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「東慶寺」の版間の差分

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文化財 = 木造聖観音立像・初音蒔絵火取母・葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱(重文)|
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'''東慶寺'''(とうけいじ)は、[[神奈川県]][[鎌倉市]]山ノ内にある[[臨済宗円覚寺派]]の寺院である。山号は松岡山、寺号は詳しくは東慶総持禅寺と称する。本尊[[釈迦如来]]、開基(創立者)は[[北条貞時]]、開山(初代住職)は[[覚山尼]](かくさんに)である。
'''東慶寺'''(とうけいじ)は、[[神奈川県]][[鎌倉市]]山ノ内にある[[臨済宗円覚寺派]]の寺院である。山号は松岡山、寺号は東慶総持禅寺である。寺伝では開基は[[北条貞時]]、[[開山 (仏教)|開山]]は[[覚山尼]](かくさんに)と伝える。現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった。また江戸時代には[[群馬県]]の[[満徳寺]]と共に幕府寺社奉行も承認する[[縁切寺]]として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていた


==歴史==
== 歴史 ==
=== 鎌倉時代 ===
[[鎌倉幕府]]第9代[[執権]]・[[北条貞時]]が、父・[[北条時宗]]死去の翌[[弘安]]8年([[1285年]])、[[覚山尼]]を開山として建立した寺である。覚山尼は、北条時宗の夫人であり、貞時の母にあたる人物で、時宗の死後、出家して尼となった。なお、当初は[[真言宗]]の寺であったものを覚山尼が臨済宗に改宗したとの別伝もある。
東慶寺に残る「相州鎌倉松岡過去帳」(以下過去帳と略)によれば、「開山潮音院覚山志道和尚」とある<ref>
[[#鎌倉市史・寺社編|鎌倉市史・寺社編]] p.341
</ref>。
覚山尼は秋田城介[[安達義景]]の娘で母は[[北条時房]]の娘。[[鎌倉幕府]]の8代[[執権]][[北条時宗]]の夫人であり9代執権[[北条貞時]]の母になる。時宗の臨終の際、[[無学祖元]]を導師として落髪(出家)したときに共に落髪付衣し、覚山志道大姉と安名した<ref>
[[#鎌倉市史・寺社編|鎌倉市史・寺社編]] p.341
</ref>。
寺伝によれば、[[北条時宗]]死去の翌年の1285年(弘安8年)に9代執権[[北条貞時]]を開基、[[覚山尼]]を開山として建立したとある<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.10
</ref>。
ただしそう伝える東慶寺の文書は江戸時代のものであり、東慶寺に関する鎌倉時代の古文書は残っていない。現存する古文書で覚山尼を東慶寺開山とするもっとも古いものは戦国時代[[天文 (元号)|天文]]頃の『五山記考異』である<ref>
[[#鎌倉市史・寺社編|鎌倉市史・寺社編]] p.341
</ref>。


鎌倉時代の東慶寺に関する確実な史料は古文書ではなく鐘の銘文である。
東慶寺は現在は男僧の寺であるが、[[明治]]36年([[1903年]])までは代々尼寺であり、[[尼五山]]の第二位の寺であった。[[後醍醐天皇]]の皇女用堂尼が5世住持として入寺してから当寺は地名をとって「松ヶ岡御所」と称せられ、格式の高さを誇った。[[江戸時代]]には、[[豊臣秀頼]]の娘で、[[徳川秀忠]]の養外孫にあたる[[天秀尼]]が20世住持として入寺している。
鎌倉幕府滅亡の前年1332年([[元徳]]4年)に東慶寺の大鐘が完成している<ref group="注">
この大鐘は現存するが東慶寺にはなく、静岡県韮山の本立寺にある。([[#鎌倉市史・寺社編|鎌倉市史・寺社編]] pp.342-343、[[#鎌倉市史・考古編|鎌倉市史・考古編]] pp.306-312))
</ref>。
その大鐘の檀那は北条時宗と覚山尼の間に生まれた[[北条貞時]]の妻・覚海円成尼である。覚海尼は覚山尼と同じ安達氏の出であり覚山尼の姪でもある。
その銘文には四世住持果庵了道尼の名がある。この住持の出身は不明であるが北条氏の俗縁にあたる人と見られている<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.37</ref><ref>
[[#鎌倉市史・寺社編|鎌倉市史・寺社編]] p.342
</ref>。
四世とあるので寺の開山を覚山尼とする伝承とも矛盾しない。
また、その銘文には住持比丘尼の他に、[[首座]](しゅそ)比丘尼、[[知事 (仏教)|都寺]](つうず)比丘尼の二名の名が見える。南宋の禅宗寺院においては首座は僧堂管領、都寺は監寺総括の役僧
<ref>[[#関口欣也1997|関口欣也1997]] pp.71-72</ref>
<ref>[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.38
</ref>
であるので、それらの「役」が実務を伴わない肩書きであったにせよ、この時点でそれなりの規模をもった寺であったことが判る。
このことから東慶寺は鎌倉時代からあり、北条得宗家所縁の尼寺であったことは確実とされる。


なお、「鎌倉物語」には頼朝の伯母の美濃局の創建で、覚山尼によって禅宗に改められたという伝があるが、鎌倉時代を通じてこれを証明する史料はなにもない<ref>
東慶寺は、近世を通じて[[群馬県]]の[[満徳寺]]と共に「[[縁切寺]]([[駆け込み寺]])」として知られていた。江戸時代、離婚請求権は夫の側にしか認められていなかったが、夫と縁を切りたい女性は、当寺で3年(のち2年)の間修行をすれば離婚が認められるという「縁切寺法」という制度があった。[[幕府]]公認の縁切寺として、江戸から多くの女性が東慶寺を目指した。ただし、女性が駆け込んできてもすぐには寺に入れず、まずは夫婦両者の言い分を聞いて、夫が[[離縁状]](いわゆる「三下り半」)を書くことに同意すれば、すぐに離婚が成立したという。また、実際には離婚に至らず、調停の結果、復縁するケースも多かったという。この制度は、女性からの離婚請求権が認められるようになる明治5年([[1872年]])まで続いた。
[[#鎌倉市史・寺社編|鎌倉市史・寺社編]] pp.340-341
</ref>。


=== 南北朝時代 ===
近代になって、中興の祖とされる[[釈宗演]]が寺観を復興した。釈の弟子にあたる[[鈴木大拙]]は禅を世界的に広めた功労者として著名で、寺に隣接して鈴木の収集した仏教書を収めた[[松ヶ岡文庫]]もある。
東慶寺の「過去帳」には、四世住持果庵了道尼のあと南北朝時代に「後醍醐天皇姫宮、入当山薙染受具、応永三丙子八月八日巳刻入寂」<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.39
</ref>、つまり[[後醍醐天皇]]の皇女用堂尼が五世住持となったとある。「由緒書」<ref>
[[#鎌倉市史・寺社編|鎌倉市史・寺社編]] p.344
</ref>
ではこの用堂尼以来「松岡御所」と称され「比丘尼御所同格紫衣寺なり」とする。
用堂尼は兄の[[護良親王]]の菩提を弔う為に東慶寺に入ったとされ、護良親王が殺された二階堂の地(当時東光寺、現鎌倉宮周辺)を東慶寺が領有していたのはその為という。護良親王の墓所・理智光寺等は少なくとも江戸時代には東慶寺が管理しており、明治時代の[[鎌倉宮]]創建に際してその土地を寄進している。
ただし東慶寺の「過去帳」および「由緒書」は江戸時代のものであり、それ以前に用堂尼を記した古文書は現存しない。


=== 室町から戦国時代 ===
当寺は文化人の墓が多いことでも有名で、墓地には[[鈴木大拙]]のほか、[[西田幾多郎]]、[[岩波茂雄]]、[[和辻哲郎]]、[[安倍能成]]、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[高木惣吉]]、[[田村俊子]]、[[高見順]]、[[前田青邨]]<ref>前田青邨の墓は横浜市の[[總持寺]]にもある。</ref>、[[川田順]]、[[レジナルド・ブライス]]らの墓がある。また、前田青邨の筆塚、[[旧制第一高等学校]]を記念する[[向陵塚]]がある。
同寺は1515年(永正12年)に火災があり、本尊の墨書銘に「本尊計出候、菩薩座光取出」とあるので、それ以前の古文書のほとんどはその際に焼失したと思われる<ref>
[[#鎌倉市史・寺社編|鎌倉市史・寺社編]] pp.345-346
</ref><ref>
[[#鎌倉市史・史料編34|鎌倉市史・史料編・第三第四]] 史料番号312「釈迦如来像銘」 p.326
</ref><ref group="注">
「菩薩座光」は現存する[http://www.tokeiji.com/heritage/suigetsu-kannon/ 水月観音菩薩]かもしれないが不明である。
</ref>。
「御所」の称号がある最古の史料はその火災から数十年後の[[北条氏康]]の書状である<ref>
[[#鎌倉市史・寺社編|鎌倉市史・寺社編]] p.344
</ref><ref>
[[#鎌倉市史・史料編34|鎌倉市史・史料編・第三第四]] 史料番号323「北条氏康書状」 p.333
</ref><ref group="注">
ただしそこでは寺ではなく17世旭山尼を指して「御しょ様」と云っており、「御所」が皇女用堂尼に由来するものなのか、関東公方家の姫君に対する[[御所号]]なのかは判然としない。なお、北条氏綱も氏康も「御しょ様」、「東慶寺長老」に直接手紙は出さず、形式的な宛名は「東けい寺(改行字下)侍者御中」または同「いふ侍者御中」である「いふ」は「衣鉢」であり、今は「いはつ」と読むが、書状には「いふ」と平仮名で書いている。宛名の「東けい寺」は「寺」ではなく「住持」「長老」を指す。今でも本山の法事のときなど「お寺さんがお通りになりますので」と止められるとその本山の管長が、先導や従者の僧とともに歩いてきたりするのと同じである。「東けい寺衣鉢侍者」とは「御しょ様」とまで言われる高貴な長老の身近く仕える尼僧である。目上の者に直接手紙を書かず、その従者に「こうお伝え下さい」と書くのが平安時代以来の貴族社会の礼儀作法である。
寺を指して御所と呼ぶ最初のものは江戸時代になってから、天秀尼の示寂よりも後の無住持時代である。
</ref>。
五世用堂尼以降の室町時代の住持は16世までは過去帳に名前のみ記されているだけで、出身も没年も不明である。
寺以外の文書からは[[室町時代]]には鎌倉[[尼五山]]第二位とされていたこと、代々[[関東公方]]、[[古河公方]]の娘が住持となっていることがわかる。
1454年(享徳3年)の「鎌倉年中行事」には「太平寺長老公方様姫君」とともに「松岡長老」が正月にまだ鎌倉に居た関東公方[[足利成氏]]に謁することになっており、「松岡長老」が誰かは判らないものの関東公方家の女性であろうといわれている<ref>
[[#鎌倉市史・寺社編|鎌倉市史・寺社編]] p.345
</ref>。
「足利系図」によれば16世は古河公方[[足利政氏]]の娘であり足利成氏の孫にあたる<ref>
[[#鎌倉市史・寺社編|鎌倉市史・寺社編]] pp.344-345
</ref>。


17世旭山尼は過去帳によると[[足利義明]]の娘である。足利義明は足利政氏の子で「小弓公方」を自称して古河公方と対立し、[[後北条氏]]と戦い戦死した。その旭山尼は1557年(弘治3年)に示寂とある<ref>
==境内==
[[#鎌倉市史・寺社編|鎌倉市史・寺社編]] p.344
本堂([[昭和]]10年([[1935年]])再建)、水月堂、書院、寒雲亭(茶室)、文化財を収蔵した松ヶ岡宝蔵などがあり、庭園は花が多く植えられている。境内奥の墓苑には多くの著名人の墓がある。なお、旧仏殿(重要文化財)は横浜市の[[三渓園]]に移築されている。
</ref><ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.42
</ref>。
この17世旭山尼の頃の古文書は東慶寺に現存する。17世旭山尼の姉は尼五山第一位[http://www.ktmchi.com/2013/03/0305-EN-SD.html#04 太平寺]の住持[[青岳尼]]であったが、[[安房]]の[[里見義弘]]に連れられて本尊を持って出奔し、義弘の妻となった事件があった。当時鎌倉を領していた[[北条氏綱]]が東慶寺の塔頭蔭凉軒の要山尼<ref group="注">
蔭凉軒という名は足利氏にとっては由緒のあるもので、京都の[[相国寺]]では将軍[[足利義持]](よしもち)が参禅聴講のために総説した小御所的存在だった。後には軒主が将軍の宗教行事の披露奉行を行った。1435年(永享7)から1493年(明応2)までの断続的な記録が[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%94%AD%E5%87%89%E8%BB%92%E6%97%A5%E9%8C%B2%EF%BC%88%E3%81%84%E3%82%93%E3%82%8A%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%91%E3%82%93%E3%81%AB%E3%81%A1%E3%82%8D%E3%81%8F%EF%BC%89/ 「蔭凉軒日録」]として残る。
要山尼は東慶寺・蔭凉軒の最初の庵主であり、古文書を見る限り若い住持御所様の後見人、実務の長のように見える。
北条氏綱の書状から推測する役目、後北条氏と戦闘状態にあった安房の里見氏と交渉出来る立場と、号に「山」が付くことなどから、公方の娘ではないにしても、関東足利氏の一族である可能性が高い。
</ref>
に里見氏との交渉を依頼し、取り返した太平寺本尊がいま東慶寺宝蔵にある[[#木造聖観音立像|聖観音立像]]である。
なお、この事件により太平寺は廃寺となりその仏殿は後に[[円覚寺]]に移された。現在の国法舎利殿である。

18世瑞山尼は足利政氏の長男で足利義明の兄にあたる古河公方[[足利高基]]の娘<ref>
[[#鎌倉市史・寺社編|鎌倉市史・寺社編]] p.345
</ref>
であり、示寂は1588年(天正16年)6月10日である。

19世瓊山法清尼<ref group="注">
「瓊山」(けいざん)が号、「法清」が諱である。瓊山尼と呼ばれる方が多いが、法清尼と書かれることもある。東慶寺で号に「山」が付く尼は足利氏の出と見てほぼ間違いはない。
</ref>
は小弓公方足利義明の子[[足利頼純]]の娘<ref>
[[#鎌倉市史・寺社編|鎌倉市史・寺社編]] p.345
</ref>
であり、17世旭山尼や太平寺最後の住持青岳尼の姪にあたる。18世瑞山尼死去の後、後任を安房の足利家に求めたときの北条氏直の1588年(天正16年)の東慶寺宛印判状が残るが、「あわの国にゆうちゃく(幼弱)の御かた」とあり、示寂の1644年(寛永21年)まで56年間あるので、かなり幼い頃に東慶寺住持となったと思われる<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] pp.46-47
</ref>。

=== 寺領 ===
[[鎌倉時代]]には[[北条氏]]の、[[室町時代]]には[[関東公方]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[後北条氏]]の庇護を受けているが、徳川家康以前の寺領についてははっきりしない。鎌倉時代については全く判らない。
室町時代には関東公方[[足利氏満]]の下総国東庄小南郷の勝福寺への寄進状<ref>
[[#鎌倉市史・史料編34|鎌倉市史・史料編・第三第四]] 史料番号310 「足利氏満寺領寄進状」 p.325
</ref>
が東慶寺文書に有るので、勝福寺の寺領を東慶寺が引き継いだとも推測できるが詳細は不明である。
北条氏綱の書状に上総国君津郡萬里谷のことが出てくる<ref>
[[#鎌倉市史・史料編34|鎌倉市史・史料編・第三第四]] 史料番号315 及び316 pp.328-329
</ref>。
1550年(天文19年)に「松岡領前岡・野場百姓中」に対する北条氏康の家臣石巻家貞の奉書が残る<ref>
[[#鎌倉市史・史料編34|鎌倉市史・史料編・第三第四]] 史料番号321 p.332
</ref>。
松岡領とは東慶寺領であり、前岡は山内荘舞岡。野場は同野庭である。
1551年(天文20年)には東慶寺住持17世旭山尼が「いんりょうへ」として蔭凉軒要山尼に鎌倉尼五山第三位の国恩寺の寺領を「先々の如く」と安堵する黒印状<ref>
[[#鎌倉市史・史料編34|鎌倉市史・史料編・第三第四]] 史料番号322 p.333
</ref>
が残っているので、国恩寺はそれ以前に廃寺になって、東慶寺の寺領に組み込まれたらしいことは判るが、その国恩寺の寺領が何処であるのかは判らない。
東慶寺の寺領の全容が判明するのは徳川家康の関東入りを待たなければならないが、そのときには下総国東庄小南郷も、上総国君津郡萬里谷も、山内荘の舞岡も野庭も出てこない。

1590年(天正18年)に後北条氏を下した豊臣秀吉に寺領を安堵<ref>
[[#鎌倉市史・史料編34|鎌倉市史・史料編・第三第四]] 史料番号334 「豊臣秀吉朱印状」 p.344
</ref>
される。
それまで後北条氏が領していた関東においては、[[太閤検地]]が行われるのはその後である為に貫高・石高は明示されていないが「検地による出分をも領知せしむ」とある。
その翌年の1591年(天正19年)に関東移封時後、検地後の[[徳川家康]]が出した寺領寄進状には「先例の如く」二階堂86貫60文、十二所内20貫80文、極楽寺内6貫240文<ref>
[[#鎌倉市史・寺社編|鎌倉市史・寺社編]] p.346
</ref><ref>
[[#鎌倉市史・史料編34|鎌倉市史・史料編・第三第四]] 史料番号336「徳川家康寺領寄進状」pp.345-346、
</ref>
とあり、この合計112貫380文を石高に換算すると450石、ほぼ500石となる<ref>
[[#鎌倉市史・寺社編|鎌倉市史・寺社編]] p.349
</ref>。
この寺領は、鎌倉の寺院では<ref group="注">
鶴岡八幡宮は源氏を名乗る徳川家にとっては特別な意味を持つので840貫と飛びぬけているが。
</ref>
[[円覚寺]]の144貫に次ぎ、鎌倉五山第一位の[[建長寺]]96貫よりも多い。
建長・円覚以外の鎌倉五山は浄智寺6貫140文<ref>
[[#鎌倉市史・史料編34|鎌倉市史・史料編・第三第四]] 史料番号281 p.301
</ref>、寿福寺5貫200文<ref>
[[#鎌倉市史・史料編34|鎌倉市史・史料編・第三第四]] 史料番号264 p.291
</ref>、浄妙寺4貫300文<ref>
[[#鎌倉市史・史料編34|鎌倉市史・史料編・第三第四]] 史料番号291 p.306
</ref>
と二桁も違う<ref group="注">
平均的農家の年貢のベースとなる表高は約10石であるので6貫~4貫とは農家2軒分の年貢しかないということになる。
</ref>。
なお臨済宗以外では、日蓮宗関東総本山の[[本覚寺 (鎌倉市)|本覚寺]]12貫、浄土宗鎮西派大本山の[[光明寺 (鎌倉市)|光明寺]]10貫までがかろうじて2桁以上でありそれ以外は一桁である<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.61
</ref>。
この東慶寺の寺領は江戸時代を通してほぼ維持される。

