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{{基礎情報 君主
{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=オ人1574年没__世界史}}
[[画像:Selim II by John Young.jpg|thumb|セリム2世]]
| 人名 = セリム2世
| 各国語表記 = سليم ثانى
[[画像:II Selim.jpg|thumb|セリム2世]]
| 君主号 = [[オスマン帝国の皇帝|オスマン皇帝]]
'''セリム2世'''([[1524年]][[5月28日]] - [[1574年]][[12月12日]])は、[[オスマン帝国]]の第11代[[皇帝]](在位:[[1566年]] - 1574年)。父は第10代皇帝[[スレイマン1世]](大帝)、母は[[ロクセラーナ]]。
| 画像 = II. Selim Han.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 = セリム2世
| 在位 = [[1566年]][[9月7日]] - [[1574年]][[12月12日]]
| 戴冠日 = [[1566年]][[9月7日]]
| 別号 =
| 全名 =
| 出生日 = [[1524年]][[5月28日]]
| 生地 = {{OTT1517}}、[[イスタンブール]]
| 死亡日 = [[1574年]][[12月12日]]
| 没地 = {{OTT1517}}、[[イスタンブール]]
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 = [[ヌール・バヌ]]など
| 配偶者2 =
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| 王家 = [[オスマン家]]
| 王朝 = [[オスマン家|オスマン朝]]
| 父親 = [[スレイマン1世]]
| 母親 = [[ロクセラーナ|ヒュッレム・ハセキ・スルタン]]
| 宗教 = [[イスラム教]][[スンナ派]]
| サイン = Tughra of Selim II.JPG
}}
'''セリム2世'''({{lang-tr|II.Selim}}, [[1524年]][[5月28日]] - [[1574年]][[12月12日]])は、[[オスマン帝国]]の第11代[[皇帝]]([[スルターン|スルタン]])(在位[[1566年]] - [[1574年]])。


軍事活動への関心を持たずに大臣たちに権限を委ねた最初のスルタンであり、もっぱら放蕩と飲酒に耽っていた<ref name="En1911">“Selim”.Encyclopadia Britannica (11 ed.)</ref>。そのため、「酒飲み」「酔っ払い」(Sarhoş Selim)の渾名で呼ばれる<ref name="En1911"/>。
1566年、父が[[ハンガリー王国|ハンガリー]]遠征中に陣没したため、父の晩年における政争で唯一生き残っていたセリム2世が後を継いで皇帝として即位した。しかし軍事においても政治においても優秀であった父と較べるとまではいかなくても、[[大宰相]][[ソコルル・メフメト・パシャ]]が政治を取り仕切ったため、国内政治が乱れることは無かった。しかし、大帝と恐れられた父の死は[[ヨーロッパ]]諸国に大きな反攻の契機を与えた。それが[[1571年]]、[[オスマン帝国海軍]]がコリント湾内で[[スペイン]]の艦隊に大敗するという結果で現れたのである([[レパントの海戦]])。


父の[[スレイマン1世]]と比較して不肖・凡庸と評されるが<ref name="En1911"/><ref>ビタール『オスマン帝国の栄光』、49頁</ref><ref>マントラン『改訳 トルコ史』、75頁</ref>、一方で[[大宰相]]を中心とした官人による統治システムに適した人物とも評価される<ref name="hayashi172">林『オスマン帝国500年の平和』、172頁</ref>。また、詩人としての一面も持ち合わせていた<ref name="cr367">クロー『スレイマン大帝とその時代』、367頁</ref>。
この時、セリム2世は「この敗戦など痛くも痒くもない。異教徒が我が国の髭を焼いたに過ぎぬ」とうそぶいたと言われているが、確かにその後も帝国の[[大国]]としての勢威や、ヨーロッパ諸国に対する優位は揺るがなかった。また[[地中海]]の制海権も[[17世紀]]まで維持し続けた。オスマン艦隊はただちに再建され、[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]に[[1573年]]には[[キプロス島]]、[[1574年]]には[[チュニス]]をそれぞれ割譲させたほどである。


