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{{文学}}
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'''ジェイムズ・マクファーソン'''([[スコットランド・ゲール語]]:'''{{lang|gd|Seumas Mac a' Phearsain}}''', [[英語]]:'''James Macpherson''', [[1736年]][[10月27日]] - [[1796年]][[2月17日]])は、[[スコットランド]]の[[詩人]][[叙事詩]][[サイク (文学)|サイクル]]の[[オシアン]]詩集を「翻訳」したこと(そ真偽については後述)で知られる。
'''ジェイムズ・マクファーソン''' ('''{{lang-en|James Macpherson}}''', '''{{lang|gd|Seumas Mac a' Phearsain}}''' [[1736年]][[10月27日]] - [[1796年]][[2月17日]])は、[[スコットランド]]の作家、詩人、文芸収集家、政治家文学を広く世に紹介した先駆けだが、現代では[[偽書]]捏造者誹りも受ける。

==概要==
マクファーソンは、古代の盲目の詩人'''[[オシアン]]'''(オシァン)が詩作した[[ハイランド地方]]を物語の舞台とする[[スコットランド・ゲール語]]の[[叙事詩|長編叙事詩 ]](epic) を発見したと称し、その「翻訳」だとする英語の散文作品を、'''『フィンガル』'''(1762年)、'''『テモラ』'''(1763年)などの題名で、段階的に発表した。

これは当時、ヨーロッパ大陸の文壇で一世を風靡し、若かりき日々のドイツの'''[[ロマン主義|ロマン派]]'''作家たちに少なからず影響を及ぼした。一方で、発表まもなく、これら作品は、正真正銘の古歌ではない、マクファーソンがでっちあげたものだという批判がわきあがった。いわゆる「オシァン関係論争 (Ossianic Controversy)」である。

現在では、いわゆる『オシアン詩集』は、言い伝えや古謡などをもとに、あらかたマクファーソンが創作した近代作品とみなされており、そのゲール語詩も、前後して創作された文学とみるのが趨勢である<ref>例:{{Harvnb|Mackillop|1998}} "The Poems' authenticity was challenged from their initial publication, and the originals Macpherson produced to back his claim were fabricated."</ref><ref>{{Harvnb|Margaret McFadden Smith|1989}}, "it is equally agreed that he never possessed the Gaelic texts that he purported to have translated, especially the epics."</ref>。ケルト文学における[[偽書]]([[:en:literary hoax]])の例として[[ヨロ・モルガヌグ]]と並び称される<ref>例えば{{Harvnb|Mackillop|1998}}でも参照項目にしている</ref>。

しかし、純正のケルト文学の古典名作がまだ世に紹介されていない時代、とりあえずのゲール語文学として注目を集め、後のケルト文学の考証伝承や写本の採集・研究を触発したと評価する向きもある<ref>{{Harvnb|Mackillop|1998}}, "Bogus though he may have been, Macpherson drew learned attention to Irish and Scottich Gaelic traditions.."</ref>。

なお、比較的近年に出た日本語訳({{Harvnb|中村徳三郎|1971}})では、ゲール語版を真正の古文学とみなして訳出している。


==初期の人生==
==初期の人生==
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==スコットランド・ゲール語詩の収集==
==スコットランド・ゲール語詩の収集==
大学を出るとマクファーソンは生地ルスヴェンで教鞭をとった<ref>{{citation needed}}</ref>。同い年の{{仮リンク|トマス・グラハム|en|Thomas Graham, 1st Baron Lynedoch}}(<small>参照:[[ナポレオン -獅子の時代-]]</small>)の家庭教師を務めていたときのことである。出入りのグラハム家邸({{仮リンク|モファット|en|Moffat}}の町)で、1759年夏<ref>{{Harvnb|Mackenzie|1805}},p.68, Home 本人が回顧する"Note"では"In the summer of 1758 or 1759"だが、Carlyle の証言と突き合わせてか、''Report'', p.27では後者の年に絞る。</ref>(または10月2日<ref>{{Harvnb|Mackenzie|1805}},p.66, Carlyle からの書簡, "2d day of October, 1759"</ref>)、マクファーソンは、悲劇『Douglas』の作者'''{{仮リンク|ジョン・ホーム|en|John Home}}'''との運命的な知遇を得た(<small>牧師出身のホームはこの頃[[還俗]]して[[ビュート伯ジョン・スチュアート|3代ビュート伯]]の私設秘書を務めていた。同伯爵は、スコットランド出身で、次期王がこの翌年に即位するとともに英国最大権力者になった人物である</small>)。
大学を出るとマクファーソンはルスヴェンに戻り、学校の教師になった。モファット([[:en:Moffat|Moffat]])で、マクファーソンは『Douglas』の著者ジョン・ホーム([[:en:John Home|John Home]])と知り合った。マクファーソンはホームのためにスコットランド・ゲール語の詩(韻文)をいくつか暗誦し、さらにハイランド&アイランズ([[:en:Highlands and Islands|Highlands and Islands]])で収集したと思われるスコットランド・ゲール語詩の写本を見せた。ホームらの励ましで、マクファーソンはスコットランド・ゲール語から翻訳したいくつかの小品を作り、[[1760年]]にエディンバラで『[[:en:Fragments of Ancient Poetry collected in the Highlands of Scotland|Fragments of Ancient Poetry collected in the Highlands of Scotland]](スコットランドのハイランドで収集した古代の詩の断片)』として出版した。その詩の信憑性を固く信じたヒュー・ブレア博士([[:en:Hugh Blair|Hugh Blair]])はマクファーソンがスコットランド・ゲール語の調査を進めるための寄付を募集した。


