SRI}})
* Ya Narin({{KHM}})
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=== 共同捜査判事 ===
[[ファイル:Mak Remissa-PTC11Feb2010.jpg|thumb|right|250px|イエン・サリ被告の公判前勾留審問。]]
[[ファイル:Mak Remissa-PTC11Feb2010.jpg|thumb|right|250px|イエン・サリ被告の公判前勾留審問。]]
'''共同捜査判事''' (Co-Investigating Judges) は、共同検察官からの司法捜査開始の申立て (Introductory Submission) を受けて、司法捜査を行う権限を有する。検察官ではなく捜査判事が捜査の主体になる点は、他の国際法廷と異なるところであり、[[大陸法]](フランス法)の影響を受けたカンボジア刑事手続法の特徴である<ref name="CIJ">{{Cite web |url= http://www.eccc.gov.kh/en/ocij |title=Co-Investigating Judges |publisher= Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-20 }}</ref>。
'''カンボジア特別法廷'''(カンボジアとくべつほうてい、{{Lang-en|Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia}})は、[[国際連合]]と[[カンボジア]]政府の合意の下に設置された特別法廷。略称、'''ECCC'''。


共同捜査判事は、被疑者の有利にも不利にも偏らず、公平な立場から捜査を行う義務があり、被疑者の取調べ、[[被害者]]・[[証人]]の事情聴取、証拠物の[[押収]]、専門家の意見の聴取、現場検証、召喚状・[[逮捕状]]・[[勾留]]命令の発付、証人保護措置、各種機関(国家、国連、国際組織、[[NGO]]等)に対する情報提供・支援依頼など、真実発見のための様々な活動を行う権限を有する。また、当事者(共同検察官、被疑者、民事当事者)は共同捜査判事に対しこれらの捜査手段をとるよう申し立てることができる<ref name="CIJ" />。
==目的==
[[カンボジア内戦]]を通じて行われた人道に対する罪や戦争犯罪を裁くために設置。捜査も特別法廷が行う。対象は、元[[クメール・ルージュ]]の幹部らである。


捜査を終えると、共同捜査判事は全当事者及びその代理人にその旨を通知する(当事者は15日以内に捜査続行の申立てをすることができ、これが却下されたときは公判前裁判部に抗告をすることができる)。捜査終了の決定が確定すると、共同捜査判事は事件記録を共同検察官に送付し、共同検察官が最終送致書を作成して、共同捜査判事に対し起訴又は不起訴の意見を提出する。ただし、共同捜査判事は共同検察官の意見には拘束されず、捜査終結宣言 (Closing Order) を発し、被疑者を[[起訴]]して公判廷に送るか、又は不起訴(却下)とするかを判断する。不起訴となるのは、(1)共同検察官が送致した犯罪事実が特別法廷の管轄に属するものではない場合、(2)犯罪の実行者が特定されていない場合、(3)被疑者に対する嫌疑を裏付ける十分な証拠がない場合である。起訴の判断に対しては共同検察官からのみ抗告を行うことができ、不起訴命令に対しては共同検察官及び民事当事者から抗告することができる。捜査終結宣言が確定した後は、共同捜査判事は役割を終えるが、不起訴後に新証拠が現れた場合は、共同検察官の申立てにより司法捜査が再開される場合がある<ref name="CIJ" />。
==法廷==
[[旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷]]のような国際機関、国際法廷とは異なり、カンボジア国内の法廷という体裁を採っているが、深く国連が関与していること、支援国の日本やアメリカ、フランスなどが財政支援を行うなど実質的な国際監視下にある。


判はカンボジア人と人の[[判事]]による合議制。二審制で最高刑[[終身刑]]<ref>{{ Cite news | url =
共同捜査はカンボジア人判事1名と国判事1人が務め現在次の2名である<ref name="CIJ" />。
* ユー・ブンレン({{KHM}})
http://www.afpbb.com/article/politics/2191507/1396129 | title = 開廷遅れるポル・ポト派特別法廷、判事らが規定調整協議-カンボジア(2007年03月07日13:54) | publisher =AFP.BB.NEWS | accessdate = 2010-09-17 }}</ref>。
* ジークフリート・ブルンク({{DEU}})


=== 共同検察官 ===
==年表==
'''共同検察官''' (Co-Prosecutors) は、共同捜査判事の行う司法捜査の前に予備的捜査 (preliminary investigation) を行うほか、司法捜査(公判前裁判を含む)、公判、上訴の全段階を通じて訴追側当事者として活動する。また、被害者の申立てを取り扱う<ref name="CP">{{Cite web |url=http://www.eccc.gov.kh/en/ocp/office-co-prosecutors |title=Office of the Co-Prosecutors |publisher= Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-20 }}</ref>。
*[[2003年]]:国連とカンボジア政府間で特別法廷設置の合意文書の批准。

*[[2006年]]7月:特別法廷活動開始。
共同検察官はカンボジア人検事1人と国際検事1人が務め、現在は次の2名である<ref name="CP" />
*[[2007年]]:[[ヌオン・チア]](元人民代表議会議長)、[[キュー・サムファン]](元国家幹部会議長)、[[イエン・サリ]](元副首相)、[[イエン・シリト]](元社会問題相)、[[カン・ケク・イウ]](元[[S21 (トゥール・スレン)]][[政治犯]][[収容所]]所長)らを拘束。
* チア・レアン({{KHM}})
*[[2008年]]:カン・ケク・イウを起訴。
* アンドリュー・ケイリー({{GBR}})
*[[2010年]]7月:カン・ケク・イウの一審判決、[[禁固]]35年の有罪。被告、検察双方が[[控訴]]。

