「竈山神社」の版間の差分
m →参考文献: 関連図書に訂正 |
編集の要約なし |
||
(15人の利用者による、間の47版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{神社 |
{{神社 |
||
名称=竈山神社 |
|名称 = 竈山神社 |
||
画像=[[File:Kamayama |
|画像 = [[File:Kamayama-jinja haiden.JPG|280px]]<br />拝殿 |
||
所在地=和歌山県和歌山市和田438 |
|所在地 = [[和歌山県]][[和歌山市]]和田438 |
||
位置={{ |
|位置 = {{Coord|34|12|3.6|N|135|12|16|E|display=inline,title}} |
||
祭神=彦五瀬命 |
|祭神 = [[彦五瀬命]] |
||
|神体 = |
|||
社格=式内社(小)・官幣大社・別表神社| |
|||
|社格 = [[式内社]](小)<br />旧[[官幣大社]]<br />[[別表神社]] |
|||
札所等=[[神仏霊場巡拝の道]]第8番(和歌山第8番)| |
|||
|創建 = 不詳 |
|||
例祭=[[10月13日]]}} |
|||
|本殿 = [[春日造]] |
|||
[[File:Kamayama-jinja Shinmon.jpg|230px|thumb|right|神門]] |
|||
|別名 = 釜山神社 |
|||
'''竈山神社'''(かまやまじんじゃ)は、[[和歌山県]][[和歌山市]]内に鎮座する[[神社]]である。[[式内社]]で、旧[[近代社格制度|社格]]は[[官幣大社]]。'''釜山神社'''と表記されることもあった。 |
|||
|札所等 = [[神仏霊場巡拝の道]]第8番(和歌山第8番) |
|||
|例祭 = [[10月13日]] |
|||
|神事 = |
|||
|地図={{Location map|Japan Wakayama|label=竈山神社|coordinates= |
|||
{{coord2|34|12|3.6|N|135|12|16|E}}|position=bottom|width=200|mark=Shinto torii icon vermillion.svg|marksize=15|float=center|caption=}} |
|||
{{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|zoom=11|marker=religious-shinto|frame-align=center|frame-width=200|coord={{coord|34|12|3.6|N|135|12|16|E}}}} |
|||
}} |
|||
[[File:Kamayama-jinja otorii.JPG|thumb|220px|right|{{center|大鳥居}}]] |
|||
'''竈山神社'''(かまやまじんじゃ、釜山神社)は、[[和歌山県]][[和歌山市]]にある[[神社]]。[[式内社]]、[[近代社格制度|旧社格]]は[[官幣大社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。 |
|||
== 概要 == |
|||
[[神武天皇]]の長兄である[[五瀬命|彦五瀬命]]を祀る。本殿の裏に彦五瀬命のものとされる[[天皇陵|墓]]がある。 |
|||
[[和歌山市]]南部、竈山の地に鎮座する。「竈山」とは『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』に見える地名で、両書では[[神武天皇]](初代)長兄の'''[[彦五瀬命]]'''(五瀬命)が竈山に葬られたという。当社はその彦五瀬命の神霊を祀る神社であり、本殿の背後には彦五瀬命の墓と伝える'''[[#竈山墓|竈山墓]]'''(かまやまのはか、宮内庁治定墓)がある。 |
|||
[[明治]]初期までは小さな社であったが、戦前の[[国家神道]]の発展に伴って最高の社格である官幣大社に位置づけられ、さらに社殿等が整備されて現在に至っている。また境外摂社として、式内社([[名神大社]])である[[静火神社]]を所管する。 |
|||
和歌山市内にある[[日前神宮・國懸神宮]]と竈山神社、[[伊太祁曽神社|伊太祁󠄀曽神社]]に参詣することを「[[三社参り]]」と言う。 |
|||
== 祭神 == |
|||
祭神は次の通り<ref name="神社庁">[http://wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=1052 竈山神社](和歌山県神社庁)。</ref>。 |
|||
; 主祭神 |
|||
:* '''[[彦五瀬命]]'''(ひこいつせのみこと) |
|||
:*: 「五瀬命」とも。[[ウガヤフキアエズ]]と[[タマヨリビメ (日向神話)|タマヨリビメ]]の間に生まれた長男(第1子)で、[[神武天皇]]の長兄。 |
|||
; 配祀神 |
|||
:* 左脇殿:彦五瀬命の兄弟神 |
|||
:** [[稲飯命]](いないのみこと) - 『[[日本書紀]]』本文では第2子(一書で第3子)。 |
|||
:** [[三毛入野命|御毛入沼命]](みけいりぬのみこと) - 『日本書紀』本文では第3子(一書で第2子)。 |
|||