=== 豊臣秀頼妻千姫と娘20世天秀尼 ===
[[江戸時代]]には、[[豊臣秀頼]]の娘の[[天秀尼]]が、[[千姫]]の養女として東慶寺に入り、後に20世住持となった。なお、この天秀尼以降、東慶寺は幕府(寺社奉行)直轄の寺であり住持任命も幕府による<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.64</ref>。

==== 天秀尼の薙染 ====
東慶寺の「由緒書」には「大坂一乱之後、天樹院様(千姫)御養女に被為成、元和元年権現様依上意当山江入薙染、十九世瓊山和尚御附弟に被為成」<ref>
[[#鎌倉市史・寺社編|鎌倉市史・寺社編]] p.346
</ref>
と記されている。
東慶寺の由来書に「薙染し瓊山尼の弟子となる。時に八歳」<ref>[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.48</ref>とあり、また霊牌(位牌)の裏にも「正二位左大臣豊臣秀頼公息女 依 東照大神君之命入当山薙染干時八歳 正保二年乙酉二月七日示寂」とある。このうち「薙染」(ちせん)が「仏門にはいる、出家する」という意味である。従って、出家は大坂落城の翌年の1616年(元和2)、東慶寺入寺とほぼ同時期となる。
出家後の名は天秀法泰<ref group="注">
天秀が号、法泰が[[諱]]であり、その諱の1字目の「法」は、東慶寺の系字(江戸時代には東慶寺の尼は全て諱の1字目は「法」)である。
</ref>。

瓊山(けいざん)尼は前項で触れた東慶寺19世の瓊山法清であり、小弓公方足利義明の孫で父は足利頼純ある。その妹の[[月桂院]]は秀吉の側室で、秀吉の死後江戸に移り家康の娘[[正清院]]に仕えていた。東慶寺住職だった井上禅定は天秀尼の東慶寺入寺は「恐らく月桂院あたりの入知恵と推察される」<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.51</ref>
とする。
断絶間際の関東公方家を、古河公方[[足利義氏]]の娘・[[足利氏姫]](足利氏女)と、瓊山尼や月桂院の兄妹である小弓公方家の[[足利国朝]]を結婚させて、実高5千石ながらも10万石の格式の大名(喜連川藩)として存続させたのはこの月桂院の働きかけによる。なおこの月桂院が開いた月桂寺は18世紀に東慶寺と喜連川藩の仲裁役として登場する。

==== 千姫の仏殿寄進と徳川忠長屋敷の移築 ====
天秀尼が20世住持となった時期は1634年(寛永11年)以降、1642年(寛永19年)までの間である。1634年(寛永11年)以降というのは、東慶寺に伝える棟板の墨書銘からである<ref group="注">
詳細は天秀尼の[[天秀尼#千姫との関係を示す物|千姫との関係を示す物]]を参照。
</ref>。
ここに「住持・法清和尚」「弟子・法泰蔵主」とあるので<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.52
</ref>、当時20代なかばであった天秀尼はまだ20世住持にはなっていなかったことになる。「蔵主」(ぞうす)は禅宗寺院の住持を支える役職のひとつ<ref group="注">
首座、書記、蔵主は、住持の代わりに法堂の法座に登り払子(ほっす)をとって説法をすることもある重要な役職である([[#関口欣也1997|関口欣也1997]] pp.71-72)。
ただし東慶寺は格は高くとも建長寺や円覚寺のような大寺院ではないので、この場合の「蔵主」とは実際の職務ではなく肩書、地位の呼称である。
</ref>
である。

この棟板の墨書銘には住持の法清尼と弟子の天秀尼の他に歴史上有名な女性が二人登場する。千姫と、当時の将軍徳川家光の乳母・[[春日局]]である。
東慶寺の寺例書にはこのときに「駿河大納言様の御殿御寄付・・・客殿方丈等右御殿を以てご建立遊ばされ今に有<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.52
</ref>」とあり、このとき裏方として話を主導したのが春日局であろうと思われている<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.53</ref>
(実際棟板の裏に春日局の名がある)。
この寄進は当時の東慶寺の景観を一新するもので、千姫を通じた天秀尼と徳川家との強い関係を物語っている。
「駿河大納言」とは[[徳川家光|家光]]や[[千姫]]と同様に[[淀君]]の妹[[崇源院]]を母にもつ[[徳川忠長]]であり、1633年(寛永10年)12月6日に28歳で切腹。その屋敷の一部が解体されて翌年東慶寺に寄進されたということになる。
なお、客殿、方丈の他に、街道に面した門もこのとき徳川忠長の「御殿」から移築されている。文書により一定しないが「由緒書」にはその他に仏殿、蔭涼軒の建物も「駿河大納言様御殿を引きせられ<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.53
</ref>」とあり、「[[新編相模国風土記稿]]」にもそのときの仏殿は「駿河亜相忠長卿の旧館を移し賜ひ、寛永11年10月御建立あり、其時の棟板を蔵せり」とある<ref group="注">
この棟板が千姫、天秀尼、春日局の名が記された先の棟板であり、それが江戸時代後期には仏殿から外されて保管されていたということになる。
なお「駿河亜相」の「亜相」とは[[大納言]]の[[唐名]]であり、「駿河大納言」という意味である。
</ref>。

その仏殿(現在重要文化財)は1907年(明治40年)に横浜の[[三溪園]]に移築され現存する。その旧仏殿は1956年(昭和31年)に修理が行われ、その報告書は「仏殿の建立年代は詳ではない」とした上で「形式手法上、室町時代に属する」と述べている。
おそらく1515年(永正12年)の大火災<ref group="注">
「修理工事報告書」はこれを1509年(永正6年)と記し、現在も「仏殿」の説明文には1509年とあるがこれは誤りである。([[#鎌倉市史・寺社編|鎌倉市史・寺社編]] pp.345-346、
および[[#鎌倉市史・史料編34|鎌倉市史・史料編・第三第四]] 史料番号312「釈迦如来像銘」 p.326)
</ref>
後に建立されたものが「駿河大納言様の御殿御寄付」のときにその部材をもって修理されたのではないか<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] pp.53-54
</ref>
というのである。

それに対して鎌倉禅宗建築史の第一人者である[[関口欣也]]は、忠長卿の旧館を移したものは客殿と方丈。棟板は新築の仏殿のもの、1956年(昭和31年)の修理工事報告書にある「形式手法上室町時代」は様式論であり明確な根拠がある訳ではない。室町時代の要素も一部にあるが更に詳細に見るとやはり近世の特色を見せており、寛永11年という時代にふさわしいとする<ref group="注">
江戸時代の鎌倉大工の作風を見ると、17世紀中期をやや下る頃まで室町末風で保守的な傾向があるという([[#関口欣也1997|関口欣也1997]] p.146)。
</ref>。
西和夫も2012年時点でそれを支持している<ref>
[[#西和夫2012|西和夫2012]] pp.36-42
</ref>。
なお、現在の旧仏殿の屋根は茅葺の[[寄棟造]]であるが、天保10年の「相中留恩記略」の境内絵図には寄棟造よりも格式が高い[[入母屋造]]に書かれており、「修理工事報告書」でも建立当初は入母屋造であって、現在の状態は後世の改修と推察している<ref>
[[#西和夫2012|西和夫2012]] p.42
</ref><ref group="注">
創建が江戸初期であるのでその入母屋造屋根は現円覚寺舎利殿のような[[こけら葺]]、[[檜皮葺]]であった可能性もあるが史料はない。中世では屋根葺工法の中で檜皮葺が最も格式の高い技法である。一般に檜皮葺から瓦葺、そして茅葺へと移る。現在では瓦葺より茅葺屋根の維持の方が大変だが、江戸時代にはそちらの方が維持は楽であり、建長寺では1837年(天保8年)に[[法堂]](はっとう)を瓦葺から茅葺に改めるための[[勧進]]まで行っている([[#関口欣也1997|関口欣也1997]] p.162)。檜皮葺から銅瓦葺に改めた例では鶴岡八幡宮の文政再建がある([[#関口欣也1997|関口欣也1997]] p.168)。
国宝正福寺地蔵堂も茅葺になっていたものを1933年(昭和8年)の解体修理に際して建築当初のこけら葺(柿葺)に直している。そのときにこの地蔵堂が1407年(応永14年)と判り、そこから円覚寺舎利殿の創建年代が判明したという経緯がある。その改修工事の際1811年(文化8年)の墨書名も発見されており、茅葺への改修はそのときと思われる。
</ref>。

==== 豊臣秀頼菩提の雲版 ====
天秀尼の20世住持就任を1642年(寛永19年)以前とするのは、父秀頼(法名崇陽寺秀山)菩提のために「天秀和尚」が鋳造したとの銘文のある雲版が残されており、そこに寛永19年の日付があることによる。「和尚」は住持であることを示している。
先代の瓊山尼はこの頃存命であったが、この時点では隠居していたことになる。
雲版(うんばん)は、禅宗寺院で庫裏や斎堂などに掛け、食事・法要などの合図に打ち鳴らす雲形の板。鐘板(しょうばん)、打板(ちょうばん)、更に火版、長板、斎板などの別称がある。
青銅または鉄板製であるが、東慶寺のものは青銅である<ref group="注">
この雲版は鎌倉市文化財になっている。
</ref>。日本には鎌倉時代に禅宗とともに伝えられた。

==== 会津四十万石改易事件 ====
天秀尼の千姫を通じた徳川幕府との結びつきの強さを物語る事件に1639年(寛永16年)4月16日に始まる[[会津騒動]]、会津四十万石[[加藤明成]]改易事件がある。
天秀尼と会津四十万石改易の関係を記した史料は1716年(正徳6年)に刊行された「[[武将感状記]]」<ref>[[#武将感状記|武将感状記]] 巻之十「加藤左馬助深慮の事/付多賀主水が野心に依て明成の所領を召上げらるる事」</ref>という逸話集である。

それによると、会津四十万石の加藤明成の家老・掘主水が主君明成と対立して脱藩し、妻子を鎌倉の東慶寺に預け、自身は高野山に逃げた。加藤明成は家臣を東慶寺に差し向け、掘主水の妻子を捕縛したのかしようとしたのか、それに対して天秀尼は「大いに怒りて、頼朝より以来此の寺に来る者如何なる罪人も出すことなし。然るを理不尽の族(やから)無道至極せり。明成を滅却さすか、此の寺を退転せしむるか二つに一つぞと 、此の儀を天樹院殿に訴へ」これによって会津四十万石は改易になったと。ただしこの話が記されている「武将感状記」は『雨月物語』まがいの話まであり全体としては信憑性に疑問があり、これだけで会津四十万石は改易と天秀尼の関係を史実とすることはできない。
ところが掘主水の妻は確かに東慶寺に駆け込んでおり、かつ天秀尼が義母千姫を通じて幕府に訴えてその助命を実現したこと、掘主水の妻は事件より30数年も後の1679年(延宝7年)10月19日に亡くなったことが、前住職井上禅定師の頃に明らかになった<ref group="注">
詳細は天秀尼の[[天秀尼#会津四十万石改易事件|会津四十万石改易事件]]を参照。
</ref>。天秀尼はこの件で昭和55年に「神奈川県百傑」に選ばれている。

なおこの「武将感状記」の記述が正しいとすれば、そこに伝える「比丘尼の住持大いに怒りて」は、掘主水が加藤明成に殺された1641年(寛永18年)以降、改易される1643年(寛永20年)までの間となる。

==== 天秀尼の示寂 ====
天秀尼の示寂は、霊牌、および墓碑により1645年(正保2年)2月7日 であり、37歳の若さで死去したことが判る。その十三回忌に千姫は東慶寺に香典を送っている。
天秀尼の墓は寺の歴代住持墓塔の中で一番大きな無縫塔である。側に「台月院殿明玉宗鑑大姉」と刻まれた[[宝篋印塔]]があり、「天秀和尚御局、正保二年九月二十三日」と刻銘がある。天秀尼の死去の約半年後である。

東慶寺の前住職井上正道は「東慶寺にかなりの功績のあった人物、もしくは天秀尼が相当の恩義を感じていた、天秀尼にとっての功労者」「常に天秀尼のそばにいて、天秀尼を教育した人物」「天秀尼の心の拠り所であり、天秀尼の心の支えであったのではないか」と推測しているが、寺にはこの人物についての文献、伝承も一切なく、ただ墓のみが残っている。
歴代住持墓塔のエリアに在家(出家していない人)の宝篋印塔があることは極めて異例である。

=== 天秀尼以降の住持 ===
==== 21世永山尼 ====
天秀尼の示寂の後約25年は住持不在であった。と言っても蔭涼軒、海珠庵等の塔頭に尼は居たが、その格式故に誰でもという訳にはいかない。代々の住持は関東公方足利氏の娘であり、17世旭山尼、18世瑞山尼、19世瓊山尼の頃は足利氏は実力は衰えてはいても「公方」、「御所」の娘、孫娘である。19世瓊山尼も先述の棟板墨書銘に「住持関東公方家左兵衛督源頼純息女法清和尚」と「関東公方家」を名乗っている。天秀尼は「右大臣従二位豊臣朝臣秀頼公息女」であるので格式は十分であったが、それらに劣らぬ者となると適格の女人が得られず寺社奉行も困却する<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] pp.63-64
</ref>。

19世まで代々住持を出していた足利氏は古河公方、小弓公方に分裂していたが、先の瓊山尼の妹月桂院の奔走により、古河公方足利義氏の娘足利氏姫と、瓊山尼や月桂院の兄妹である小弓公方家の足利国朝の結婚によりかろうじて一本化され、喜連川家として存続していた。この喜連川家は[[御所|御所号]]まで許された徳川幕府下で他に例をみない実高5千石の特殊な藩である<ref group="注">詳細は[[喜連川藩]]を参照。
</ref>。
その喜連川藩が蔭涼軒や海珠庵等東慶寺の塔頭の尼を経由して幕府寺社奉行に請願して、天秀尼の示寂の後10年後に[[喜連川尊信]]の娘が17歳で入寺する<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.65
</ref>。
21世永山尼として住持となったのはそれから15年後の1669年(寛文9年)である<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.65</ref>。

==== 22世玉淵尼 ====
永山尼の示寂後約21年間再び住持不在となった。1728年(享保13年)に高辻前中納言の息女が最後の住持予定者として入山するが、このとき古例を踏んで一旦[[喜連川茂氏]]の養女となり、そのうえで東慶寺に入っている<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.67
</ref>。
この高辻前中納言息女が22世住持玉淵尼となったのは1737年(元文2年)であるが、元々病弱であったらしく、住持となって直ぐに京へ戻っている<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.67
</ref>。
以降明治に至るまでの130年間、東慶寺には尼は居たが住持はいないかった。

=== 蔭涼軒の院代時代 ===
==== 蔭涼軒 ====
東慶寺には時代により複数の塔頭があったが蔭凉軒(いんりょうけん)はその筆頭であり、西堂の法階をもつ重職である<ref group="注">
[[西堂]]は他のそれなりの格をもつ寺院の住持を勤めた者で、その寺の前住持を東堂と称するのと対語となると一般に説明されるが、東慶寺においては蔭凉軒主が他の尼寺の住持であったことを示す記録は無い。従ってここでの意味は序列で住持の次、それも下ではなくほぼ同格の斜め下ぐらいで、住持の弟子である都寺・監寺などの知事、首座・書記・蔵主など頭首の上位という意味になる。他の塔頭の庵主の法階は概ね[[首座]]か[[都寺]]である。
</ref>。
本稿でも太平寺本尊・聖観音立像を取り戻す交渉を行った蔭凉軒要山尼が出てくるがその要山尼が大永年間(1521-1528年)頃に開いた。要山尼は道号に「山」がつくことから足利氏の出身と推定されている<ref>
[[#鎌倉市史・寺社編|鎌倉市史・寺社編]] p.350
</ref>。
天秀尼示寂後の無住持時代は蔭凉軒五世法孝尼が院代(住持代行)を努めている。
東慶寺に[http://www.tokeiji.com/heritage/tesshu-ni-zo/ 徹宗法悟(てっしゅうほうご)尼像]が残るが、この徹宗尼も蔭凉軒の庵主<ref group="注">
庵ではなく軒であるがここでは一般名称の庵主を用いておく。
</ref>
であり21世永山尼の示寂後、そして22世玉淵尼の帰京後も院代を努めた。以降明治に至まで蔭凉軒の庵主が院代を勤めている。

==== 寺役人 ====
==== ・喜連川代官 ====
寺役人とはあまり聞き慣れない言葉だが、近世において比較的大規模な寺領をもつ寺社は、領主として領民支配を行い年貢をとっており、その為の統治機構を有している。その頂点はもちろん住持であるが、実務は代官、寺侍・寺役人と称する俗人が行っている。東慶寺もほぼ500石という領地を持っており、御所寺という格もあって寺役所があり寺役人を置いていた。寺役人の出身は判るものと判らないものがあるが、身分としては武士身分である。東慶寺では不明であるが、やはり寺役人を置いた出羽国宝幢寺の例<ref>
松本 和明[http://ci.nii.ac.jp/naid/110007156066 「近世中後期出羽国宝幢寺における寺役人の職分・身分 : 近世寺院領主の統治機構とその特質」]関西学院大学『人文論究』 57(4), 20-38, 2008-02-28
</ref>
では「武門役服」である継袴の着用が認められ「士分」・「徒士」・「足軽」という武家の階層に当てはめれば「士分」に相当する。

この永山尼入寺のときに喜連川藩より飯島左衛門重貞が付人として来た。これが喜連川藩から差し向けた最初の寺役人である<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.66
</ref>。
永山尼は1707年(宝永4年)に示寂するが、喜連川藩は13回忌まで「霊供等世話致し度段」と永山尼の付人代官飯島覚右衛門を東慶寺に残し、13回忌が終わってもそのまま寺役人を東慶寺に置く<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.67
</ref>。
喜連川藩は家格は高くとも実際には5千石の小領主であり、約500石の東慶寺を差配することはかなり旨い話である<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.64
</ref><ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.70
</ref>。
1787年(天明7年)に蔭涼軒法清尼等が、この喜連川藩の寺役人が東慶寺の収支を牛耳り横領を働くと円覚寺に訴え、円覚寺は寺社奉行に伺い、月桂寺<ref group="注">
先に登場した19世瓊山尼の妹月桂院開基の寺
</ref>
が中に入って調停し、喜連川の代官は引払いとなった<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.68</ref>。