ホームはかねてより、ゲール語を解する知人{{仮リンク|アダム・ファーガソン|en|Adam Ferguson}}から、[[ハイランド]]地方にいけば古歌がいまでも残されている、と聞きいり、以来、なんとかそれを入手できないかと切望していた。その旨の会話をもちかけると、マクファーソンは、自分がそうした作品のいくつかを所持していると答えた。ホームが是非見せてくれ、と願い出ると、マクファーソンは、「では先生はゲール語をご存知か?」と訊ね、「いいや、片言も」と答えると、「ならばどうしてお目にかけようができましょうか?」と言った。そこでホームは強いてその英訳の提出を求めた。そしてマクファーソンから得た'''「オスカルの死」'''その他の「訳詩」のサンプルを、エディンバラの知人{{仮リンク|ヒュー・ブレア|label=ヒュー・ブレア博士|en|Hugh Blair}}、らに回覧した。<ref>以上は、{{Harvnb|Mackenzie|1805}}, Highland Society of Scotland の調査書, p.56- に掲載される、当事者たちの書簡(Hugh Blair (1797), Adam Fergus[s]son (1798), Carlyle (1802), 特に"Note from Mr. Home", p. 68-)を参考にした。いずれも出来事から40年ちかく経過してから当事者が記憶をたどり供述した内容であるので、正確を期すことができるかどうか。</ref>。
秋になってマクファーソンはインヴァネス州西部、[[スカイ島]]、[[ノース・ウイスト島]]、[[サウス・ウイスト島]]、[[ベンベキュラ島]]に旅立った。マクファーソンは数冊の写本を入手し、Captain MorrisonならびにRev. A Gallieの助けを借りてそれを翻訳した。その年のうちに、アーガイル([[:en:Argyll|Argyll]])の[[マル島]]を探険し、そこでも何冊かの写本を手に入れた。

これらの公達から、マクファーソンは、所持するゲール語詩のありったけすべてを訳すようにうながされ、それらは[[1760年]]にエディンバラで『[[:en:Fragments of Ancient Poetry collected in the Highlands of Scotland|Fragments of Ancient Poetry collected in the Highlands of Scotland, and translated from the Gaelic or Erse language]](スコットランドのハイランドで収集した古代の詩の断片)』<ref>{{Harvnb|Macpherson|1760}}</ref>(<small>または『古歌の断章』</small><ref>{{Harvnb|中村徳三郎|1971}}, p.463</ref>)という題名の小冊子として出版された。'''名目上は「詩」と称しながら、独特のリズムの散文でつづる'''マクファーソンの作風はここですでに確立されている。