:** 神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと、初代[[神武天皇]]) - 末弟(第4子)。 |
|||
:* 右脇殿:神武東征に従軍した随身 |
|||
:** [[高倉下|高倉下命]](たかくらじのみこと) - 熊野の土豪。 |
|||
:** [[ウマシマジ|可美眞手命]](うましまでのみこと) - [[物部氏]]祖。 |
|||
:** [[天日方竒日方命]](あめのひがたくしびがたのみこと) - [[大神氏]]祖。 |
|||
:** 天種子命(あめのたねこのみこと) - [[中臣氏]]祖。 |
|||
:** 天富命(あめのとみのみこと) - [[忌部氏]]祖。 |
|||
:** [[道臣命]](みちのおみのみこと) - [[大伴氏]]祖。 |
|||
:** 大久米命(おおくめのみこと) - [[久米氏]]祖。 |
|||
:** [[椎根津彦|椎根津彦命]](しいねつひこのみこと) - 倭氏祖。 |
|||
:** [[八咫烏|頭八咫烏命]](やたがらすのみこと) - [[賀茂県主氏|賀茂氏]]祖。 |
|||
<div class="NavFrame" style="width:50%"> |
|||
<div class="NavHead" style="text-align:left;">祭神関係略系図</div> |
|||
<div class="NavContent" style="text-align:left;font-size:85%"> |
|||
'''祭神関係略系図''' |
|||
{{familytree/start|style=font-size:100%}} |
|||
{{familytree|border=0|||01|y|02| 01=[[ウガヤフキアエズ|鸕鶿草葺不合尊]]|02=[[タマヨリビメ (日向神話)|{{color|#FC4E6B|玉依姫}}]]}} |
|||
{{familytree|border=0||,|-|-|v|^|-|v|-|-|.| }} |
|||
{{familytree|border=0|01|02|03|04| 01='''[[彦五瀬命]]'''|02=[[稲飯命]]|03=[[三毛入野命|御毛入沼命]]|04=神日本磐余彦命<br />(初代[[神武天皇]])}} |
|||
{{familytree|border=0|||||||||||!| }} |
|||
{{familytree|border=0||||||||||01| 01=[[[皇室|天皇家]]]}} |
|||
{{familytree/end}} |
|||
</div> |
|||
</div>{{clear}} |
|||
== 歴史 == |
== 歴史 == |
||
=== 創建 === |
|||
彦五瀬命は神武天皇ら弟たちとともに[[神武東征|東征]]に向かったが、難波の白肩津での[[長髄彦]]との戦闘で負傷した。太陽に向って戦うのは良くないとして、東から回り込むために一行は南下したが、その傷が元で、紀国の男之水門に着いたところで彦五瀬命は亡くなった。紀伊国竈山に墓が作られたと『[[古事記]]』にある。『[[紀伊続風土記]]』によれば、当所がその竈山の地であり、墓が作られてすぐに、側に神社が作られたとある。 |
|||
[[File:Emperor Jimmu.jpg|thumb|150px|right|{{center|[[神武天皇]]}}<small>初代天皇で、彦五瀬命の末弟にあたる。</small>]] |
|||
[[File:Itsuse no Mikoto.jpg|thumb|160px|right|{{center|[[彦五瀬命]](五瀬命)}}<small>『[[前賢故実]]』より。</small>]] |
|||
祭神の[[彦五瀬命]]は[[神武天皇]](初代)の長兄にあたる。『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』によれば、[[神武東征|神武天皇の東征]]の際に行軍した彦五瀬命は、孔舎衛坂(くさえざか)<ref group="注">伝承地は[[大阪府]][[東大阪市]]日下町。山中に碑が建てられている({{Coord|34|41|49.51|N|135|39|40.62|E|region:JP-27_type:landmark|name=五瀬命負傷碑(彦五瀬命負傷伝承地)}})。</ref>で[[長髄彦]]の軍との戦いで流矢にあたって負傷、その後雄水門(おのみなと、男之水門)<ref group="注">伝承地は和歌山市小野町の[[水門吹上神社]]({{Coord|34|13|56.08|N|135|9|53.68|E|region:JP-27_type:landmark|name=水門吹上神社・男水門顕彰碑(彦五瀬命崩御の雄水門伝承地)}})。別の伝承に大阪府[[泉南市]]男里({{Coord|34|22|13.00|N|135|15|14.52|E|region:JP-27_type:landmark|name=雄水門顕彰碑(彦五瀬命崩御の雄水門伝承地)}})。</ref>で崩御、のち竈山に葬られたという{{Sfn|竈山神社・静火神社(神々)|1986年|p=316-318}}<ref group="注">当地の伝説では、彦五瀬命は竈山南西の吉原まで来て崩御したという {{Harv|竈山神社・静火神社(神々)|1986年|p=316-318}}。</ref>。 |
|||