*2010年9月:残りの4名を起訴<ref>{{ Cite news | url =
=== 事務局 ===
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2010091702000037.html | title = ポト派元最高幹部起訴 カンボジア特別法廷,大量虐殺などで4人| publisher =東京新聞 | accessdate = 2010-09-17 }}</ref>。
裁判部、共同捜査判事、検察局の行う事務全般を支えるため、'''事務局'''が置かれている。カンボジア政府の任命する事務局長と、[[国際連合事務総長|国連事務総長]]が任命する副局長が全体を統括する<ref>協定第8条。</ref>。

=== 弁護 ===
'''弁護支援部''' (Defence Support Section) は、被告人に[[弁護人]]の選任について支援し、弁護人に対して費用の支払を含め法的・行政的な支援を提供する。

=== 被害者参加 ===
カンボジア特別法廷では、被害者参加の制度が設けられた。

== 裁判手続の推移 ==
=== 第1事件 ===
[[ファイル:MGP 9693-01.jpg|thumb|right|170px|第1事件の被告人となった[[カン・ケク・イウ]]。]]
元[[S21 (トゥール・スレン)|S21]](トゥール・スレン)[[政治犯]][[収容所]]所長、[[カン・ケク・イウ]]に対する裁判。

共同検察官は、[[2007年]]7月18日、共同捜査判事に対し、カン・ケク・イウ及び後述(第2事件)の4名について司法捜査開始申立てを行った。共同捜査判事は、まず、カン・ケク・イウについて嫌疑に相当の理由があるものと認め、司法捜査を開始し、勾留を決定した<ref>山本 (2011: 92)。</ref>。これにより、カン・ケク・イウは、同月31日に軍の拘置施設から、カンボジア特別法廷の拘置所に移監された。[[2008年]]8月8日共同捜査判事により起訴され、公判前裁判部により起訴の判断が是認(一部変更)されたのが同年12月5日であった。[[2009年]]2月17日及び18日、第一審裁判部で公判の冒頭審問が行われた。実質的な審理は同年3月30日に始まり、同年9月17日、証拠の提示が終わった。その間の証拠調べ期日は72日にわたり、[[証人]]24人、民事当事者22人、専門家9人が出廷した。同年11月23日から27日にかけての5日間、最終弁論が行われて公判は結審した<ref name="Case001">{{Cite web |url=http://www.eccc.gov.kh/en/case/topic/1 |title=CASE 001 |publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-28 }}</ref>。

[[2010年]]7月26日に一審判決が出され、次の罪で有罪とされ、[[禁錮]]35年を宣告された(1999年5月から2007年7月31日までのカンボジア軍裁判所による違法な拘禁に対する救済措置として30年に減刑)<ref name="Case001" />。
* 人道に対する罪(政治的理由による迫害)
: 人類絶滅に対する罪(殺人を含む)、[[奴隷]]化、拘禁、[[拷問]](1例の[[強姦]]を含む)、その他の非人道的行為
* 1949年のジュネーヴ諸条約の重大な違反
: 意図的な殺人、拷問・非人道的取扱い、意図的に身体又は健康に対する重大な苦痛又は重大な傷害を与えたこと、意図的に[[捕虜]]又は[[文民]]に対し公正かつ通常の裁判を受ける権利を奪ったこと、文民の不法な拘束
同判決では、S21収容所で子供を含む1万2000人以上が収容され、その多くが拷問その他の非人道的行為を受けるとともに、被収容者のほとんどが付属の処刑場等で処刑されたと認定された<ref>山本 (2011: 88)。</ref>。

一審判決に対しては、共同検察官と被告人の双方から[[控訴]]がされ、現在最高審裁判部に係属中である<ref name="Case001" />。

また、一審判決では、民事当事者の求めた補償措置のうち、(1)被告人が公判手続中に謝罪し責任を認めた陳述を集約し、判決確定後に特別法廷の[[ウェブサイト]]に掲載すること、(2)当事者適格を認められた民事当事者が被告人の犯罪により被害を受けたことを確認・宣言することを認めた<ref>山本 (2011: 91-92)。</ref>。民事当事者は、補償措置及び民事当事者適格性についての判断に対して控訴している<ref name="Case001" />。

=== 第2事件 ===
[[ファイル: Trial Chamber 31 January 2011.jpg |thumb|left|200px|勾留審問のため出廷する[[ヌオン・チア]](2011年1月)。]]
[[ヌオン・チア]](元人民評議会議長)、[[キュー・サムファン]](元国家幹部会議長)、[[イエン・サリ]](元副首相)、[[イエン・シリト]](元社会問題相)の4名に対する裁判。

前述のとおり、共同検察官は、2007年7月18日、上記4名とカン・ケク・イウについて司法捜査開始の申立てを行ったが、共同捜査判事は、同年9月19日、ヌオン・チアに対する司法捜査開始と同時に、S21を中心とする第1事件とカンボジア全土に広がる事実を扱う第2事件とを分離することを決定した<ref>山本 (2011: 92)。</ref>。

