コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「コトル」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Nerotaso (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
(同じ利用者による、間の9版が非表示)
4行目: 4行目:
|愛称 =
|愛称 =
|標語 =
|標語 =
|画像 =Kotor panorama.jpg
|画像 =Kotor0803.JPG
|画像サイズ指定 =250px
|画像サイズ指定 =250px
|画像の見出し =コトルのパノラマ
|画像の見出し =コトルのパノラマ
|市旗 =
|市旗 =Flag of Kotor.jpg
|市章 =Coat of Arms of Kotor.png
|市章 =Coat of Arms of Kotor.png
|位置図 =Kotor-Position.PNG
|位置図 =Kotor-Position.PNG
26行目: 26行目:
|人口の時点 =2003年
|人口の時点 =2003年
|人口に関する備考 =
|人口に関する備考 =
|市街地人口 =5,341
|市街地人口 =5,341
|総人口 =22,947
|総人口 =22,947
|人口密度(平方キロ当たり)=68
|人口密度(平方キロ当たり)=68
|都市圏人口 =
|都市圏人口 =
41行目: 41行目:
|備考 =
|備考 =
}}
}}

'''コトル'''([[セルビア語]]・[[クロアチア語]]:Котор / Kotor; [[イタリア語]]:Cattaro; [[ラテン語]]:Acruvium)は、[[モンテネグロ]]の都市である。人口19,000人。
'''コトル'''([[モンテネグロ語]]・{{lang-sr|Kotor/Котор}},{{lang-hr|Kotor}},{{lang-it|Càttaro}},{{lang-la|Acruvium}},{{lang-grc|Ἀσκρήβιον}})は[[モンテネグロ]]の都市および[[オプシュティナ|基礎自治体]]で[[コトル湾]]の静かな場所に位置しコトル市街の人口は13,510人で基礎自治体内の行政的な中心でもある。基礎自治体全体の人口は[[2003年]]現在22,947人である。古い地中海域のコトル港の周囲にある印象的な城壁は[[ヴェネツィア共和国]]によって築城されたもので、ヴェネツィアの強い影響が市内の建物には残されている。コトル湾は[[アドリア海]]ではもっとも陸側にしゅう曲した部分の一つで、時にヨーロッパ最南部の[[フィヨルド]]と呼ばれることもあるが実際は[[リアス式海岸]]の一部である。近隣には[[オリイェン]]や[[ロヴチェン]]などの石灰岩の張り出した崖があり、コトルやその周辺部の美しい地中海的な景観を特徴付けている。近年コトルはコトル湾と旧市街の美しい風景から多くの人々をひき付けていることから、観光客の数が安定的に増加している。また、コトルは'''「コトルの自然と文化歴史地域」'''として[[1979年]]に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録されている。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[ファイル:Kotor entrance.JPG|thumb|left|旧市街への入口のサイン]]
コトルが最初に言及されるのは、[[紀元前168年]]である。[[古代ローマ]]期を通してローマの[[属州]]であり、AcruviumやAscriviumまたはAscruviumとして知られた。
=== 古代から中世 ===
コトルが最初に言及されたのは[[古代ローマ]]期の紀元前168年で、その頃はアクルヴィウム(Acruvium)、アスクリヴィウム(Ascrivium)、アスクルヴィウム(Ascruvium)の名称で知られ[[ダルマチア]][[属州]]の一部であった。中世初期以来、コトル当時のカッターロ(Cattaro)では都市は要塞化され[[東ローマ帝国]]皇帝[[ユスティニアヌス1世]]により[[東ゴート族]]を追放された後、アクルヴィウムの上に[[535年]]要塞が築かれた。コトルは[[840年]]に[[サラセン人]]により略奪を受けていた。第二の町が大きく成長したのは10世紀、[[コンスタンティヌス7世]]の頃で低コトルに関してほのめかされている。コトルは中世期には[[イリュリア人]]が[[ローマ化]]されたもっとも有力なダルマチアの[[都市国家]]の一つであった。[[11世紀]]までカッタロでは[[ダルマチア語]]が話されていた。[[1002年]]、町は[[第一次ブルガリア帝国]]の占領の下ダメージを受け、続いて[[サムイル (ブルガリア皇帝)|サムイル]]により[[セルビア]]に割譲される。しかしながら、地元民はこの協定に[[ラグーサ共和国]]との同盟により抵抗した。[[13世紀]]、すでに司教区が見られ[[ドミニコ会]]や[[フランシスコ会]]の修道院が設立され[[ボゴミル派]]の広がりが監視されていた。[[14世紀]]、カッタロは商業で近隣のラグーサ共和国やヴェネツィア共和国と競っていた。コトルは[[1420年]]から[[1797年]]まで、[[1538年]]から[[1571年]]と[[1657年]]から[[1699年]]の[[オスマントルコ]]支配期を除いて[[ヴェネツィア共和国]]領[[アルバニア・ヴェネタ]]の一部であった。4世紀にわたるヴェネツィアの支配は町にヴェネツィア様式を特徴付ける建物を残しコトルは世界遺産に選ばれている。<ref name="unesco_kotor">{{cite web | url=http://whc.unesco.org/en/list/125 | title=Natural and Culturo-Historical Region of Kotor | accessdate=2010-12-08 | publisher=Unesco World Heritage Convention}}</ref>この間、[[ルネサンス]]に関連した文学も大いに隆盛した。ヴェネツィア支配下のコトルでは2度のオスマントルコの支配や[[1572年]]の[[ペスト]]の流行、[[1563年]]と[[1667年]]の地震による破壊も経験している。
[[ファイル:Kotor Montenegro.jpg|thumb|left|200px|コトルの通り]]


