「藤原実資」の版間の差分
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実頼より家督を相続し、小野宮流を継承する。小野宮流は[[藤原北家]]嫡流でありながら、分派であるはずの九条流(実頼の弟・[[藤原師輔]]の子孫)に[[摂関家]]の主導権を奪われた。だが九条流に対して記録資料の面で優れ、故実に通じる家として著名であり、実資は膨大な記録資料を実頼より継承したといわれる。その膨大な家領については未だ不明な部分も多いが、相当な財力を有していたことは、当該期史料から判明する。 |
実頼より家督を相続し、小野宮流を継承する。小野宮流は[[藤原北家]]嫡流でありながら、分派であるはずの九条流(実頼の弟・[[藤原師輔]]の子孫)に[[摂関家]]の主導権を奪われた。だが九条流に対して記録資料の面で優れ、故実に通じる家として著名であり、実資は膨大な記録資料を実頼より継承したといわれる。その膨大な家領については未だ不明な部分も多いが、相当な財力を有していたことは、当該期史料から判明する。 |
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日記史料として後年、故実に必携の書となる『[[小右記]]』('''小'''野宮'''右'''大臣家'''記'''の略)を残す。ここで実資は、現存する限り[[蔵人頭]]から[[右大臣]]近衛左大将を兼任するまで日記を残し、膨大な儀礼の記述を残した。また、個人的見解を記したことでも著名で、有名な[[藤原道長]]の「この世をば…」の和歌は実資の『小右記』から現代に伝えられた。常に九条流に対抗する家の当主として活躍したが、晩年は子息[[藤原資平|資平]]への家督継承と家領温存のため、藤原道長・[[藤原頼通|頼通]]親子に口入を申し出るなど、九条流への柔軟な行動も見られる。一方、頼通の方も政界の長老である実資への敬意を怠らなかったという。 |
日記史料として後年、故実に必携の書となる『[[小右記]]』('''小'''野宮'''右'''大臣家'''記'''の略)を残す。ここで実資は、現存する限り[[蔵人頭]]から[[右大臣]]近衛左大将を兼任するまで日記を残し、膨大な儀礼の記述を残した。また、個人的見解を記したことでも著名で、有名な[[藤原道長]]の「この世をば…」の和歌は実資の『小右記』から現代に伝えられた。常に九条流に対抗する家の当主として活躍したが、晩年は子息[[藤原資平|資平]]への家督継承と家領温存のため、藤原道長・[[藤原頼通|頼通]]親子に口入を申し出るなど、九条流への柔軟な行動も見られる。一方、頼通の方も政界の長老である実資への敬意を怠らなかったという。<br>彼は故実家・資産家としても知られたが、物事の要点を押さえ、個人の利得や名声のために真実を覆さないという良識人でもあった。寛仁3年(1019)、刀伊の入寇を撃退した大宰権帥藤原隆家が部下らに対する恩賞を懇請し、これに対して諸国申請雑事定が公卿らによって行われた。大納言藤原公任と中納言藤原行成は、「彼らは追討の勅符が到達する以前に戦った。故に私闘であるから賞するには及ばない」と主張した。貴族らは文官統治を維持するために軍事を軽く見る傾向にあり、また、隆家の敵・藤原道長に追従したためでもある。これに対し実資は、「勅符が到達したかどうかは問題ではない。たとえ勅がなかったとしても、勲功ある者を賞する例は何事にもある。寛平六年、新羅の凶賊が対馬を襲撃したとき、島司文室善友は直ちにこれを撃退し、賞を賜った。これと同じことである。特に今回の事件は、外敵が警固所に肉薄し、各島人が一千人余りも誘拐され、数百人が殺された。壱岐守藤原理忠も戦死した。しかし、大宰府は直ちに軍を動かしてこれを撃攘せしめた。何故に賞さないことがあろうか。もし賞さないならば、今後進んで事に当たる勇士はいなくなってしまうであろう」と弁じ立てる。まず、大納言藤原斉信がこれに同意し、続いて公任・行成も翻意、ついに公卿ら皆意見を同じくして褒賞は決議された。このとき実資は右大臣に任ぜられるか否かで同僚らの歓心を買わなければいけない時期だったが、それでも付和雷同・阿諛追従することなく、ものごとの道理を滔々と陳述している。<br>花山院の女御・婉子女王と大恋愛して結婚したが子供に恵まれず、晩年アルツハイマーが進行してからは焦りのために手当たり次第に手を出し、政治上の弟子である宇治関白頼通(彼は妻が非常に少ない)を嘆かせている。弟・権中納言懐平の子である資平を養子としたが、最愛の子は実女・千古(ちこ、ちふる)であった。<br>実資は小野宮家の財産を多く、息女に継承させ、一子資平には一部しか継承させなかった。このためか、実頼から継承したと思われる家領は分散継承され、院政期には空中分解を遂げることとなる。<br>彼は信仰厚い仏教徒であったが、今はの際まで現実社会で活躍することを好み、その死に臨んでも出家することはなかった。<br>天寿を全うするとき、彼の小野宮第には朝野上下の人々が参集し、声を放って慟哭したという。人呼んで「賢人右府」。 |
