コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

藤原斉敏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原斉敏
時代 平安時代中期
生誕 延長6年(928年
死没 天禄4年2月14日973年3月21日
官位 従三位参議
主君 朱雀天皇村上天皇冷泉天皇円融天皇
氏族 藤原北家小野宮流
父母 父:藤原実頼
母:藤原時平の娘
兄弟 敦敏頼忠斉敏慶子源高明室、述子
養兄弟:佐理
藤原尹文の娘
高遠懐平実資
テンプレートを表示

藤原 斉敏(ふじわら の ただとし、旧字体藤󠄁原 齊敏󠄀)は、平安時代中期の公卿藤原北家小野宮流摂政藤原実頼の三男。官位従三位参議

経歴

[編集]

朱雀天皇の御代に、始め小舎人として出仕した。天慶6年(943年)殿上にて元服[要出典]、長兄・敦敏や次兄・頼忠に次いで天慶7年(944年)17歳で従五位下叙爵され、天慶9年(946年侍従任官する。

村上朝初頭の天暦元年(947年)に敦敏が早世し、頼忠が嫡男となる。斉敏は天暦4年(950年左兵衛権佐に任ぜられると、天暦5年(951年)従五位上、天暦7年(953年正五位下と順調に昇進。天暦9年(955年)2月に五位蔵人となるが、同年11月に従四位下に叙せられたため、9月ほどで蔵人を辞している。天暦10年(956年右近衛権中将に任ぜられるが、天徳3年(959年)には病により中将を辞任した。

中将辞任後はしばらく散位にあったが、康保3年(966年春宮・憲平親王の春宮権亮として復任し、翌康保4年(967年)憲平親王が即位冷泉天皇)すると、正四位下参議に叙任されて公卿に列した。また、参議任官と同時に、新春宮・守平親王の春宮亮も兼帯している。

議政官の傍らで、治部卿左兵衛督右衛門督などを兼帯する。しかし、冷泉朝以降は後任参議ながら天皇の外戚である九条流藤原兼通兼家兄弟に昇進で先を越され、円融朝天禄3年(972年)には兼通が関白内大臣、兼家が大納言と高官を占める中で、斉敏の昇進は停滞し相変わらず正四位下・参議のままであった。

天禄4年(973年)正月に従三位に叙せられるが、同月には14歳年下である九条流の藤原為光にまで権中納言昇進で後塵を拝してしまう。この状況の中で同年2月14日薨去享年46。最終官位は参議従三位左兵衛督。

官歴

[編集]

公卿補任』による。

系譜

[編集]

尊卑分脈』による。

子息3人は全員が65歳以上を保ち、それぞれ公卿に列した。特に藤原実資実頼の養子となって右大臣まで昇り、小野宮流を継いでいる。

参考文献

[編集]
  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年