== 生涯 ==
しかしこの[[海戦]]の敗退は、オスマン帝国の動揺を現す端緒になったのも確かであった。スレイマン1世の後、彼ほど有能な皇帝は殆ど現われなくなり、後の帝国衰退の原因もセリム2世の時代に始まったとも言える。この後、帝国の政治は大宰相と[[官僚]]に握られ、皇帝の権威は地に落ち、帝位は飾り物と化した。優れた大宰相と官僚のお陰もあり、オスマン帝国の繁栄と安定は、なお1世紀近くも継続するのである。
=== 幼年期 ===
オスマン帝国の皇帝スレイマン1世と寵妃[[ロクセラーナ|ヒュッレム・ハセキ・スルタン]](ロクセラーナ)の子として、1524年5月28日に[[イスタンブール]]([[コンスタンティノープル]])で誕生する<ref>Necdet Sakaoğlu (1993/94a): "İstanbul'un adları" ["The names of Istanbul"]. In: 'Dünden bugüne İstanbul ansiklopedisi', ed. Türkiye Kültür Bakanlığı, Istanbul.</ref><ref>"Istanbul", in Encyclopedia of Islam.</ref>。


父スレイマンの存命中は[[コンヤ]]を任地とし<ref>林『オスマン帝国500年の平和』、165頁</ref>、[[1545年]]に[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]貴族の家系に連なるチェチーリア・ヴェニエル=バッフォ([[ヌール・バヌ]])を妻に迎える<ref>Bernard Lewis, ''The Muslim discovery of Europe'', W.W. Norton & Company, Inc., 2001, p. 192.</ref>。1554年の[[ペルシャ]]遠征では、[[アナトリア半島|アナトリア]]出身の兵士で構成された右翼軍の指揮官を務めた<ref>クロー『スレイマン大帝とその時代』、214頁</ref>。
1574年、50歳で死去。後を子の[[ムラト3世]]が継いだ。


=== 後継者争い ===
{{先代次代|[[オスマン帝国の君主|オスマン帝国の皇帝]]|第11代:1566年 - 1574年|[[スレイマン1世]]|[[ムラト3世]]}}
{{See also|ロクセラーナ}}
1530年代より、オスマン宮廷内ではスレイマンの後継者の地位を巡る暗闘が起こり、スレイマン1世の寵妃ロクセラーナは自分の息子を後継者に据えるため、皇子ムスタファに対して策謀を巡らせていた<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、159-160頁</ref>。[[1553年]]にムスタファが処刑されると、セリムとバヤズィトの兄弟がスレイマンの後継者候補として残った<ref name="suzuki169">鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、169頁</ref>。セリムは[[イェニチェリ]]、バヤズィトは[[ティマール]]の保有者と農民から支持を受けていた<ref name="cr219">クロー『スレイマン大帝とその時代』、219頁</ref>。ロクセラーナは怠惰で酒飲みのセリムよりも有能なバヤズィトを後継者にと考えていたと思われるが、2人が決裂して骨肉の争いが起きないように配慮していた<ref name="cr219"/>。[[1558年]]にロクセラーナが没すると、セリムとバヤズィトは互いの側近を加えて政争を開始する<ref name="cr219"/>。

セリムの家庭教師を務めていた[[ララ・ムスタファ・パシャ]]の偽書を使った策略によって、バヤズィトはスレイマンから疎まれるようになる<ref name="suzuki169"/><ref name="cr220">クロー『スレイマン大帝とその時代』、220頁</ref>。スレイマンはセリムの任地をコンヤから[[キュタヒヤ]]に変え、バヤズィトを[[アマスィヤ]]へと更迭した<ref name="cr220"/>。[[1559年]]にバヤズィトはアマスィヤへの異動を拒んで挙兵し、[[オグズ|テュルクマン]]とティマールの保有者を中心とする20,000の軍隊がバヤズィトの下に集まった<ref name="cr220-221">クロー『スレイマン大帝とその時代』、220-221頁</ref>。しかし、[[大宰相]][[ソコルル・メフメト・パシャ]]の率いるイェニチェリ、[[スィパーヒー]]、砲兵隊がスレイマンからセリムの元に派遣され、コンヤ近郊の戦闘で数で優位に立つセリムがバヤズィトに勝利する<ref name="cr220-221"/>。[[サファヴィー朝]]に亡命したバヤズィトと彼の子たちがスレイマンとセリムの要請によって処刑されると、父に反抗する姿勢を取らなかったセリムが最後の後継者として生き残った<ref>林『オスマン帝国500年の平和』、167頁</ref>。

