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| 名称 = 粟島神社 |
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|所在地 = 鳥取県米子市彦名町1404番地 |
| 所在地 = 鳥取県米子市彦名町1404番地 |
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| 地図 = Japan Tottori |
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'''粟島神社'''(あわしまじんじゃ)は、[[鳥取県]][[米子市]]彦名町にある[[神社]]である。[[淡 |
'''粟島神社'''(あわしまじんじゃ)は、[[鳥取県]][[米子市]]彦名町にある[[神社]]である。[[淡島神社]]の一つ。[[スクナビコナ|少彦名命]]を祭神とする。 |
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== 社誌 == |
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度々の火災{{refnest|group="注"|少なくとも3回、[[永平]]年間(1504年~1521年)、元禄2年(1689年)、大正11年(1922年)の火災が記録に残されている<ref name="TT-hyakka"/>。}}で記録を失っており、創建年は不明<ref name="chimeiH_tori"/>。 |
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創建年は不明。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[尼子氏]]の伯耆侵攻の際に社殿が焼失し、後に尼子氏によって再建されるなど幾度か再建されていると伝えられる。現在の社殿は1936年(昭和11年)に再建されたもの。 |
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境内は標高36メートル{{refnest|group="注"|現地案内板「粟嶋神社の自然と伝説」では36メートル、『日本地名大辞典 31 鳥取県([[角川日本地名大辞典]])』(1982年)では38メートルなどと、資料により若干の差異がある。ここでは米子市による現地案内板に従った<ref name="board1"/><ref name="chimeiKD_tori"/>。}}の山('''明神山'''<ref name="chimeiH_tori"/>)になっているが、かつては[[中海]]の小島のひとつだった<ref name="board1"/>。島(山)全体が神山とされ、古い時代には社殿は山麓にあったとされている<ref name="board1"/>。 |
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神話にある少彦名命が常世に飛ばされた粟の茎のことではないかと言われている。実際、『伯耆風土記』にも同様の記載が存在し、土地の名前も彦名のため関係は深い。 |
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[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[尼子氏]]の伯耆侵攻の際に社殿が焼失し、後に尼子氏が再建し社領を寄進した<ref name="chimeiKD_tori"/>。そのあと戦国期を通じ、この地方ではしばしば支配勢力が変わったが、時の支配者たちの庇護を受けた<ref name="chimeiKD_tori"/>。 |
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また人魚伝説でも知られており、陸続きであった頃、粟島洞窟(現存するが封鎖されている)に人魚の肉を食べ不老不死になった18歳の女が逃げ込んだと伝えられる(大部分は多く見られる人魚伝説と同じである)。 |
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[[江戸時代|江戸期]]になると、[[元禄|元禄期]](1688年~1704年)に社殿が焼失し、翌年再建されるにあたり、それまでの山麓から山頂へ移された<ref name="chimeiKD_tori"/>。その後、[[宝暦|宝暦期]](1751年~1763年)に粟島周辺が干拓され、「彦名干拓地」一帯と地続きになった<ref name="board1"/><ref name="TT-hyakka"/>。 |
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米子市の地名もここで祈った88歳の老婆が子を授かったからと伝えられる。 |
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なお、江戸期には「'''粟島大明神'''」として祀られており、明治維新の際に、境内の諸社を合祀して'''粟島神社'''に改名した<ref name="chimeiKD_tori"/><ref name="chimeiH_tori"/>([[明神]]や[[神仏分離令]]を参照。)。また、[[明治元年]]には[[西園寺公望]]が参詣した。その後、神社の整理統合が行われる中、[[大正|大正時代]]に近隣の北野神社(後藤地区)・余戸神社(下粟島地区)を合併した<ref name="chimeiKD_tori"/><ref name="chimeiH_tori"/>。 |
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1936年(昭和11年)には社殿が再築され、現在に至る<ref name="board2"/>。 |
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ファイル:A giant stone lantern of awasima jinja shrine at yonago.jpg|境内の大灯籠 |
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ファイル:The gate keepers of the awashima jinja shrine at yonago.jpg|187段の石段前の[[狛犬]] |