この彦五瀬命の墓は、現在は[[宮内庁]]によって竈山神社後背にある古墳「竈山墓(かまやまのはか)」に治定されている{{Sfn|竈山神社(平凡社)|1983年|p=375-376}}。[[天正]]の兵乱で文書が散逸したため竈山神社・墓の由緒は明らかでないが、『[[紀伊続風土記]]』では当地が「竈山墓」にあたるとし、墓の造営後直ちに神霊を奉斎したがために墓と祠が一所にあるとしている{{Sfn|竈山神社(平凡社)|1983年|p=375-376}}{{Sfn|竈山神社・静火神社(神々)|1986年|p=316-318}}。 |
|||
[[延喜式神名帳]]では「紀伊国名草郡 竈山神社」と記載され、小社に列している。 |
|||
=== 概史 === |
|||
「釜山神社神主職宛行状」([[日前宮]]文書)によれば、[[永徳]]元年([[1381年]])、[[紀国造]]家によって鵜飼新五郎が神主に任ぜられた。以降、鵜飼家が神職を世襲していたと見られる。 |
|||
[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])成立の『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]では[[紀伊国]][[名草郡]]に「竈山神社」と記載され[[式内社]]に列しているほか、『[[紀伊国神名帳]]』では「従四位上 竈山神」と記載されている{{Sfn|竈山神社(平凡社)|1983年|p=375-376}}。また『延喜式』諸陵寮では「竈山墓」の記載も見える([[#竈山墓|後述]])。 |
|||
[[永徳]]元年([[1381年]])の[[日前神宮・國懸神宮|日前宮]]文書では、鵜飼新五郎の[[紀伊国造|紀国造家]]からの神主補任の記載があり、以降[[中世]]を通じて鵜飼家が神職を世襲していたとされる{{Sfn|竈山神社(平凡社)|1983年|p=375-376}}。 |
|||
[[天正]]13年([[1585年]])、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の紀州根来衆攻めにより社宝・古文書を焼失し、社領も奪われて荒廃した。[[慶長]]5年([[1600年]])、紀伊国に入国した[[浅野幸長]]が小祠を再建し、[[寛文]]9年([[1669年]])、[[徳川頼宣]]が社殿が再建した。しかし、[[江戸時代]]を通して[[寺社奉行]]の支配下に置かれ、[[氏子]]も社領もなく衰微していた。 |
|||
[[天正]]13年([[1585年]])の[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]による[[紀州征伐]]によって社宝・古文書を焼失、社領の神田8町8段も没収されたという{{Sfn|竈山神社(平凡社)|1983年|p=375-376}}。[[慶長]]5年([[1600年]])に紀伊国に入った[[浅野幸長]]によって小祠が再建され、[[寛文]]9年([[1669年]])に初代[[紀州藩]]主・[[徳川頼宣]]によって社殿が再建された{{Sfn|竈山神社(平凡社)|1983年|p=375-376}}。しかし[[江戸時代]]を通じて[[寺社奉行]]の支配下に置かれたため、[[氏子]]・社領なく衰微したという{{Sfn|竈山神社(平凡社)|1983年|p=375-376}}。 |
|||
明治に入り、[[宮内省]]管轄の彦五瀬命墓と、竈山神社は正式に区分され、[[近代社格制度]]のもとで[[明治]]14年([[1881年]])に村社に列格したが、神武天皇の兄を祀るという由緒をもって社殿が整備され、明治18年([[1885年]])には官幣中社に、[[大正]]4年([[1915年]])にはついに官幣大社に進むという異例の昇格をした。村社から官幣大社まで昇格したのは当神社が唯一の例である。現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]となっている。 |
|||
[[1873年]]([[明治]]6年)に[[近代社格制度]]において[[村社]]に列した。その後、[[1885年]](明治18年)4月22日に[[官幣中社]]、[[1915年]]([[大正]]4年)11月10日に[[官幣大社]]に昇格した{{Sfn|竈山神社(式内社)|1987年|p=80-81}}。村社から官幣大社まで昇格したのは、竈山神社が唯一の例である。[[1938年]]([[昭和]]13年)頃、現在の規模の社殿が整えられた{{Sfn|竈山神社・静火神社(神々)|1986年|p=316-318}}。 |
|||
== 主な祭礼 == |
|||
*[[6月30日]] 夏越大祓式 |
|||
*[[10月13日]] 例祭 |
|||
[[1948年]]([[昭和]]23年)に[[神社本庁]]の[[別表神社]]に加列されている。 |
|||
== 施設 == |
|||
*境外[[摂社]] 静火神社(しづひじんじゃ) -- 式内[[名神大社]]。静火大神を祀る(『鵜飼氏文書』では火結神としている)。所在地は和歌山市和田字前山855({{ウィキ座標度分秒|34|12|10|N|135|12|29|E|}})。明治6年([[1873年]])に村社に列格したが、全国的に[[神社合祀]]の嵐が吹き荒れた明治42年([[1909年]])、竈山神社末社・稲荷神社に合祀された。附近住民の希望により昭和25年([[1950年]])に分祀され、元の鎮座地に社殿を造営して遷座した。 |
|||
== |
=== 神階 === |
||