==== ・円覚寺被官 ====
その後は円覚寺差配のもとに蔭涼軒主が院代として寺務執行し、寺役人は円覚寺紹介の被官が務めるが、そのあとも寺役人の不法はたびたび続いた。
5年後の1793年(寛政5年)には寺役人が境内<ref group="注">
鎌倉の寺はおおむねそうだが東慶寺も山に囲まれた谷戸にありその尾根までが境内である。
</ref>
の松杉等の大木を盗伐し隣の浄智寺側に落とした事件があり、院代蔭涼軒は四人の寺役人に「遠慮(免職)申付け」たが、円覚寺が詫びを入れて張本一人のみの免職に止め、円覚寺役者<ref group="注">
住持でなく事務方の長。ただし後に住持となることが多い。
</ref>と院代蔭涼軒の名をもって、残る三人の寺役人に17ヶ条の申し渡しをしている<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.69
</ref>。

東慶寺の寺役人は元々は円覚寺の縁で東慶寺に勤めた者だがこの頃には院代+円覚寺vs寺役人の対立で暗雲低迷する<ref>[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.69</ref>。
1802年(享和元年)に蔭涼軒主耽源尼は寺役人の横暴に嫌気がさしたのか、寺の御朱印を持って円覚寺に駆け込んでしまい、その後円覚寺に寺の御朱印を預けて実家の旗本大久保家<ref group="注">
[[大久保忠教|大久保彦左衛門]]の子孫である。
</ref>
へ戻ってしまうという事件があった<ref>
[[#井上禅定1995|井上禅定1995]] p.71
</ref>。
このとき東慶寺には蔭涼軒の他に清松院、永福軒という2つの塔頭があったが既に無住であり、東慶寺には住持ばかりか一人の庵主もいなくなってしまう。
清松院の留守番に老尼がひとりいただけである。
もはや寺とは言い難いが、しかし寺役人が東慶寺とその寺領を支配しており、翌1803年(享和2年)に寺役人は円覚寺と院代の不法を寺社奉行へ訴え出る<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.70
</ref>。
簡単に云うと東慶寺の御朱印を寺役人に戻せというものである。
「享和の訴訟」といわれる。
この裁判は寺社奉行[[阿部正由|阿部播磨守]]の屋敷で奉行列席の元で行われ、その尋問に寺役人は満足に答えられず「恐れいるばかりでは相済まぬ、返答致せ!」と寺社奉行[[脇坂安董|脇坂淡路守]]<ref group="注">
寺社奉行は定員は4名前後。この時も4名でありこの裁定には4名とも列席している。原則として一万石以上の譜代大名であり[[阿部正由|阿部播磨守]]は武蔵国[[忍藩]]10万石の大名。[[脇坂安董|脇坂淡路守]]は播磨国[[龍野藩]]5万1千石の藩主である。寺社奉行は勘定奉行や江戸町奉行とは格が異なり、老中ではなく将軍直轄で[[奏者番]]を兼任する幕臣エリートの出世コースである。この二人はいずれも後に[[老中]]になっている。寺社奉行は自邸が役宅となる。
</ref>
に詰問され<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.72
</ref>
寺役人は敗訴となる。ただし寺役人は東慶寺を追放された訳ではなく「右御達の趣逐一承知仕り万事御山の御指図に随ひ取計可仕候」と一札を取られて寺役人を続けている<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.72
</ref>。

==== 院代法秀尼 ====
その後、1808年(文化5年)に水戸藩の姫法秀尼が蔭涼軒主・院代となっている<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.74
</ref><ref group="注">
これは東慶寺に残る古文書からではなく、同じ鎌倉の尼寺で水戸藩と関係の深い[[英勝寺]]の記録による。
</ref>。
水戸藩の姫ならば住持でも良さそうなものだが、そこが東慶寺の特殊な格式である。
この年に水戸藩の史館で『東慶寺考』を編纂して寄進している<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.74
</ref>。
また水戸藩の後ろ盾で、1834年(天保5年)頃寺社奉行脇坂淡路守<ref group="注">
[[脇坂安董|脇坂淡路守]]は2度[[寺社奉行]]を勤め、後に[[老中]]となっている。
</ref>
に貸付所の許可願いを出して許され、1836年(天保7年)には江戸にも支所を設けている<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] pp.241-242
</ref>。
東慶寺の寺役所にお白洲が出来たのはこの頃と思われる。このお白洲は縁切取り調べに対するものではなく、東慶寺領内の支配者としての、あるいは貸金に関わるトラブル時に用いられている<ref group="注">
お寺が金融業というと現在の感覚では奇異な感じを受けるが、こうした例は平安時代からある。
</ref>。
また次ぎの章で触れる縁切寺法、その手続きもこの院代・蔭涼軒法秀尼の頃に整備された<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.26
</ref><ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.74
</ref>。
示寂は1852年(嘉永5年)である。

== 縁切寺法 ==
東慶寺は、近世を通じて[[群馬県]]の[[満徳寺]]と共に[[縁切寺]](駆込寺)として知られていた。この制度は女性からの離婚請求権が認められるようになる明治5年([[1872年]])まで続く。ただし「由緒書」に「覚山(開山の覚山尼)貞時へ願はれ候は・・・女と申すものは不法の夫にも身を任せ候事常に候う事も尋常に候えば、事により女の狭き心によりふと邪の心差詰めたる事にて自殺杯致し候もの有之、不便の事に候間、右様の者有候節は三ヶ年の内、当寺え召抱置、何卒夫の縁を切り身軽に致し存命仕ませ候寺法」云々と願い、北条貞時も母の申し出故に是非もなく、朝廷に乞いて「勅許を蒙り夫より世上に名高く寺格も格別なり<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.25
</ref>」
とあるが、これは確証が無く<ref>
[[#鎌倉市史・寺社編|鎌倉市史・寺社編]] p.342
</ref>、
先々代住職井上禅定も「縁切寺法が開山以来連綿と続いているという口上書きは遡及扱いにして開山に付会した書き方である」とする<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.26
</ref>。
後で触れるが三ヶ年は江戸時代初期からの社会通念であり東慶寺に限ったことではない。この「由緒書」の記述は江戸時代の感覚である。
また「由来書」には「寺入女の三ヶ年は不憫にて用堂尼(五世住持の皇女)以来出入三年満二十四ヶ月と限った」とあるが、これも先々代住職井上禅定は「あとからそういうふうに権威づけたんじゃないか」とする<ref>
[[#井上禅定1976|井上禅定1976]] p.10
</ref>。後述するが「出入三年満二十四ヶ月」の確実な前例は1688年(貞享5年)2月14日の幕府の判決である。それ以前には無い。

=== 中世の結婚・離婚 ===
中世を通じて結婚・離婚という概念があったのは「イエ」を確立していた上層階級だけである。その上層階級の頂点貴族社会においても、結婚とは男が決まった女の処へ通い、その家に住み着くことであり、逆に離婚は夫がその妻の家に帰らなくなることだった。[[芥川龍之介]]の短編小説『[[芋粥]]』の原作は『[[今昔物語集]]』第26巻17話「利仁将軍若時従京敦賀将行五位語」<ref>
[[#今昔物語集4|今昔物語集4]] pp.458-463
</ref>
という[[藤原利仁]]の若い頃の話である。利仁は「芋粥を腹一杯食ってみたい」と云った先輩の五位殿(侍階級の下級貴族)を[[敦賀市|敦賀]]の自分の家は連れていくが、その家は有仁という「勢得ノ者」の家で、利仁の妻はその娘だった。
同じ『今昔物語集』第28巻1話
には「近衞舎人共稲荷詣、重方女値語」<ref>
[[#今昔物語集5|今昔物語集5]] pp.52-54
</ref>がある。[[近衛府|近衞府生]]<ref group="注">
貴族では無いが、天皇の[[行幸]]や高官の外出時の警護の際には騎乗を許可され前駆する立派な武官である。
</ref>
茨田重方は妻帯者だったが、仲間とともに稲荷詣に行く道で美しそうな女性を見つけ一生懸命口説く。
しかしそれは重方の妻で<ref group="注">
実はこのとき重方が口説いていたのは自分の妻で、顔を隠していたのでそれに気づかなかった。そうと知らずに重方は「つまらない女房はいるにはいますが、そいつの顔は猿のようで、心は行商女も同然の賤しさ」「そんなつれないことを聞かせないでください。ここからすぐにお供をして、女房のところへなんか二度と足を踏みいれますまい」という。</ref>、
逆上した妻は往来の真ん中で、夫の同僚達の見ている前で夫の髷を掴み「山も響くばかりに」ひっぱたいて「今日から私のところへきたら、この神社の神罰が当たろうぞ」「来たら、必ずその足をぶち折ってくれる」と<ref>
口語訳は[[#今昔物語集5(口語訳)|今昔物語集5(口語訳)]] 第28巻1話 pp.237-241
</ref>。
茨田重方は実在の人物である<ref>
[[#中村修也2004|中村修也2004]] pp.31-37
</ref>。

平安時代と鎌倉時代は、政権は大きく変わったが社会風俗としてはほぼ同じである<ref group="注">
京の周辺と関東の鎌倉では社会風俗は同じとは云えないが、それでも実際に『吾妻鏡』ある鎌倉の事件では、夫が家に帰ったら舅が妻を抱こうとしているところだったというのがある。つまり夫は妻の家に暮らしていた。
</ref>。
鎌倉時代には公的な世界でも女性の地頭が居たり訴訟の当事者としても女性が多数登場する<ref>
[[#網野善彦2005-2|網野善彦2005-2]] pp.158-163
</ref>。
それでも中世の初頭から鎌倉時代を経て室町時代末期に下がるにつれ、公的な世界からは女性が徐々に排除されていく<ref>
[[#網野善彦2005-2|網野善彦2005-2]] pp.163-166
</ref>。

しかしその中世の中で女性の地位が最も低下していた[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、1562年に日本に来て35年間日本に住んでいたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの日本覚書にはこういう記述がある。
「ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。ところが日本では各人が自分の分を所有している。ときには妻が夫に高利で貸し付ける」。「ヨーロッパでは妻を離別することは最大の不名誉である。日本では意のままにいつでも離婚できる。妻はそのことによって名誉を失わないし、また結婚も出来る。日本では<b>しばしば妻が夫を離別する</b>」<ref group="注">
他にはこういう記述がある。
「日本の女性は処女の純血を少しも重んじない。それを欠いても名誉も失わなければ結婚もできる」
「日本の女性は夫に知らせず、好きな処へ行く自由をもっている」。
</ref>。

しかしそれも上層・中層階級においてである。
江戸時代より前の庶民(下層階級)には離婚という感覚は無い。
そもそも男女が夫婦として同じ家に住み、協力して家業、例えば農耕に励み、子供を育てて家を継がせるという「イエ」の概念が一般庶民にまでは浸透していなかった<ref>
[[#大石慎三郎1995|大石慎三郎1995]] pp.3-8
</ref><ref group="注">
「実現出来なかった」という方が適切かもしれない。
</ref>。
それが名主や豪農ですらない一般の農民・庶民にまで「イエ」が確立していったのは江戸時代初期の婚姻革命によってである<ref>
[[#鈴木ゆり子1994|鈴木ゆり子1994]] p.67</ref>。

=== 近世・江戸時代の離婚 ===
結婚・離婚について「タテマエの世界」が出来たのは、江戸時代になって[[徳川家康]]が[[儒教]]を取り入れて以降である。儒教での「女はかくあるべし」が「女三界に家なし」な『[[女大学]]』であり、儒家の目からすれば、男子禁制の東慶寺が夫から逃れる為に駆け込むことを受け入れるなど言語道断、[[太宰春台]]などは「誰か松ヶ岡を淫婦の叢林にあらんずと謂ふや」<ref>
[[#井上禅定1976|井上禅定1976]] p.145
</ref>
とまでいう。

江戸時代の離婚は「夫側からの離縁状交付にのみ限定されていた江戸時代の離婚制度」と良く云われる。それを象徴する昔の学術用語が[[石井良助]]の「夫専権離婚」説である。そう思われた理由のひとつは当時の「例文集」の定型文言にある離婚理由の「我等勝手に付」である。夫は勝手に妻を離婚出来たと。しかしこの「我等勝手に付」の「勝手」の意味合いは現在の印象とは少し違い「都合により」ぐらいの意味である。そして具体的な理由は書かないのを良しとするという現れである<ref group="注">
これを最初に指摘したのは[[穂積重遠]]であり、その後高木侃が詳細に論証した。([[#高木侃1999|高木侃1999]] p.84)
</ref>。
現在では百科事典でも「当時庶民の間では,離婚は仲人・親類・五人組等の介入・調整による内済(示談)離縁が通例であったと思われるが、形式上妻は夫から離縁状を受理することが必要であった」<ref>
[http://kotobank.jp/word/%E7%B8%81%E5%88%87%E5%AF%BA 平凡社『世界大百科事典』]</ref>
とされる<ref group="注">
「形式上妻は夫から離縁状を受理」の良い例に婿養子の離縁状がある。養子縁組の解消権は養父にあり、養父が養子縁組を解消すると、普通はその家の娘との結婚も解消される。しかしこの場合でも夫から妻への離縁状が必要とされた。これは「任意」ではなく、養父は養子から娘への離縁状を取らないと、お上から「不念」として譴責された。「去状を、書くと入婿おん出され」という川柳があるが、無理やり書かされる離縁状でも、その文言は「此度我等勝手に付、離縁致し」なのである。([[#高木侃1992|高木侃1992]] pp.60-61)
</ref>。
妻の方からは離縁を言い出せなかったのかというとそうではない。最古の離縁状の実物は1696年(元禄9年)のものであるが、夫が1両の趣意金を受け取っていることから、妻方からの要求による離縁である<ref>
[[#高木侃2001|高木侃2001]] pp.98-99</ref><ref group="注">
もうひとつの実例は「此度我等勝手ニ付、不縁之義」の次の行に「任其意(その意の任せ)と書かれた三下り半もある。これは「妻の勝手」(離婚要求)であったことを示す。([[#高木侃1999|高木侃1999]] p.96)

</ref>。
話がつきさえすれば離婚できた。
問題は話がつかなかった場合である。

=== 縁切寺三年勤の背景 ===
江戸時代の「律令要約」<ref group="注">
律令要約(りつりょうようやく)は江戸時代の「[[公事方御定書]]」編纂課程で、その直前の1741年(寛保元年)に北条氏長が先例・慣習をまとめた判例集のようなものである。1742年(寛保2年)の「公事方御定書」制定以前の先例・慣習というところに大きな意味がある。離縁に関する限り「公事方御定書」はここにある判例をほぼ踏襲している。
</ref>
には妻方からの離婚に関して5つの条項がある<ref>
[[#高木侃1999|高木侃1999]] pp.62-71
</ref>。
そこに共通するものは「三、四年過ぎ」というキーワードであり、例えば「離別状遣わさずといえども、夫の方より三、四年進路致さざるにおいては、例え嫁し候とも、先夫の申分立ち難し」である。この判例は「[[公事方御定書]]」でも踏襲されている。
江戸時代中期までには3年も別居していればもう夫婦ではないという社会通念が成立していたと言える。
妻方からの離縁の申し出に話がつかなかった場合の強行手段として「夫の手に負えぬ場所」への駆込3年奉公があった。
どのような場所かというと代表的には武家屋敷である。尼寺も勿論、普通の寺である場合もある<ref>
[[#高木侃1999|高木侃1999]] p.189
</ref><ref>
[[#高木侃1999|高木侃1999]] p.206
</ref>。
関所に駆け込んだ例もある<ref>
[[#高木侃1999|高木侃1999]] p.207
</ref>。
要するに「夫の手に負えぬ」、連れ戻せぬ、少なくとも庶民にとって「権威のある場所」であれば良かった。そこに3年間奉公していれば結婚は時効となる。
あるいは夫方を呼び出して「別れてやれ!」と云ってくれる。

東慶寺も江戸時代初期にはそうした「夫の手に負えぬ場所」のひとつであった。
ただし[[元禄時代]]の「盤珪禅師法語」に「女人問、女は業ふかき者にて高野山または比叡山などの貴き山へは結界とて上る事を得ず。師曰、鎌倉に比丘尼寺あり、是は男結界也」<ref>
『盤珪禅師語録』(岩波文庫 1987/09) p.109
</ref>
とあるように、男子禁制の代表として知られ<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.26
</ref>、
かつ[[天秀尼#会津四十万石改易事件|会津四十万石改易事件]]にも見られるように、その「男結界」は大身の大名すらはねのけるほどである。庶民の夫にとっては並みの「手に負えぬ場所」ではない。

しかし江戸時代中期に幕府は武家屋敷への駆込みを抑制したらしく、「縁切奉公」先の多くは「駆込は迷惑だから」「風俗よろしからず」と受け付けないことを表明する。年代としては1704年(宝永元年:[[前橋藩]]<ref>
[[#高木侃1999|高木侃1999]] p.190
</ref>)
から1786年(天明6年:[[小諸藩]]<ref>
[[#高木侃1999|高木侃1999]] p.192
</ref>)
頃である。
それらは関東近国の親藩・譜代であったが、遠く九州の外様大名である[[熊本藩]]でも縁切3年奉公の慣行があり、それが1773年(安永2年)の達しで禁止される<ref>
[[#高木侃1999|高木侃1999]] p.190
</ref><ref group="注">
なお、「駆込は迷惑だから受け付けない」と表明したところは、以降全くの門前払いだったのかというとそうではなく、縁切奉公は受付ない代わりに妻実家方、夫方の名主を呼び出して「夫に縁切状書かせろ!」と命ずる。江戸時代ももうちょっとで終わりという1858年(安政4年)に、相模国淵野辺村から、同じ相模国の東慶寺でなく江戸の地頭所(領主である旗本の屋敷)へ離縁を訴え駆込んで「内済離縁」を勝ち取った女房がいる。([[#長田かな子2001|長田かな子2001]] p.128)「夫の手に負えぬ場所」は江戸時代を通じてそれなりに機能していたといえる。
</ref>。

縁切寺三年勤と言っても、東慶寺では足かけ三年、実24ヶ月であった。
1688年(貞享5年)2月14日の東慶寺への妻の駈込に対する幕府の判決に、不届きではあるが足掛け三年の間比丘尼を務め、東慶寺から離婚の旨訴え出れば離婚だけは認めるというものがあり<ref>
[[#高木侃1992|高木侃1992]] p.128
</ref>
その前例を踏襲したものと思われる。