[[ファイル: Khieu Samphan Initial Hearing Case 002.jpg|thumb|right|200px|冒頭審問に出廷する[[キュー・サムファン]](2011年6月)。]]
4名は、[[2010年]]9月15日、共同捜査判事の捜査終結宣言により起訴された。これに対して4名とも抗告したが、公判前裁判部は、[[2011年]]1月13日、起訴の判断を是認(一部変更)し、4被告人は公判廷に送られることとなった。起訴の理由は、人道に対する罪、1949年のジュネーヴ諸条約の重大な違反、[[ジェノサイド]]、1956年カンボジア刑事法点における殺人・拷問・宗教的迫害の罪である<ref name="Case002">{{Cite web |url=http://www.eccc.gov.kh/en/case/topic/2 |title=CASE 002 |publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-28 }}</ref>。対象となる[[公訴事実]]は、主に、(1)3度にわたる強制移住、(2)集団農場の設置・運営、(3)収容所及び処刑場での悪分子最教育と「敵」の抹殺、(4)[[チャム族]]、[[ベトナム人]]、仏教徒など特定集団に対する犯罪行為、(5)[[結婚]]の管理の5点である<ref>山本 (2011: 94)。</ref>。

2011年6月27日、冒頭審問が行われて公判が開始し、現在第一審に係属中である<ref name="Case002" />。

; ヌオン・チア
: 別名「ブラザー・ナンバー2」と呼ばれ、カンプチア共産党副書記長、党常務委員会委員、民主カンプチア人民評議会議長などを務めた。1998年、カンボジア政権に投降し、フン・セン首相の[[恩赦]]を受けて釈放され、[[パイリン]]近郊の自宅で生活していたが<ref name="afp">{{Cite web |url=http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2314817/2374499 |title=カンボジア特別法廷の審問開始、被告の旧ポル・ポト政権幹部の顔ぶれ |publisher=AFP.BB.NEWS |date=2007-11-20 |accessdate=2011-08-18 }}</ref>、[[2007年]]9月19日に逮捕され、同日、捜査判事が司法捜査開始・勾留を決定した<ref>山本 (2011: 92)。</ref><ref>{{Cite web |url= http://www.eccc.gov.kh/en/indicted-person/nuon-chea |title=Nuon Chea: Biography |publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-28 }}</ref>。

; キュー・サムファン
: 1975年、民主カンプチアの[[国家元首]](国家幹部会議長)に任命され、1987年にポル・ポトがクメール・ルージュ党首を退いた後はこれを引き継いだ<ref>{{Cite web |url= http://www.eccc.gov.kh/en/indicted-person/khieu-samphan |title=Khieu Samphan: Biography | publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-28 }}</ref>。1998年にヌオン・チアとともに投降後、パイリンで生活していたが<ref name="afp" />、2007年11月19日逮捕され、同日、捜査判事が司法捜査開始・勾留を決定した<ref>山本 (2011: 92)。</ref>。
: 2004年、著書『カンボジア現代史と、私の下した決断の裏にある理由』の中で、ポル・ポト政権下の惨劇については何も知らなかったと弁明しているほか、これまでのインタビューでも、大量虐殺への関与を否認している<ref name="afp" />。

[[ファイル: Mak Remissa-IS01.jpg|thumb|right|160px|勾留審問に出廷する[[イエン・サリ]](2010年1月)。]]
; イエン・サリ
: 1975年から[[外交]]担当副首相を務めたほか、カンプチア共産党常務委員会委員・中央委員会委員を務めた<ref name="Sary">{{Cite web |url=http://www.eccc.gov.kh/en/indicted-person/ieng-sary |title= Ieng Sary: Biography | publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-28 }}</ref>。ポル・ポトの義理の兄弟で、「ブラザー・ナンバー3」と呼ばれた<ref name="afp" />。1979年、政権崩壊とともに[[タイ]]へ逃亡し、同年行われたカンボジア人民革命評議会のプノンペン特別市法廷では欠席のまま死刑を宣告された。1996年8月、カンボジア国王令で1979年の有罪判決についての[[特赦]]及びクメール・ルージュ非合法化法(1994年制定)に関する訴追免除を受けるのと引換えに、部下数千人を引き連れて投降した<ref name="Sary" />。以後プノンペンで生活していたが<ref name="afp" />、2007年11月12日に逮捕され、同月14日、勾留決定された<ref>山本 (2011: 92)。</ref>。
: 1996年の国王令による恩赦の効力については、特別法廷によって判断されるべき問題として、裁判手続に持ち越すことが国連とカンボジア政府の協定で合意されている<ref>協定第11条2項。</ref><ref>山本 (2011: 93)。</ref>。

; イエン・シリト
: イエン・サリの妻。また、ポル・ポトの最初の妻[[キュー・ポナリー]]の実妹である。民主カンプチア政権で社会問題相を務めた。1998年にイエン・サリが国王の恩赦を受けて投降してからは、ともにプノンペンで生活していたが、2007年11月12日、サリとともに逮捕された<ref>{{Cite web |url=http://www.eccc.gov.kh/en/indicted-person/ieng-thirith |title=Ieng Thirith: Biography | publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-28 }}</ref>。

=== 第3事件及び第4事件 ===
第1・第2事件以外の被疑者を訴追すべきか否かについては、カンボジア側と国際側の検察官の間で意見が分かれた。国際検察官ロバート・ベティットが、クメール・ルージュ政権下の犯罪の包括的解明につながるとして訴追を主張したのに対し、カンボジア側検察官は、国民和解の必要性などを理由として訴追に反対した。内部規則71条による共同検察官意見不一致の場合の手続に従い、共同検察官は公判前裁判部に裁定を申し立てた。しかし、公判前裁判部では裁定に必要な多数(判事4名以上)を満たさず、内部規則71条4項(c)の規定により、一方の検察官(この場合国際検察官)の請求した司法捜査開始の申立てが維持されることとなった<ref>山本 (2011: 94)。国際側判事2名が訴追を支持したのに対し、カンボジア側判事3名は反対した。</ref><ref>{{Cite web |url= http://www.eccc.gov.kh/en/articles/statement-regarding-prosecutorial-disagreement |title= Statement regarding prosecutorial disagreement |publisher= Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |year=2010 |accessdate=2011-08-28 }}</ref>。