* 六国史以後 |
|||
{{commons|Category:Kamayama-jinja}} |
|||
** 従四位上 (『[[紀伊国神名帳]]』) - 表記は「竈山神」。 |
|||
;最寄駅 |
|||
:[[和歌山電鐵貴志川線]] [[竈山駅]]下車、徒歩10分。 |
|||
== |
=== 神職 === |
||
神職は明治まで代々'''鵜飼家'''(うがいけ)が世襲した。鵜飼家は、『[[古事記]]』<ref group="原">『古事記』神武天皇記。</ref>において吉野川([[紀の川]])で魚を取ったと見える人物・贄持之子(苞苴擔之子、阿陀之鵜飼の祖・阿太養鸕部の祖)に始まるという{{Sfn|竈山神社(式内社)|1987年|p=80-81}}。古くは[[永徳]]元年([[1381年]])の[[日前神宮・國懸神宮|日前宮]]文書で、鵜飼新五郎の神主補任の記載が見える{{Sfn|竈山神社(平凡社)|1983年|p=375-376}}。鵜飼家文書によれば[[弘治 (日本)|弘治]]年間([[1555年]]-[[1557年]])の鵜養半太夫<sub>ママ</sub>まで79代を数えたという{{Sfn|竈山神社(平凡社)|1983年|p=375-376}}{{Sfn|竈山神社(式内社)|1987年|p=80-81}}。一族は官幣中社列格の際に禰宜を任じたが、数年で郷里を出たため91代で社家としては断絶した{{Sfn|竈山神社(式内社)|1987年|p=80-81}}。 |
|||
『延喜式』諸陵寮<ref group="原" name="諸陵寮"/>では竈山墓に守戸3烟があったと記すが、この3烟とは鵜飼・木野・笠野の墓守3家を指すという{{Sfn|竈山神社・静火神社(神々)|1986年|p=316-318}}。 |
|||
== 境内 == |
|||
[[File:Kamayama-jinja shaden.JPG|thumb|220px|right|{{center|奥に本殿、手前には境内社}}]] |
|||
境内の広さは34,979平方メートル(約3.5ヘクタール)<ref name="神社庁">[http://wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=1052 竈山神社](和歌山県神社庁)。</ref>。現在の社殿[[1939年]]は([[昭和]]14年)の造営{{Sfn|竈山神社(式内社)|1987年|p=80-81}}。現在は竈山墓の南側の丘上に鎮座するが、かつては東南約100メートルの地にあったという{{Sfn|竈山神社(式内社)|1987年|p=80-81}}{{Sfn|竈山神社・静火神社(神々)|1986年|p=316-318}}。 |
|||
* 本殿 - [[寛文]]9年([[1669年]])に[[徳川頼宣]]によって再建。[[春日造]]檜皮葺{{Sfn|竈山神社(式内社)|1987年|p=80-81}}。 |
|||
* 左脇殿 - 寛文9年(1669年)に徳川頼宣によって再建{{Sfn|竈山神社(式内社)|1987年|p=80-81}}。 |
|||
* 右脇殿 - 寛文9年(1669年)に徳川頼宣によって再建。 |
|||
* 幣殿 - 寛文9年(1669年)に徳川頼宣によって再建。 |
|||
* 拝殿 - 寛文9年(1669年)に徳川頼宣によって再建。 |
|||
* 西門 |
|||
* 神門 |
|||
* 社務所 |
|||
* 池 |
|||
<gallery> |
|||
File:Kamayama-jinja shinmon.JPG|神門 |
|||
File:Kamayama-jinja sandou.JPG|参道 |
|||
File:Kamayama-jinja torii.JPG|境内鳥居 |
|||
</gallery> |
|||
== 摂末社 == |
|||
[[File:Shizuhi-jinja.JPG|thumb|220px|right|{{center|[[静火神社]](境外社)}}]] |
|||
* 境内社 |
|||
** 合祀神社 |
|||
** 結神社 |
|||
** 子安神社 |
|||
** 青葉神社 |
|||
* 境外社 |
|||
** [[静火神社]] - 式内名神大社「静火神社」の後継社。 |
|||
<gallery> |
|||
File:Kamayama-jinja Aoba-jinja.JPG|青葉神社 |
|||
</gallery> |
|||
== 祭事 == |
|||
<div class="NavFrame" style="width:100%;"> |
|||
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">年間祭事一覧</div> |
|||
<div class="NavContent" style="text-align:left;"> |
|||
* 毎月 |
|||
** 月首祭 (1日) |
|||
** 雄叫祭(おたけびさい) (8日) |
|||
** 月次祭 (13日) |
|||
** 静火神社月次祭 (16日) |
|||
* 1月 |
|||
** 歳旦祭 (1月1日) |
|||
** 元始祭 (1月3日) |
|||
** 昭和天皇遥拝式 (1月7日) |
|||
** 古神札焼納祭(どんと焼き) (1月14日) |
|||
* 2月 |
|||
** 右脇殿祭 (2月2日) |
|||
** 節分祭 (立春前日) |
|||