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2006年4月16日 (日) 04:19時点における版
藤原実資(ふじわらのさねすけ、957年(天徳元年) - 1046年2月26日(永承元年1月18日))は、平安時代の公卿。小野宮実資とも。藤原北家の一流・藤原実頼の孫で、藤原斉敏の四男。
実頼より家督を相続し、小野宮流を継承する。小野宮流は藤原北家嫡流でありながら、分派であるはずの九条流(実頼の弟・藤原師輔の子孫)に摂関家の主導権を奪われた。だが九条流に対して記録資料の面で優れ、故実に通じる家として著名であり、実資は膨大な記録資料を実頼より継承したといわれる。その膨大な家領については未だ不明な部分も多いが、相当な財力を有していたことは、当該期史料から判明する。
日記史料として後年、故実に必携の書となる『小右記』(小野宮右大臣家記の略)を残す。ここで実資は、現存する限り蔵人頭から右大臣近衛左大将を兼任するまで日記を残し、膨大な儀礼の記述を残した。また、個人的見解を記したことでも著名で、有名な藤原道長の「この世をば…」の和歌は実資の『小右記』から現代に伝えられた。常に九条流に対抗する家の当主として活躍したが、晩年は子息資平への家督継承と家領温存のため、藤原道長・頼通親子に口入を申し出るなど、九条流への柔軟な行動も見られる。一方、頼通の方も政界の長老である実資への敬意を怠らなかったという。
彼は故実家・資産家としても知られたが、物事の要点を押さえ、個人の利得や名声のために真実を覆さないという良識人でもあった。寛仁3年(1019)、刀伊の入寇を撃退した大宰権帥藤原隆家が部下らに対する恩賞を懇請し、これに対して諸国申請雑事定が公卿らによって行われた。大納言藤原公任と中納言藤原行成は、「彼らは追討の勅符が到達する以前に戦った。故に私闘であるから賞するには及ばない」と主張した。貴族らは文官統治を維持するために軍事を軽く見る傾向にあり、また、隆家の敵・藤原道長に追従したためでもある。これに対し実資は、「勅符が到達したかどうかは問題ではない。たとえ勅がなかったとしても、勲功ある者を賞する例は何事にもある。寛平六年、新羅の凶賊が対馬を襲撃したとき、島司文室善友は直ちにこれを撃退し、賞を賜った。これと同じことである。特に今回の事件は、外敵が警固所に肉薄し、各島人が一千人余りも誘拐され、数百人が殺された。壱岐守藤原理忠も戦死した。しかし、大宰府は直ちに軍を動かしてこれを撃攘せしめた。何故に賞さないことがあろうか。もし賞さないならば、今後進んで事に当たる勇士はいなくなってしまうであろう」と弁じ立てる。まず、大納言藤原斉信がこれに同意し、続いて公任・行成も翻意、ついに公卿ら皆意見を同じくして褒賞は決議された。このとき実資は右大臣に任ぜられるか否かで同僚らの歓心を買わなければいけない時期だったが、それでも付和雷同・阿諛追従することなく、ものごとの道理を滔々と陳述している。
花山院の女御・婉子女王と大恋愛して結婚したが子供に恵まれず、晩年アルツハイマーが進行してからは焦りのために手当たり次第に手を出し、政治上の弟子である宇治関白頼通(彼は妻が非常に少ない)を嘆かせている。弟・権中納言懐平の子である資平を養子としたが、最愛の子は実女・千古(ちこ、ちふる)であった。
実資は小野宮家の財産を多く、息女に継承させ、一子資平には一部しか継承させなかった。このためか、実頼から継承したと思われる家領は分散継承され、院政期には空中分解を遂げることとなる。
彼は信仰厚い仏教徒であったが、今はの際まで現実社会で活躍することを好み、その死に臨んでも出家することはなかった。
天寿を全うするとき、彼の小野宮第には朝野上下の人々が参集し、声を放って慟哭したという。人呼んで「賢人右府」。