=== 離縁状 ===
ここでは「離縁状」に統一するが、「去状(さりじょう)」、「暇状(いとまじょう)」、「隙状(ひまじょう)」、「縁切状」、「手間状」と呼ぶこともある。
最古の離縁状の実物は1696年(元禄9年)のものだが<ref>
[[#高木侃2001|高木侃2001]] pp.98-99</ref>、
写しなら1686年(貞享3)のものが福井で見つかっている<ref>
[http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/08/tayori12/tayori12.pdf 福井県文書館・資料紹介1「最も古い三くだり半が文書館に」]
</ref>。

[[小田原藩]]では離縁には証文を必要とするというお触れが1669年(寛文9年)にあった。
「向後女房離別いたし候者これあり候はば、自筆にてさり状を遣わすべく候、・・・これ以後かようの証文これなく離別いたし候と申し候とも、御立なられまじき由、仰せでられ候<ref>
[[#高木侃1992|高木侃1992]] p.84
</ref>」と。
このときの小田原藩主[[稲葉正則]]は1657年(明暦3年)から[[老中]]で、さらに老中首座から後に[[大政参与]]にまで登った大物である。この方針は幕府の方針だった可能性もある。この当時の幕府の法令(御触れ)は諸藩に伝えられ、特に親藩・譜代ではおおむね右へならえする。ただし年代を超えて一貫したものではなく正式な記録としても蓄積はされていない。それは[[徳川吉宗]]による[[享保の改革]]の目玉のひとつ、1742年(寛保2年)の[[公事方御定書]]を待たなければならない<ref>
[[#笠谷和比古1994|笠谷和比古1994]] pp.131-176
</ref>。
1684年に京都で刊行された用文章(実務文例集)『願学文章』にはすでに「離縁状」の雛型が載っている。

=== 縁切寺への幕府の態度 ===
江戸時代ほどホンネとタテマエの落差が激しい時代は無かったと云われる<ref>
[[#大石慎三郎1995|佐藤常雄1995]] p.118
</ref>。
例えば妻の不義密通など言語道断であり「[[公事方御定書]]」の下巻「御定書百ヶ条」では「死罪」<ref group="注">
「死罪」は死刑の中でも重く、死体は山田淺左衛門が刀の試切りに使う。更に死体は埋葬されず取り捨てられる([[#長田かな子2001|長田かな子2001]] pp.194)。
</ref>。
夫が妻と間男を重ねて4つにしても(つまり二人とも殺しても)お咎めなしてある。
しかし密通がバレてもほとんどは元の鞘に納まるか、あるいは先の「仲人・親類・五人組等の介入・調整による内済離縁」つまり示談による離婚になっている<ref>
[[#長田かな子2001|長田かな子2001]] pp.198-202
</ref>。
夫が訴え出た場合でも、役人に説得されて「夫疑相晴、申分無之」と記録に書かれて訴えは下げられ、内済離縁で決着する場合がほとんどだという<ref>
[[#高木侃1992|高木侃1992]] pp.233-235
</ref>。

しかし幕府奉行所のお白州までくるとそこはタテマエの世界である。
江戸時代初期には妻が夫を嫌うこと自体が不届とされて、1662年の判決においては「髪を切ってでも離婚したい」という妻の訴えを拒否している。
妻が縁切りを求めて東慶寺に駆け込むと言う事自体も嫌忌した<ref>
[[#高木侃1992|高木侃1992]] p.128
</ref>。
1688年(貞享5年)2月14日の東慶寺への妻の駈込に対する幕府の判決に「不届きではあるが足掛け三年の間比丘尼を務め、東慶寺から離婚の旨訴え出れば離婚だけは認めるが妻の再婚は認めない」というものがある<ref>
[[#高木侃1992|高木侃1992]] p.128
</ref>。
縁切寺三年勤と言っても東慶寺では足かけ三年、実24ヶ月であったが、それはこの前例を踏襲したものと思われる。
「公事方御定書」以前であるので、判決にバラツキはあるが徐々に軟化していったらしいこと、特に「妻の再婚は認めない」という部分が消えてゆくことが後の「律令要約」を見るとわかる。

東慶寺が離縁状を取るようになったのは1700年前後であることが寺役人が1745年(延享2)に寺社奉行に提出した寺例書でわかる。そこにはこうある<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.116
</ref>。
{{Quotation|
以前は離縁証文も差し出させず、当山へ入れ二十四ヶ月相勤めれば縁は切れてきたが、下山した女に元の夫が難渋申しかけ、出入りに及んだので、寺社奉行永井伊賀守に仰せつけられて以来、縁切証文並びに親元の証文を差し置き申す。
}}
永井伊賀守とは[[永井直敬]]であり、寺社奉行であったのは元禄7年(1694年)から10年間である。
趣旨は1669年(寛文9年)の小田原藩のお達しと同じである。足掛3年経っても夫が納得せず「出入りに及ぶ(訴え出る)」ことがあったので、そのような遺恨を残さぬように縁切奉公・寺法離縁の場合も夫から離縁状を取れと今でいう行政指導が有ったということである。この古文書から、東慶寺が離縁状をきちんと取りだした時期と、それ以前おそらく17世紀後半から「駈込み」を受け入れていたこと、さらに幕府・寺社奉行がそれを承認していたことがわかる。
東慶寺も1720年頃には幕府、特に江戸町奉行の反感を買うが、これは妻の駆込み後、直ちに飛脚が離縁状を請求したことが幕府、特に江戸町奉行の反感を招いたという<ref>
[[#高木侃1992|高木侃1992]] p.128
</ref>。

「律令要約」に「夫を嫌い、家出いたし、比丘尼寺へ欠入り、比丘尼寺へ三年勤め、暇出で候旨訴うるにおいては、親元へ引き取らす」と書かれたのは1741年(寛保元年)である。
1688年(貞享5年)の幕府の判決にあったような「妻の再婚は認めない」という部分が無くなっている。
1762年(宝暦12)には「縁切寺は東慶寺と満徳寺に限る」との寺社奉行所の発言が満徳寺関連文書に以下のように記録される<ref>
[[#高木侃1992|高木侃1992]] pp.124-125
</ref>。
{{Quotation|
右二ヶ寺(東慶寺と満徳寺)公儀より仰せ出されはこれなく候えども、古来より寺法右の通りにてこれあり候間、縁切せ然るへき由、尤も都(すべ)て尼寺右の通りにて申す訳にてはこれなく候。
}}

更に後の時代には、あわや縁切寺法の断絶かという場面が幕府の一喝で救われたということもあった。
先にも触れたが 1802年(享和元年)に蔭涼軒主耽源尼が寺の御朱印を円覚寺に預けて隠居し実家へ戻ってしまう。
東慶寺を預けられてしまった円覚寺は、当分の間、東慶寺の縁切寺法を中止すると決めてしまった。このとき寺社奉行の松平周防守が円覚寺の僧を呼び出して役人に叱責させた記録が円覚寺に残る。そこには「欠入(駆込)寺東慶寺に限り候に、それ(駆込女)を断り候はば、円覚寺より日本中へ触差出候様可然」と<ref>
[[#井上禅定1995|井上禅定1995]] pp.71-72
</ref>。
この「ならば日本中に駆込中止の触れを出せ!」との叱責に慌てた円覚寺は縁切寺法の継続させることにしたという一件である。
また、東慶寺の縁切寺法に従わない、寺法離縁状を書かない強情夫を寺社奉行が呼び出して仮牢で脅すというようなバックアップも行っている。

=== 東慶寺の寺法手続き ===
以下はあくまで江戸時代後期の院代法秀尼の頃で、手続きが整備された段階の話である。この時期は東慶寺でも、もうひとつの縁切寺である[[満徳寺]]でも、ほとんどは「内済離縁」である。
事例は様々で、夫が反省して復縁した例、夫が嫌いな訳ではないけど姑がなどというのもある。

==== ・身元調べ・女実親呼出 ====
駆け込みがあると即座に入寺させるのではなく、御用宿(東慶寺では三件あった)へ預け、まず「身元調べ」を行い「女実親呼出」となる。この呼出状は妻の実家の名主に届けられる。
出頭した親に対し娘に復縁を勧めさせる。どうしても別れたいとなれば、親に夫方と掛け合って内済離縁(示談)にするよう伝える<ref>
[[#高木侃1992|高木侃1992]] p.130
</ref>。
「女実親呼出」を受けた駈込女の実家が、東慶寺へ来る前に夫と交渉して離縁状をとって「内済離縁(示談)」を済ませてしまうこともある。離婚に不承知だった夫も、東慶寺に駈込まれたとなれば勝ち目はないと諦めることが多い。

==== ・出役達書 ====
駈込女の実家による「内済離縁(示談)」が不成功である場合、それ以降が満徳寺と大きく違う。東慶寺では寺役人を夫方名主宅に出張させるが、その前に飛脚が「出役達書」(でやくたっしがき)<ref group="注">
「他行止達書」(たぎょうとどめたっしがき)ともいう。意味としてはこちらである。この日は他所へ行かずに家に居ろと。
</ref>
を夫方名主宅へ届ける。内容は「誰々妻の駈込みの件で、松岡御所の役人が何日に行くので、夫ともども家にいるように」というお達しである。今風に言えばただのアポ取りだがその差出人は松岡御所の役所である。多くの場合菊桐御紋の御用箱に入れて届けられる。
飛脚も心得ていて、抵抗するとこの後どんな大変な目に遭うかと云い内済離縁を薦める。「出役達書」で厄介事に巻き込まれた夫方名主も必死で内済離縁の仲介をする。
この効果は絶大でほとんどはこの段階で内済離縁が成立する<ref group="注">
このとき夫方は2通の離縁状を作成し、1通は妻に、もう一通はその写しとして東慶寺に差し出す。この2通とも現存する例が1例だけある。写しの方は東慶寺旧蔵文書(小丸文書)で、もう一通は研究者の高木侃が古書店から入手した。同じ筆跡で字配りも同じである。違うところは、東慶寺に差し出す写しに良質の紙を使い、妻に渡した原本は横帳の白紙を用いていており、折り線や綴じ穴が残っている([[#高木侃1992|高木侃1992]] p.132-136)。
</ref>。
半強制だが形式上は内済離縁(示談)であるので駈込女は寺に入ることなく、御用宿から実家に帰れることが出来た。

==== ・出役・寺法離縁 ====
それでも離縁状を書かないと、本当に「出役」となる。
これ以降が「寺法離縁」である。
東慶寺の寺役人が寺法書を持って夫方名主宅へ出向き「寺法書」を名主に渡す。
名主側のマニュアルにも、万一菊桐御紋の文箱が届いたら、箱を開けずに神棚に飾って、即座に夫に離縁状を書かせるべしと書いてある例がある<ref>
[[#井上禅定1995|井上禅定1995]] p.103
</ref>。
相手が松岡御所では勝ち目は無いし厄介ごとが長引くと大変だという訳である。

寺役人が出向くということは「駈込んだ女房は東慶寺が預かり、確実に三年(足掛け)は寺から出さない」というである。おまけに「菊桐金紋の御所寺の寺法である、御所の書式に従って離縁状を書け!」と。それでも離縁状を書かないと寺社奉行吟味となり、奉行所は強情な夫には「仮入牢」で脅す。
幕府を頼れるところが東慶寺・満徳寺とその他の「夫の手に負えぬ場所」の最大の違いである。
恐れ多い「寺法書」は夫が書いた「寺法離縁状」とともに返すのが決まりだから、夫がそれを書かない限り名主宅におかれる。
名主にとっては頭痛の種である。
<br />満徳寺と違うところは、「出役」以降は、夫が離縁状を書いてもそれは鎌倉松岡御所様お役所、つまり東慶寺宛であって駈込女房には渡されず、足かけ三年24ヶ月後にやっと駈込女房は離縁状を手にして誰と結婚してもよいことになる。一方、夫は離縁状を書きさえすればすぐに誰と再婚してもよい。
以下に今東慶寺に残る中で最古の寺法離縁状をあげる。1738年(元文3年)のものである<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] p.203
</ref>。
□は虫食い等で不明な部分である。個々に若干の文言の違いはあるが、概ね同一の書式に従う。寺法離縁の場合は書かなければならないことが多いので三行半には収まらない。
{{Quotation|
     差上候証文之事<br />
一 私妻ゆつ御門内え欠入申候ニ付御届之
<br />
  御書壱通被下置、慥(たしか)に請取委細承知
<br />
  仕候。尤古来より御寺法之儀御座候ニ付
<br />
  以後共此女ニ付何方え縁組仕候とも
<br />
  □差構無御座候 為後日証文差上ケ□
<br />
  如件
<br />
      元文3三年三月卄七日   笠間村
<br />
   鎌倉松ヶ岡          当人 十兵衛(印)
<br />
      御所様           組合 (四人略)
<br />
       御役所         名主 市左衛門(印)
}}
上記のように東慶寺の寺法離縁の場合は、夫の書く離縁状は東慶寺宛であるので、24ヶ月後に女房が貰うのはその東慶寺宛離縁状の写しに寺役人が「このとおり間違いはない」と添書をしたものである。東慶寺に残るものは寺法離縁状の本物証文で、書写添書をしたものは残らない。離婚妻に渡されるからである。上記とは別の離縁状だが、離婚妻に渡された書写添書の離縁状が一通発見されている。
添え書きは以下の通りである<ref>
[[#高木侃2001|高木侃2001]] p.159
</ref>。
{{Quotation|
右本文之通り六右衛門□差出候、本書先例之通り
<br />
当山江取置、写書相渡し申候、以上
<br />
                   当寺役人
<br />
                     幸田弥八郎(印)
}}
この古文書は1856年(安政3年)の「信州の駆け込み女てる」の事例<ref>
[[#井上禅定1955|井上禅定1955]] pp.152-153
</ref>
であり、東慶寺宛の離縁状の書写添書を離婚妻に渡すことが先例であったことを初めて明らかにしたものである<ref>
[[#高木侃2001|高木侃2001]] p.160
</ref>。
「てる」の実家は信州筑摩郡堀之内村の名主を何代にもわたって勤めた高70~80石の豪農であり、その[http://www.asahi-net.or.jp/~ps5t-hruc/ 本棟造の屋敷]は今も残り重要文化財に指定されている。
「てる」の夫は記録に残る限りでは「妻の実家の金だけが目当ての性悪な夫」であり、この夫婦は江戸に出ていて、そこから東慶寺に駆込んだ。
この一件は東慶寺側と女の実家側の双方に残り、事件のほぼ全容が明らかになっている。
この夫婦の江戸の住まいは[[夏目漱石]]の父、馬場下横町の名主小兵衛配下の友七店である。夫は「古来御免の寺法」に従わず、寺社奉行に召し出されるという難事件であった。「てる」は24ヶ月の縁切奉公のあと実家に戻り、その後東慶寺に[http://www.tsushima-bunka.jp/map/kougei/map000240.html 鑿子(きんす)]を寄進している<ref>
高木侃「東慶寺と夏目漱石」『季報東慶寺』2013夏号
</ref>。

==== ・出入三年満二十四ヶ月の縁切奉公(作成中) ====
駈込女は寺に入ると言っても出家する尼になるということではない。24ヶ月後には寺を出て誰とでも結婚できる。ここがよく誤解されると先々代住職の井上禅定が書いている。

== 現代・明治以降(作成中) ==

=== 尼寺・縁切寺法の終焉 ===

=== 中興釈宗演と鈴木大拙 ===

=== 釈宗演以降の住職 ===

=== 現在 ===


==文化財==
==文化財==
===重要文化財===
*木造聖観音立像 - 鎌倉市西御門にあった廃寺・太平寺(尼五山の第一位であった)旧蔵の像。鎌倉時代後期の作。像の表面には土紋(どもん)装飾という、型に詰めた粘土を貼り付けた、鎌倉地方特有の技法が見られる。
*初音蒔絵火取母(はつねまきえ ひとりも) - 「火取母」は香炉の一種。『[[源氏物語]]』に題材をとった蒔絵を施している。室町時代作。本作品をはじめ、東慶寺に伝わる蒔絵遺品は20世住持(豊臣秀頼娘)天秀尼の所持と伝える。
*葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱(ぶどうまきえらでん せいへいばこ) - いわゆる「南蛮漆芸」の遺品。「聖餅箱」はキリスト教のミサで用いる道具で、なぜ仏教寺院である東慶寺に伝わるかは定かでない。新編相模国風土記の東慶寺寺宝の中に出てこないのでもっと新しい時代に東慶寺に寄贈されたものと考えられる。
*東慶寺文書 773通20冊(附:文箱1合、鏧子1口) - 離縁関係文書(いわゆる「三下り半」)などを含む。


=== 木造聖観音立像(重文) ===
===その他===
[http://www.tokeiji.com/heritage/sho-kannon/ 木造聖観音立像]はもともとは鎌倉市西御門にあった太平寺(尼五山の第一位、廃寺)の本尊。鎌倉時代後期から南北朝時代の頃(14世紀)の作。像の表面には土紋(どもん)装飾が残っている。土紋装飾は落雁の様に花や葉の型に詰めた粘土を貼り付けるもので南宋伝来の装飾技法である。日本では鎌倉時代後期から南北朝時代ぐらいの鎌倉、あるいはその文化圏にしか見られない。かなり剥げ落ちてはいるが、切金(きりかね)といって金泥の上に金箔を細く切って貼り付けてあるところもある。常設で宝蔵に安置されている。
*木造水月観音菩薩半跏像<ref>文化財指定名称や寺の公式サイトでは「半跏像」とされているが、右足先を左腿に乗せておらず、正しくは「坐像」と称すべきものである。</ref> - 神奈川県指定文化財。水月堂に安置する。鎌倉時代の作。一般的な仏像と異なり、水墨画から抜け出てきたような自由な姿態の像である。