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ファイル:The worshiphall of the awashima jinja shrine at yonago.jpg|山頂にある[[拝殿]] |
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ファイル:Board2 awashima-jinja shrine.jpg|現地案内板「粟嶋神社」 |
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=== 由緒 === |
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[[733年]]([[天平]]5年)の『伯耆国風土記』(逸文)<ref name="TT-hyakka"/><ref group="注">[[奈良時代]]のものとされる各地の『[[風土記]]』が知られているが、[[伯耆国]]の風土記そのものは伝わっていない。しかし[[鎌倉時代]]初期の『[[釈日本紀]]』には、『伯耆国風土記』からの引用の形(逸文)で一部が伝えられている。ただし引用元が正しく奈良時代の風土記であるかについては諸説ある。</ref>では、こびとの[[スクナビコナ]](少彦名命)がこの地で[[アワ|粟]]を蒔いて、実ってはじけた粟の穂に乗って[[常世の国]]へ渡り、そのために粟島と呼ばれている、と書かれている<ref name="chimeiKD_tori"/>。(つまり、粟島は少彦名命の現世での最後の地、ということになる<ref name="chimeiKD_tori"/>。) |
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『日本書紀』でも同じような逸話があり、スクナビコナが淡島(粟島)で粟茎に弾かれて常世へ渡ったとされている<ref name="chimeiKD_tori"/>。 |
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民話では、こびとであるスクナビコナが天界から下界の海へ落ちてしまい、[[ソラマメ|空豆]]の皮で船を作って伯耆の島(のちの粟島)に漂着する。そこで[[出雲国|出雲]]の神であるオオクニヌシ([[大国主]])と知己になる。スクナビコナが排便すると、天界にいた頃に食べた粟の実の種が出てきたので、これを島に植えたところ数年で島は粟が一面に広がった。すると、アワ畑に据えられた[[案山子]]のお告げで天界に戻るように命を受け、粟の茎を曲げて穂につかまり、茎がまっすぐに戻る力で天界へ飛んでいった。このことから、オオクニヌシはこの島を「粟島」と名づける<ref name="minwa_sukuna"/>。 |
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=== 米子の由来 === |
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粟嶋の分限者には子がなく、88歳の米寿を迎えたときに初めて子を授かったことから、「米子」の地名が発祥したと伝えられている<ref name="board1"/>。 |
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=== 八百比丘尼 === |
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地元の漁師の娘が、それと知らずに[[人魚]]の肉を食べてしまい、不老不死になってしまった。娘は出家して、粟嶋の西側にある洞窟「静の岩屋」で隠遁生活を送り、一切のものを口にしなかった。娘は800歳を迎えて死に、「八百比丘尼」と呼ばれた<ref name="board1"/>。 |
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== 公共財 == |
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=== 粟嶋神社社叢 === |
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干拓地である周辺地域や中海のなかでは例外的に、山全体に[[スダジイ]]など高木から中低木が生い繁り、この地域としては珍しい照葉樹林を形成している<ref name="board1"/><ref name="PREF_TT_BNAVI_awashima"/>。島全体が原始林とされ、特に西斜面に群落を形成してる[[シャシャンボ]]([[ツツジ科]])が大型化しているのも特徴的で、全体が「'''粟嶋神社社叢'''」として[[鳥取県]]の[[天然記念物]]の指定を受けている<ref name="board1"/><ref name="PREF_TT_BNAVI_awashima"/><ref name="TT-hyakka"/>。 |
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=== 粟嶋秋月 === |
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[[文政|文政期]]に[[福島林仙]]という米子の文人が、「米子八景」と称する一連の和歌を詠んだ<ref name="MILT-CGR-IZ-kinkai"/>。このなかで粟嶋は次のように詠まれている。 |
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== 注釈 == |
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== 出典 == |
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*<ref name="board1">現地案内板「粟嶋神社の自然と伝説」(米子市) 2013年8月8日閲覧。</ref> |
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*<ref name="board2">現地案内板「粟嶋神社」 2013年8月8日閲覧。</ref> |