こうして、2009年9月7日、国際側検察官から共同捜査判事に対し5人の被疑者に対する司法捜査開始の申立てが行われた。これが第3事件と第4事件とに分割された<ref name="Case003">{{Cite web |url= http://www.eccc.gov.kh/en/case/topic/286 |title=CASE 003 | publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-28 }}</ref>。被疑者の氏名は公開されていない。

第3・第4事件については、2009年9月、フン・セン首相が訴追への反対を公言し、また、[[2010年]]6月には共同捜査判事間の意見の不一致が報じられた<ref>山本 (2011: 95)。</ref>。

共同捜査判事は、2011年4月29日、共同検察官に対し、第3事件について捜査の終了を通知した<ref name="Case003" />。第4事件については共同捜査判事の捜査が継続中である<ref>{{Cite web |url= http://www.eccc.gov.kh/en/case/topic/98 |title=CASE 004 | publisher=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia |accessdate=2011-08-28 }}</ref>。

== 脚注 ==
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
* {{Cite journal |和書 |author=小倉貞男 |url=http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/vol15-3/15-3ogura.pdf |title=クメール・ルージュ国際人道裁判で何が裁かれようとしないのか |format=PDF |year=2003 |month=3 |journal=立命館国際研究 |volume=15 |issue=3 |pages=57-71 |accessdate=2011-08-19 }}
* {{Cite web |url= http://hrn.or.jp/activity/krtsiryou3.pdf |title=「クメール・ルージュ (KR) について」あるいは「KRが政権をとれた背景とは」 |author=熊岡路矢 |publisher=ヒューマンライツ・ナウ |accessdate=2011-08-19 |format=PDF}}
* {{Cite journal |和書 |url=http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/legis/223/022312.pdf |format=PDF |author=権香淑 |title=【短信:カンボジア】ポル・ポト派元幹部らを裁くための特別法廷設置法の改正 |journal=外国の立法 |year=2005 |month=2 |issue=223 |pages=152-56 |publisher=[[国立国会図書館]] |accessdate=2011-08-29}}
* {{Cite web |url=http://hrn.or.jp/activity/081219krtsymp.pdf |title=シンポジウム 平和構築と人権「カンボジア特別法廷の挑戦」報告書 |format=PDF |author=ヒューマンライツ・ナウ |publisher=ヒューマンライツ・ナウ|year=2008 |accessdate=2011-08-19}}
* {{Cite journal |和書 |author=山本晋平 |title=旧ポル・ポト派(クメール・ルージュ)の犯罪を裁く:「カンボジア特別法廷」の挑戦―日本発の国際人権NGOの視点から |journal=[[自由と正義]] |volume=62 |issue=4 |pages=88-98 |year=2011 |month=4 |publisher=[[日本弁護士連合会]] }}


==関連項目==
==関連項目==
*[[ポル・ポト]](クメール・ルージュ最高幹部)
*[[ポル・ポト]](クメール・ルージュ最高幹部)
*[[野口元郎]](国際連合アジア極東犯罪防止研修所教官兼日本国[[外務省]]国際法局国際法課検事)

==出典==
{{Reflist}}


==外部リンク==
==外部リンク==
{{Commonscat|Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia}}
{{Commonscat|Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia}}
* [http://www.eccc.gov.kh/en カンボジア特別法廷](公式サイト、英語)
*[http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2314817/2374499 カンボジア特別法廷の審問開始、被告の旧ポル・ポト政権幹部の顔ぶれ(元幹部の各経歴、最近の顔写真の掲載あり)(AFP.BB.NEWS)2007年11月20日18:04]
* [http://www.unakrt-online.org/01_home.htm UNAKRT]


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2011年8月30日 (火) 02:13時点における版

カンボジア特別法廷

カンボジア特別法廷(カンボジアとくべつほうてい、英語: Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia)は、1975年から1979年カンボジアクメール・ルージュ政権によって行われた虐殺等の重大な犯罪について、政権の上級指導者・責任者を裁くことを目的として、2001年、同国裁判所の特別部として設立された裁判所。2003年6月、カンボジア政府と国際連合との協定が成立し、国連の関与の下、2006年7月から運営を開始した。略称、ECCC

2011年現在までに、5人の被告人起訴され、裁判が係属中である。

沿革

クメール・ルージュによる虐殺とその後

多くの拷問・処刑が行われたとされるS21収容所(現在は博物館)。

カンボジアでは、1970年代後半、ポル・ポト率いる共産主義政党クメール・ルージュが政権を握った。1975年4月17日、クメール・ルージュ軍は首都プノンペンを占領し、親米のロン・ノル政権(クメール共和国)を打倒した(後に国名を民主カンプチアと改称)。クメール・ルージュは、中国文化大革命の思想の影響の下に、知識人批判、学校教育制度の解体、仏教を含む伝統的な価値観の否定など、過激な政策を実行していった。都市住民の強制大量疎開や、強制労働を実施したほか、ロン・ノル政権時代の行政官・軍関係者をはじめとして、知識人、教育関係者、仏教・イスラム教関係者、少数民族、党内外の反対派を次々に粛清した。クメール・ルージュが政権を握っていた約3年8箇月の間にカンボジアで失われた人命は、アメリカ中央情報局の推計によれば約170万人から約200万人、ミィ・サムディ教授(プノンペン国立医科大学)の推計によれば224万人とされる[1]