=== 近世から現代 ===
[[中世]]初期より強化が続き、[[535年]]の[[ユスティニアヌス1世]]の時代に、Ascriviumの上に要塞都市として建築された。後に[[ゴート族]]を退けている。おそらく[[10世紀]]に[[コンスタンティノス7世]]により第2都市が周辺の高地に建設されたことがLower Cattaroよりうかがえる。[[810年]]に[[サラセン人]]の略奪にあっている。
[[1797年]]の[[カンポ・フォルミオ条約]]によってハプスブルク君主国の支配に移る。しかしながら、[[1805年]]に[[プレスブルクの和約]]によって[[フランス第一帝政]]に隷属する[[ナポレオン1世]]の[[イタリア王国 (1805年-1814年)|イタリア王国]]となるがロシア小艦隊、ドミトリー・セニャーヴィンに下にあったこともある。ロシア撤退後、[[1806年]]までイタリア王国の下にあり[[1810年]]に[[フランス帝国]][[イリュリア州]]となる。コトルはジョン・ハーパー提督率いる[[スループ]]船''HMS Saracen''による湾の攻撃により攻略された。コトル封鎖は風がない状態で、住民は岸に沿ってロープを引っ張った。Saracenの乗組員は後に艦の18ポンド砲をコトル近くの聖ジョン砦に運び、ウィリアム・ホステ大佐の艦''HMS Bacchante''を強化した。フランス側の守備隊は降伏する他に手段がなく、[[1814年]][[1月5日]]に降伏した。[[ウィーン会議]]により[[オーストリア帝国]]にコトルは返還されることになった。第一次世界大戦時、コトルは3港ある[[オーストリア=ハンガリー帝国海軍]]の主要な軍港のうちの一つとなり[[前弩級戦艦]]と[[軽巡洋艦]]で構成されるオーストリア第五艦隊の母港であった。コトル周辺では地元のスラヴ系の[[モンテネグロ人]]と[[オーストリア=ハンガリー帝国]]との間で激しい争いもあった。[[1918年]]、[[ユーゴスラビア]]の一部になるとそれまで、カッターロと呼ばれていたものが公式にコトルとなった。[[1941年]]から[[1943年]]にかけてはイタリアに併合されもともとのヴェネツィア名であったコトル湾を意味するボッケ・ディ・カッターロ"Bocche di Cattaro"と呼ばれ、イタリア人のダルマチア総督とカッターロ州が設立され1,075km² の面積に128,000人が居住していた。第二次世界大戦後の[[1945年]]、[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]内の[[モンテネグロ社会主義共和国]]となる。[[1979年]][[4月15日]]、モンテネグロ沿岸部で大地震が発生し、100人以上の死傷者が出た。コトル旧市街はその半分以上が被災し、聖トリプン大聖堂(Katedrala Svetog Tripuna)は部分的に被災している。