1566年9月にスレイマンが[[オスマン帝国領ハンガリー|ハンガリー]]遠征([[スィゲトヴァール包囲戦]])中に陣没したとき、軍規の維持のためスレイマンの死は秘匿され、ソコルル・メフメト・パシャとごく一部の側近を除いてスレイマンの死を知る者はいなかった<ref name="cr243-244">クロー『スレイマン大帝とその時代』、243-244頁</ref>。ソコルルは芝居を打ってスレイマンが生きているように見せかけるとともに<ref name="cr243-244"/>、セリムに書簡を送ってハンガリー遠征軍に合流するよう指示をした<ref>林『オスマン帝国500年の平和』、170頁</ref>。セリムはキュタヒヤを発ち、[[ベオグラード]]近郊で遠征軍と合流したときに初めてスレイマンの死が明らかにされた<ref>クロー『スレイマン大帝とその時代』、244頁</ref>。スレイマンの死の直後から兵士たちは下賜金を要求して示威行動を行い<ref name="cr245">クロー『スレイマン大帝とその時代』、245頁</ref>、即位前の継承戦で資金を使い果たしていたセリムは姉の[[ミフリマー・スルタン]]から50,000[[ドゥカート]]の借金をして賞与を補った<ref>林『オスマン帝国500年の平和』、171頁</ref>。セリムがイスタンブールに入城した後も兵士たちの要求は続くが<ref name="cr245"/><ref name="man76">マントラン『改訳 トルコ史』、76頁</ref>、ソコルルが数人のイェニチェリを斬首して騒ぎはようやく収まった<ref name="cr245"/>。
<!-- マントラン『改訳 トルコ史』、76頁 では、「賞与をはぶいたためにベオグラードとイスタンブールで起こったイェニチェリの反乱」 -->

=== 即位後 ===
{{See also|ソコルル・メフメト・パシャ}}
[[ファイル:16th century copy of the 1569 Capitulations between Charles IX and Selim II.jpg|150px|thumb|シャルル9世に与えたカピチュレーション]]
[[ファイル:Sokullupasa.jpg|180px|thumb|ソコルル・メフメト・パシャ]]
セリムは即位後一度も親征を行わず、イスタンブールの[[トプカプ宮殿]]と[[エディルネ]]の狩場で日々を過ごした<ref name="hayashi172"/>。セリムの在位中は、[[ボスニア]]出身の大宰相ソコルル・メフメト・パシャがスレイマンの晩年から引き続いて国事の大部分を担った。

1566年に[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]が領有する[[ヒオス島|キオス島]]がオスマン帝国の支配下に入る。しかし、同1566年に[[イエメン]]で[[シーア派]]の一派である[[ザイド派]]の指導者が反乱を起こし、反乱は長期に及んだ<ref>林『オスマン帝国500年の平和』、174頁</ref>。
<!-- イエメン反乱の鎮圧に要した期間について、林『オスマン帝国500年の平和』、174頁 では3年、マントラン『改訳 トルコ史』、76頁 では18か月 -->

[[1568年]][[2月17日]]にイスタンブールで[[神聖ローマ皇帝]][[マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン2世]]と和平条約が締結され、マクシミリアン2世が毎年30,000ドゥカートの「貢納」を支払い、[[モルダヴィア]]と[[ワラキア]]におけるオスマン帝国の宗主権を認めさせた。和平の期間は8年間であったが、オスマン帝国と神聖ローマ帝国の友好関係は16世紀末まで保たれた<ref name="man76"/>。また、講和後にオスマン帝国の領域外に取り残されたトルコ人を国内に移住させる運動が行われた<ref>アクシト『トルコ 2』、120頁</ref>。[[1569年]]に、セリムは[[フランス王国|フランス]]王[[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]]に[[カピチュレーション]]を授与する。カピチュレーションによってフランスの臣民にかけられる関税は5%に制限され、オスマン領内に駐在するフランス大使・領事に保護が与えられた<ref>ビタール『オスマン帝国の栄光』、150頁</ref>。従来スレイマンがフランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]に授与したと考えられていたカピチュレーションは、1559年にフランソワ2世に授与されたものだとする説が近年有力になっている<ref>永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、144頁</ref>。

しかし、北方の[[ロシア・ツァーリ国|ロシア]]との関係は順調なものではなかった。オスマン帝国とロシアの最初の邂逅は、後に訪れる災厄の前兆として現れる。オスマン宮廷で[[ヴォルガ川]]と[[ドン川]]を結ぶ運河の建造が計画され<ref>林『オスマン帝国500年の平和』、175頁</ref>、1569年の夏に[[イェニチェリ]]と騎兵隊からなる大部隊によって[[アストラハン]]の包囲が開始される。包囲と同時に運河の工事が開始され、ドン川の河口部に位置する[[アゾフ]]にオスマン艦隊が集結した。しかし、アストラハンの包囲は守備隊の反撃によって失敗した。運河の工員は15,000人からなるロシア軍の救援隊の攻撃を受けて散り散りになり、工員を保護するために[[クリミア・ハン国|クリミア]]の軍隊が派遣された。さらに、アゾフに集結した艦隊は嵐によって壊滅した<ref name="En1911"/>。[[1570年]]の初頭にロシア[[ツァーリ|皇帝]]・[[イヴァン4世]]から派遣された大使がイスタンブールに到着し、オスマン帝国とロシアの間に和約が締結される。