=== 初音蒔絵火取母(重文) ===
==画像==
[http://www.tokeiji.com/heritage/hatsune-hitorimo/ 初音蒔絵火取母](はつねまきえ ひとりも)は室町時代の作。「火取母」はおおまかに云えば香炉であるが、平安時代の香炉は金属製の薫炉とそれを納める火取母、そして火取母の上に被せる金属製の薫籠(くんこ)からなる。江戸時代には火取母の中に金属製の落としを入れただけの簡略香炉が多くなるが、これは薫炉、薫籠が備わっており平安時代以来の香炉の形をきちんと伝えている。この香炉は衣類に香をたき染めるために使用したもので、この香炉の周りに伏籠(ふせご)という木の枠を置き、そこに衣類を被せて香を炊き込めていた<ref>
;著名人の墓
小松大秀 「東慶寺の伝来蒔絵から・初音蒔絵火取母」『季報東慶寺』2012冬号
</ref>。
「初音」とは[[源氏物語]]の巻名である。「初音の巻」の「年月を松に曳かれてふる人に今日鴬の初音聞かせよ」を歌絵とり入れ、火取母の蒔絵の図柄の中に「はつね」「きか」「せよ」の文字を松梅の間に配している。本作品をはじめ東慶寺に伝わる蒔絵遺品は高台寺蒔絵に対して、東慶寺伝来蒔絵を略し東慶寺蒔絵ともいわれる。豊臣秀頼娘[[天秀尼]]の所持とも伝えるがそれぞれの由来は不明である。

毎年秋に2ヶ月間開かれる東慶寺伝来蒔絵展に展示される。

=== 葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱(重文) ===
[http://www.tokeiji.com/heritage/raden-seihei-bako/ 葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱](ぶどうまきえらでん せいへいばこ)はいわゆる「南蛮漆芸」の遺品。「聖餅箱」はキリスト教のミサで用いる道具で、鎖国以前にはヨーロッパからの注文で大量に作られていた。ただしこれがなぜ仏教寺院である東慶寺に伝わったかは定かでない。新編相模国風土記の東慶寺寺宝の中に出てこない。東慶寺の1903年(明治36年)の「什器控」には「ぶどう模様丸弁当箱」とありキリスト教のミサの道具とは認識されていなかった。そう認識されたのは先々代の住職井上禅定師が専門家とともに眠っていた漆器の埃を払って以降のことである。今日本にある「南蛮漆芸」は一度海外に輸出した漆芸品が近年戻ってきたものがほとんどであるが、この聖餅箱は日本からは出ずにずっと東慶寺に残っていたという非常に珍しいケースとされる。

かつては宝蔵に常設であったが、文化庁の指導で毎年秋に2ヶ月間開かれる東慶寺伝来蒔絵展のときのみ展示されるようになった。

=== 東慶寺文書(重文) ===
[http://www.tokeiji.com/heritage/nikki/ 東慶寺文書] は773通20冊(附:文箱1合、鏧子1口)からなる。離縁関係文書(いわゆる「三下り半」)などを含む。同寺は1515年(永正12年)に火災があり、それ以前の文書はほとんど無いが、17世旭山尼の頃からの文書が残っている。中には旭山尼の姉青岳尼が住持であった尼五山第一位太平寺の廃寺を伝える北条氏綱の手紙や、聖観音立像を取り返してきた蔭凉軒要山尼への感謝とねぎらいの手紙などもある。江戸時代については日記帳に駆入りの月日、親元、夫方、媒人等の呼出、到着、役所での取調べ、落着引取までの始末が記録されており、研究上の重要な史料である。
明治時代の東大史料編纂所の調査では、他の年度の日記帳も含めて大量の古文書の存在が確認されていたが、関東大震災やあるいは混乱時に屑紙として襖屋に渡るなどして、現在かろうじて東慶寺に残るものが重要文化財となった。
ただし相当傷んでいるものもあり、東慶寺は2013年時点でその修復を計画し基金を募っている。

=== 木造水月観音菩薩半跏像 ===
[http://www.tokeiji.com/heritage/suigetsu-kannon/ 木造水月観音菩薩半跏像]は神奈川県指定文化財で、水月堂に安置する。かつては南北朝から室町時代頃のものとみられていたが近年の調査で鎌倉時代も13世紀後半の作と修正されている。一般的な仏像と異なり南宋風の、水墨画から抜け出てきたような自由な姿態の像である。毎年春に行われる東慶寺仏像展のときは松ヶ岡宝蔵で拝観できる。なお、文化財指定名称では「半跏像」としているが右足先を左腿に乗せていない。

=== 木造観音菩薩半跏像 ===
[http://www.tokeiji.com/heritage/mokuzou-kannon/ 木造観音菩薩半跏像] は鎌倉市指定文化財である。鎌倉時代・14世紀。写実的ながら水月観音像ほどくつろいだ印象はなく、同じ鎌倉時代でも制作年代に開きがあるとされる。

==境内(作成中)==

*'''本堂'''  <br />

*'''水月堂''' <br />

*'''書院''' <br />

*'''寒雲亭(茶室)''' <br />

*'''白蓮舎(立礼茶室)''' <br />

*'''松ヶ岡宝蔵''' <br />

*'''庭園''' <br />

==墓地==
当寺は文化人の墓が多いことでも有名で、墓地には[[鈴木大拙]]のほか、[[西田幾多郎]]、[[岩波茂雄]]、[[和辻哲郎]]、[[安倍能成]]、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[高木惣吉]]、[[田村俊子]]、[[高見順]]、[[前田青邨]]<ref group="注">
前田青邨の墓は横浜市の[[總持寺]]にもある。
</ref>、
[[川田順]]、[[レジナルド・ブライス]]らの墓がある。また、前田青邨の筆塚、[[旧制第一高等学校]]を記念する向陵塚がある。

;著名人の墓・画像
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File:NishidaKitaro20111224.jpg|[[西田幾多郎]](哲学者、1870 - 1945)
File:NishidaKitaro20111224.jpg|[[西田幾多郎]](哲学者、1870 - 1945)
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</gallery>


==交通==
==拝観等==
*JR[[横須賀線]][[北鎌倉駅]]下車徒歩3分
*JR[[横須賀線]][[北鎌倉駅]]下車徒歩3分
*3~10月:8:30~17:00 11~2月:8:30~16:00 拝観料200円

==拝観==
*3~10月:8:30~17:00 11~2月:8:30~16:00 拝観料100円
*松ヶ岡宝蔵:9:30~15:00 入館料300円(月曜日は休館)
*松ヶ岡宝蔵:9:30~15:00 入館料300円(月曜日は休館)
*水月観音拝観は電話・ハガキで要予約
*水月観音拝観は電話・ハガキで要予約。ただし毎年春に行われる東慶寺仏像展のときは松ヶ岡宝蔵で拝観できる。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 出典 ==
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
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* {{Cite book|和書 |ref =鎌倉市史・寺社編 |last = 鎌倉市史編纂委員会 |title = 鎌倉市史・寺社編 |year = 1959/10 |publisher =吉川弘文館}}
* {{Cite book|和書 |ref =鎌倉市史・史料編34 |last = 鎌倉市史編纂委員会 |title = 鎌倉市史・史料編・第三第四 |year = 1958/03 |publisher =吉川弘文館}}
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* {{Cite book|和書 |ref =宮本常一1984 |last = 宮本常一 |title = 家郷の訓 |year = 1984/7 |publisher =岩波文庫}}
* {{Cite book|和書 |ref =宮本常一2001 |last = 宮本常一 |title = 女の民俗誌 |year = 2001/9 |publisher =岩波現代文庫}}
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* {{Cite book|和書 |ref =網野善彦2005-1 |last = 網野善彦 |title = 中世の非人と遊女 |year = 2005/2 |publisher =講談社学術文庫}}
* {{Cite book|和書 |ref =網野善彦2005-2 |last = 網野善彦 |title = 日本の歴史をよみなおす (全) |year = 2005/7 |publisher =ちくま学芸文庫}}
* {{Cite book|和書 |ref =今昔物語集4 |last = 山田孝雄他・校注 |title = 日本古典文学大系〈第25〉今昔物語集五 |year = 1963 |publisher =岩波書店}}
* {{Cite book|和書 |ref =今昔物語集5 |last = 山田孝雄他・校注 |title = 日本古典文学大系〈第26〉今昔物語集五 |year = 1963 |publisher =岩波書店}}
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* {{Cite book|和書 |ref =中村修也2004 |last = 中村修也 |title = 今昔物語集の人々 平安京篇 |year = 2004/11 |publisher =思文閣出版}}
* {{Cite book|和書 |ref =西和夫2012 |last = 西和夫 |title = 三渓園の建築と原三渓 |year = 2012/11 |publisher =有隣堂}}


==関連項目==
==関連項目==
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*[http://www.tokeiji.com/ 松岡山東慶寺]
*[http://www.tokeiji.com/ 松岡山東慶寺]
*[http://maps.google.com/maps?f=q&source=embed&hl=en&geocode=&q=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9D%B1%E6%85%B6%E5%AF%BA&aq=0&sll=35.337049,139.546137&sspn=0.002547,0.005504&ie=UTF8&hq=&hnear=T%C5%8Dkei-ji&layer=c&cbll=35.334844,139.545611&panoid=WR9Xfjbmmz3JuYgLmbcoEw&cbp=12,316.07,,0,6.84&ll=35.334799,139.545513&spn=0.001438,0.00317&z=14&utm_campaign=en&utm_medium=et&utm_source=en-et-na-us-gns-svn 日本東慶寺ストリートビュー]
*[http://maps.google.com/maps?f=q&source=embed&hl=en&geocode=&q=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9D%B1%E6%85%B6%E5%AF%BA&aq=0&sll=35.337049,139.546137&sspn=0.002547,0.005504&ie=UTF8&hq=&hnear=T%C5%8Dkei-ji&layer=c&cbll=35.334844,139.545611&panoid=WR9Xfjbmmz3JuYgLmbcoEw&cbp=12,316.07,,0,6.84&ll=35.334799,139.545513&spn=0.001438,0.00317&z=14&utm_campaign=en&utm_medium=et&utm_source=en-et-na-us-gns-svn 日本東慶寺ストリートビュー]
*[http://www.ktmchi.com/2013/07/0728-TK1.html 東慶寺・縁切寺の今昔展講演会]


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2013年10月12日 (土) 19:52時点における版

東慶寺

本堂
所在地 神奈川県鎌倉市山ノ内1367
位置 北緯35度20分6.88秒 東経139度32分44.27秒 / 北緯35.3352444度 東経139.5456306度 / 35.3352444; 139.5456306
山号 松岡山
宗派 臨済宗円覚寺派
寺格 鎌倉尼五山二位
本尊 釈迦如来
創建年 1285年(弘安8年)
開基 北条貞時覚山尼(開山)
正式名 松岡山 東慶総持禅寺
別称 縁切寺、駆込寺、駆入寺
札所等 鎌倉三十三観音32番
東国花の寺百ヶ寺 鎌倉10番
文化財 木造聖観音立像・初音蒔絵火取母・葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱(重文)他
法人番号 3021005001945 ウィキデータを編集
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東慶寺(とうけいじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院である。山号は松岡山、寺号は東慶総持禅寺である。寺伝では開基は北条貞時開山覚山尼(かくさんに)と伝える。現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった。また江戸時代には群馬県満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていた。

歴史

鎌倉時代

東慶寺に残る「相州鎌倉松岡過去帳」(以下過去帳と略)によれば、「開山潮音院覚山志道和尚」とある[1]。 覚山尼は秋田城介安達義景の娘で母は北条時房の娘。鎌倉幕府の8代執権北条時宗の夫人であり9代執権北条貞時の母になる。時宗の臨終の際、無学祖元を導師として落髪(出家)したときに共に落髪付衣し、覚山志道大姉と安名した[2]。 寺伝によれば、北条時宗死去の翌年の1285年(弘安8年)に9代執権北条貞時を開基、覚山尼を開山として建立したとある[3]。 ただしそう伝える東慶寺の文書は江戸時代のものであり、東慶寺に関する鎌倉時代の古文書は残っていない。現存する古文書で覚山尼を東慶寺開山とするもっとも古いものは戦国時代天文頃の『五山記考異』である[4]

鎌倉時代の東慶寺に関する確実な史料は古文書ではなく鐘の銘文である。 鎌倉幕府滅亡の前年1332年(元徳4年)に東慶寺の大鐘が完成している[注 1]。 その大鐘の檀那は北条時宗と覚山尼の間に生まれた北条貞時の妻・覚海円成尼である。覚海尼は覚山尼と同じ安達氏の出であり覚山尼の姪でもある。 その銘文には四世住持果庵了道尼の名がある。この住持の出身は不明であるが北条氏の俗縁にあたる人と見られている[5][6]。 四世とあるので寺の開山を覚山尼とする伝承とも矛盾しない。 また、その銘文には住持比丘尼の他に、首座(しゅそ)比丘尼、都寺(つうず)比丘尼の二名の名が見える。南宋の禅宗寺院においては首座は僧堂管領、都寺は監寺総括の役僧 [7] [8] であるので、それらの「役」が実務を伴わない肩書きであったにせよ、この時点でそれなりの規模をもった寺であったことが判る。 このことから東慶寺は鎌倉時代からあり、北条得宗家所縁の尼寺であったことは確実とされる。

なお、「鎌倉物語」には頼朝の伯母の美濃局の創建で、覚山尼によって禅宗に改められたという伝があるが、鎌倉時代を通じてこれを証明する史料はなにもない[9]

南北朝時代

東慶寺の「過去帳」には、四世住持果庵了道尼のあと南北朝時代に「後醍醐天皇姫宮、入当山薙染受具、応永三丙子八月八日巳刻入寂」[10]、つまり後醍醐天皇の皇女用堂尼が五世住持となったとある。「由緒書」[11] ではこの用堂尼以来「松岡御所」と称され「比丘尼御所同格紫衣寺なり」とする。 用堂尼は兄の護良親王の菩提を弔う為に東慶寺に入ったとされ、護良親王が殺された二階堂の地(当時東光寺、現鎌倉宮周辺)を東慶寺が領有していたのはその為という。護良親王の墓所・理智光寺等は少なくとも江戸時代には東慶寺が管理しており、明治時代の鎌倉宮創建に際してその土地を寄進している。 ただし東慶寺の「過去帳」および「由緒書」は江戸時代のものであり、それ以前に用堂尼を記した古文書は現存しない。

室町から戦国時代

同寺は1515年(永正12年)に火災があり、本尊の墨書銘に「本尊計出候、菩薩座光取出」とあるので、それ以前の古文書のほとんどはその際に焼失したと思われる[12][13][注 2]。 「御所」の称号がある最古の史料はその火災から数十年後の北条氏康の書状である[14][15][注 3]。 五世用堂尼以降の室町時代の住持は16世までは過去帳に名前のみ記されているだけで、出身も没年も不明である。 寺以外の文書からは室町時代には鎌倉尼五山第二位とされていたこと、代々関東公方古河公方の娘が住持となっていることがわかる。 1454年(享徳3年)の「鎌倉年中行事」には「太平寺長老公方様姫君」とともに「松岡長老」が正月にまだ鎌倉に居た関東公方足利成氏に謁することになっており、「松岡長老」が誰かは判らないものの関東公方家の女性であろうといわれている[16]。 「足利系図」によれば16世は古河公方足利政氏の娘であり足利成氏の孫にあたる[17]

17世旭山尼は過去帳によると足利義明の娘である。足利義明は足利政氏の子で「小弓公方」を自称して古河公方と対立し、後北条氏と戦い戦死した。その旭山尼は1557年(弘治3年)に示寂とある[18][19]。 この17世旭山尼の頃の古文書は東慶寺に現存する。17世旭山尼の姉は尼五山第一位太平寺の住持青岳尼であったが、安房里見義弘に連れられて本尊を持って出奔し、義弘の妻となった事件があった。当時鎌倉を領していた北条氏綱が東慶寺の塔頭蔭凉軒の要山尼[注 4] に里見氏との交渉を依頼し、取り返した太平寺本尊がいま東慶寺宝蔵にある聖観音立像である。 なお、この事件により太平寺は廃寺となりその仏殿は後に円覚寺に移された。現在の国法舎利殿である。

18世瑞山尼は足利政氏の長男で足利義明の兄にあたる古河公方足利高基の娘[20] であり、示寂は1588年(天正16年)6月10日である。

19世瓊山法清尼[注 5] は小弓公方足利義明の子足利頼純の娘[21] であり、17世旭山尼や太平寺最後の住持青岳尼の姪にあたる。18世瑞山尼死去の後、後任を安房の足利家に求めたときの北条氏直の1588年(天正16年)の東慶寺宛印判状が残るが、「あわの国にゆうちゃく(幼弱)の御かた」とあり、示寂の1644年(寛永21年)まで56年間あるので、かなり幼い頃に東慶寺住持となったと思われる[22]

寺領

鎌倉時代には北条氏の、室町時代には関東公方戦国時代には後北条氏の庇護を受けているが、徳川家康以前の寺領についてははっきりしない。鎌倉時代については全く判らない。 室町時代には関東公方足利氏満の下総国東庄小南郷の勝福寺への寄進状[23] が東慶寺文書に有るので、勝福寺の寺領を東慶寺が引き継いだとも推測できるが詳細は不明である。 北条氏綱の書状に上総国君津郡萬里谷のことが出てくる[24]。 1550年(天文19年)に「松岡領前岡・野場百姓中」に対する北条氏康の家臣石巻家貞の奉書が残る[25]。 松岡領とは東慶寺領であり、前岡は山内荘舞岡。野場は同野庭である。 1551年(天文20年)には東慶寺住持17世旭山尼が「いんりょうへ」として蔭凉軒要山尼に鎌倉尼五山第三位の国恩寺の寺領を「先々の如く」と安堵する黒印状[26] が残っているので、国恩寺はそれ以前に廃寺になって、東慶寺の寺領に組み込まれたらしいことは判るが、その国恩寺の寺領が何処であるのかは判らない。 東慶寺の寺領の全容が判明するのは徳川家康の関東入りを待たなければならないが、そのときには下総国東庄小南郷も、上総国君津郡萬里谷も、山内荘の舞岡も野庭も出てこない。

1590年(天正18年)に後北条氏を下した豊臣秀吉に寺領を安堵[27] される。 それまで後北条氏が領していた関東においては、太閤検地が行われるのはその後である為に貫高・石高は明示されていないが「検地による出分をも領知せしむ」とある。 その翌年の1591年(天正19年)に関東移封時後、検地後の徳川家康が出した寺領寄進状には「先例の如く」二階堂86貫60文、十二所内20貫80文、極楽寺内6貫240文[28][29] とあり、この合計112貫380文を石高に換算すると450石、ほぼ500石となる[30]。 この寺領は、鎌倉の寺院では[注 6] 円覚寺の144貫に次ぎ、鎌倉五山第一位の建長寺96貫よりも多い。 建長・円覚以外の鎌倉五山は浄智寺6貫140文[31]、寿福寺5貫200文[32]、浄妙寺4貫300文[33] と二桁も違う[注 7]。 なお臨済宗以外では、日蓮宗関東総本山の本覚寺12貫、浄土宗鎮西派大本山の光明寺10貫までがかろうじて2桁以上でありそれ以外は一桁である[34]。 この東慶寺の寺領は江戸時代を通してほぼ維持される。