== みどころ ==
[[1002年]]、街は第一次[[ブルガリア帝国]]の占領下で苦しみ、翌年、ブルガリア皇帝([[ツァーリ]])[[サムイル (ブルガリア皇帝)|サムイル]]により、[[セルビア]]に割譲された。
コトルは[[アドリア海]]沿岸でも中世の古い町並みが良く保存されたユネスコの世界遺産である。<ref name="unesco_kotor"/>1166年に建てられた聖トリプン大聖堂など多くの見所があり、総延長4.5kmの長さをほこる古代の城壁が市街地の上にそびえる。スヴェティ・ジョルジェ(Sveti Đorđe)やゴスパ・オド・シュクピイェラ(Gospa od Škrpijela)など[[ペラスト]]沖の小島もまたコトル周辺部ではポピュラーな目的地である。


== 人口 ==
(以下、未訳)
コトルはコトル基礎自治体の行政的な中心で、コトル基礎自治体内には[[ドブロタ]]、[[リサン]]、[[ペラスト]]などの町をはじめコトル湾沿岸の小さな村落が含まれる。1800年代の人口はセルビア人、クロアチア人、イタリア人がそれぞれ 1/3ずつで構成されていた。それ以来、イタリア系はほとんど見られなくなり<ref>[http://www.edit.hr/lavoce/2009/091003/speciale.htm "Comunita italiana del Montenegro" in 2010]</ref>現在では[[モンテネグロ人]]が多数派となっている。2003年の調査によればコトル自治体の人口は22,947人で<ref name="monstats_2003"/>、コトル市街は5,341人であった。しかし、実際的にコトルとドブロタは一つの町で合わせて13,176人である。<ref name="monstats_2003">{{cite web | url=http://www.monstat.org/userfiles/file/popis03/Popis01a.zip | title=Document ''Nacionalna ili etnicka pripadnost – Podaci po naseljima i opstinama'' (2003 population census) | accessdate=2010-12-10 | year=2003 | publisher=Statistical Office of Montenegro | pages=48–49}}</ref>

*コトルの人口(ドブロタを含む)
**[[1981年]][[3月3日]] - 10,780人
**[[1991年]][[3月3日]] - 12,903人
**[[2003年]][[9月1日]] - 13,176人

*民族構成 (1991年調査)
**[[モンテネグロ人]] (55.24%)
**[[セルビア人]] (14.07%)
**[[クロアチア人]] (7.23%)

*民族構成 (2003年調査) - 基礎自治体内の人口22,947人
**[[モンテネグロ人]] - 10,741人 (46.81%)
**[[セルビア人]] - 7,094人 (30.91%)
**[[クロアチア人]] - 1,762人 (9.37%)
**[[ユーゴスラビア人]] - 168人 (0.73%)
**[[ムスリム]] - 106人 (0.46%)
**[[アルバニア人]] - 76人 (0.33%)
**[[マケドニア人]] - 49人 (0.21%)
**[[ロマ]] - 48人 (0.21%)
**[[ロシア人]] - 39人 (0.17%)
**[[スロベニア人]] - 35人 (0.15%)
**[[イタリア人]] - 32人 (0.14%)
**[[ハンガリー人]] - 32人 (0.14%)
**[[アッシュカリー]] - 20人 (0.09%)
**[[ボシュニャク人]] - 16人 (0.07%)
**[[ドイツ人]] - 14人 (0.06%)
**その他 - 133人 (0.58%)
**不明 - 2,165人 (9.43%)
**地域起源 - 202人 (0.88%)
**データ無し - 215人 (0.94)