=== キプロス遠征 ===
セリムの治世には、[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]によるオスマン船舶襲撃の拠点となっていた[[キプロス島]]の遠征が計画される<ref name="horupu121">アクシト『トルコ 2』、121頁</ref>。キプロスはアナトリア・[[歴史的シリア|シリア]]・[[エジプト]]を結ぶ海路の維持に欠かせない要衝であり、ヴェネツィアはキプロスを保持するために毎年10,000ドゥカートをオスマン帝国に支払っていた<ref name="horupu121"/>。かねてよりオスマン帝国はキプロスの獲得を望んでおり<ref name="man76"/>、[[1570年]]春にセリムはソコルルの諌止を押し切ってキプロス遠征を決定した<ref>ビタール『オスマン帝国の栄光』、50頁</ref>。同年7月にオスマン艦隊はキプロス島を包囲し<ref name="man76"/>、[[1571年]]にララ・ムスタファ・パシャ指揮下の軍隊がキプロスを制圧した。キプロスが[[ワイン]]の産地であるため、キプロス遠征に際してイスタンブール市民は「セリムはワイン目当てでキプロス遠征を始めたのだろう」と噂し合った<ref>澁澤幸子『キプロス島歴史散歩』(新潮選書, 新潮社, 2005年5月)、62頁</ref>。

キプロス島の陥落はキリスト教世界に衝撃を与え、[[ローマ教皇]][[ピウス5世 (ローマ教皇)|ピウス5世]]の提唱によってカトリック教国からなる連合軍が結成された<ref name="man76"/>。[[1571年]]10月7日にオスマン艦隊は[[レパントの海戦]]でカトリック教国の連合軍に敗北する。

=== レパントの海戦後 ===
[[ファイル:Battle of Lepanto 1571.jpg|200px|thumb|レパントの海戦]]
戦後、ソコルルはヴェネツィアとの戦いに備えて、翌年の春までに艦隊を再建することを命じた<ref name="horupu121"/><ref name="suzuki238">鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、238頁</ref>。資金を不安視する大提督クルチ・アリー・パシャ(ウルチ・アリー・パシャ)、レパントの戦いがオスマン帝国に与えた打撃を探ろうとするヴェネツィアの使者らに対して、ソコルルは余裕を示して資金が潤沢であり、オスマンの被害は微少であると答えた<ref name="horupu121"/>。[[1572年]]6月に再建されたオスマン海軍は250隻からなる艦隊を地中海に出撃させ<ref name="suzuki238"/><ref>アクシト『トルコ 2』、121-122頁</ref>、またヴェネツィアはオスマンとの戦争の継続に積極的な姿勢を示さなかった<ref name="man77">マントラン『改訳 トルコ史』、77頁</ref>。[[1573年]]3月に[[フランス王国|フランス]]の仲介によってオスマンとヴェネツィアは講和し、オスマンのキプロス島保持、ヴェネツィアのオスマンへの賠償金の支払い、[[ダルマティア]]地方の情勢を維持することが取り決められ、ヴェネツィアにカピチュレーションが授与された<ref name="man77"/>。

[[1574年]]にクルチ・アリー・パシャとイエメンの征服者[[コジャ・シナン・パシャ]]率いるオスマン艦隊がスペインの支配下に置かれていた[[チュニジア]]に派遣され、8月にチュニジアを奪還した。

=== 生涯の最期 ===
晩年、セリムはワインを1瓶飲み干した後にトプカプ宮殿の新築された浴場に行き、濡れたタイルで滑って頭を打ち付けた<ref name="cr459">クロー『スレイマン大帝とその時代』、459頁</ref> 。事故から11日後の1574年[[12月12日]]にセリムは没した<ref name="cr459" /><ref>Patrick Balfour Kinross, ''Ottoman Centuries: The Rise and Fall of the Turkish Empire'' (1977), p.&nbsp;273</ref>。セリムの死により、ソコルルが計画していたヴェネツィア攻撃の計画は中断される<ref name="En1911" />。跡を子の[[ムラト3世]]が継いだ。