** 紀元節祭 (2月11日) |
|||
** 祈年祭 (2月17日) |
|||
** 合祀神社初午祭 (新暦初午日) |
|||
* 3月 |
|||
** 結神社例祭 (3月16日) |
|||
** 春季皇霊殿遥拝式、春分祭 (春分の日) |
|||
* 4月 |
|||
** 神武天皇遥拝式 (4月3日) |
|||
** 春季祭、合祀神社春祭 (4月13日) |
|||
** 静火神社春祭 (4月16日) |
|||
** 昭和祭 (4月29日) |
|||
* 5月 |
|||
** '''雄叫祭'''(おたけびさい) (5月8日) - 祭神・彦五瀬命の命日と伝える。 |
|||
** 青葉神社例祭 (5月23日) |
|||
* 6月 |
|||
** 左脇殿祭 (6月23日) |
|||
** 夏越大祓式 (6月30日) |
|||
* 7月 |
|||
** 夏祭 (7月13日) |
|||
** 明治天皇遥拝式 (7月30日) |
|||
* 8月 |
|||
** 万世太平祭 (8月15日) |
|||
* 9月 |
|||
** 秋季皇霊殿遥拝式、秋分祭 (秋分の日) |
|||
* 10月 |
|||
** '''例祭'''、合祀神社例祭 (10月13日) |
|||
** 子安神社例祭 (10月16日) |
|||
** 神嘗祭遥拝式 (10月17日) |
|||
* 11月 |
|||
** 明治節祭 (11月3日) |
|||
** 新嘗祭(新穀感謝祭) (11月23日) |
|||
* 12月 |
|||
** 天長節祭 (12月23日) |
|||
** 大正天皇遥拝式 (12月25日) |
|||
** 師走大祓式、除夜祭 (12月31日) |
|||
</div></div> |
|||
== 登場作品 == |
|||
* [[本居宣長]]、[[寛政]]6年([[1794年]])の参詣時の歌<ref name="由緒書">神社由緒書。</ref> |
|||
{{Cquote|をたけびの かみよのみこゑ おもほへて あらしはげしき かまやまのまつ|20px||[[本居宣長]]}} |
|||
== 竈山墓 == |
|||
[[File:Kamayamano-haka-2.jpg|thumb|220px|right|{{center|彦五瀬命 竈山墓}}]] |
|||
'''竈山墓'''(かまやまのはか)は、竈山神社の本殿後背にある[[古墳]]({{Coord|34|12|4.97|N|135|12|14.93|E|region:JP-30_type:landmark|name=竈山墓(彦五瀬命墓)}})。実際の被葬者は明らかでないが、[[宮内庁]]により彦五瀬命の墓に治定されている<ref name="陵墓要覧">宮内省諸陵寮編[{{NDLDC|1237123/7}} 『陵墓要覧』](1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)7コマ。</ref>{{Sfn|竈山墓(国史)|1983年}}{{Sfn|竈山神社(平凡社)|1983年|p=375-376}}。宮内庁上の形式は[[円墳]]<ref name="陵墓要覧"/>。高さ約9メートルの独立丘上に位置し、墳丘は直径約6メートル、高さ約1メートルで、裾に護石を配する{{Sfn|竈山神社(平凡社)|1983年|p=375-376}}。 |
|||
『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』<ref group="原">『古事記』神武天皇記、『日本書紀』神武天皇紀。</ref>では、彦五瀬命は「紀国之竈山」または「紀伊国竈山」に葬られたと記載されている{{Sfn|竈山神社(平凡社)|1983年|p=375-376}}。『[[延喜式]]』[[諸陵寮]]<ref group="原" name="諸陵寮">『延喜式』諸陵寮 竈山墓条。 - [{{NDLDC|1273499/90}} 『延喜式 第4』](日本古典全集刊行会、昭和4年、国立国会図書館デジタルコレクション)90コマ参照。</ref>では「竈山墓」と記載され、紀伊国名草郡にあり、兆域(墓域)は東西1[[町 (単位)|町]]・南北2町で守戸3烟を付して遠墓としている{{Sfn|竈山神社(平凡社)|1983年|p=375-376}}。『延喜式』において紀伊国唯一の陵墓である{{Sfn|竈山神社(平凡社)|1983年|p=375-376}}。その後[[康和]]2年([[1100年]])の解状では、紀伊国等の陵墓は格式に規定されているにもかかわらず、国司によって兆域侵犯や陵戸収公が行われていると記している{{Sfn|竈山神社(平凡社)|1983年|p=375-376}}。 |
|||
上記の記録があるものの、その後竈山墓の所在地は不明となった。『[[紀伊続風土記]]』では[[寛文]]9年([[1669年]])に区域を定めて殺生を禁じたというが、これは神社の区域を定めたものであり、竈山墓の所在自体はなお不明であった{{Sfn|竈山神社(平凡社)|1983年|p=375-376}}。[[寛政]]6年([[1794年]])に[[本居宣長]]とともに竈山神社を参拝した[[本居大平]]は、所在不明の旨を「なぐさの浜づと」に記している{{Sfn|竈山神社(平凡社)|1983年|p=375-376}}。[[明治]]9年([[1876年]])に現在の古墳が「竈山墓」に治定され、明治14年(1881年)に修営された{{Sfn|竈山神社(式内社)|1987年|p=80-81}}。 |