*1900年来の文書によれば、コトルには7,617人のカトリック教徒と7,207人の正教徒がいた。コトル司教区はコトル湾岸域をカバーしている。2003年の調査で基礎自体人口22,947人のうち78%は正教徒、13%はカトリック教徒とされている。

== 交通 ==
コトルは[[アドリアハイウェイ]]によって[[クロアチア]]などのアドリア海沿岸とヴルマツトンネルによってモンテネグロ内陸部と結ばれている。[[ツェティニェ]]とは歴史的な街道によって結ばれ、コトル湾のみごとな景色を楽しむことが出来る。[[ティヴァト空港]]はコトルからは5km離れた場所にあり、ベオグラードやモスクワ、パリへの定期便の他、夏のヴァカンスシーズンには数多くのチャーター便が就航している。[[ポドゴリツァ空港]]は65km離れた場所にあり欧州の各都市へ就航している。

== ゆかりの人物 ==
*[[ボシュコ・ヴクサノヴィッチ]] - 水球選手

== 姉妹都市 ==
* {{flagicon|HUN}} [[セゲド]], [[ハンガリー]]


== 周辺 ==
== 周辺 ==
78行目: 127行目:
=== 登録基準 ===
=== 登録基準 ===
{{世界遺産基準|1|2|3|4}}
{{世界遺産基準|1|2|3|4}}

== 脚注 ==
{{Reflist}}


==外部リンク==
==外部リンク==
* [http://whc.unesco.org/pg.cfm?cid=31&id_site=125 ユネスコ世界遺産:コトル地方の歴史的建造物と自然のページ] (英語)
* [http://whc.unesco.org/pg.cfm?cid=31&id_site=125 ユネスコ世界遺産:コトル地方の歴史的建造物と自然のページ] (英語)
* [http://www.opstinakotor.com Official website]
* [http://whc.unesco.org/pg.cfm?cid=31&id_site=125 UNESCO: Natural and Culturo-Historical Region of Kotor]
* [http://www.kotor365.com Kotor City Guide - Hotels - Accommodation Rent a Car]
* [http://www.pbase.com/vmarinkovic/boka_kotorska Boka Kotorska Photo Gallery]
* [http://www.colonialvoyage.com/viaggi/montenegrocattaro.html Tourist Presentation of Kotor]
* [http://www.rastko.org.rs/rastko-bo Foundation for Culture and Tradition of Boka Kotorska "Project Rastko-Boka" in Serbian]
* [http://travel.bloged.org/images/kotor_fortress.jpg Old Town Map (1944px × 2592px 851.58 Kb JPG)]
* [http://www.rastko.org.rs/rastko-bo Foundation for Culture and Tradition of Boka Kotorska "Project Rastko-Boka" in Serbian]


{{commonscat|Kotor}}
{{commonscat|Kotor}}

2012年3月18日 (日) 10:28時点における版

コトル

Kotor
Котор
コトルのパノラマ
コトルのパノラマ
コトルの市旗 コトルの市章
位置
の位置図
座標 : 北緯42度25分48秒 東経18度46分12秒 / 北緯42.43000度 東経18.77000度 / 42.43000; 18.77000
行政
モンテネグロの旗 モンテネグロ
  コトル
市長 Marija Ćatović (DPS
地理
面積  
   335 km2
人口
人口 (2003年現在)
   22,947人
    人口密度   68人/km2
  市街地 5,341人
その他
等時帯 CET (UTC+1)
夏時間 CEST (UTC+2)
公式ウェブサイト : [1]