冊子『断片』の序文でマクファーソンは<blockquote>「ここに、すこぶる長編の一作.. 英雄詩があるが、もしその企画に充分な奨励が与えられるならば、(この英雄詩)を回収し、翻訳することも達し得るだろう」「本詩集の最後の三篇は、この叙事詩より訳者が入手した断片である.. もし全編が回収できたなら、それはスコットランドやアイルランドの故事について著しき光明を当てることになろう」</blockquote>などと、くどいほど二重に書いている<ref>{{Harvnb|Macpherson|1760}}, ''Fragments'', p.vii, "In particular there is reason to hope that one work of considerable length.. an heroic poem, might be recovered and translated, if encouragement were given to such an undertaking." p.viii "the three last poems in the collection are fragments which the translator obtained of this epic poem; .. If the whole were recovered, it might serve to throw considerable light upon the Scottish and Irish antiquities."</ref>。要するに、本編はじらし程度ですが、もしスポンサーがつきましたあかつきには、かならずスコットランド版『[[イリアス]]』全編を手に入れてみせましょう、とほのめかしたのであるが、この好餌に躍起になって飛びついたブレア博士たちサークルは会合をひらき、寄付を募り、マクファーソンに資金面の援助を確約して他の責務をすべて辞職させ、即刻その'''大叙事詩の探求の旅'''に送り出した。(<small>ヒュー・ブレアの記憶では、マクファーソンはこの古詩採集紀行に不承不承な様子をみせたというが</small><ref>前述{{Harvnb|Mackenzie|1805}}, Blair 書簡, p.58, "he showed extreme unwillingness to engage in it"</ref><small>、胸中はしてやったり、なはずである。後年の{{仮リンク|ウィリアム・フォーブス・スキーン|label=スキーン|en|William Forbes Skene}}も、そんなのは猿芝居だと評している。</small><ref>{{Harvnb|MacLauchlan|1862}}, ''Dean of Lismore's Book'', Skene の序文, p.xlix, "This proposal must have raised a prospect sufficiently dazzling before the poor Highland tutor,.. and he acceeded to it with affected reluctance."訳:「一介の貧乏家庭教師にしてみれば、まぶしいほどの展望であったはずで、あまり気の進まないふりを装おいつつも、これを引き受けた」</ref>)。

のちの伝記作家によれば、最初の古歌採集紀行は1760年の8月か9月にはじまり、マクファーソンはインヴァネス州西部から、[[スカイ島]]、[[ノース・ウイスト島]]、[[サウス・ウイスト島]]、[[ベンベキュラ島]]らを巡り、約6週間ほどで終えたという<ref>{{Harvnb|Saunders|1894|pp=117-120}}</ref>。同年末、アーガイル沿岸や[[マル島]]へ第2行を果たし、翌1761年1月上旬頃エディンバラに帰参した<ref>{{Harvnb|Saunders|1894|pp=146-149}}, </ref>。これらの紀行には、マクファーソンは、自分よりゲール語が堪能な縁戚のラハラン・マクファーソン(Lachlan MacPherson of Strathmashie)や、アンドリュー・ガリー牧師ほかを一行にくわえて同行させ<ref>{{Harvnb|中村徳三郎|1971}}訳、あとがき p.468 では、ゲール語名で、「一族のラハラン・マクアファルセン(Lachlann Mac-a-Phersain)やエオーン・マクファルセン(Eóghan Mac-a-Phersain)、それにアラスデル・マクギラヴーラ(Alasdair Mac Gille Mhoire)」, p.467 「アンドラガリー師」を挙げる</ref>、現地の吟遊詩人や語り部の聞き取りや、記録、また、古写本の収集にくわえ、「翻訳」(つまり『フィンガル』の執筆)も進められた。

マクファーソンらのグループが、どのような作業を経て『フィンガル』を作成したのかはよくわかっていない。古写本から翻訳していったと、ありていのごとく記述する書籍もあるが<ref>Encyclopedia Britannica 1911年版, 等</ref>、そうとなると、どの古写本を使ったかということすら、つかみどころのないことが判明する([[#マニュスクリプトの謎]]に詳述)。最近の研究者({{Harvnb|Gaskill|2004}})によれば、マクファーソン自身、作品のごく一部しか書面の文献資料に依存しないと強調しているそうである<ref>{{Harvnb|Gaskill|2004}}, Macpherson was "careful to stress, in print at least, that only a small part of the compositions translated by him derives from written sources.", p.645</ref>。

==マニュスクリプトの謎==


==『オシアン』==
==『オシアン』==
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==日本語訳==
==日本語訳==
*オシアン詩集 (塚田孝雄訳、龍渓書舎
*{{citation|和書|author=塚田孝雄|title=オシアン詩集|publisher=龍渓書舎}}
*オシァン-[[ケルト民族]]の古歌 (中村徳三郎訳、[[岩波文庫]]、初版1971年)
*{{citation|和書|author=中村徳三郎|オシァン-ケルト民族の古歌|publisher=[[岩波文庫]]|year=1971}}