== オスマン帝国衰退の兆候 ==
後世の西欧の歴史家はレパントの海戦に強い関心を示し、オスマン帝国の没落はこの戦闘から始まったと主張することもあった<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、236頁</ref>。[[スコットランド]]のイスラム史研究者であるキンロス卿{{仮リンク|パトリック・バルフォア|en|Patrick Balfour, 3rd Baron Kinross}}は自著"The Seeds of Decline"において、レパントの敗戦の後で艦隊の立て直しに要した多額の支出がオスマン帝国の緩やかな衰退の始まりになったと考察した。しかし、レパントの敗戦はオスマン海軍の人材に打撃を与えたものの、帝国が衰退する原因になったとは断言できないと述べる研究者も存在する<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、239頁</ref>。

== 肖像画 ==
[[ファイル:II. (Korhely) Szelim.JPG|200px|thumb|ニギャーリーの描いた肖像画]]
オスマン帝国の画家[[ニギャーリー]](ニガーリー、[[1494年]] - 1572年)が描いたセリム2世の肖像画は、セリムの人物像を写実的に描写したものとして評価されている<ref name="chuko180">永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、180頁</ref>。狩猟中のセリムを描いた絵には、太った体とアルコール中毒者であることを思わせる赤く酒焼けした顔が表現されている<ref>クロー『スレイマン大帝とその時代』、363,367-368頁</ref><ref>ビタール『オスマン帝国の栄光』、105頁</ref>。同時に父スレイマンの肖像画とは対照的な豪奢な衣装<ref name="cr367"/>、今にも動き出しそうな右手がニギャーリーの技術を示し、セリムの威厳と繊細さを表現している<ref name="chuko180"/><ref>クロー『スレイマン大帝とその時代』、368頁</ref>。

== 脚注 ==
{{Reflist}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
== 参考文献 ==
* [[鈴木董]]『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』(講談社現代新書, [[講談社]], 1992年4月)
* 永田雄三、羽田正『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15, [[中央公論新社|中央公論社]], 1998年1月)
* 林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(興亡の世界史10, 講談社, 2008年10月)
* N.アクシト『トルコ 2』(永田雄三編訳, 世界の教科書=歴史, [[ほるぷ出版]], 1981年11月)
* テレーズ・ビタール『オスマン帝国の栄光』(鈴木董監修, 富樫瓔子訳, 「知の再発見」双書51, [[創元社]], 1995年11月)
* アンドレ・クロー『スレイマン大帝とその時代』(濱田正美訳, イスラーム文化叢書2, 法政大学出版局, 2000年9月)
* ロベール・マントラン『改訳 トルコ史』(小山皓一郎訳, 文庫クセジュ, [[白水社]], 1982年7月)
* {{1911|wstitle=Selim|volume=24|page=606-607}}

== 翻訳元記事参考文献 ==
* Finkel, Caroline, ''Osman's Dream'', Basic Books, 2005.

== 関連項目 ==
{{Commonscat|Selim II}}
* [[オスマン帝国]]
* [[オスマン帝国の君主]]
* [[セリミエ・モスク]]
* [[オセロー]] - 1570年から1571年にかけてのオスマン海軍のキプロス島遠征が物語の舞台となっている。

{{オスマン帝国皇帝}}

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[[zh:塞利姆二世]]

2023年12月24日 (日) 01:34時点における最新版

セリム2世
سليم ثانى
オスマン皇帝
セリム2世
在位 1566年9月7日 - 1574年12月12日
戴冠式 1566年9月7日

出生 1524年5月28日
オスマン帝国イスタンブール
死去 1574年12月12日
オスマン帝国イスタンブール
配偶者 ヌール・バヌなど
子女 ムラトなど
家名 オスマン家
王朝 オスマン朝
父親 スレイマン1世
母親 ヒュッレム・ハセキ・スルタン
宗教 イスラム教スンナ派
サイン
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セリム2世トルコ語: II.Selim, 1524年5月28日 - 1574年12月12日)は、オスマン帝国の第11代皇帝スルタン)(在位1566年 - 1574年)。

軍事活動への関心を持たずに大臣たちに権限を委ねた最初のスルタンであり、もっぱら放蕩と飲酒に耽っていた[1]。そのため、「酒飲み」「酔っ払い」(Sarhoş Selim)の渾名で呼ばれる[1]

父のスレイマン1世と比較して不肖・凡庸と評されるが[1][2][3]、一方で大宰相を中心とした官人による統治システムに適した人物とも評価される[4]。また、詩人としての一面も持ち合わせていた[5]

生涯

[編集]

幼年期

[編集]

オスマン帝国の皇帝スレイマン1世と寵妃ヒュッレム・ハセキ・スルタン(ロクセラーナ)の子として、1524年5月28日にイスタンブールコンスタンティノープル)で誕生する[6][7]