1979年1月7日にベトナム軍の侵攻によりクメール・ルージュは政権を追われ、ゲリラ勢力となった。その後、反ベトナムのクメール・ルージュ、シハヌーク王党派、ソン・サン共和派の3派連合政権と、プノンペンに成立した親ベトナム(親ソ連)のヘン・サムリン政権(カンプチア人民共和国)との間で内戦が続いた[2]。1979年7月15日、カンボジア人民革命評議会の緊急命令によりプノンペン特別市法廷 (en) が設置され、被告人欠席のまま、同年8月15日から19日まで裁判が行われ、ポル・ポトとイエン・サリに死刑が宣告された[3]

1990年、プノンペン政府のフン・セン首相と3派連合政権のシハヌークとの会談を機に和平プロセスが急速に進行し、1991年のパリ和平協定、1993年の制憲議会選挙を経て、シハヌークを国王としてカンボジア王国政府が成立した。しかし、クメール・ルージュは国連が要請した武装解除を拒否、選挙をボイコットして、和平プロセスから脱落した。1996年、クメール・ルージュのナンバー2と言われたイエン・サリが同党を離脱してカンボジア王国政府に投降した。1998年にはポル・ポトが死亡し、タ・モクが逮捕され、さらにキュー・サムファンヌオン・チアが投降し、クメール・ルージュは崩壊した[4]

特別法廷設立の経緯

1997年、カンボジア王国政府は、国連に対し、クメール・ルージュの上級指導者の訴追のための法廷の設立について支援を求めた[5]国連総会は、同年12月、事務総長に対し、この要請について、専門家グループの派遣を含め検討するよう求める決議を採択した[6]。専門家グループは、1999年2月、国際法上・国内法上の重大な犯罪の存在が認められ、クメール・ルージュ指導者に対する法的手続の実施を正当化するに足りる証拠も存在するとの報告書を提出した[7]

2001年、カンボジア国民議会は、1975年から1979年までの民主カンプチア時代に行われた重大な犯罪を裁くため、民主カンプチア時代に発生した犯罪の訴追に関するカンボジア裁判所内の特別法廷設置法(以下「特別法廷設置法」)を制定した(8月10日公布)[5]

しかし、その後、裁判官の構成や対人管轄権の範囲をめぐって国連とカンボジアとの交渉が頓挫し、国連は、2002年2月8日、カンボジアとの交渉を終了する声明を発表した。その後、日本を含む関係諸国が交渉再開に向けて外交交渉を行った結果、国連総会は、2002年12月18日、事務総長に対し交渉の再開を求める決議を採択した[8][9]。これを受けて、2003年1月、交渉が再開され、国連とカンボジア政府との合意内容が明記された草案が作成された。同年5月13日、国連総会もこれを歓迎する決議を採択した[10][11]

そして、2003年6月6日、国連とカンボジア政府との間で、民主カンプチア時代の犯罪の訴追に関する協定が締結され、ソック・アン英語版内閣官房長官と国連のハンス・コレル代理弁護士との間で調印が行われた[12]。協定では、「1975年4月17日から1979年1月6日までに行われた、カンボジア刑事法、国際人道法・慣習及びカンボジアによって承認された国際条約についての犯罪及び重大な違反」について、「民主カンプチアの上級指導者及び最も責任を有する者」を本特別法廷の管轄とし、第一審裁判部はカンボジア人判事3人と国際判事2人、最高審裁判部はカンボジア人判事4人と国際判事3人で構成されることなどが合意された。最高刑は終身禁錮とされた[13]

その後、カンボジア国内において協定を承認するとともに、特別法廷設置法をこれに整合するように改正する必要があったが、2003年7月の総選挙後の与野党対立から1年以上議会が開かれず、2004年8月、ようやく議会が開会して審議が行われた。そして、カンボジア国民議会は、同年10月、国連との協定を承認するとともに、それに沿うように、特別法廷設置法を改正した[14]。改正の要点は、(1)三審制から二審制への変更、(2)特別法廷設置法と協定との関係について、設置法を優位に置くことを前提に、協定に国内法としての効力を与えること、(3)被告人等の権利保障に関する規定の改正、(4)カンボジア法の解釈・適用に不明確な点がある場合や、国際基準との整合性に問題が生じた場合に、国際的に確立された手続規則がガイダンスとして使用されるとの協定に沿った改正、(5)設置法制定前に与えられることとされていた恩赦 (amnesty)・大赦 (pardon) の範囲は特別法廷が決定する事項とすることである[15]

2006年7月に特別法廷が運営を開始して最初の司法官会議が開かれ、内部規則(Internal Rules)を定めることを決定した。特別法廷の手続は、基本的には国連との協定、特別法廷設置法、カンボジアの刑事訴訟法に従って行われるが、特別法廷に特殊な部分、国内法が国際基準に合致していない部分などがあったことから、内部規則によって補充する必要があったためである。しかし、司法官内部のカンボジア側と国連側の対立があり、またカンボジア政府の介入も取り沙汰されて長引き、同年11月に原案が公開されてパブリックコメント手続を経たが、2007年6月12日にようやく採択された[16][17][18]

裁判の対象

2004年改正後の特別法廷設置法によれば、特別法廷が裁判の対象とする行為(事物管轄)は、1975年4月17日から1979年1月6日までに行われた、カンボジア刑事法、国際人道法・慣習、及びカンボジアの承認した国際条約の犯罪及び重大な違反とされ、裁判の対象とする者(人的管轄)は、「民主カンプチアの上級指導者」及び当該犯罪及び重大な違反に「最も責任を有する者」とされている。特別法廷設置法は、具体的に次の者(上記期間の行為に限る)を訴追する権限を与えている[19]