==作品==
* {{citation|last=Macpherson|first=James|title=Fragments of Ancient Poetry Collected in the Highlands of Scotland, and Translated from the Gaelic or Erse Language|year=1760|place=Edinburgh|publisher=for G. Hamilton and J. Balfour|url=http://books.google.co.jp/books?id=_hsFAAAAQAAJ|format=google}}
* {{citation|last=Macpherson|first=James|title=Fingal, an ancient epic poem: together with several other poems|year=1762|place=|publisher=T. Becket and P.A. De Hondt|url=http://books.google.co.jp/books?id=ivip6IIict8C|format=google}}
* {{citation|editor-last=Blair|editor-first=Hugh|last=Macpherson|first=James|title=The works of Ossian, the son of Fingal|year=1765|place=London|publisher=for T. Becket and P. A. Dehondt at Tully's Head, in the Strand}} (3rd edition) [http://books.google.co.jp/books?id=dSMJAAAAQAAJ Vol. 1], [http://books.google.co.jp/books?id=UCIJAAAAQAAJ Vol. 2] ([http://books.google.co.jp/books?id=nv-Z-Infjf0C (copy)]) (google), A Critical Dissertation, pp.311-
* {{citation|last=Macpherson|first=James|title=The Poems of Ossian, the Son of Fingal|place=London|year=1773}}[http://www.hs-augsburg.de/~harsch/anglica/Chronology/18thC/Macpherson/mac_p000.html Bibl. Augustana]
*{{citation|editor-last=Maclachlan|editor-first=Ewen|last=Macpherson|first=James|title=Dana Oisein Mhic Fhinn: air an cur amach : Airson Maith Coitcheannta muinntir na gaeltachd|place=Dun[n]-Eidin(Edinburgh)|publisher=Clo-Bhuailte Le Tearlach Stiubhart (Charles Stewart)|year=1818|url=http://books.google.com/books?id=_-YIAAAAQAAJ|format=google}}
* {{citation|editor-last=MacGregor|editor-first=Patrick|last=Macpherson|first=James|title=The Genuine Remains of Ossian, literally translated|year=1841|place=London|publisher=Smith, Elder & Co.|url=http://books.google.co.jp/books?id=nv-Z-Infjf0C|format=google}}
* Gaskill, Howard, ed., "The Poems of Ossian and other related Works", introd. Fiona Stafford, (Edinburgh: Edinburgh University Press, 1996)


==脚注==
==脚注==
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==参考文献==
==参考文献==
;(事典)
{{1911}}
{{1911}}
*{{Citation|last=Mackillop|first=James|year=1998|title=Dictionary of Celtic Mytholgy|place=Oxford|publisher=Oxford University Press|ISBN=0192801201}}
*"The Poems of Ossian and other related Works", ed. Howard Gaskill, introd. Fiona Stafford, (Edinburgh: Edinburgh University Press, 1996)
*{{citation|author=Margaret McFadden Smith|title=Index of English Literary Manuscripts, 1700-1800,Part 2|publisher=Continuum International Publishing Group|year=1989|url=http://books.google.co.jp/books?id=g2bIGW1l3PMC&pg=PA179|pages=179-|format=preview}}
*''The Reception of Ossian in Europe'', edited by Howard Gaskill, (London: Thoemmes Continuum, 2004).
;(批評)
*"The Sublime Savage", by Fiona Stafford
* {{citation|last=Campbell|first=John Francis|title=Popular tales of the West Highlands|volume=4|year=1862|place=Edinburgh|publisher=Edmonston and Douglas|url=http://books.google.com/books?id=S7nnPt8S5HcC|format=google}}
*"Ossian Revisited*, by Howard Gaskil (ed.)
** 同1890年版 ([http://www.sacred-texts.com/neu/celt/pt4/index.htm Sacred Texts])
* {{citation|last=Campbell|first=John Francis|title=Leabhar na Feinne|volume=1|year=1872|place=London|publisher=Spottiswoode}} ([http://books.google.com/books?id=eYcNAAAAYAAJ Volume 1 = Gaelic texts]gd: Heroic Gaelic ballads collected in Scotland chiefly from 1512 to 1871, copied from old manuscripts preserved at Edinburgh and elsewhere, and from rare books, and orally collected since 1859; with lists of collections, and of their contents; and with a short account of the documents quoted).
* {{citation|last=Gaskill|first=Howard|work=''The Reception of Ossian in Europe''|place=London|publisher=Thoemmes Continuum|year=2004}}
* {{citation|last=Gaskill|first=Howard|title=What did James Macpherson really leave on Display at his Publisher's Shop in 1762?|periodical=Scottish Gaelic Studies|volume=16|year=1990}}
* Gaskill, Howard, "Ossian Revisited"
* {{citation|last=Saunders|first=Thomas Bailey|title=The Life and Letters of James Macpherson|place=London|publisher=Swan Sonnenschein|year=1894|url=http://books.google.co.jp/books?id=8ItRmhwIa_cC|format=google}} [http://books.google.co.jp/books?id=_hg4AAAAIAAJ Second edition, 1895 (google)]
* Smart, John Semple , ''James Macpherson: An Episode in Literature'' (London, 1905)
* {{citation|last=Stafford|first=Fiona J.|title=The Sublime Savage: a Study of James Macpherson and the Poems of Ossian|year=1988|place=Edinburgh}}