豊臣秀頼妻千姫と娘20世天秀尼

江戸時代には、豊臣秀頼の娘の天秀尼が、千姫の養女として東慶寺に入り、後に20世住持となった。なお、この天秀尼以降、東慶寺は幕府(寺社奉行)直轄の寺であり住持任命も幕府による[35]

天秀尼の薙染

東慶寺の「由緒書」には「大坂一乱之後、天樹院様(千姫)御養女に被為成、元和元年権現様依上意当山江入薙染、十九世瓊山和尚御附弟に被為成」[36] と記されている。 東慶寺の由来書に「薙染し瓊山尼の弟子となる。時に八歳」[37]とあり、また霊牌(位牌)の裏にも「正二位左大臣豊臣秀頼公息女 依 東照大神君之命入当山薙染干時八歳 正保二年乙酉二月七日示寂」とある。このうち「薙染」(ちせん)が「仏門にはいる、出家する」という意味である。従って、出家は大坂落城の翌年の1616年(元和2)、東慶寺入寺とほぼ同時期となる。 出家後の名は天秀法泰[注 8]

瓊山(けいざん)尼は前項で触れた東慶寺19世の瓊山法清であり、小弓公方足利義明の孫で父は足利頼純ある。その妹の月桂院は秀吉の側室で、秀吉の死後江戸に移り家康の娘正清院に仕えていた。東慶寺住職だった井上禅定は天秀尼の東慶寺入寺は「恐らく月桂院あたりの入知恵と推察される」[38] とする。 断絶間際の関東公方家を、古河公方足利義氏の娘・足利氏姫(足利氏女)と、瓊山尼や月桂院の兄妹である小弓公方家の足利国朝を結婚させて、実高5千石ながらも10万石の格式の大名(喜連川藩)として存続させたのはこの月桂院の働きかけによる。なおこの月桂院が開いた月桂寺は18世紀に東慶寺と喜連川藩の仲裁役として登場する。

千姫の仏殿寄進と徳川忠長屋敷の移築

天秀尼が20世住持となった時期は1634年(寛永11年)以降、1642年(寛永19年)までの間である。1634年(寛永11年)以降というのは、東慶寺に伝える棟板の墨書銘からである[注 9]。 ここに「住持・法清和尚」「弟子・法泰蔵主」とあるので[39]、当時20代なかばであった天秀尼はまだ20世住持にはなっていなかったことになる。「蔵主」(ぞうす)は禅宗寺院の住持を支える役職のひとつ[注 10] である。

この棟板の墨書銘には住持の法清尼と弟子の天秀尼の他に歴史上有名な女性が二人登場する。千姫と、当時の将軍徳川家光の乳母・春日局である。 東慶寺の寺例書にはこのときに「駿河大納言様の御殿御寄付・・・客殿方丈等右御殿を以てご建立遊ばされ今に有[40]」とあり、このとき裏方として話を主導したのが春日局であろうと思われている[41] (実際棟板の裏に春日局の名がある)。 この寄進は当時の東慶寺の景観を一新するもので、千姫を通じた天秀尼と徳川家との強い関係を物語っている。 「駿河大納言」とは家光千姫と同様に淀君の妹崇源院を母にもつ徳川忠長であり、1633年(寛永10年)12月6日に28歳で切腹。その屋敷の一部が解体されて翌年東慶寺に寄進されたということになる。 なお、客殿、方丈の他に、街道に面した門もこのとき徳川忠長の「御殿」から移築されている。文書により一定しないが「由緒書」にはその他に仏殿、蔭涼軒の建物も「駿河大納言様御殿を引きせられ[42]」とあり、「新編相模国風土記稿」にもそのときの仏殿は「駿河亜相忠長卿の旧館を移し賜ひ、寛永11年10月御建立あり、其時の棟板を蔵せり」とある[注 11]

その仏殿(現在重要文化財)は1907年(明治40年)に横浜の三溪園に移築され現存する。その旧仏殿は1956年(昭和31年)に修理が行われ、その報告書は「仏殿の建立年代は詳ではない」とした上で「形式手法上、室町時代に属する」と述べている。 おそらく1515年(永正12年)の大火災[注 12] 後に建立されたものが「駿河大納言様の御殿御寄付」のときにその部材をもって修理されたのではないか[43] というのである。

それに対して鎌倉禅宗建築史の第一人者である関口欣也は、忠長卿の旧館を移したものは客殿と方丈。棟板は新築の仏殿のもの、1956年(昭和31年)の修理工事報告書にある「形式手法上室町時代」は様式論であり明確な根拠がある訳ではない。室町時代の要素も一部にあるが更に詳細に見るとやはり近世の特色を見せており、寛永11年という時代にふさわしいとする[注 13]。 西和夫も2012年時点でそれを支持している[44]。 なお、現在の旧仏殿の屋根は茅葺の寄棟造であるが、天保10年の「相中留恩記略」の境内絵図には寄棟造よりも格式が高い入母屋造に書かれており、「修理工事報告書」でも建立当初は入母屋造であって、現在の状態は後世の改修と推察している[45][注 14]

豊臣秀頼菩提の雲版

天秀尼の20世住持就任を1642年(寛永19年)以前とするのは、父秀頼(法名崇陽寺秀山)菩提のために「天秀和尚」が鋳造したとの銘文のある雲版が残されており、そこに寛永19年の日付があることによる。「和尚」は住持であることを示している。 先代の瓊山尼はこの頃存命であったが、この時点では隠居していたことになる。 雲版(うんばん)は、禅宗寺院で庫裏や斎堂などに掛け、食事・法要などの合図に打ち鳴らす雲形の板。鐘板(しょうばん)、打板(ちょうばん)、更に火版、長板、斎板などの別称がある。 青銅または鉄板製であるが、東慶寺のものは青銅である[注 15]。日本には鎌倉時代に禅宗とともに伝えられた。

会津四十万石改易事件

天秀尼の千姫を通じた徳川幕府との結びつきの強さを物語る事件に1639年(寛永16年)4月16日に始まる会津騒動、会津四十万石加藤明成改易事件がある。 天秀尼と会津四十万石改易の関係を記した史料は1716年(正徳6年)に刊行された「武将感状記[46]という逸話集である。

それによると、会津四十万石の加藤明成の家老・掘主水が主君明成と対立して脱藩し、妻子を鎌倉の東慶寺に預け、自身は高野山に逃げた。加藤明成は家臣を東慶寺に差し向け、掘主水の妻子を捕縛したのかしようとしたのか、それに対して天秀尼は「大いに怒りて、頼朝より以来此の寺に来る者如何なる罪人も出すことなし。然るを理不尽の族(やから)無道至極せり。明成を滅却さすか、此の寺を退転せしむるか二つに一つぞと 、此の儀を天樹院殿に訴へ」これによって会津四十万石は改易になったと。ただしこの話が記されている「武将感状記」は『雨月物語』まがいの話まであり全体としては信憑性に疑問があり、これだけで会津四十万石は改易と天秀尼の関係を史実とすることはできない。 ところが掘主水の妻は確かに東慶寺に駆け込んでおり、かつ天秀尼が義母千姫を通じて幕府に訴えてその助命を実現したこと、掘主水の妻は事件より30数年も後の1679年(延宝7年)10月19日に亡くなったことが、前住職井上禅定師の頃に明らかになった[注 16]。天秀尼はこの件で昭和55年に「神奈川県百傑」に選ばれている。

なおこの「武将感状記」の記述が正しいとすれば、そこに伝える「比丘尼の住持大いに怒りて」は、掘主水が加藤明成に殺された1641年(寛永18年)以降、改易される1643年(寛永20年)までの間となる。

天秀尼の示寂

天秀尼の示寂は、霊牌、および墓碑により1645年(正保2年)2月7日 であり、37歳の若さで死去したことが判る。その十三回忌に千姫は東慶寺に香典を送っている。 天秀尼の墓は寺の歴代住持墓塔の中で一番大きな無縫塔である。側に「台月院殿明玉宗鑑大姉」と刻まれた宝篋印塔があり、「天秀和尚御局、正保二年九月二十三日」と刻銘がある。天秀尼の死去の約半年後である。

東慶寺の前住職井上正道は「東慶寺にかなりの功績のあった人物、もしくは天秀尼が相当の恩義を感じていた、天秀尼にとっての功労者」「常に天秀尼のそばにいて、天秀尼を教育した人物」「天秀尼の心の拠り所であり、天秀尼の心の支えであったのではないか」と推測しているが、寺にはこの人物についての文献、伝承も一切なく、ただ墓のみが残っている。 歴代住持墓塔のエリアに在家(出家していない人)の宝篋印塔があることは極めて異例である。

天秀尼以降の住持

21世永山尼

天秀尼の示寂の後約25年は住持不在であった。と言っても蔭涼軒、海珠庵等の塔頭に尼は居たが、その格式故に誰でもという訳にはいかない。代々の住持は関東公方足利氏の娘であり、17世旭山尼、18世瑞山尼、19世瓊山尼の頃は足利氏は実力は衰えてはいても「公方」、「御所」の娘、孫娘である。19世瓊山尼も先述の棟板墨書銘に「住持関東公方家左兵衛督源頼純息女法清和尚」と「関東公方家」を名乗っている。天秀尼は「右大臣従二位豊臣朝臣秀頼公息女」であるので格式は十分であったが、それらに劣らぬ者となると適格の女人が得られず寺社奉行も困却する[47]

19世まで代々住持を出していた足利氏は古河公方、小弓公方に分裂していたが、先の瓊山尼の妹月桂院の奔走により、古河公方足利義氏の娘足利氏姫と、瓊山尼や月桂院の兄妹である小弓公方家の足利国朝の結婚によりかろうじて一本化され、喜連川家として存続していた。この喜連川家は御所号まで許された徳川幕府下で他に例をみない実高5千石の特殊な藩である[注 17]。 その喜連川藩が蔭涼軒や海珠庵等東慶寺の塔頭の尼を経由して幕府寺社奉行に請願して、天秀尼の示寂の後10年後に喜連川尊信の娘が17歳で入寺する[48]。 21世永山尼として住持となったのはそれから15年後の1669年(寛文9年)である[49]

22世玉淵尼

永山尼の示寂後約21年間再び住持不在となった。1728年(享保13年)に高辻前中納言の息女が最後の住持予定者として入山するが、このとき古例を踏んで一旦喜連川茂氏の養女となり、そのうえで東慶寺に入っている[50]。 この高辻前中納言息女が22世住持玉淵尼となったのは1737年(元文2年)であるが、元々病弱であったらしく、住持となって直ぐに京へ戻っている[51]。 以降明治に至るまでの130年間、東慶寺には尼は居たが住持はいないかった。

蔭涼軒の院代時代

蔭涼軒

東慶寺には時代により複数の塔頭があったが蔭凉軒(いんりょうけん)はその筆頭であり、西堂の法階をもつ重職である[注 18]。 本稿でも太平寺本尊・聖観音立像を取り戻す交渉を行った蔭凉軒要山尼が出てくるがその要山尼が大永年間(1521-1528年)頃に開いた。要山尼は道号に「山」がつくことから足利氏の出身と推定されている[52]。 天秀尼示寂後の無住持時代は蔭凉軒五世法孝尼が院代(住持代行)を努めている。 東慶寺に徹宗法悟(てっしゅうほうご)尼像が残るが、この徹宗尼も蔭凉軒の庵主[注 19] であり21世永山尼の示寂後、そして22世玉淵尼の帰京後も院代を努めた。以降明治に至まで蔭凉軒の庵主が院代を勤めている。

寺役人

・喜連川代官

寺役人とはあまり聞き慣れない言葉だが、近世において比較的大規模な寺領をもつ寺社は、領主として領民支配を行い年貢をとっており、その為の統治機構を有している。その頂点はもちろん住持であるが、実務は代官、寺侍・寺役人と称する俗人が行っている。東慶寺もほぼ500石という領地を持っており、御所寺という格もあって寺役所があり寺役人を置いていた。寺役人の出身は判るものと判らないものがあるが、身分としては武士身分である。東慶寺では不明であるが、やはり寺役人を置いた出羽国宝幢寺の例[53] では「武門役服」である継袴の着用が認められ「士分」・「徒士」・「足軽」という武家の階層に当てはめれば「士分」に相当する。

この永山尼入寺のときに喜連川藩より飯島左衛門重貞が付人として来た。これが喜連川藩から差し向けた最初の寺役人である[54]。 永山尼は1707年(宝永4年)に示寂するが、喜連川藩は13回忌まで「霊供等世話致し度段」と永山尼の付人代官飯島覚右衛門を東慶寺に残し、13回忌が終わってもそのまま寺役人を東慶寺に置く[55]。 喜連川藩は家格は高くとも実際には5千石の小領主であり、約500石の東慶寺を差配することはかなり旨い話である[56][57]。 1787年(天明7年)に蔭涼軒法清尼等が、この喜連川藩の寺役人が東慶寺の収支を牛耳り横領を働くと円覚寺に訴え、円覚寺は寺社奉行に伺い、月桂寺[注 20] が中に入って調停し、喜連川の代官は引払いとなった[58]

・円覚寺被官

その後は円覚寺差配のもとに蔭涼軒主が院代として寺務執行し、寺役人は円覚寺紹介の被官が務めるが、そのあとも寺役人の不法はたびたび続いた。 5年後の1793年(寛政5年)には寺役人が境内[注 21] の松杉等の大木を盗伐し隣の浄智寺側に落とした事件があり、院代蔭涼軒は四人の寺役人に「遠慮(免職)申付け」たが、円覚寺が詫びを入れて張本一人のみの免職に止め、円覚寺役者[注 22]と院代蔭涼軒の名をもって、残る三人の寺役人に17ヶ条の申し渡しをしている[59]

東慶寺の寺役人は元々は円覚寺の縁で東慶寺に勤めた者だがこの頃には院代+円覚寺vs寺役人の対立で暗雲低迷する[60]。 1802年(享和元年)に蔭涼軒主耽源尼は寺役人の横暴に嫌気がさしたのか、寺の御朱印を持って円覚寺に駆け込んでしまい、その後円覚寺に寺の御朱印を預けて実家の旗本大久保家[注 23] へ戻ってしまうという事件があった[61]。 このとき東慶寺には蔭涼軒の他に清松院、永福軒という2つの塔頭があったが既に無住であり、東慶寺には住持ばかりか一人の庵主もいなくなってしまう。 清松院の留守番に老尼がひとりいただけである。 もはや寺とは言い難いが、しかし寺役人が東慶寺とその寺領を支配しており、翌1803年(享和2年)に寺役人は円覚寺と院代の不法を寺社奉行へ訴え出る[62]。 簡単に云うと東慶寺の御朱印を寺役人に戻せというものである。 「享和の訴訟」といわれる。 この裁判は寺社奉行阿部播磨守の屋敷で奉行列席の元で行われ、その尋問に寺役人は満足に答えられず「恐れいるばかりでは相済まぬ、返答致せ!」と寺社奉行脇坂淡路守[注 24] に詰問され[63] 寺役人は敗訴となる。ただし寺役人は東慶寺を追放された訳ではなく「右御達の趣逐一承知仕り万事御山の御指図に随ひ取計可仕候」と一札を取られて寺役人を続けている[64]

院代法秀尼

その後、1808年(文化5年)に水戸藩の姫法秀尼が蔭涼軒主・院代となっている[65][注 25]。 水戸藩の姫ならば住持でも良さそうなものだが、そこが東慶寺の特殊な格式である。 この年に水戸藩の史館で『東慶寺考』を編纂して寄進している[66]。 また水戸藩の後ろ盾で、1834年(天保5年)頃寺社奉行脇坂淡路守[注 26] に貸付所の許可願いを出して許され、1836年(天保7年)には江戸にも支所を設けている[67]。 東慶寺の寺役所にお白洲が出来たのはこの頃と思われる。このお白洲は縁切取り調べに対するものではなく、東慶寺領内の支配者としての、あるいは貸金に関わるトラブル時に用いられている[注 27]。 また次ぎの章で触れる縁切寺法、その手続きもこの院代・蔭涼軒法秀尼の頃に整備された[68][69]。 示寂は1852年(嘉永5年)である。

縁切寺法

東慶寺は、近世を通じて群馬県満徳寺と共に縁切寺(駆込寺)として知られていた。この制度は女性からの離婚請求権が認められるようになる明治5年(1872年)まで続く。ただし「由緒書」に「覚山(開山の覚山尼)貞時へ願はれ候は・・・女と申すものは不法の夫にも身を任せ候事常に候う事も尋常に候えば、事により女の狭き心によりふと邪の心差詰めたる事にて自殺杯致し候もの有之、不便の事に候間、右様の者有候節は三ヶ年の内、当寺え召抱置、何卒夫の縁を切り身軽に致し存命仕ませ候寺法」云々と願い、北条貞時も母の申し出故に是非もなく、朝廷に乞いて「勅許を蒙り夫より世上に名高く寺格も格別なり[70]」 とあるが、これは確証が無く[71]、 先々代住職井上禅定も「縁切寺法が開山以来連綿と続いているという口上書きは遡及扱いにして開山に付会した書き方である」とする[72]。 後で触れるが三ヶ年は江戸時代初期からの社会通念であり東慶寺に限ったことではない。この「由緒書」の記述は江戸時代の感覚である。 また「由来書」には「寺入女の三ヶ年は不憫にて用堂尼(五世住持の皇女)以来出入三年満二十四ヶ月と限った」とあるが、これも先々代住職井上禅定は「あとからそういうふうに権威づけたんじゃないか」とする[73]。後述するが「出入三年満二十四ヶ月」の確実な前例は1688年(貞享5年)2月14日の幕府の判決である。それ以前には無い。

中世の結婚・離婚

中世を通じて結婚・離婚という概念があったのは「イエ」を確立していた上層階級だけである。その上層階級の頂点貴族社会においても、結婚とは男が決まった女の処へ通い、その家に住み着くことであり、逆に離婚は夫がその妻の家に帰らなくなることだった。芥川龍之介の短編小説『芋粥』の原作は『今昔物語集』第26巻17話「利仁将軍若時従京敦賀将行五位語」[74] という藤原利仁の若い頃の話である。利仁は「芋粥を腹一杯食ってみたい」と云った先輩の五位殿(侍階級の下級貴族)を敦賀の自分の家は連れていくが、その家は有仁という「勢得ノ者」の家で、利仁の妻はその娘だった。 同じ『今昔物語集』第28巻1話 には「近衞舎人共稲荷詣、重方女値語」[75]がある。近衞府生[注 28] 茨田重方は妻帯者だったが、仲間とともに稲荷詣に行く道で美しそうな女性を見つけ一生懸命口説く。 しかしそれは重方の妻で[注 29]、 逆上した妻は往来の真ん中で、夫の同僚達の見ている前で夫の髷を掴み「山も響くばかりに」ひっぱたいて「今日から私のところへきたら、この神社の神罰が当たろうぞ」「来たら、必ずその足をぶち折ってくれる」と[76]。 茨田重方は実在の人物である[77]