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*<ref name="PREF_TT_BNAVI_awashima">[http://db.pref.tottori.jp/bunkazainavi.nsf/bunkazai_web_view/C0F4CDF405001B7E4925796F0007FE81 鳥取県教育委員会事務局文化財課文化財係 とっとり文化財ナビ 粟島神社社叢] 2014年10月2日閲覧。</ref> |
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*<ref name="MILT-CGR-IZ-kinkai">[https://www.cgr.mlit.go.jp/izumokasen/mizube/nakaumi/kinkai/index.html 国土交通省 中国地方整備局 出雲河川事務所 錦海公園]2014年10月2日閲覧。</ref> |
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*<ref name="chimeiKD_tori">『日本地名大辞典 31 鳥取県([[角川日本地名大辞典]])』p86</ref> |
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*<ref name="chimeiH_tori">『鳥取県の地名([[日本歴史地名大系]])』p727-728</ref> |
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*<ref name="minwa_sukuna">『鳥取県の民話』p18-22「天からおちた小人の神さん」</ref> |
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*<ref name="TT-hyakka">『鳥取県大百科事典』p33 粟島・粟島神社</ref> |
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== 参考文献 == |
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*神社境内の掲示 |
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**粟嶋神社の自然と伝説(米子市) |
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**粟嶋神社 |
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*『鳥取県の民話』(ふるさとの民話7),日本児童文学者協会・編,[[偕成社]],1978,ISBN 4-03-522070-1 |
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*『鳥取県大百科事典』,新日本海新聞社鳥取県大百科事典編纂委員会・編,新日本海新聞社,1984 |
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*『日本地名大辞典 31 鳥取県([[角川日本地名大辞典]])』,[[角川書店]],1982,ISBN 978-4040013107 |
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*『鳥取県の地名([[日本歴史地名大系]])』,[[平凡社]],1992 |
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*『鳥取県の歴史散歩』,鳥取県歴史散歩研究会・編,山川出版社,1994,2003 |
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*[http://furusato.sanin.jp/p/mysterious/daisen/7/ 中海・宍道湖・大山圏域観光連携事業推進協議会 粟嶋神社] |
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*[http://www.yonago-navi.jp/yonago/yumigahama/experience-culture/awashima-shrine/ 米子市観光協会 粟嶋神社] |
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* [http://www.yonago-navi.jp/yonago/yumigahama/experience-culture/awashima-shrine/ 粟島神社] - 米子観光ナビ |
* [http://www.yonago-navi.jp/yonago/yumigahama/experience-culture/awashima-shrine/ 粟島神社] - 米子観光ナビ |
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[[Category:鳥取県の神社]] |
[[Category:鳥取県の神社]] |
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[[Category:淡嶋神社|よなこし]] |
[[Category:淡嶋神社|よなこし]] |
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[[Category:米子市の歴史]] |
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[[Category:米子市の建築物]] |
2023年2月21日 (火) 08:54時点における最新版
粟島神社 | |
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所在地 | 鳥取県米子市彦名町1404番地 |
位置 | 北緯35度26分38秒 東経133度17分32秒 / 北緯35.44389度 東経133.29222度座標: 北緯35度26分38秒 東経133度17分32秒 / 北緯35.44389度 東経133.29222度 |
主祭神 | 少彦名命ほか5柱[1] |
社格等 | 旧郷社[2] |
創建 | 不詳 |
例祭 |
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地図 |