;(作品真偽の検証関連)
* {{citation|last=Mackenzie|first=Henry|title=Report of the Committee of the Highland Society of Scotland, appointed to inquire into the nature and authenticity of the poems of Ossian|year=1805|place=Edinburgh|publisher=University Press|url=http://books.google.co.jp/books?id=iiCA8p5I-MkC|format=google}}
** {{citation|editor-last=Mackenzie|first=Henry|title="(Letters to Mr Mackenzie, concerning the) Authenticity of Ossian's Poems"|journal=The Scots Magazine, and Edinburgh Literary Miscellany|volum=67|year=1805|place=Edinburgh|publisher=Archibald Constable and Co.|url=http://books.google.co.jp/books?id=hdgPAAAAQAAJ&pg=PA515|format=google}} (上述 Report に引用される書簡を掲載)
* {{citation|last=Mackintosh|first=Donald T.|title=James Macpherson and the Book of the Dean of Lismore|periodical=Transactions of the Gaelic Society of Inverness|volume=37|year=1936|pages=347-65}}
* &mdash; "Macpherson and the Book of the Dean of Lismore", ''Scottish Gaelic Studies" 6 (1949), pp.11-20; (1949), pp.19ff


==外部リンク==
==外部リンク==

2012年2月19日 (日) 11:15時点における版

ジェイムズ・マクファーソン
誕生 1736年10月27日
ハイランド、インヴァネス州
死没 (1796-02-17) 1796年2月17日(59歳没)
ハイランド、インヴァネス州
職業 詩人、政治家
国籍 スコットランドの旗 スコットランド
文学活動 ロマン主義
代表作 オシアン詩集(翻訳)
ウィキポータル 文学
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ジェイムズ・マクファーソン (英語: James Macpherson, Seumas Mac a' Phearsain 1736年10月27日 - 1796年2月17日)は、スコットランドの作家、詩人、文芸収集家、政治家。ケルト文学を広く世に紹介した先駆けだが、現代では偽書捏造者の誹りも受ける。

概要

マクファーソンは、古代の盲目の詩人オシアン(オシァン)が詩作したハイランド地方を物語の舞台とするスコットランド・ゲール語長編叙事詩 (epic) を発見したと称し、その「翻訳」だとする英語の散文作品を、『フィンガル』(1762年)、『テモラ』(1763年)などの題名で、段階的に発表した。

これは当時、ヨーロッパ大陸の文壇で一世を風靡し、若かりき日々のドイツのロマン派作家たちに少なからず影響を及ぼした。一方で、発表まもなく、これら作品は、正真正銘の古歌ではない、マクファーソンがでっちあげたものだという批判がわきあがった。いわゆる「オシァン関係論争 (Ossianic Controversy)」である。

現在では、いわゆる『オシアン詩集』は、言い伝えや古謡などをもとに、あらかたマクファーソンが創作した近代作品とみなされており、そのゲール語詩も、前後して創作された文学とみるのが趨勢である[1][2]。ケルト文学における偽書(en:literary hoax)の例としてヨロ・モルガヌグと並び称される[3]

しかし、純正のケルト文学の古典名作がまだ世に紹介されていない時代、とりあえずのゲール語文学として注目を集め、後のケルト文学の考証伝承や写本の採集・研究を触発したと評価する向きもある[4]

なお、比較的近年に出た日本語訳(中村徳三郎 1971)では、ゲール語版を真正の古文学とみなして訳出している。

初期の人生

マクファーソンはハイランドのインヴァネス(Inverness-shire)州バデノック(Badenoch)地区にあるキングシー(Kingussie)という町のルスヴェン(Ruthven)で生まれた。1753年、マクファーソンはオールド・アバディーン(Old Aberdeen)のキングス・カレッジ(King's College, Aberdeen)に進み、2年後、マーシャル・カレッジ(Marischal College)に移った。この2校は現在は統合されアバディーン大学(University of Aberdeen)になっている。それからエディンバラに行き、1年ちょっといたが、そこで大学に通っていたかどうかはわからない。学生時代には4000行を超えるを書いたと言われ、そのいくつかは後に出版された。有名な『The Highlander』(1758年)について、マクファーソンは後に発売禁止にしようにしたと言われている。