|||
== 前後の札所 == |
|||
; [[神仏霊場巡拝の道]] |
|||
: 7 [[藤白神社]] - '''8 竈山神社''' - 9 [[根来寺]] |
|||
== 現地情報 == |
|||
'''所在地''' |
|||
* [[和歌山県]][[和歌山市]]和田438 |
|||
'''交通アクセス''' |
|||
* 鉄道:[[和歌山電鐵]](わかやま電鉄)[[和歌山電鐵貴志川線|貴志川線]] [[竈山駅]] (徒歩約10分) |
|||
== 脚注 == |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
'''注釈''' |
|||
{{reflist|group="注"|2}} |
|||
'''原典''' |
|||
{{reflist|group="原"|2}} |
|||
'''出典''' |
|||
{{reflist|2}} |
|||
== 参考文献 == |
|||
* 神社由緒書 |
|||
* 事典類 |
|||
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1983|chapter=|title=[[日本歴史地名大系]] 31 和歌山県の地名|publisher=[[平凡社]]|isbn=458249031X|ref=}} |
|||
*** {{Wikicite|reference=「竈山神社」|ref={{Harvid|竈山神社(平凡社)|1983年}}}}、{{Wikicite|reference=「志磨神社」|ref={{Harvid|志磨神社(平凡社)|1983年}}}}。 |
|||
** {{Cite book|和書|author=|year=|title=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=|ref=}} |
|||
*** {{Wikicite|reference=[[上田正昭]] 「五瀬命」|ref={{Harvid|五瀬命(国史)|1983年}}}}、{{Wikicite|reference=石田茂輔 「竈山墓」(五瀬命項目内)|ref={{Harvid|竈山墓(国史)|1983年}}}}、{{Wikicite|reference=[[鎌田純一]] 「竈山神社」|ref={{Harvid|竈山神社(国史)|1983年}}}}。 |
|||
* その他文献 |
|||
** {{Cite book|和書|editor=[[谷川健一]]編|author=丸山顕徳|year=1986|chapter=竈山神社・静火神社|title=日本の神々 -神社と聖地- 6 伊勢・志摩・伊賀・紀伊|publisher=[[白水社]]|isbn=456002216X|ref={{Harvid|竈山神社・静火神社(神々)|1986年}}}} |
|||
** {{Cite book|和書|editor=式内社研究会編|author=中野清|chapter=|year=1987|title=式内社調査報告 第23巻 南海道|publisher=[[皇學館大学]]出版部|page=|isbn=|ref={{Harvid|竈山神社(式内社)|1987年}}}} |
|||
== 関連文献 == |
|||
* 『[[古事類苑]]』 神宮司庁編、竈山神社項。 |
|||
** [{{NDLDC|1873551/648}} 『古事類苑 第9冊』](国立国会図書館デジタルコレクション)648-649コマ参照。 |
|||
* 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』[[神社新報]]社、1968年、21頁 |
* 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』[[神社新報]]社、1968年、21頁 |
||
* [[白井永二]]・土岐昌訓編集『神社辞典』[[東京堂出版]]、1979年、102頁 |
* [[白井永二]]・土岐昌訓編集『神社辞典』[[東京堂出版]]、1979年、102頁 |
||
== 関連項目 == |
|||
* [[彦五瀬命]] |
|||
== 外部リンク == |
|||
{{Commonscat|Kamayama-jinja}} |
|||
* [http://wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=1052 竈山神社] - 和歌山県神社庁 |
|||
* [http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/520103.html 静火神社] - 國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」 |
|||
{{神道 横}} |
|||
{{Normdaten}} |
|||
{{リダイレクトの所属カテゴリ |
|||
|redirect1=竈山墓 |
|||
|1-1=日本の陵墓 |
|||
|1-2=円墳 |
|||
}} |
|||
{{DEFAULTSORT:かまやましんしや}} |
{{DEFAULTSORT:かまやましんしや}} |
||
[[Category:和歌山市の神社]] |
[[Category:和歌山市の神社]] |
||
45行目: | 247行目: | ||