組織と手続

カンボジア特別法廷は、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷 (ICTY)、ルワンダ国際戦犯法廷 (ICTR)、国際刑事裁判所 (ICC) のような国際法廷と異なり、カンボジア国内裁判所の特別部として設置されている点に特色がある。同時に、国連との協定により、判事・検事その他のスタッフに、カンボジア人だけでなく国連の任命する外国人が当てられ、また、カンボジア国内法だけでなく国際法も適用される。こうした特徴から、「混合法廷」(hybrid tribunal) と呼ばれる[20]

裁判部

カンボジア特別法廷は、第一審と最高審の二審制であり、そのほか、捜査段階の裁定を行うための公判前裁判部が設けられている。

公判前裁判部 (Pre-Trial Chamber) は、捜査段階において、共同捜査判事の決定に対する抗告等を審理する法廷である。カンボジア人判事3人と国際判事2人で構成され、決定には5人中4人の賛成が必要である。現在の構成は次のとおり[21]

第一審裁判部 (Trial Chamber) は、捜査が終結し起訴された場合に、第一審の公判トライアル)を行う法廷である。証人尋問その他の証拠、当事者の弁論を踏まえて、被告人の有罪・無罪を判断する。カンボジア人判事3人と国際判事2人で構成され、有罪の判決 (verdict) には少なくとも5人中4人の賛成が必要である。現在の構成は次のとおり[21]

最高審裁判部 (Supreme Court Chamber) は、第一審の決定・判決に対する上訴を審理する法廷である。カンボジア人判事4人と国際判事3人で構成され、決定には7人中5人の賛成が必要である。現在の構成は次のとおり[21]

共同捜査判事

イエン・サリ被告の公判前勾留審問。

共同捜査判事 (Co-Investigating Judges) は、共同検察官からの司法捜査開始の申立て (Introductory Submission) を受けて、司法捜査を行う権限を有する。検察官ではなく捜査判事が捜査の主体になる点は、他の国際法廷と異なるところであり、大陸法(フランス法)の影響を受けたカンボジア刑事手続法の特徴である[22]

共同捜査判事は、被疑者の有利にも不利にも偏らず、公平な立場から捜査を行う義務があり、被疑者の取調べ、被害者証人の事情聴取、証拠物の押収、専門家の意見の聴取、現場検証、召喚状・逮捕状勾留命令の発付、証人保護措置、各種機関(国家、国連、国際組織、NGO等)に対する情報提供・支援依頼など、真実発見のための様々な活動を行う権限を有する。また、当事者(共同検察官、被疑者、民事当事者)は共同捜査判事に対しこれらの捜査手段をとるよう申し立てることができる[22]

捜査を終えると、共同捜査判事は全当事者及びその代理人にその旨を通知する(当事者は15日以内に捜査続行の申立てをすることができ、これが却下されたときは公判前裁判部に抗告をすることができる)。捜査終了の決定が確定すると、共同捜査判事は事件記録を共同検察官に送付し、共同検察官が最終送致書を作成して、共同捜査判事に対し起訴又は不起訴の意見を提出する。ただし、共同捜査判事は共同検察官の意見には拘束されず、捜査終結宣言 (Closing Order) を発し、被疑者を起訴して公判廷に送るか、又は不起訴(却下)とするかを判断する。不起訴となるのは、(1)共同検察官が送致した犯罪事実が特別法廷の管轄に属するものではない場合、(2)犯罪の実行者が特定されていない場合、(3)被疑者に対する嫌疑を裏付ける十分な証拠がない場合である。起訴の判断に対しては共同検察官からのみ抗告を行うことができ、不起訴命令に対しては共同検察官及び民事当事者から抗告することができる。捜査終結宣言が確定した後は、共同捜査判事は役割を終えるが、不起訴後に新証拠が現れた場合は、共同検察官の申立てにより司法捜査が再開される場合がある[22]

共同捜査判事はカンボジア人判事1名と国際判事1人が務め、現在は次の2名である[22]

共同検察官

共同検察官 (Co-Prosecutors) は、共同捜査判事の行う司法捜査の前に予備的捜査 (preliminary investigation) を行うほか、司法捜査(公判前裁判を含む)、公判、上訴の全段階を通じて訴追側当事者として活動する。また、被害者の申立てを取り扱う[23]

共同検察官はカンボジア人検事1人と国際検事1人が務め、現在は次の2名である[23]

事務局

裁判部、共同捜査判事、検察局の行う事務全般を支えるため、事務局が置かれている。カンボジア政府の任命する事務局長と、国連事務総長が任命する副局長が全体を統括する[24]

弁護

弁護支援部 (Defence Support Section) は、被告人に弁護人の選任について支援し、弁護人に対して費用の支払を含め法的・行政的な支援を提供する。

被害者参加

カンボジア特別法廷では、被害者参加の制度が設けられた。

裁判手続の推移

第1事件

第1事件の被告人となったカン・ケク・イウ

S21(トゥール・スレン)政治犯収容所所長、カン・ケク・イウに対する裁判。

共同検察官は、2007年7月18日、共同捜査判事に対し、カン・ケク・イウ及び後述(第2事件)の4名について司法捜査開始申立てを行った。共同捜査判事は、まず、カン・ケク・イウについて嫌疑に相当の理由があるものと認め、司法捜査を開始し、勾留を決定した[25]。これにより、カン・ケク・イウは、同月31日に軍の拘置施設から、カンボジア特別法廷の拘置所に移監された。2008年8月8日共同捜査判事により起訴され、公判前裁判部により起訴の判断が是認(一部変更)されたのが同年12月5日であった。2009年2月17日及び18日、第一審裁判部で公判の冒頭審問が行われた。実質的な審理は同年3月30日に始まり、同年9月17日、証拠の提示が終わった。その間の証拠調べ期日は72日にわたり、証人24人、民事当事者22人、専門家9人が出廷した。同年11月23日から27日にかけての5日間、最終弁論が行われて公判は結審した[26]