父スレイマンの存命中はコンヤを任地とし[8]1545年ヴェネツィア貴族の家系に連なるチェチーリア・ヴェニエル=バッフォ(ヌール・バヌ)を妻に迎える[9]。1554年のペルシャ遠征では、アナトリア出身の兵士で構成された右翼軍の指揮官を務めた[10]

後継者争い

[編集]

1530年代より、オスマン宮廷内ではスレイマンの後継者の地位を巡る暗闘が起こり、スレイマン1世の寵妃ロクセラーナは自分の息子を後継者に据えるため、皇子ムスタファに対して策謀を巡らせていた[11]1553年にムスタファが処刑されると、セリムとバヤズィトの兄弟がスレイマンの後継者候補として残った[12]。セリムはイェニチェリ、バヤズィトはティマールの保有者と農民から支持を受けていた[13]。ロクセラーナは怠惰で酒飲みのセリムよりも有能なバヤズィトを後継者にと考えていたと思われるが、2人が決裂して骨肉の争いが起きないように配慮していた[13]1558年にロクセラーナが没すると、セリムとバヤズィトは互いの側近を加えて政争を開始する[13]

セリムの家庭教師を務めていたララ・ムスタファ・パシャの偽書を使った策略によって、バヤズィトはスレイマンから疎まれるようになる[12][14]。スレイマンはセリムの任地をコンヤからキュタヒヤに変え、バヤズィトをアマスィヤへと更迭した[14]1559年にバヤズィトはアマスィヤへの異動を拒んで挙兵し、テュルクマンとティマールの保有者を中心とする20,000の軍隊がバヤズィトの下に集まった[15]。しかし、大宰相ソコルル・メフメト・パシャの率いるイェニチェリ、スィパーヒー、砲兵隊がスレイマンからセリムの元に派遣され、コンヤ近郊の戦闘で数で優位に立つセリムがバヤズィトに勝利する[15]サファヴィー朝に亡命したバヤズィトと彼の子たちがスレイマンとセリムの要請によって処刑されると、父に反抗する姿勢を取らなかったセリムが最後の後継者として生き残った[16]

1566年9月にスレイマンがハンガリー遠征(スィゲトヴァール包囲戦)中に陣没したとき、軍規の維持のためスレイマンの死は秘匿され、ソコルル・メフメト・パシャとごく一部の側近を除いてスレイマンの死を知る者はいなかった[17]。ソコルルは芝居を打ってスレイマンが生きているように見せかけるとともに[17]、セリムに書簡を送ってハンガリー遠征軍に合流するよう指示をした[18]。セリムはキュタヒヤを発ち、ベオグラード近郊で遠征軍と合流したときに初めてスレイマンの死が明らかにされた[19]。スレイマンの死の直後から兵士たちは下賜金を要求して示威行動を行い[20]、即位前の継承戦で資金を使い果たしていたセリムは姉のミフリマー・スルタンから50,000ドゥカートの借金をして賞与を補った[21]。セリムがイスタンブールに入城した後も兵士たちの要求は続くが[20][22]、ソコルルが数人のイェニチェリを斬首して騒ぎはようやく収まった[20]

即位後

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シャルル9世に与えたカピチュレーション
ソコルル・メフメト・パシャ

セリムは即位後一度も親征を行わず、イスタンブールのトプカプ宮殿エディルネの狩場で日々を過ごした[4]。セリムの在位中は、ボスニア出身の大宰相ソコルル・メフメト・パシャがスレイマンの晩年から引き続いて国事の大部分を担った。

1566年にジェノヴァが領有するキオス島がオスマン帝国の支配下に入る。しかし、同1566年にイエメンシーア派の一派であるザイド派の指導者が反乱を起こし、反乱は長期に及んだ[23]

1568年2月17日にイスタンブールで神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世と和平条約が締結され、マクシミリアン2世が毎年30,000ドゥカートの「貢納」を支払い、モルダヴィアワラキアにおけるオスマン帝国の宗主権を認めさせた。和平の期間は8年間であったが、オスマン帝国と神聖ローマ帝国の友好関係は16世紀末まで保たれた[22]。また、講和後にオスマン帝国の領域外に取り残されたトルコ人を国内に移住させる運動が行われた[24]1569年に、セリムはフランスシャルル9世カピチュレーションを授与する。カピチュレーションによってフランスの臣民にかけられる関税は5%に制限され、オスマン領内に駐在するフランス大使・領事に保護が与えられた[25]。従来スレイマンがフランス王フランソワ1世に授与したと考えられていたカピチュレーションは、1559年にフランソワ2世に授与されたものだとする説が近年有力になっている[26]