スコットランド・ゲール語詩の収集

大学を出るとマクファーソンは生地ルスヴェンで教鞭をとった[5]。同い年のトマス・グラハム英語版(参照:ナポレオン -獅子の時代-)の家庭教師を務めていたときのことである。出入りのグラハム家邸(モファットの町)で、1759年夏[6](または10月2日[7])、マクファーソンは、悲劇『Douglas』の作者ジョン・ホーム英語版との運命的な知遇を得た(牧師出身のホームはこの頃還俗して3代ビュート伯の私設秘書を務めていた。同伯爵は、スコットランド出身で、次期王がこの翌年に即位するとともに英国最大権力者になった人物である)。

ホームはかねてより、ゲール語を解する知人アダム・ファーガソンから、ハイランド地方にいけば古歌がいまでも残されている、と聞きいり、以来、なんとかそれを入手できないかと切望していた。その旨の会話をもちかけると、マクファーソンは、自分がそうした作品のいくつかを所持していると答えた。ホームが是非見せてくれ、と願い出ると、マクファーソンは、「では先生はゲール語をご存知か?」と訊ね、「いいや、片言も」と答えると、「ならばどうしてお目にかけようができましょうか?」と言った。そこでホームは強いてその英訳の提出を求めた。そしてマクファーソンから得た「オスカルの死」その他の「訳詩」のサンプルを、エディンバラの知人ヒュー・ブレア博士英語版、らに回覧した。[8]

これらの公達から、マクファーソンは、所持するゲール語詩のありったけすべてを訳すようにうながされ、それらは1760年にエディンバラで『Fragments of Ancient Poetry collected in the Highlands of Scotland, and translated from the Gaelic or Erse language(スコットランドのハイランドで収集した古代の詩の断片)』[9](または『古歌の断章』[10])という題名の小冊子として出版された。名目上は「詩」と称しながら、独特のリズムの散文でつづるマクファーソンの作風はここですでに確立されている。

冊子『断片』の序文でマクファーソンは

「ここに、すこぶる長編の一作.. 英雄詩があるが、もしその企画に充分な奨励が与えられるならば、(この英雄詩)を回収し、翻訳することも達し得るだろう」「本詩集の最後の三篇は、この叙事詩より訳者が入手した断片である.. もし全編が回収できたなら、それはスコットランドやアイルランドの故事について著しき光明を当てることになろう」

などと、くどいほど二重に書いている[11]。要するに、本編はじらし程度ですが、もしスポンサーがつきましたあかつきには、かならずスコットランド版『イリアス』全編を手に入れてみせましょう、とほのめかしたのであるが、この好餌に躍起になって飛びついたブレア博士たちサークルは会合をひらき、寄付を募り、マクファーソンに資金面の援助を確約して他の責務をすべて辞職させ、即刻その大叙事詩の探求の旅に送り出した。(ヒュー・ブレアの記憶では、マクファーソンはこの古詩採集紀行に不承不承な様子をみせたというが[12]、胸中はしてやったり、なはずである。後年のスキーン英語版も、そんなのは猿芝居だと評している。[13])。

のちの伝記作家によれば、最初の古歌採集紀行は1760年の8月か9月にはじまり、マクファーソンはインヴァネス州西部から、スカイ島ノース・ウイスト島サウス・ウイスト島ベンベキュラ島らを巡り、約6週間ほどで終えたという[14]。同年末、アーガイル沿岸やマル島へ第2行を果たし、翌1761年1月上旬頃エディンバラに帰参した[15]。これらの紀行には、マクファーソンは、自分よりゲール語が堪能な縁戚のラハラン・マクファーソン(Lachlan MacPherson of Strathmashie)や、アンドリュー・ガリー牧師ほかを一行にくわえて同行させ[16]、現地の吟遊詩人や語り部の聞き取りや、記録、また、古写本の収集にくわえ、「翻訳」(つまり『フィンガル』の執筆)も進められた。

マクファーソンらのグループが、どのような作業を経て『フィンガル』を作成したのかはよくわかっていない。古写本から翻訳していったと、ありていのごとく記述する書籍もあるが[17]、そうとなると、どの古写本を使ったかということすら、つかみどころのないことが判明する(#マニュスクリプトの謎に詳述)。最近の研究者(Gaskill 2004)によれば、マクファーソン自身、作品のごく一部しか書面の文献資料に依存しないと強調しているそうである[18]