平安時代と鎌倉時代は、政権は大きく変わったが社会風俗としてはほぼ同じである[注 30]。 鎌倉時代には公的な世界でも女性の地頭が居たり訴訟の当事者としても女性が多数登場する[78]。 それでも中世の初頭から鎌倉時代を経て室町時代末期に下がるにつれ、公的な世界からは女性が徐々に排除されていく[79]

しかしその中世の中で女性の地位が最も低下していた戦国時代、1562年に日本に来て35年間日本に住んでいたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの日本覚書にはこういう記述がある。 「ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。ところが日本では各人が自分の分を所有している。ときには妻が夫に高利で貸し付ける」。「ヨーロッパでは妻を離別することは最大の不名誉である。日本では意のままにいつでも離婚できる。妻はそのことによって名誉を失わないし、また結婚も出来る。日本ではしばしば妻が夫を離別する[注 31]

しかしそれも上層・中層階級においてである。 江戸時代より前の庶民(下層階級)には離婚という感覚は無い。 そもそも男女が夫婦として同じ家に住み、協力して家業、例えば農耕に励み、子供を育てて家を継がせるという「イエ」の概念が一般庶民にまでは浸透していなかった[80][注 32]。 それが名主や豪農ですらない一般の農民・庶民にまで「イエ」が確立していったのは江戸時代初期の婚姻革命によってである[81]

近世・江戸時代の離婚

結婚・離婚について「タテマエの世界」が出来たのは、江戸時代になって徳川家康儒教を取り入れて以降である。儒教での「女はかくあるべし」が「女三界に家なし」な『女大学』であり、儒家の目からすれば、男子禁制の東慶寺が夫から逃れる為に駆け込むことを受け入れるなど言語道断、太宰春台などは「誰か松ヶ岡を淫婦の叢林にあらんずと謂ふや」[82] とまでいう。

江戸時代の離婚は「夫側からの離縁状交付にのみ限定されていた江戸時代の離婚制度」と良く云われる。それを象徴する昔の学術用語が石井良助の「夫専権離婚」説である。そう思われた理由のひとつは当時の「例文集」の定型文言にある離婚理由の「我等勝手に付」である。夫は勝手に妻を離婚出来たと。しかしこの「我等勝手に付」の「勝手」の意味合いは現在の印象とは少し違い「都合により」ぐらいの意味である。そして具体的な理由は書かないのを良しとするという現れである[注 33]。 現在では百科事典でも「当時庶民の間では,離婚は仲人・親類・五人組等の介入・調整による内済(示談)離縁が通例であったと思われるが、形式上妻は夫から離縁状を受理することが必要であった」[83] とされる[注 34]。 妻の方からは離縁を言い出せなかったのかというとそうではない。最古の離縁状の実物は1696年(元禄9年)のものであるが、夫が1両の趣意金を受け取っていることから、妻方からの要求による離縁である[84][注 35]。 話がつきさえすれば離婚できた。 問題は話がつかなかった場合である。

縁切寺三年勤の背景

江戸時代の「律令要約」[注 36] には妻方からの離婚に関して5つの条項がある[85]。 そこに共通するものは「三、四年過ぎ」というキーワードであり、例えば「離別状遣わさずといえども、夫の方より三、四年進路致さざるにおいては、例え嫁し候とも、先夫の申分立ち難し」である。この判例は「公事方御定書」でも踏襲されている。 江戸時代中期までには3年も別居していればもう夫婦ではないという社会通念が成立していたと言える。 妻方からの離縁の申し出に話がつかなかった場合の強行手段として「夫の手に負えぬ場所」への駆込3年奉公があった。 どのような場所かというと代表的には武家屋敷である。尼寺も勿論、普通の寺である場合もある[86][87]。 関所に駆け込んだ例もある[88]。 要するに「夫の手に負えぬ」、連れ戻せぬ、少なくとも庶民にとって「権威のある場所」であれば良かった。そこに3年間奉公していれば結婚は時効となる。 あるいは夫方を呼び出して「別れてやれ!」と云ってくれる。

東慶寺も江戸時代初期にはそうした「夫の手に負えぬ場所」のひとつであった。 ただし元禄時代の「盤珪禅師法語」に「女人問、女は業ふかき者にて高野山または比叡山などの貴き山へは結界とて上る事を得ず。師曰、鎌倉に比丘尼寺あり、是は男結界也」[89] とあるように、男子禁制の代表として知られ[90]、 かつ会津四十万石改易事件にも見られるように、その「男結界」は大身の大名すらはねのけるほどである。庶民の夫にとっては並みの「手に負えぬ場所」ではない。

しかし江戸時代中期に幕府は武家屋敷への駆込みを抑制したらしく、「縁切奉公」先の多くは「駆込は迷惑だから」「風俗よろしからず」と受け付けないことを表明する。年代としては1704年(宝永元年:前橋藩[91]) から1786年(天明6年:小諸藩[92]) 頃である。 それらは関東近国の親藩・譜代であったが、遠く九州の外様大名である熊本藩でも縁切3年奉公の慣行があり、それが1773年(安永2年)の達しで禁止される[93][注 37]

縁切寺三年勤と言っても、東慶寺では足かけ三年、実24ヶ月であった。 1688年(貞享5年)2月14日の東慶寺への妻の駈込に対する幕府の判決に、不届きではあるが足掛け三年の間比丘尼を務め、東慶寺から離婚の旨訴え出れば離婚だけは認めるというものがあり[94] その前例を踏襲したものと思われる。

離縁状

ここでは「離縁状」に統一するが、「去状(さりじょう)」、「暇状(いとまじょう)」、「隙状(ひまじょう)」、「縁切状」、「手間状」と呼ぶこともある。 最古の離縁状の実物は1696年(元禄9年)のものだが[95]、 写しなら1686年(貞享3)のものが福井で見つかっている[96]

小田原藩では離縁には証文を必要とするというお触れが1669年(寛文9年)にあった。 「向後女房離別いたし候者これあり候はば、自筆にてさり状を遣わすべく候、・・・これ以後かようの証文これなく離別いたし候と申し候とも、御立なられまじき由、仰せでられ候[97]」と。 このときの小田原藩主稲葉正則は1657年(明暦3年)から老中で、さらに老中首座から後に大政参与にまで登った大物である。この方針は幕府の方針だった可能性もある。この当時の幕府の法令(御触れ)は諸藩に伝えられ、特に親藩・譜代ではおおむね右へならえする。ただし年代を超えて一貫したものではなく正式な記録としても蓄積はされていない。それは徳川吉宗による享保の改革の目玉のひとつ、1742年(寛保2年)の公事方御定書を待たなければならない[98]。 1684年に京都で刊行された用文章(実務文例集)『願学文章』にはすでに「離縁状」の雛型が載っている。

縁切寺への幕府の態度

江戸時代ほどホンネとタテマエの落差が激しい時代は無かったと云われる[99]。 例えば妻の不義密通など言語道断であり「公事方御定書」の下巻「御定書百ヶ条」では「死罪」[注 38]。 夫が妻と間男を重ねて4つにしても(つまり二人とも殺しても)お咎めなしてある。 しかし密通がバレてもほとんどは元の鞘に納まるか、あるいは先の「仲人・親類・五人組等の介入・調整による内済離縁」つまり示談による離婚になっている[100]。 夫が訴え出た場合でも、役人に説得されて「夫疑相晴、申分無之」と記録に書かれて訴えは下げられ、内済離縁で決着する場合がほとんどだという[101]

しかし幕府奉行所のお白州までくるとそこはタテマエの世界である。 江戸時代初期には妻が夫を嫌うこと自体が不届とされて、1662年の判決においては「髪を切ってでも離婚したい」という妻の訴えを拒否している。 妻が縁切りを求めて東慶寺に駆け込むと言う事自体も嫌忌した[102]。 1688年(貞享5年)2月14日の東慶寺への妻の駈込に対する幕府の判決に「不届きではあるが足掛け三年の間比丘尼を務め、東慶寺から離婚の旨訴え出れば離婚だけは認めるが妻の再婚は認めない」というものがある[103]。 縁切寺三年勤と言っても東慶寺では足かけ三年、実24ヶ月であったが、それはこの前例を踏襲したものと思われる。 「公事方御定書」以前であるので、判決にバラツキはあるが徐々に軟化していったらしいこと、特に「妻の再婚は認めない」という部分が消えてゆくことが後の「律令要約」を見るとわかる。

東慶寺が離縁状を取るようになったのは1700年前後であることが寺役人が1745年(延享2)に寺社奉行に提出した寺例書でわかる。そこにはこうある[104]

以前は離縁証文も差し出させず、当山へ入れ二十四ヶ月相勤めれば縁は切れてきたが、下山した女に元の夫が難渋申しかけ、出入りに及んだので、寺社奉行永井伊賀守に仰せつけられて以来、縁切証文並びに親元の証文を差し置き申す。

永井伊賀守とは永井直敬であり、寺社奉行であったのは元禄7年(1694年)から10年間である。 趣旨は1669年(寛文9年)の小田原藩のお達しと同じである。足掛3年経っても夫が納得せず「出入りに及ぶ(訴え出る)」ことがあったので、そのような遺恨を残さぬように縁切奉公・寺法離縁の場合も夫から離縁状を取れと今でいう行政指導が有ったということである。この古文書から、東慶寺が離縁状をきちんと取りだした時期と、それ以前おそらく17世紀後半から「駈込み」を受け入れていたこと、さらに幕府・寺社奉行がそれを承認していたことがわかる。 東慶寺も1720年頃には幕府、特に江戸町奉行の反感を買うが、これは妻の駆込み後、直ちに飛脚が離縁状を請求したことが幕府、特に江戸町奉行の反感を招いたという[105]

「律令要約」に「夫を嫌い、家出いたし、比丘尼寺へ欠入り、比丘尼寺へ三年勤め、暇出で候旨訴うるにおいては、親元へ引き取らす」と書かれたのは1741年(寛保元年)である。 1688年(貞享5年)の幕府の判決にあったような「妻の再婚は認めない」という部分が無くなっている。 1762年(宝暦12)には「縁切寺は東慶寺と満徳寺に限る」との寺社奉行所の発言が満徳寺関連文書に以下のように記録される[106]

右二ヶ寺(東慶寺と満徳寺)公儀より仰せ出されはこれなく候えども、古来より寺法右の通りにてこれあり候間、縁切せ然るへき由、尤も都(すべ)て尼寺右の通りにて申す訳にてはこれなく候。

更に後の時代には、あわや縁切寺法の断絶かという場面が幕府の一喝で救われたということもあった。 先にも触れたが 1802年(享和元年)に蔭涼軒主耽源尼が寺の御朱印を円覚寺に預けて隠居し実家へ戻ってしまう。 東慶寺を預けられてしまった円覚寺は、当分の間、東慶寺の縁切寺法を中止すると決めてしまった。このとき寺社奉行の松平周防守が円覚寺の僧を呼び出して役人に叱責させた記録が円覚寺に残る。そこには「欠入(駆込)寺東慶寺に限り候に、それ(駆込女)を断り候はば、円覚寺より日本中へ触差出候様可然」と[107]。 この「ならば日本中に駆込中止の触れを出せ!」との叱責に慌てた円覚寺は縁切寺法の継続させることにしたという一件である。 また、東慶寺の縁切寺法に従わない、寺法離縁状を書かない強情夫を寺社奉行が呼び出して仮牢で脅すというようなバックアップも行っている。

東慶寺の寺法手続き

以下はあくまで江戸時代後期の院代法秀尼の頃で、手続きが整備された段階の話である。この時期は東慶寺でも、もうひとつの縁切寺である満徳寺でも、ほとんどは「内済離縁」である。 事例は様々で、夫が反省して復縁した例、夫が嫌いな訳ではないけど姑がなどというのもある。

・身元調べ・女実親呼出

駆け込みがあると即座に入寺させるのではなく、御用宿(東慶寺では三件あった)へ預け、まず「身元調べ」を行い「女実親呼出」となる。この呼出状は妻の実家の名主に届けられる。 出頭した親に対し娘に復縁を勧めさせる。どうしても別れたいとなれば、親に夫方と掛け合って内済離縁(示談)にするよう伝える[108]。 「女実親呼出」を受けた駈込女の実家が、東慶寺へ来る前に夫と交渉して離縁状をとって「内済離縁(示談)」を済ませてしまうこともある。離婚に不承知だった夫も、東慶寺に駈込まれたとなれば勝ち目はないと諦めることが多い。

・出役達書

駈込女の実家による「内済離縁(示談)」が不成功である場合、それ以降が満徳寺と大きく違う。東慶寺では寺役人を夫方名主宅に出張させるが、その前に飛脚が「出役達書」(でやくたっしがき)[注 39] を夫方名主宅へ届ける。内容は「誰々妻の駈込みの件で、松岡御所の役人が何日に行くので、夫ともども家にいるように」というお達しである。今風に言えばただのアポ取りだがその差出人は松岡御所の役所である。多くの場合菊桐御紋の御用箱に入れて届けられる。 飛脚も心得ていて、抵抗するとこの後どんな大変な目に遭うかと云い内済離縁を薦める。「出役達書」で厄介事に巻き込まれた夫方名主も必死で内済離縁の仲介をする。 この効果は絶大でほとんどはこの段階で内済離縁が成立する[注 40]。 半強制だが形式上は内済離縁(示談)であるので駈込女は寺に入ることなく、御用宿から実家に帰れることが出来た。

・出役・寺法離縁

それでも離縁状を書かないと、本当に「出役」となる。 これ以降が「寺法離縁」である。 東慶寺の寺役人が寺法書を持って夫方名主宅へ出向き「寺法書」を名主に渡す。 名主側のマニュアルにも、万一菊桐御紋の文箱が届いたら、箱を開けずに神棚に飾って、即座に夫に離縁状を書かせるべしと書いてある例がある[109]。 相手が松岡御所では勝ち目は無いし厄介ごとが長引くと大変だという訳である。

寺役人が出向くということは「駈込んだ女房は東慶寺が預かり、確実に三年(足掛け)は寺から出さない」というである。おまけに「菊桐金紋の御所寺の寺法である、御所の書式に従って離縁状を書け!」と。それでも離縁状を書かないと寺社奉行吟味となり、奉行所は強情な夫には「仮入牢」で脅す。 幕府を頼れるところが東慶寺・満徳寺とその他の「夫の手に負えぬ場所」の最大の違いである。 恐れ多い「寺法書」は夫が書いた「寺法離縁状」とともに返すのが決まりだから、夫がそれを書かない限り名主宅におかれる。 名主にとっては頭痛の種である。
満徳寺と違うところは、「出役」以降は、夫が離縁状を書いてもそれは鎌倉松岡御所様お役所、つまり東慶寺宛であって駈込女房には渡されず、足かけ三年24ヶ月後にやっと駈込女房は離縁状を手にして誰と結婚してもよいことになる。一方、夫は離縁状を書きさえすればすぐに誰と再婚してもよい。 以下に今東慶寺に残る中で最古の寺法離縁状をあげる。1738年(元文3年)のものである[110]。 □は虫食い等で不明な部分である。個々に若干の文言の違いはあるが、概ね同一の書式に従う。寺法離縁の場合は書かなければならないことが多いので三行半には収まらない。

     差上候証文之事
一 私妻ゆつ御門内え欠入申候ニ付御届之
  御書壱通被下置、慥(たしか)に請取委細承知
  仕候。尤古来より御寺法之儀御座候ニ付
  以後共此女ニ付何方え縁組仕候とも
  □差構無御座候 為後日証文差上ケ□
  如件
      元文3三年三月卄七日   笠間村
   鎌倉松ヶ岡          当人 十兵衛(印)
      御所様           組合 (四人略)
       御役所         名主 市左衛門(印)

上記のように東慶寺の寺法離縁の場合は、夫の書く離縁状は東慶寺宛であるので、24ヶ月後に女房が貰うのはその東慶寺宛離縁状の写しに寺役人が「このとおり間違いはない」と添書をしたものである。東慶寺に残るものは寺法離縁状の本物証文で、書写添書をしたものは残らない。離婚妻に渡されるからである。上記とは別の離縁状だが、離婚妻に渡された書写添書の離縁状が一通発見されている。 添え書きは以下の通りである[111]

右本文之通り六右衛門□差出候、本書先例之通り
当山江取置、写書相渡し申候、以上
                   当寺役人
                     幸田弥八郎(印)

この古文書は1856年(安政3年)の「信州の駆け込み女てる」の事例[112] であり、東慶寺宛の離縁状の書写添書を離婚妻に渡すことが先例であったことを初めて明らかにしたものである[113]。 「てる」の実家は信州筑摩郡堀之内村の名主を何代にもわたって勤めた高70~80石の豪農であり、その本棟造の屋敷は今も残り重要文化財に指定されている。 「てる」の夫は記録に残る限りでは「妻の実家の金だけが目当ての性悪な夫」であり、この夫婦は江戸に出ていて、そこから東慶寺に駆込んだ。 この一件は東慶寺側と女の実家側の双方に残り、事件のほぼ全容が明らかになっている。 この夫婦の江戸の住まいは夏目漱石の父、馬場下横町の名主小兵衛配下の友七店である。夫は「古来御免の寺法」に従わず、寺社奉行に召し出されるという難事件であった。「てる」は24ヶ月の縁切奉公のあと実家に戻り、その後東慶寺に鑿子(きんす)を寄進している[114]

・出入三年満二十四ヶ月の縁切奉公(作成中)

駈込女は寺に入ると言っても出家する尼になるということではない。24ヶ月後には寺を出て誰とでも結婚できる。ここがよく誤解されると先々代住職の井上禅定が書いている。

現代・明治以降(作成中)

尼寺・縁切寺法の終焉

中興釈宗演と鈴木大拙

釈宗演以降の住職

現在

文化財

木造聖観音立像(重文)

木造聖観音立像はもともとは鎌倉市西御門にあった太平寺(尼五山の第一位、廃寺)の本尊。鎌倉時代後期から南北朝時代の頃(14世紀)の作。像の表面には土紋(どもん)装飾が残っている。土紋装飾は落雁の様に花や葉の型に詰めた粘土を貼り付けるもので南宋伝来の装飾技法である。日本では鎌倉時代後期から南北朝時代ぐらいの鎌倉、あるいはその文化圏にしか見られない。かなり剥げ落ちてはいるが、切金(きりかね)といって金泥の上に金箔を細く切って貼り付けてあるところもある。常設で宝蔵に安置されている。