しかし、北方のロシアとの関係は順調なものではなかった。オスマン帝国とロシアの最初の邂逅は、後に訪れる災厄の前兆として現れる。オスマン宮廷でヴォルガ川ドン川を結ぶ運河の建造が計画され[27]、1569年の夏にイェニチェリと騎兵隊からなる大部隊によってアストラハンの包囲が開始される。包囲と同時に運河の工事が開始され、ドン川の河口部に位置するアゾフにオスマン艦隊が集結した。しかし、アストラハンの包囲は守備隊の反撃によって失敗した。運河の工員は15,000人からなるロシア軍の救援隊の攻撃を受けて散り散りになり、工員を保護するためにクリミアの軍隊が派遣された。さらに、アゾフに集結した艦隊は嵐によって壊滅した[1]1570年の初頭にロシア皇帝イヴァン4世から派遣された大使がイスタンブールに到着し、オスマン帝国とロシアの間に和約が締結される。

キプロス遠征

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セリムの治世には、ヴェネツィアによるオスマン船舶襲撃の拠点となっていたキプロス島の遠征が計画される[28]。キプロスはアナトリア・シリアエジプトを結ぶ海路の維持に欠かせない要衝であり、ヴェネツィアはキプロスを保持するために毎年10,000ドゥカートをオスマン帝国に支払っていた[28]。かねてよりオスマン帝国はキプロスの獲得を望んでおり[22]1570年春にセリムはソコルルの諌止を押し切ってキプロス遠征を決定した[29]。同年7月にオスマン艦隊はキプロス島を包囲し[22]1571年にララ・ムスタファ・パシャ指揮下の軍隊がキプロスを制圧した。キプロスがワインの産地であるため、キプロス遠征に際してイスタンブール市民は「セリムはワイン目当てでキプロス遠征を始めたのだろう」と噂し合った[30]

キプロス島の陥落はキリスト教世界に衝撃を与え、ローマ教皇ピウス5世の提唱によってカトリック教国からなる連合軍が結成された[22]1571年10月7日にオスマン艦隊はレパントの海戦でカトリック教国の連合軍に敗北する。

レパントの海戦後

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レパントの海戦

戦後、ソコルルはヴェネツィアとの戦いに備えて、翌年の春までに艦隊を再建することを命じた[28][31]。資金を不安視する大提督クルチ・アリー・パシャ(ウルチ・アリー・パシャ)、レパントの戦いがオスマン帝国に与えた打撃を探ろうとするヴェネツィアの使者らに対して、ソコルルは余裕を示して資金が潤沢であり、オスマンの被害は微少であると答えた[28]1572年6月に再建されたオスマン海軍は250隻からなる艦隊を地中海に出撃させ[31][32]、またヴェネツィアはオスマンとの戦争の継続に積極的な姿勢を示さなかった[33]1573年3月にフランスの仲介によってオスマンとヴェネツィアは講和し、オスマンのキプロス島保持、ヴェネツィアのオスマンへの賠償金の支払い、ダルマティア地方の情勢を維持することが取り決められ、ヴェネツィアにカピチュレーションが授与された[33]

1574年にクルチ・アリー・パシャとイエメンの征服者コジャ・シナン・パシャ率いるオスマン艦隊がスペインの支配下に置かれていたチュニジアに派遣され、8月にチュニジアを奪還した。

生涯の最期

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晩年、セリムはワインを1瓶飲み干した後にトプカプ宮殿の新築された浴場に行き、濡れたタイルで滑って頭を打ち付けた[34] 。事故から11日後の1574年12月12日にセリムは没した[34][35]。セリムの死により、ソコルルが計画していたヴェネツィア攻撃の計画は中断される[1]。跡を子のムラト3世が継いだ。

オスマン帝国衰退の兆候

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後世の西欧の歴史家はレパントの海戦に強い関心を示し、オスマン帝国の没落はこの戦闘から始まったと主張することもあった[36]スコットランドのイスラム史研究者であるキンロス卿パトリック・バルフォア英語版は自著"The Seeds of Decline"において、レパントの敗戦の後で艦隊の立て直しに要した多額の支出がオスマン帝国の緩やかな衰退の始まりになったと考察した。しかし、レパントの敗戦はオスマン海軍の人材に打撃を与えたものの、帝国が衰退する原因になったとは断言できないと述べる研究者も存在する[37]