コトルモンテネグロ語セルビア語: Kotor/Котор,クロアチア語: Kotor,イタリア語: Càttaro,ラテン語: Acruvium,古代ギリシア語: Ἀσκρήβιον)はモンテネグロの都市および基礎自治体コトル湾の静かな場所に位置しコトル市街の人口は13,510人で基礎自治体内の行政的な中心でもある。基礎自治体全体の人口は2003年現在22,947人である。古い地中海域のコトル港の周囲にある印象的な城壁はヴェネツィア共和国によって築城されたもので、ヴェネツィアの強い影響が市内の建物には残されている。コトル湾はアドリア海ではもっとも陸側にしゅう曲した部分の一つで、時にヨーロッパ最南部のフィヨルドと呼ばれることもあるが実際はリアス式海岸の一部である。近隣にはオリイェンロヴチェンなどの石灰岩の張り出した崖があり、コトルやその周辺部の美しい地中海的な景観を特徴付けている。近年コトルはコトル湾と旧市街の美しい風景から多くの人々をひき付けていることから、観光客の数が安定的に増加している。また、コトルは「コトルの自然と文化歴史地域」として1979年ユネスコ世界遺産に登録されている。

歴史

旧市街への入口のサイン

古代から中世

コトルが最初に言及されたのは古代ローマ期の紀元前168年で、その頃はアクルヴィウム(Acruvium)、アスクリヴィウム(Ascrivium)、アスクルヴィウム(Ascruvium)の名称で知られダルマチア属州の一部であった。中世初期以来、コトル当時のカッターロ(Cattaro)では都市は要塞化され東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世により東ゴート族を追放された後、アクルヴィウムの上に535年要塞が築かれた。コトルは840年サラセン人により略奪を受けていた。第二の町が大きく成長したのは10世紀、コンスタンティヌス7世の頃で低コトルに関してほのめかされている。コトルは中世期にはイリュリア人ローマ化されたもっとも有力なダルマチアの都市国家の一つであった。11世紀までカッタロではダルマチア語が話されていた。1002年、町は第一次ブルガリア帝国の占領の下ダメージを受け、続いてサムイルによりセルビアに割譲される。しかしながら、地元民はこの協定にラグーサ共和国との同盟により抵抗した。13世紀、すでに司教区が見られドミニコ会フランシスコ会の修道院が設立されボゴミル派の広がりが監視されていた。14世紀、カッタロは商業で近隣のラグーサ共和国やヴェネツィア共和国と競っていた。コトルは1420年から1797年まで、1538年から1571年1657年から1699年オスマントルコ支配期を除いてヴェネツィア共和国アルバニア・ヴェネタの一部であった。4世紀にわたるヴェネツィアの支配は町にヴェネツィア様式を特徴付ける建物を残しコトルは世界遺産に選ばれている。[1]この間、ルネサンスに関連した文学も大いに隆盛した。ヴェネツィア支配下のコトルでは2度のオスマントルコの支配や1572年ペストの流行、1563年1667年の地震による破壊も経験している。

コトルの通り

近世から現代

1797年カンポ・フォルミオ条約によってハプスブルク君主国の支配に移る。しかしながら、1805年プレスブルクの和約によってフランス第一帝政に隷属するナポレオン1世イタリア王国となるがロシア小艦隊、ドミトリー・セニャーヴィンに下にあったこともある。ロシア撤退後、1806年までイタリア王国の下にあり1810年フランス帝国イリュリア州となる。コトルはジョン・ハーパー提督率いるスループHMS Saracenによる湾の攻撃により攻略された。コトル封鎖は風がない状態で、住民は岸に沿ってロープを引っ張った。Saracenの乗組員は後に艦の18ポンド砲をコトル近くの聖ジョン砦に運び、ウィリアム・ホステ大佐の艦HMS Bacchanteを強化した。フランス側の守備隊は降伏する他に手段がなく、1814年1月5日に降伏した。ウィーン会議によりオーストリア帝国にコトルは返還されることになった。第一次世界大戦時、コトルは3港あるオーストリア=ハンガリー帝国海軍の主要な軍港のうちの一つとなり前弩級戦艦軽巡洋艦で構成されるオーストリア第五艦隊の母港であった。コトル周辺では地元のスラヴ系のモンテネグロ人オーストリア=ハンガリー帝国との間で激しい争いもあった。1918年ユーゴスラビアの一部になるとそれまで、カッターロと呼ばれていたものが公式にコトルとなった。1941年から1943年にかけてはイタリアに併合されもともとのヴェネツィア名であったコトル湾を意味するボッケ・ディ・カッターロ"Bocche di Cattaro"と呼ばれ、イタリア人のダルマチア総督とカッターロ州が設立され1,075km² の面積に128,000人が居住していた。第二次世界大戦後の1945年ユーゴスラビア社会主義連邦共和国内のモンテネグロ社会主義共和国となる。1979年4月15日、モンテネグロ沿岸部で大地震が発生し、100人以上の死傷者が出た。コトル旧市街はその半分以上が被災し、聖トリプン大聖堂(Katedrala Svetog Tripuna)は部分的に被災している。