粟島神社(あわしまじんじゃ)は、鳥取県米子市彦名町にある神社である。淡島神社の一つ。少彦名命を祭神とする。
社誌
[編集]度々の火災[注 1]で記録を失っており、創建年は不明[4]。
境内は標高36メートル[注 2]の山(明神山[4])になっているが、かつては中海の小島のひとつだった[5]。島(山)全体が神山とされ、古い時代には社殿は山麓にあったとされている[5]。
戦国時代、尼子氏の伯耆侵攻の際に社殿が焼失し、後に尼子氏が再建し社領を寄進した[2]。そのあと戦国期を通じ、この地方ではしばしば支配勢力が変わったが、時の支配者たちの庇護を受けた[2]。
江戸期になると、元禄期(1688年~1704年)に社殿が焼失し、翌年再建されるにあたり、それまでの山麓から山頂へ移された[2]。その後、宝暦期(1751年~1763年)に粟島周辺が干拓され、「彦名干拓地」一帯と地続きになった[5][1]。
なお、江戸期には「粟島大明神」として祀られており、明治維新の際に、境内の諸社を合祀して粟島神社に改名した[2][4](明神や神仏分離令を参照。)。また、明治元年には西園寺公望が参詣した。その後、神社の整理統合が行われる中、大正時代に近隣の北野神社(後藤地区)・余戸神社(下粟島地区)を合併した[2][4]。
1936年(昭和11年)には社殿が再築され、現在に至る[3]。
伝承
[編集]由緒
[編集]733年(天平5年)の『伯耆国風土記』(逸文)[1][注 3]では、こびとのスクナビコナ(少彦名命)がこの地で粟を蒔いて、実ってはじけた粟の穂に乗って常世の国へ渡り、そのために粟島と呼ばれている、と書かれている[2]。(つまり、粟島は少彦名命の現世での最後の地、ということになる[2]。)
『日本書紀』でも同じような逸話があり、スクナビコナが淡島(粟島)で粟茎に弾かれて常世へ渡ったとされている[2]。
民話では、こびとであるスクナビコナが天界から下界の海へ落ちてしまい、空豆の皮で船を作って伯耆の島(のちの粟島)に漂着する。そこで出雲の神であるオオクニヌシ(大国主)と知己になる。スクナビコナが排便すると、天界にいた頃に食べた粟の実の種が出てきたので、これを島に植えたところ数年で島は粟が一面に広がった。すると、アワ畑に据えられた案山子のお告げで天界に戻るように命を受け、粟の茎を曲げて穂につかまり、茎がまっすぐに戻る力で天界へ飛んでいった。このことから、オオクニヌシはこの島を「粟島」と名づける[6]。
米子の由来
[編集]粟嶋の分限者には子がなく、88歳の米寿を迎えたときに初めて子を授かったことから、「米子」の地名が発祥したと伝えられている[5]。
八百比丘尼
[編集]地元の漁師の娘が、それと知らずに人魚の肉を食べてしまい、不老不死になってしまった。娘は出家して、粟嶋の西側にある洞窟「静の岩屋」で隠遁生活を送り、一切のものを口にしなかった。娘は800歳を迎えて死に、「八百比丘尼」と呼ばれた[5]。
公共財
[編集]粟嶋神社社叢
[編集]干拓地である周辺地域や中海のなかでは例外的に、山全体にスダジイなど高木から中低木が生い繁り、この地域としては珍しい照葉樹林を形成している[5][7]。島全体が原始林とされ、特に西斜面に群落を形成してるシャシャンボ(ツツジ科)が大型化しているのも特徴的で、全体が「粟嶋神社社叢」として鳥取県の天然記念物の指定を受けている[5][7][1]。
粟嶋秋月
[編集]文政期に福島林仙という米子の文人が、「米子八景」と称する一連の和歌を詠んだ[8]。このなかで粟嶋は次のように詠まれている。
うき雲を はらひし風を あは島の しまにのこして 月ぞすみける — 福島林仙、米子八景[5]
大正期になると、米子八景をもとに「錦海八景[注 4]」が定められた。粟嶋からの中海の水面に映る秋の月夜は「粟嶋秋月」と呼ばれる名景で、粟嶋全体は米子市の名勝に指定されている[5]。
注釈
[編集]- ^ 少なくとも3回、永平年間(1504年~1521年)、元禄2年(1689年)、大正11年(1922年)の火災が記録に残されている[1]。
- ^ 現地案内板「粟嶋神社の自然と伝説」では36メートル、『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』(1982年)では38メートルなどと、資料により若干の差異がある。ここでは米子市による現地案内板に従った[5][2]。
- ^ 奈良時代のものとされる各地の『風土記』が知られているが、伯耆国の風土記そのものは伝わっていない。しかし鎌倉時代初期の『釈日本紀』には、『伯耆国風土記』からの引用の形(逸文)で一部が伝えられている。ただし引用元が正しく奈良時代の風土記であるかについては諸説ある。
- ^ 「錦海」は中海の雅称。
出典
[編集]- ^ a b c d e 『鳥取県大百科事典』p33 粟島・粟島神社
- ^ a b c d e f g h i j 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p86
- ^ a b 現地案内板「粟嶋神社」 2013年8月8日閲覧。
- ^ a b c d 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p727-728
- ^ a b c d e f g h i j 現地案内板「粟嶋神社の自然と伝説」(米子市) 2013年8月8日閲覧。
- ^ 『鳥取県の民話』p18-22「天からおちた小人の神さん」
- ^ a b 鳥取県教育委員会事務局文化財課文化財係 とっとり文化財ナビ 粟島神社社叢 2014年10月2日閲覧。
- ^ 国土交通省 中国地方整備局 出雲河川事務所 錦海公園2014年10月2日閲覧。
参考文献
[編集]- 神社境内の掲示
- 粟嶋神社の自然と伝説(米子市)
- 粟嶋神社
- 『鳥取県の民話』(ふるさとの民話7),日本児童文学者協会・編,偕成社,1978,ISBN 4-03-522070-1
- 『鳥取県大百科事典』,新日本海新聞社鳥取県大百科事典編纂委員会・編,新日本海新聞社,1984
- 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』,角川書店,1982,ISBN 978-4040013107
- 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』,平凡社,1992
- 『鳥取県の歴史散歩』,鳥取県歴史散歩研究会・編,山川出版社,1994,2003
- 中海・宍道湖・大山圏域観光連携事業推進協議会 粟嶋神社
- 米子市観光協会 粟嶋神社
外部リンク
[編集]- 粟島神社 - 米子観光ナビ