肖像画

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ニギャーリーの描いた肖像画

オスマン帝国の画家ニギャーリー(ニガーリー、1494年 - 1572年)が描いたセリム2世の肖像画は、セリムの人物像を写実的に描写したものとして評価されている[38]。狩猟中のセリムを描いた絵には、太った体とアルコール中毒者であることを思わせる赤く酒焼けした顔が表現されている[39][40]。同時に父スレイマンの肖像画とは対照的な豪奢な衣装[5]、今にも動き出しそうな右手がニギャーリーの技術を示し、セリムの威厳と繊細さを表現している[38][41]

脚注

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  1. ^ a b c d e “Selim”.Encyclopadia Britannica (11 ed.)
  2. ^ ビタール『オスマン帝国の栄光』、49頁
  3. ^ マントラン『改訳 トルコ史』、75頁
  4. ^ a b 林『オスマン帝国500年の平和』、172頁
  5. ^ a b クロー『スレイマン大帝とその時代』、367頁
  6. ^ Necdet Sakaoğlu (1993/94a): "İstanbul'un adları" ["The names of Istanbul"]. In: 'Dünden bugüne İstanbul ansiklopedisi', ed. Türkiye Kültür Bakanlığı, Istanbul.
  7. ^ "Istanbul", in Encyclopedia of Islam.
  8. ^ 林『オスマン帝国500年の平和』、165頁
  9. ^ Bernard Lewis, The Muslim discovery of Europe, W.W. Norton & Company, Inc., 2001, p. 192.
  10. ^ クロー『スレイマン大帝とその時代』、214頁
  11. ^ 鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、159-160頁
  12. ^ a b 鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、169頁
  13. ^ a b c クロー『スレイマン大帝とその時代』、219頁
  14. ^ a b クロー『スレイマン大帝とその時代』、220頁
  15. ^ a b クロー『スレイマン大帝とその時代』、220-221頁
  16. ^ 林『オスマン帝国500年の平和』、167頁
  17. ^ a b クロー『スレイマン大帝とその時代』、243-244頁
  18. ^ 林『オスマン帝国500年の平和』、170頁
  19. ^ クロー『スレイマン大帝とその時代』、244頁
  20. ^ a b c クロー『スレイマン大帝とその時代』、245頁
  21. ^ 林『オスマン帝国500年の平和』、171頁
  22. ^ a b c d e マントラン『改訳 トルコ史』、76頁
  23. ^ 林『オスマン帝国500年の平和』、174頁
  24. ^ アクシト『トルコ 2』、120頁
  25. ^ ビタール『オスマン帝国の栄光』、150頁
  26. ^ 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、144頁
  27. ^ 林『オスマン帝国500年の平和』、175頁
  28. ^ a b c d アクシト『トルコ 2』、121頁
  29. ^ ビタール『オスマン帝国の栄光』、50頁
  30. ^ 澁澤幸子『キプロス島歴史散歩』(新潮選書, 新潮社, 2005年5月)、62頁
  31. ^ a b 鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、238頁
  32. ^ アクシト『トルコ 2』、121-122頁
  33. ^ a b マントラン『改訳 トルコ史』、77頁
  34. ^ a b クロー『スレイマン大帝とその時代』、459頁
  35. ^ Patrick Balfour Kinross, Ottoman Centuries: The Rise and Fall of the Turkish Empire (1977), p. 273
  36. ^ 鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、236頁
  37. ^ 鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、239頁
  38. ^ a b 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、180頁
  39. ^ クロー『スレイマン大帝とその時代』、363,367-368頁
  40. ^ ビタール『オスマン帝国の栄光』、105頁
  41. ^ クロー『スレイマン大帝とその時代』、368頁

注釈

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参考文献

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  • 鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』(講談社現代新書, 講談社, 1992年4月)
  • 永田雄三、羽田正『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15, 中央公論社, 1998年1月)
  • 林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(興亡の世界史10, 講談社, 2008年10月)
  • N.アクシト『トルコ 2』(永田雄三編訳, 世界の教科書=歴史, ほるぷ出版, 1981年11月)
  • テレーズ・ビタール『オスマン帝国の栄光』(鈴木董監修, 富樫瓔子訳, 「知の再発見」双書51, 創元社, 1995年11月)
  • アンドレ・クロー『スレイマン大帝とその時代』(濱田正美訳, イスラーム文化叢書2, 法政大学出版局, 2000年9月)
  • ロベール・マントラン『改訳 トルコ史』(小山皓一郎訳, 文庫クセジュ, 白水社, 1982年7月)
  •  この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Selim". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 24 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 606-607.

翻訳元記事参考文献

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  • Finkel, Caroline, Osman's Dream, Basic Books, 2005.

関連項目

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