マニュスクリプトの謎

『オシアン』

ローラの岸のオシアン。フランソワ・ジェラールFrançois Gérard)画

1761年、マクファーソンはオシアンフィン・マックールの子オーシン、またはオシーン Oisínに基づく)作のフィンガル(アイルランド神話 Irish mythologyの登場人物フィン・マックールと関連している)をテーマとした叙事詩を発見したと発表し、12月に『フィンガル(Fingal, an Ancient Epic Poem in Six Books, together with Several Other Poems composed by Ossian, the Son of Fingal, translated from the Gaelic Language)』を、1763年には『テモラ(Temora)』、1765年には集成版『オシアン(The Works of Ossian)』を出した。『フィンガル』など初期の本は音楽的なリズムを持った散文で書かれた。「フィンガル(Fingal, Fionnghall)」という名前は「白い異邦人」という意味で[19]古アイルランド語(古ゲール語)に「フィン(Finn)」として登場する名前から「フィンガル」にしたものと思われる[20]

3世紀バードBard)の作品から翻訳したと言われるこれらの信憑性はただちにアイルランド歴史家たちから疑問を呈された。歴史家たちは年代学、ゲール語の名前の形成の技術的誤りに気づき、マクファーソンの主張の多くは信じられないと注釈し、そのいずれにもマクファーソンは反論できなかった。さらに強力な弾劾がサミュエル・ジョンソン博士から出された。ジョンソン博士は『スコットランド西方諸島の旅(A Journey to the Western Islands of Scotland)』(1775年)の中で、マクファーソンは詩や物語の断片を見つけ、それらを自身の創作であるロマンスの中に織り込んだのだろうと断言した。19世紀になってもさらなる攻撃と弁護が続き、この頃まではこの問題は議論の余地があった。マクファーソンは存在すると主張したオリジナルを提出することは一度もなかった。

しかし、その論争の中で、オシアン詩集の正当性を批判するアイルランド語話者がゲール語詩に対するマクファーソンの才能を賞賛したことは忘れられてしまった。

その後の作品

1764年、マクファーソンはフロリダ州ペンサコーラで植民地総督ジョージ・ジョンストン(George Johnstone)の秘書となった。2年後、ジョンストンと喧嘩の末、グレートブリテン王国に帰国し、給料は年金として支払われた。マクファーソンは数冊の歴史書を執筆し続けた。その中で最も有名なものは冒頭に自身の『Extracts from the Life of James II』を抄録した『Original Papers, containing the Secret History of Great Britain from the Restoration to the Accession of the House of Hanover』(1775年)である。マクファーソンはフレデリック・ノース政権の政策を擁護して給料を貰い、インドのアールカードゥ(Arcot)のネイボッブロンドン代理人という金になる職を続けた。1780年にはキャメルフォード(Camelford) 選挙区選出の下院議員(Member of Parliament)として議会入りし、亡くなるまでそれを続けた。晩年、マクファーソンは生地インヴァネスに地所を購入し、そこを「ベルヴィル(Belville)」と名付け、そこで亡くなった。

遺産

マクファーソンの死後、『History of Scotland(スコットランド史)』(1800年)を補遺したマルコム・レイン(Malcolm Laing)はいわゆるオシアン詩と呼ばれるものは完全に現代の作で、マクファーソンが根拠としたものは何も存在していないという見解を提起した。マクファーソンの書いた内容のほとんどは明らかにマクファーソンが作ったもので、異なるサイクルに属するものを混同している。しかし、翻訳の真偽を除けば、今なおマクファーソンを偉大なスコットランドの詩人の1人と見なすべきであろう。マクファーソンの作品の様々な文献と現実のケルト語派詩の翻訳としての無価値さも、自然の美しさへの深い理解から生み出された芸術作品であるという事実は覆せず、古代の伝説の扱いの哀愁的な優しさは、ヨーロッパ文学、とくにドイツ文学ロマン主義運動をもたらしたこと以上のことをなしえた。ただちにマクファーソンの作品はヨーロッパ各国で翻訳され、ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーならびに(若い頃の)ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテもその深い賛美者だった。ゲーテはマクファーソンの作品の一部を翻訳し、小説『若きウェルテルの悩み』に取り入れた。メルキオーレ・チェザロッティ(Melchiore Cesarotti)のイタリア語翻訳版はナポレオン・ボナパルトの愛読書の1冊だった。

マクファーソンの遺産の中には、スタファ島の「フィンガルの洞窟」の名前がある。元々のゲール語名は「An Uamh Bhin(音楽的な洞窟)」だったが、1772年、マクファーソンの人気の極みの時、ジョゼフ・バンクスが名前を改めた[21][22]