2010年7月26日に一審判決が出され、次の罪で有罪とされ、禁錮35年を宣告された(1999年5月から2007年7月31日までのカンボジア軍裁判所による違法な拘禁に対する救済措置として30年に減刑)[26]

  • 人道に対する罪(政治的理由による迫害)
人類絶滅に対する罪(殺人を含む)、奴隷化、拘禁、拷問(1例の強姦を含む)、その他の非人道的行為
  • 1949年のジュネーヴ諸条約の重大な違反
意図的な殺人、拷問・非人道的取扱い、意図的に身体又は健康に対する重大な苦痛又は重大な傷害を与えたこと、意図的に捕虜又は文民に対し公正かつ通常の裁判を受ける権利を奪ったこと、文民の不法な拘束

同判決では、S21収容所で子供を含む1万2000人以上が収容され、その多くが拷問その他の非人道的行為を受けるとともに、被収容者のほとんどが付属の処刑場等で処刑されたと認定された[27]

一審判決に対しては、共同検察官と被告人の双方から控訴がされ、現在最高審裁判部に係属中である[26]

また、一審判決では、民事当事者の求めた補償措置のうち、(1)被告人が公判手続中に謝罪し責任を認めた陳述を集約し、判決確定後に特別法廷のウェブサイトに掲載すること、(2)当事者適格を認められた民事当事者が被告人の犯罪により被害を受けたことを確認・宣言することを認めた[28]。民事当事者は、補償措置及び民事当事者適格性についての判断に対して控訴している[26]

第2事件

勾留審問のため出廷するヌオン・チア(2011年1月)。

ヌオン・チア(元人民評議会議長)、キュー・サムファン(元国家幹部会議長)、イエン・サリ(元副首相)、イエン・シリト(元社会問題相)の4名に対する裁判。

前述のとおり、共同検察官は、2007年7月18日、上記4名とカン・ケク・イウについて司法捜査開始の申立てを行ったが、共同捜査判事は、同年9月19日、ヌオン・チアに対する司法捜査開始と同時に、S21を中心とする第1事件とカンボジア全土に広がる事実を扱う第2事件とを分離することを決定した[29]

冒頭審問に出廷するキュー・サムファン(2011年6月)。

4名は、2010年9月15日、共同捜査判事の捜査終結宣言により起訴された。これに対して4名とも抗告したが、公判前裁判部は、2011年1月13日、起訴の判断を是認(一部変更)し、4被告人は公判廷に送られることとなった。起訴の理由は、人道に対する罪、1949年のジュネーヴ諸条約の重大な違反、ジェノサイド、1956年カンボジア刑事法点における殺人・拷問・宗教的迫害の罪である[30]。対象となる公訴事実は、主に、(1)3度にわたる強制移住、(2)集団農場の設置・運営、(3)収容所及び処刑場での悪分子最教育と「敵」の抹殺、(4)チャム族ベトナム人、仏教徒など特定集団に対する犯罪行為、(5)結婚の管理の5点である[31]

2011年6月27日、冒頭審問が行われて公判が開始し、現在第一審に係属中である[30]

ヌオン・チア
別名「ブラザー・ナンバー2」と呼ばれ、カンプチア共産党副書記長、党常務委員会委員、民主カンプチア人民評議会議長などを務めた。1998年、カンボジア政権に投降し、フン・セン首相の恩赦を受けて釈放され、パイリン近郊の自宅で生活していたが[32]2007年9月19日に逮捕され、同日、捜査判事が司法捜査開始・勾留を決定した[33][34]
キュー・サムファン
1975年、民主カンプチアの国家元首(国家幹部会議長)に任命され、1987年にポル・ポトがクメール・ルージュ党首を退いた後はこれを引き継いだ[35]。1998年にヌオン・チアとともに投降後、パイリンで生活していたが[32]、2007年11月19日逮捕され、同日、捜査判事が司法捜査開始・勾留を決定した[36]
2004年、著書『カンボジア現代史と、私の下した決断の裏にある理由』の中で、ポル・ポト政権下の惨劇については何も知らなかったと弁明しているほか、これまでのインタビューでも、大量虐殺への関与を否認している[32]
勾留審問に出廷するイエン・サリ(2010年1月)。
イエン・サリ
1975年から外交担当副首相を務めたほか、カンプチア共産党常務委員会委員・中央委員会委員を務めた[37]。ポル・ポトの義理の兄弟で、「ブラザー・ナンバー3」と呼ばれた[32]。1979年、政権崩壊とともにタイへ逃亡し、同年行われたカンボジア人民革命評議会のプノンペン特別市法廷では欠席のまま死刑を宣告された。1996年8月、カンボジア国王令で1979年の有罪判決についての特赦及びクメール・ルージュ非合法化法(1994年制定)に関する訴追免除を受けるのと引換えに、部下数千人を引き連れて投降した[37]。以後プノンペンで生活していたが[32]、2007年11月12日に逮捕され、同月14日、勾留決定された[38]
1996年の国王令による恩赦の効力については、特別法廷によって判断されるべき問題として、裁判手続に持ち越すことが国連とカンボジア政府の協定で合意されている[39][40]
イエン・シリト
イエン・サリの妻。また、ポル・ポトの最初の妻キュー・ポナリーの実妹である。民主カンプチア政権で社会問題相を務めた。1998年にイエン・サリが国王の恩赦を受けて投降してからは、ともにプノンペンで生活していたが、2007年11月12日、サリとともに逮捕された[41]