[[Category:官幣大社]] |
[[Category:官幣大社]] |
||
[[Category:別表神社]] |
[[Category:別表神社]] |
||
[[Category:神仏霊場巡拝の道]] |
|||
{{shinto-stub}} |
2024年9月28日 (土) 08:06時点における最新版
竈山神社 | |
---|---|
拝殿 | |
所在地 | 和歌山県和歌山市和田438 |
位置 | 北緯34度12分3.6秒 東経135度12分16秒 / 北緯34.201000度 東経135.20444度座標: 北緯34度12分3.6秒 東経135度12分16秒 / 北緯34.201000度 東経135.20444度 |
主祭神 | 彦五瀬命 |
社格等 |
式内社(小) 旧官幣大社 別表神社 |
創建 | 不詳 |
本殿の様式 | 春日造 |
別名 | 釜山神社 |
札所等 | 神仏霊場巡拝の道第8番(和歌山第8番) |
例祭 | 10月13日 |
地図 |
竈山神社(かまやまじんじゃ、釜山神社)は、和歌山県和歌山市にある神社。式内社、旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
概要
[編集]和歌山市南部、竈山の地に鎮座する。「竈山」とは『古事記』『日本書紀』に見える地名で、両書では神武天皇(初代)長兄の彦五瀬命(五瀬命)が竈山に葬られたという。当社はその彦五瀬命の神霊を祀る神社であり、本殿の背後には彦五瀬命の墓と伝える竈山墓(かまやまのはか、宮内庁治定墓)がある。
明治初期までは小さな社であったが、戦前の国家神道の発展に伴って最高の社格である官幣大社に位置づけられ、さらに社殿等が整備されて現在に至っている。また境外摂社として、式内社(名神大社)である静火神社を所管する。
和歌山市内にある日前神宮・國懸神宮と竈山神社、伊太祁󠄀曽神社に参詣することを「三社参り」と言う。
祭神
[編集]祭神は次の通り[1]。
- 配祀神
-
- 左脇殿:彦五瀬命の兄弟神
- 右脇殿:神武東征に従軍した随身
歴史
[編集]創建
[編集]祭神の彦五瀬命は神武天皇(初代)の長兄にあたる。『古事記』『日本書紀』によれば、神武天皇の東征の際に行軍した彦五瀬命は、孔舎衛坂(くさえざか)[注 1]で長髄彦の軍との戦いで流矢にあたって負傷、その後雄水門(おのみなと、男之水門)[注 2]で崩御、のち竈山に葬られたという[2][注 3]。
この彦五瀬命の墓は、現在は宮内庁によって竈山神社後背にある古墳「竈山墓(かまやまのはか)」に治定されている[3]。天正の兵乱で文書が散逸したため竈山神社・墓の由緒は明らかでないが、『紀伊続風土記』では当地が「竈山墓」にあたるとし、墓の造営後直ちに神霊を奉斎したがために墓と祠が一所にあるとしている[3][2]。
概史
[編集]延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では紀伊国名草郡に「竈山神社」と記載され式内社に列しているほか、『紀伊国神名帳』では「従四位上 竈山神」と記載されている[3]。また『延喜式』諸陵寮では「竈山墓」の記載も見える(後述)。
永徳元年(1381年)の日前宮文書では、鵜飼新五郎の紀国造家からの神主補任の記載があり、以降中世を通じて鵜飼家が神職を世襲していたとされる[3]。
天正13年(1585年)の羽柴秀吉による紀州征伐によって社宝・古文書を焼失、社領の神田8町8段も没収されたという[3]。慶長5年(1600年)に紀伊国に入った浅野幸長によって小祠が再建され、寛文9年(1669年)に初代紀州藩主・徳川頼宣によって社殿が再建された[3]。しかし江戸時代を通じて寺社奉行の支配下に置かれたため、氏子・社領なく衰微したという[3]。
1873年(明治6年)に近代社格制度において村社に列した。その後、1885年(明治18年)4月22日に官幣中社、1915年(大正4年)11月10日に官幣大社に昇格した[4]。村社から官幣大社まで昇格したのは、竈山神社が唯一の例である。1938年(昭和13年)頃、現在の規模の社殿が整えられた[2]。
1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。
神階
[編集]- 六国史以後
- 従四位上 (『紀伊国神名帳』) - 表記は「竈山神」。
神職
[編集]神職は明治まで代々鵜飼家(うがいけ)が世襲した。鵜飼家は、『古事記』[原 1]において吉野川(紀の川)で魚を取ったと見える人物・贄持之子(苞苴擔之子、阿陀之鵜飼の祖・阿太養鸕部の祖)に始まるという[4]。古くは永徳元年(1381年)の日前宮文書で、鵜飼新五郎の神主補任の記載が見える[3]。鵜飼家文書によれば弘治年間(1555年-1557年)の鵜養半太夫ママまで79代を数えたという[3][4]。一族は官幣中社列格の際に禰宜を任じたが、数年で郷里を出たため91代で社家としては断絶した[4]。
『延喜式』諸陵寮[原 2]では竈山墓に守戸3烟があったと記すが、この3烟とは鵜飼・木野・笠野の墓守3家を指すという[2]。
境内
[編集]境内の広さは34,979平方メートル(約3.5ヘクタール)[1]。現在の社殿1939年は(昭和14年)の造営[4]。現在は竈山墓の南側の丘上に鎮座するが、かつては東南約100メートルの地にあったという[4][2]。
- 本殿 - 寛文9年(1669年)に徳川頼宣によって再建。春日造檜皮葺[4]。
- 左脇殿 - 寛文9年(1669年)に徳川頼宣によって再建[4]。