日本語訳

  • 塚田孝雄『オシアン詩集』龍渓書舎。 
  • 中村徳三郎岩波文庫、1971年。 

作品

脚注

  1. ^ 例:Mackillop 1998 "The Poems' authenticity was challenged from their initial publication, and the originals Macpherson produced to back his claim were fabricated."
  2. ^ Margaret McFadden Smith 1989, "it is equally agreed that he never possessed the Gaelic texts that he purported to have translated, especially the epics."
  3. ^ 例えばMackillop 1998でも参照項目にしている
  4. ^ Mackillop 1998, "Bogus though he may have been, Macpherson drew learned attention to Irish and Scottich Gaelic traditions.."
  5. ^ [要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。
  6. ^ Mackenzie 1805,p.68, Home 本人が回顧する"Note"では"In the summer of 1758 or 1759"だが、Carlyle の証言と突き合わせてか、Report, p.27では後者の年に絞る。
  7. ^ Mackenzie 1805,p.66, Carlyle からの書簡, "2d day of October, 1759"
  8. ^ 以上は、Mackenzie 1805, Highland Society of Scotland の調査書, p.56- に掲載される、当事者たちの書簡(Hugh Blair (1797), Adam Fergus[s]son (1798), Carlyle (1802), 特に"Note from Mr. Home", p. 68-)を参考にした。いずれも出来事から40年ちかく経過してから当事者が記憶をたどり供述した内容であるので、正確を期すことができるかどうか。
  9. ^ Macpherson 1760
  10. ^ 中村徳三郎 1971, p.463
  11. ^ Macpherson 1760, Fragments, p.vii, "In particular there is reason to hope that one work of considerable length.. an heroic poem, might be recovered and translated, if encouragement were given to such an undertaking." p.viii "the three last poems in the collection are fragments which the translator obtained of this epic poem; .. If the whole were recovered, it might serve to throw considerable light upon the Scottish and Irish antiquities."
  12. ^ 前述Mackenzie 1805, Blair 書簡, p.58, "he showed extreme unwillingness to engage in it"
  13. ^ MacLauchlan 1862, Dean of Lismore's Book, Skene の序文, p.xlix, "This proposal must have raised a prospect sufficiently dazzling before the poor Highland tutor,.. and he acceeded to it with affected reluctance."訳:「一介の貧乏家庭教師にしてみれば、まぶしいほどの展望であったはずで、あまり気の進まないふりを装おいつつも、これを引き受けた」
  14. ^ Saunders 1894, pp. 117–120
  15. ^ Saunders 1894, pp. 146–149,
  16. ^ 中村徳三郎 1971訳、あとがき p.468 では、ゲール語名で、「一族のラハラン・マクアファルセン(Lachlann Mac-a-Phersain)やエオーン・マクファルセン(Eóghan Mac-a-Phersain)、それにアラスデル・マクギラヴーラ(Alasdair Mac Gille Mhoire)」, p.467 「アンドラガリー師」を挙げる
  17. ^ Encyclopedia Britannica 1911年版, 等
  18. ^ Gaskill 2004, Macpherson was "careful to stress, in print at least, that only a small part of the compositions translated by him derives from written sources.", p.645
  19. ^ Behind the Name: View Name: Fingal
  20. ^ Notes to the first edition; MacPherson was himself, of course, a Gaelic speaker.
  21. ^ Bray, Elizabeth (1996) The Discovery of the Hebrides: Voyages to the Western Isles 1745-1883. Edinburgh. Birlinn.
  22. ^ Haswell-Smith, Hamish. (2004) The Scottish Islands. Edinburgh. Canongate

参考文献

(事典)

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(批評)
  • Campbell, John Francis (1862) (google), Popular tales of the West Highlands, 4, Edinburgh: Edmonston and Douglas, http://books.google.com/books?id=S7nnPt8S5HcC 
  • Campbell, John Francis (1872), Leabhar na Feinne, 1, London: Spottiswoode  (Volume 1 = Gaelic textsgd: Heroic Gaelic ballads collected in Scotland chiefly from 1512 to 1871, copied from old manuscripts preserved at Edinburgh and elsewhere, and from rare books, and orally collected since 1859; with lists of collections, and of their contents; and with a short account of the documents quoted).
  • Gaskill, Howard (2004), The Reception of Ossian in Europe (London: Thoemmes Continuum) 
  • Gaskill, Howard (1990), “What did James Macpherson really leave on Display at his Publisher's Shop in 1762?”, Scottish Gaelic Studies 16 
  • Gaskill, Howard, "Ossian Revisited"
  • Saunders, Thomas Bailey (1894) (google), The Life and Letters of James Macpherson, London: Swan Sonnenschein, http://books.google.co.jp/books?id=8ItRmhwIa_cC  Second edition, 1895 (google)
  • Smart, John Semple , James Macpherson: An Episode in Literature (London, 1905)
  • Stafford, Fiona J. (1988), The Sublime Savage: a Study of James Macpherson and the Poems of Ossian, Edinburgh 
(作品真偽の検証関連)

外部リンク