みどころ

コトルはアドリア海沿岸でも中世の古い町並みが良く保存されたユネスコの世界遺産である。[1]1166年に建てられた聖トリプン大聖堂など多くの見所があり、総延長4.5kmの長さをほこる古代の城壁が市街地の上にそびえる。スヴェティ・ジョルジェ(Sveti Đorđe)やゴスパ・オド・シュクピイェラ(Gospa od Škrpijela)などペラスト沖の小島もまたコトル周辺部ではポピュラーな目的地である。

人口

コトルはコトル基礎自治体の行政的な中心で、コトル基礎自治体内にはドブロタリサンペラストなどの町をはじめコトル湾沿岸の小さな村落が含まれる。1800年代の人口はセルビア人、クロアチア人、イタリア人がそれぞれ 1/3ずつで構成されていた。それ以来、イタリア系はほとんど見られなくなり[2]現在ではモンテネグロ人が多数派となっている。2003年の調査によればコトル自治体の人口は22,947人で[3]、コトル市街は5,341人であった。しかし、実際的にコトルとドブロタは一つの町で合わせて13,176人である。[3]

  • 1900年来の文書によれば、コトルには7,617人のカトリック教徒と7,207人の正教徒がいた。コトル司教区はコトル湾岸域をカバーしている。2003年の調査で基礎自体人口22,947人のうち78%は正教徒、13%はカトリック教徒とされている。

交通

コトルはアドリアハイウェイによってクロアチアなどのアドリア海沿岸とヴルマツトンネルによってモンテネグロ内陸部と結ばれている。ツェティニェとは歴史的な街道によって結ばれ、コトル湾のみごとな景色を楽しむことが出来る。ティヴァト空港はコトルからは5km離れた場所にあり、ベオグラードやモスクワ、パリへの定期便の他、夏のヴァカンスシーズンには数多くのチャーター便が就航している。ポドゴリツァ空港は65km離れた場所にあり欧州の各都市へ就航している。

ゆかりの人物

姉妹都市

周辺

近隣の古都市

  • Dobrota
  • Muo

世界遺産

世界遺産 コトルの自然と
文化歴史地域
モンテネグロ
英名 Natural and Culturo-Historical Region of Kotor
仏名 Contrée naturelle et culturo-historique de Kotor
登録区分 文化遺産
登録基準 (1),(2),(3),(4)
登録年 1979年
拡張年 2003年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
地図
コトルの位置
使用方法表示

コトルの自然と文化歴史地域は、1979年、ユネスコ世界遺産に登録された

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

脚注

  1. ^ a b Natural and Culturo-Historical Region of Kotor”. Unesco World Heritage Convention. 2010年12月8日閲覧。
  2. ^ "Comunita italiana del Montenegro" in 2010
  3. ^ a b Document Nacionalna ili etnicka pripadnost – Podaci po naseljima i opstinama (2003 population census)”. Statistical Office of Montenegro. pp. 48–49 (2003年). 2010年12月10日閲覧。

外部リンク

Template:Link GA