- 右脇殿 - 寛文9年(1669年)に徳川頼宣によって再建。
- 幣殿 - 寛文9年(1669年)に徳川頼宣によって再建。
- 拝殿 - 寛文9年(1669年)に徳川頼宣によって再建。
- 西門
- 神門
- 社務所
- 池
-
神門
-
参道
-
境内鳥居
摂末社
[編集]- 境内社
- 合祀神社
- 結神社
- 子安神社
- 青葉神社
- 境外社
- 静火神社 - 式内名神大社「静火神社」の後継社。
-
青葉神社
祭事
[編集]- 毎月
- 月首祭 (1日)
- 雄叫祭(おたけびさい) (8日)
- 月次祭 (13日)
- 静火神社月次祭 (16日)
- 1月
- 歳旦祭 (1月1日)
- 元始祭 (1月3日)
- 昭和天皇遥拝式 (1月7日)
- 古神札焼納祭(どんと焼き) (1月14日)
- 2月
- 右脇殿祭 (2月2日)
- 節分祭 (立春前日)
- 紀元節祭 (2月11日)
- 祈年祭 (2月17日)
- 合祀神社初午祭 (新暦初午日)
- 3月
- 結神社例祭 (3月16日)
- 春季皇霊殿遥拝式、春分祭 (春分の日)
- 4月
- 神武天皇遥拝式 (4月3日)
- 春季祭、合祀神社春祭 (4月13日)
- 静火神社春祭 (4月16日)
- 昭和祭 (4月29日)
- 5月
- 雄叫祭(おたけびさい) (5月8日) - 祭神・彦五瀬命の命日と伝える。
- 青葉神社例祭 (5月23日)
- 6月
- 左脇殿祭 (6月23日)
- 夏越大祓式 (6月30日)
- 7月
- 夏祭 (7月13日)
- 明治天皇遥拝式 (7月30日)
- 8月
- 万世太平祭 (8月15日)
- 9月
- 秋季皇霊殿遥拝式、秋分祭 (秋分の日)
- 10月
- 例祭、合祀神社例祭 (10月13日)
- 子安神社例祭 (10月16日)
- 神嘗祭遥拝式 (10月17日)
- 11月
- 明治節祭 (11月3日)
- 新嘗祭(新穀感謝祭) (11月23日)
- 12月
- 天長節祭 (12月23日)
- 大正天皇遥拝式 (12月25日)
- 師走大祓式、除夜祭 (12月31日)
登場作品
[編集]「 | をたけびの かみよのみこゑ おもほへて あらしはげしき かまやまのまつ | 」 |
—本居宣長 |
竈山墓
[編集]竈山墓(かまやまのはか)は、竈山神社の本殿後背にある古墳(北緯34度12分4.97秒 東経135度12分14.93秒 / 北緯34.2013806度 東経135.2041472度)。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により彦五瀬命の墓に治定されている[6][7][3]。宮内庁上の形式は円墳[6]。高さ約9メートルの独立丘上に位置し、墳丘は直径約6メートル、高さ約1メートルで、裾に護石を配する[3]。
『古事記』『日本書紀』[原 3]では、彦五瀬命は「紀国之竈山」または「紀伊国竈山」に葬られたと記載されている[3]。『延喜式』諸陵寮[原 2]では「竈山墓」と記載され、紀伊国名草郡にあり、兆域(墓域)は東西1町・南北2町で守戸3烟を付して遠墓としている[3]。『延喜式』において紀伊国唯一の陵墓である[3]。その後康和2年(1100年)の解状では、紀伊国等の陵墓は格式に規定されているにもかかわらず、国司によって兆域侵犯や陵戸収公が行われていると記している[3]。
上記の記録があるものの、その後竈山墓の所在地は不明となった。『紀伊続風土記』では寛文9年(1669年)に区域を定めて殺生を禁じたというが、これは神社の区域を定めたものであり、竈山墓の所在自体はなお不明であった[3]。寛政6年(1794年)に本居宣長とともに竈山神社を参拝した本居大平は、所在不明の旨を「なぐさの浜づと」に記している[3]。明治9年(1876年)に現在の古墳が「竈山墓」に治定され、明治14年(1881年)に修営された[4]。
前後の札所
[編集]現地情報
[編集]所在地
交通アクセス
脚注
[編集]注釈
- ^ 伝承地は大阪府東大阪市日下町。山中に碑が建てられている(北緯34度41分49.51秒 東経135度39分40.62秒 / 北緯34.6970861度 東経135.6612833度)。
- ^ 伝承地は和歌山市小野町の水門吹上神社(北緯34度13分56.08秒 東経135度9分53.68秒 / 北緯34.2322444度 東経135.1649111度)。別の伝承に大阪府泉南市男里(北緯34度22分13.00秒 東経135度15分14.52秒 / 北緯34.3702778度 東経135.2540333度)。
- ^ 当地の伝説では、彦五瀬命は竈山南西の吉原まで来て崩御したという (竈山神社・静火神社(神々) & 1986年, p. 316-318)。
原典
出典
参考文献
[編集]- 神社由緒書
- 事典類
- その他文献
- 丸山顕徳 著「竈山神社・静火神社」、谷川健一編 編『日本の神々 -神社と聖地- 6 伊勢・志摩・伊賀・紀伊』白水社、1986年。ISBN 456002216X。
- 中野清 著、式内社研究会編 編『式内社調査報告 第23巻 南海道』皇學館大学出版部、1987年。
関連文献
[編集]- 『古事類苑』 神宮司庁編、竈山神社項。
- 『古事類苑 第9冊』(国立国会図書館デジタルコレクション)648-649コマ参照。
- 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、21頁
- 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』東京堂出版、1979年、102頁