初音蒔絵火取母(重文)

初音蒔絵火取母(はつねまきえ ひとりも)は室町時代の作。「火取母」はおおまかに云えば香炉であるが、平安時代の香炉は金属製の薫炉とそれを納める火取母、そして火取母の上に被せる金属製の薫籠(くんこ)からなる。江戸時代には火取母の中に金属製の落としを入れただけの簡略香炉が多くなるが、これは薫炉、薫籠が備わっており平安時代以来の香炉の形をきちんと伝えている。この香炉は衣類に香をたき染めるために使用したもので、この香炉の周りに伏籠(ふせご)という木の枠を置き、そこに衣類を被せて香を炊き込めていた[115]。 「初音」とは源氏物語の巻名である。「初音の巻」の「年月を松に曳かれてふる人に今日鴬の初音聞かせよ」を歌絵とり入れ、火取母の蒔絵の図柄の中に「はつね」「きか」「せよ」の文字を松梅の間に配している。本作品をはじめ東慶寺に伝わる蒔絵遺品は高台寺蒔絵に対して、東慶寺伝来蒔絵を略し東慶寺蒔絵ともいわれる。豊臣秀頼娘天秀尼の所持とも伝えるがそれぞれの由来は不明である。

毎年秋に2ヶ月間開かれる東慶寺伝来蒔絵展に展示される。

葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱(重文)

葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱(ぶどうまきえらでん せいへいばこ)はいわゆる「南蛮漆芸」の遺品。「聖餅箱」はキリスト教のミサで用いる道具で、鎖国以前にはヨーロッパからの注文で大量に作られていた。ただしこれがなぜ仏教寺院である東慶寺に伝わったかは定かでない。新編相模国風土記の東慶寺寺宝の中に出てこない。東慶寺の1903年(明治36年)の「什器控」には「ぶどう模様丸弁当箱」とありキリスト教のミサの道具とは認識されていなかった。そう認識されたのは先々代の住職井上禅定師が専門家とともに眠っていた漆器の埃を払って以降のことである。今日本にある「南蛮漆芸」は一度海外に輸出した漆芸品が近年戻ってきたものがほとんどであるが、この聖餅箱は日本からは出ずにずっと東慶寺に残っていたという非常に珍しいケースとされる。

かつては宝蔵に常設であったが、文化庁の指導で毎年秋に2ヶ月間開かれる東慶寺伝来蒔絵展のときのみ展示されるようになった。

東慶寺文書(重文)

東慶寺文書 は773通20冊(附:文箱1合、鏧子1口)からなる。離縁関係文書(いわゆる「三下り半」)などを含む。同寺は1515年(永正12年)に火災があり、それ以前の文書はほとんど無いが、17世旭山尼の頃からの文書が残っている。中には旭山尼の姉青岳尼が住持であった尼五山第一位太平寺の廃寺を伝える北条氏綱の手紙や、聖観音立像を取り返してきた蔭凉軒要山尼への感謝とねぎらいの手紙などもある。江戸時代については日記帳に駆入りの月日、親元、夫方、媒人等の呼出、到着、役所での取調べ、落着引取までの始末が記録されており、研究上の重要な史料である。 明治時代の東大史料編纂所の調査では、他の年度の日記帳も含めて大量の古文書の存在が確認されていたが、関東大震災やあるいは混乱時に屑紙として襖屋に渡るなどして、現在かろうじて東慶寺に残るものが重要文化財となった。 ただし相当傷んでいるものもあり、東慶寺は2013年時点でその修復を計画し基金を募っている。

木造水月観音菩薩半跏像

木造水月観音菩薩半跏像は神奈川県指定文化財で、水月堂に安置する。かつては南北朝から室町時代頃のものとみられていたが近年の調査で鎌倉時代も13世紀後半の作と修正されている。一般的な仏像と異なり南宋風の、水墨画から抜け出てきたような自由な姿態の像である。毎年春に行われる東慶寺仏像展のときは松ヶ岡宝蔵で拝観できる。なお、文化財指定名称では「半跏像」としているが右足先を左腿に乗せていない。

木造観音菩薩半跏像

木造観音菩薩半跏像 は鎌倉市指定文化財である。鎌倉時代・14世紀。写実的ながら水月観音像ほどくつろいだ印象はなく、同じ鎌倉時代でも制作年代に開きがあるとされる。

境内(作成中)

  • 本堂  
  • 水月堂
  • 書院
  • 寒雲亭(茶室)
  • 白蓮舎(立礼茶室)
  • 松ヶ岡宝蔵
  • 庭園

墓地

当寺は文化人の墓が多いことでも有名で、墓地には鈴木大拙のほか、西田幾多郎岩波茂雄和辻哲郎安倍能成小林秀雄高木惣吉田村俊子高見順前田青邨[注 41]川田順レジナルド・ブライスらの墓がある。また、前田青邨の筆塚、旧制第一高等学校を記念する向陵塚がある。

著名人の墓・画像

拝観等

  • JR横須賀線北鎌倉駅下車徒歩3分
  • 3~10月:8:30~17:00 11~2月:8:30~16:00 拝観料200円
  • 松ヶ岡宝蔵:9:30~15:00 入館料300円(月曜日は休館)
  • 水月観音拝観は電話・ハガキで要予約。ただし毎年春に行われる東慶寺仏像展のときは松ヶ岡宝蔵で拝観できる。

脚注

  1. ^ この大鐘は現存するが東慶寺にはなく、静岡県韮山の本立寺にある。(鎌倉市史・寺社編 pp.342-343、鎌倉市史・考古編 pp.306-312))
  2. ^ 「菩薩座光」は現存する水月観音菩薩かもしれないが不明である。
  3. ^ ただしそこでは寺ではなく17世旭山尼を指して「御しょ様」と云っており、「御所」が皇女用堂尼に由来するものなのか、関東公方家の姫君に対する御所号なのかは判然としない。なお、北条氏綱も氏康も「御しょ様」、「東慶寺長老」に直接手紙は出さず、形式的な宛名は「東けい寺(改行字下)侍者御中」または同「いふ侍者御中」である「いふ」は「衣鉢」であり、今は「いはつ」と読むが、書状には「いふ」と平仮名で書いている。宛名の「東けい寺」は「寺」ではなく「住持」「長老」を指す。今でも本山の法事のときなど「お寺さんがお通りになりますので」と止められるとその本山の管長が、先導や従者の僧とともに歩いてきたりするのと同じである。「東けい寺衣鉢侍者」とは「御しょ様」とまで言われる高貴な長老の身近く仕える尼僧である。目上の者に直接手紙を書かず、その従者に「こうお伝え下さい」と書くのが平安時代以来の貴族社会の礼儀作法である。 寺を指して御所と呼ぶ最初のものは江戸時代になってから、天秀尼の示寂よりも後の無住持時代である。
  4. ^ 蔭凉軒という名は足利氏にとっては由緒のあるもので、京都の相国寺では将軍足利義持(よしもち)が参禅聴講のために総説した小御所的存在だった。後には軒主が将軍の宗教行事の披露奉行を行った。1435年(永享7)から1493年(明応2)までの断続的な記録が「蔭凉軒日録」として残る。 要山尼は東慶寺・蔭凉軒の最初の庵主であり、古文書を見る限り若い住持御所様の後見人、実務の長のように見える。 北条氏綱の書状から推測する役目、後北条氏と戦闘状態にあった安房の里見氏と交渉出来る立場と、号に「山」が付くことなどから、公方の娘ではないにしても、関東足利氏の一族である可能性が高い。
  5. ^ 「瓊山」(けいざん)が号、「法清」が諱である。瓊山尼と呼ばれる方が多いが、法清尼と書かれることもある。東慶寺で号に「山」が付く尼は足利氏の出と見てほぼ間違いはない。
  6. ^ 鶴岡八幡宮は源氏を名乗る徳川家にとっては特別な意味を持つので840貫と飛びぬけているが。
  7. ^ 平均的農家の年貢のベースとなる表高は約10石であるので6貫~4貫とは農家2軒分の年貢しかないということになる。
  8. ^ 天秀が号、法泰がであり、その諱の1字目の「法」は、東慶寺の系字(江戸時代には東慶寺の尼は全て諱の1字目は「法」)である。
  9. ^ 詳細は天秀尼の千姫との関係を示す物を参照。
  10. ^ 首座、書記、蔵主は、住持の代わりに法堂の法座に登り払子(ほっす)をとって説法をすることもある重要な役職である(関口欣也1997 pp.71-72)。 ただし東慶寺は格は高くとも建長寺や円覚寺のような大寺院ではないので、この場合の「蔵主」とは実際の職務ではなく肩書、地位の呼称である。
  11. ^ この棟板が千姫、天秀尼、春日局の名が記された先の棟板であり、それが江戸時代後期には仏殿から外されて保管されていたということになる。 なお「駿河亜相」の「亜相」とは大納言唐名であり、「駿河大納言」という意味である。
  12. ^ 「修理工事報告書」はこれを1509年(永正6年)と記し、現在も「仏殿」の説明文には1509年とあるがこれは誤りである。(鎌倉市史・寺社編 pp.345-346、 および鎌倉市史・史料編・第三第四 史料番号312「釈迦如来像銘」 p.326)
  13. ^ 江戸時代の鎌倉大工の作風を見ると、17世紀中期をやや下る頃まで室町末風で保守的な傾向があるという(関口欣也1997 p.146)。
  14. ^ 創建が江戸初期であるのでその入母屋造屋根は現円覚寺舎利殿のようなこけら葺檜皮葺であった可能性もあるが史料はない。中世では屋根葺工法の中で檜皮葺が最も格式の高い技法である。一般に檜皮葺から瓦葺、そして茅葺へと移る。現在では瓦葺より茅葺屋根の維持の方が大変だが、江戸時代にはそちらの方が維持は楽であり、建長寺では1837年(天保8年)に法堂(はっとう)を瓦葺から茅葺に改めるための勧進まで行っている(関口欣也1997 p.162)。檜皮葺から銅瓦葺に改めた例では鶴岡八幡宮の文政再建がある(関口欣也1997 p.168)。 国宝正福寺地蔵堂も茅葺になっていたものを1933年(昭和8年)の解体修理に際して建築当初のこけら葺(柿葺)に直している。そのときにこの地蔵堂が1407年(応永14年)と判り、そこから円覚寺舎利殿の創建年代が判明したという経緯がある。その改修工事の際1811年(文化8年)の墨書名も発見されており、茅葺への改修はそのときと思われる。
  15. ^ この雲版は鎌倉市文化財になっている。
  16. ^ 詳細は天秀尼の会津四十万石改易事件を参照。
  17. ^ 詳細は喜連川藩を参照。
  18. ^ 西堂は他のそれなりの格をもつ寺院の住持を勤めた者で、その寺の前住持を東堂と称するのと対語となると一般に説明されるが、東慶寺においては蔭凉軒主が他の尼寺の住持であったことを示す記録は無い。従ってここでの意味は序列で住持の次、それも下ではなくほぼ同格の斜め下ぐらいで、住持の弟子である都寺・監寺などの知事、首座・書記・蔵主など頭首の上位という意味になる。他の塔頭の庵主の法階は概ね首座都寺である。
  19. ^ 庵ではなく軒であるがここでは一般名称の庵主を用いておく。
  20. ^ 先に登場した19世瓊山尼の妹月桂院開基の寺
  21. ^ 鎌倉の寺はおおむねそうだが東慶寺も山に囲まれた谷戸にありその尾根までが境内である。
  22. ^ 住持でなく事務方の長。ただし後に住持となることが多い。
  23. ^ 大久保彦左衛門の子孫である。
  24. ^ 寺社奉行は定員は4名前後。この時も4名でありこの裁定には4名とも列席している。原則として一万石以上の譜代大名であり阿部播磨守は武蔵国忍藩10万石の大名。脇坂淡路守は播磨国龍野藩5万1千石の藩主である。寺社奉行は勘定奉行や江戸町奉行とは格が異なり、老中ではなく将軍直轄で奏者番を兼任する幕臣エリートの出世コースである。この二人はいずれも後に老中になっている。寺社奉行は自邸が役宅となる。
  25. ^ これは東慶寺に残る古文書からではなく、同じ鎌倉の尼寺で水戸藩と関係の深い英勝寺の記録による。
  26. ^ 脇坂淡路守は2度寺社奉行を勤め、後に老中となっている。
  27. ^ お寺が金融業というと現在の感覚では奇異な感じを受けるが、こうした例は平安時代からある。
  28. ^ 貴族では無いが、天皇の行幸や高官の外出時の警護の際には騎乗を許可され前駆する立派な武官である。
  29. ^ 実はこのとき重方が口説いていたのは自分の妻で、顔を隠していたのでそれに気づかなかった。そうと知らずに重方は「つまらない女房はいるにはいますが、そいつの顔は猿のようで、心は行商女も同然の賤しさ」「そんなつれないことを聞かせないでください。ここからすぐにお供をして、女房のところへなんか二度と足を踏みいれますまい」という。
  30. ^ 京の周辺と関東の鎌倉では社会風俗は同じとは云えないが、それでも実際に『吾妻鏡』ある鎌倉の事件では、夫が家に帰ったら舅が妻を抱こうとしているところだったというのがある。つまり夫は妻の家に暮らしていた。
  31. ^ 他にはこういう記述がある。 「日本の女性は処女の純血を少しも重んじない。それを欠いても名誉も失わなければ結婚もできる」 「日本の女性は夫に知らせず、好きな処へ行く自由をもっている」。
  32. ^ 「実現出来なかった」という方が適切かもしれない。
  33. ^ これを最初に指摘したのは穂積重遠であり、その後高木侃が詳細に論証した。(高木侃1999 p.84)
  34. ^ 「形式上妻は夫から離縁状を受理」の良い例に婿養子の離縁状がある。養子縁組の解消権は養父にあり、養父が養子縁組を解消すると、普通はその家の娘との結婚も解消される。しかしこの場合でも夫から妻への離縁状が必要とされた。これは「任意」ではなく、養父は養子から娘への離縁状を取らないと、お上から「不念」として譴責された。「去状を、書くと入婿おん出され」という川柳があるが、無理やり書かされる離縁状でも、その文言は「此度我等勝手に付、離縁致し」なのである。(高木侃1992 pp.60-61)
  35. ^ もうひとつの実例は「此度我等勝手ニ付、不縁之義」の次の行に「任其意(その意の任せ)と書かれた三下り半もある。これは「妻の勝手」(離婚要求)であったことを示す。(高木侃1999 p.96)
  36. ^ 律令要約(りつりょうようやく)は江戸時代の「公事方御定書」編纂課程で、その直前の1741年(寛保元年)に北条氏長が先例・慣習をまとめた判例集のようなものである。1742年(寛保2年)の「公事方御定書」制定以前の先例・慣習というところに大きな意味がある。離縁に関する限り「公事方御定書」はここにある判例をほぼ踏襲している。
  37. ^ なお、「駆込は迷惑だから受け付けない」と表明したところは、以降全くの門前払いだったのかというとそうではなく、縁切奉公は受付ない代わりに妻実家方、夫方の名主を呼び出して「夫に縁切状書かせろ!」と命ずる。江戸時代ももうちょっとで終わりという1858年(安政4年)に、相模国淵野辺村から、同じ相模国の東慶寺でなく江戸の地頭所(領主である旗本の屋敷)へ離縁を訴え駆込んで「内済離縁」を勝ち取った女房がいる。(長田かな子2001 p.128)「夫の手に負えぬ場所」は江戸時代を通じてそれなりに機能していたといえる。
  38. ^ 「死罪」は死刑の中でも重く、死体は山田淺左衛門が刀の試切りに使う。更に死体は埋葬されず取り捨てられる(長田かな子2001 pp.194)。
  39. ^ 「他行止達書」(たぎょうとどめたっしがき)ともいう。意味としてはこちらである。この日は他所へ行かずに家に居ろと。
  40. ^ このとき夫方は2通の離縁状を作成し、1通は妻に、もう一通はその写しとして東慶寺に差し出す。この2通とも現存する例が1例だけある。写しの方は東慶寺旧蔵文書(小丸文書)で、もう一通は研究者の高木侃が古書店から入手した。同じ筆跡で字配りも同じである。違うところは、東慶寺に差し出す写しに良質の紙を使い、妻に渡した原本は横帳の白紙を用いていており、折り線や綴じ穴が残っている(高木侃1992 p.132-136)。
  41. ^ 前田青邨の墓は横浜市の總持寺にもある。


出典

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参考文献

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  • 高木 侃『三くだり半と縁切寺-江戸の離婚を読みなおす』講談社現代新書、1992年3月。 
  • 高木 侃『三くだり半―江戸の離婚と女性たち・増補版』平凡社ライブラリー、1999年7月。 
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  • 鈴木ゆり子 「百姓の家と家族」『岩波講座 日本通史〈第12巻〉近世2』岩波書店、1994年3月。 
  • 笠谷和比古 「習俗の法制化」『岩波講座 日本通史〈第13巻〉近世3』岩波書店、1994年9月。 
  • 長田かな子『相模野に生きた女たち―古文書にみる江戸時代の農村』有隣堂、2001年1月。 
  • 佐藤常雄、大石慎三郎『貧農史観を見直す』講談社、1995年8月。 
  • 松田毅一『フロイスの日本覚書―日本とヨーロッパの風習の違い』中央公論社、1983年1月。 
  • 宮本常一『絵巻物に見る日本庶民生活誌』中公新書、1981年1月。 
  • 宮本常一『家郷の訓』岩波文庫、1984年7月。 
  • 宮本常一『女の民俗誌』岩波現代文庫、2001年9月。 
  • 網野善彦『日本社会再考―海からみた列島文化』小学館、2004年3月。 
  • 網野善彦『中世の非人と遊女』講談社学術文庫、2005年2月。 
  • 網野善彦『日本の歴史をよみなおす (全)』ちくま学芸文庫、2005年7月。 
  • 山田孝雄他・校注『日本古典文学大系〈第25〉今昔物語集五』岩波書店、1963年。 
  • 山田孝雄他・校注『日本古典文学大系〈第26〉今昔物語集五』岩波書店、1963年。 
  • 永積安明・池上洵一『今昔物語集5(口語訳)』平凡社、1968年4月。 
  • 中村修也『今昔物語集の人々 平安京篇』思文閣出版、2004年11月。 
  • 西和夫『三渓園の建築と原三渓』有隣堂、2012年11月。 

関連項目

外部リンク