第3事件及び第4事件

第1・第2事件以外の被疑者を訴追すべきか否かについては、カンボジア側と国際側の検察官の間で意見が分かれた。国際検察官ロバート・ベティットが、クメール・ルージュ政権下の犯罪の包括的解明につながるとして訴追を主張したのに対し、カンボジア側検察官は、国民和解の必要性などを理由として訴追に反対した。内部規則71条による共同検察官意見不一致の場合の手続に従い、共同検察官は公判前裁判部に裁定を申し立てた。しかし、公判前裁判部では裁定に必要な多数(判事4名以上)を満たさず、内部規則71条4項(c)の規定により、一方の検察官(この場合国際検察官)の請求した司法捜査開始の申立てが維持されることとなった[42][43]

こうして、2009年9月7日、国際側検察官から共同捜査判事に対し5人の被疑者に対する司法捜査開始の申立てが行われた。これが第3事件と第4事件とに分割された[44]。被疑者の氏名は公開されていない。

第3・第4事件については、2009年9月、フン・セン首相が訴追への反対を公言し、また、2010年6月には共同捜査判事間の意見の不一致が報じられた[45]

共同捜査判事は、2011年4月29日、共同検察官に対し、第3事件について捜査の終了を通知した[44]。第4事件については共同捜査判事の捜査が継続中である[46]

脚注

  1. ^ 小倉 (2003: 58-63);熊岡 (2008)。
  2. ^ 小倉 (2003: 59);熊岡 (2008)。
  3. ^ 小倉 (2003: 60)。
  4. ^ 小倉 (2003: 58-60);熊岡 (2008)。
  5. ^ a b Introduction to the ECCC”. Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia. 2011年8月8日閲覧。
  6. ^ 国連総会決議52/135. Situation of human rights in Cambodia (PDF) (1997年12月12日)。
  7. ^ Report of the Group of Experts for Cambodia established pursuant to General Assembly resolution 52/135” (PDF). United Nations Assistance to the Khmer Roughe Trials (UNAKRT) (1999年2月18日). 2011年8月20日閲覧。
  8. ^ 権 (2005: 153)。
  9. ^ 国連総会決議57/228. Khmer Rouge trials: A
  10. ^ 権 (2003: 153)。
  11. ^ 国連総会決議57/228. Khmer Rouge trials: B
  12. ^ 権 (2005: 153)。
  13. ^ Agreement between the United Nations and the Royal Government of Cambodia Concerning the Prosecution under Cambodian Law of Crimes Committed during the Period of Democratic Kampuchea” (PDF). Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia (2003年). 2011年8月20日閲覧。
  14. ^ 権 (2005: 152-53)、山本 (2011: 89)。
  15. ^ 権 (2005: 153-54)。
  16. ^ ヒューマンライツ・ナウ (2008: 1)。
  17. ^ 山本 (2011: 89-90)。
  18. ^ “開廷遅れるポル・ポト派特別法廷、判事らが規定調整協議 - カンボジア”. AFP.BB.NEWS. (2007年3月7日). http://www.afpbb.com/article/politics/2191507/1396129 2010年9月17日閲覧。 
  19. ^ Law on the Establishment of the Extraordinary Chambers, with inclusion of amendments as promulgated on 27 October 2004 (NS/RKM/1004/006).” (PDF). Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia. 2011年8月20日閲覧。
  20. ^ 山本 (2011: 88-89)。
  21. ^ a b c Judicial Chambers”. Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia. 2011年8月19日閲覧。
  22. ^ a b c d Co-Investigating Judges”. Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia. 2011年8月20日閲覧。
  23. ^ a b Office of the Co-Prosecutors”. Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia. 2011年8月20日閲覧。
  24. ^ 協定第8条。
  25. ^ 山本 (2011: 92)。
  26. ^ a b c d CASE 001”. Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia. 2011年8月28日閲覧。
  27. ^ 山本 (2011: 88)。
  28. ^ 山本 (2011: 91-92)。
  29. ^ 山本 (2011: 92)。
  30. ^ a b CASE 002”. Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia. 2011年8月28日閲覧。
  31. ^ 山本 (2011: 94)。
  32. ^ a b c d e カンボジア特別法廷の審問開始、被告の旧ポル・ポト政権幹部の顔ぶれ”. AFP.BB.NEWS (2007年11月20日). 2011年8月18日閲覧。
  33. ^ 山本 (2011: 92)。
  34. ^ Nuon Chea: Biography”. Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia. 2011年8月28日閲覧。
  35. ^ Khieu Samphan: Biography”. Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia. 2011年8月28日閲覧。
  36. ^ 山本 (2011: 92)。
  37. ^ a b Ieng Sary: Biography”. Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia. 2011年8月28日閲覧。
  38. ^ 山本 (2011: 92)。
  39. ^ 協定第11条2項。
  40. ^ 山本 (2011: 93)。
  41. ^ Ieng Thirith: Biography”. Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia. 2011年8月28日閲覧。
  42. ^ 山本 (2011: 94)。国際側判事2名が訴追を支持したのに対し、カンボジア側判事3名は反対した。
  43. ^ Statement regarding prosecutorial disagreement”. Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia (2010年). 2011年8月28日閲覧。
  44. ^ a b CASE 003”. Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia. 2011年8月28日閲覧。
  45. ^ 山本 (2011: 95)。
  46. ^ CASE 004”. Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia. 2011年8月28日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク