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「JR羽越本線脱線事故」の版間の差分

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'''JR羽越本線脱線事故'''(-うえつほんせんだっせんじこ)では、[[2005年]](平成17年)[[12月25日]]に[[羽越本線]]の[[北余目駅]]~[[砂越駅]]間の橋梁付近で発生した事故について記す。
#REDIRECT[[鉄道事故#羽越本線特急脱線転覆事故]]

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*[[n:羽越線の不通区間19日に運転再開|羽越線の不通区間19日に運転再開]]
*[[n:羽越線、21日運転再開へ最終調整|羽越線、21日運転再開へ最終調整]]
*[[n:羽越線復旧工事始まる、運転再開の見通しは立たず|羽越線復旧工事始まる、運転再開の見通しは立たず]]
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*[[n:羽越線特急脱線事故、新たに3人不明か|羽越線特急脱線事故、新たに3人不明か]]
*[[n:山形県で特急「いなほ14号」が脱線、乗客4名死亡|山形県で特急「いなほ14号」が脱線、乗客4名死亡]]
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*2005年(平成17年)[[12月25日]]19時14分頃  ([[列車脱線事故]])
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: この事故により先頭車両に乗っていた5人が死亡、33人が重軽傷を負った。
: 突風が原因とされ(現場周辺住民からも「今まで体験したことがないようなものだった」との証言が出ている)、周辺の防砂林の[[クロマツ]]が倒れていることや目撃情報などから、原因は局地的に発生した[[ダウンバースト]]あるいは[[竜巻]]に煽られ転倒した可能性がある。事故当日、最上川河口南方から事故現場までの一直線上で、[[ビニールハウス]]の倒壊や、[[国道7号]]沿いの暴風柵が飛ばされて、[[コンビニエンスストア]]の軒が破壊されるなどの被害が発生している。
: この列車を運転していたのは、当時29歳の運転士、車掌は当時26歳であった。事故発生当時、直前の[[酒田駅]]に到着した時点で大幅な遅延が生じていたが、悪天候であったことから30分の運転見合わせを行い、50分遅れで酒田駅を出発した。さらに、運転士は、自らの判断により、通常より速度を落として走行していたことが、事故調査により判明している。無理な定時運転の敢行など、安全性を無視した無謀運転を行った形跡はなかった。いくら念入りに安全走行を行っても、不幸にも事故が発生してしまうのが、雪国の冬の厳しさである。
:事故発生後、運転士は、すぐさま無線で新潟支社の[[運転指令所|輸送指令]]に脱線事故の発生と救助の要請を行い、車掌と2人で消防の到着まで救助作業を行った。消防隊員が到着した時、顔面から出血して真っ赤になっていたが、「私より先にお客様の救助をお願いします」と言って、救助作業を続けたという。
:それに対して、[[毎日新聞]]は[[社説]]で、「この路線を何度も運転している運転士ならば、風の音を聞き、風の息遣いを感じられたはずだ」とし、事故の原因は、猛吹雪ではなく運転士の経験不足による人災であるとし、無謀運転を敢行したとするJR東日本の運行管理体制を厳しく批判した。毎日新聞に限らず、雪国の地吹雪の体験がない[[テレビ]][[キー局]]や[[全国紙]]、[[雑誌]]の[[コメンテーター]]や[[記者]]からは、[[JR福知山線脱線事故]]と強引に因果を結びつけて、安易に運行者の責任を問い、人災と決め付ける無責任な報道が目立った。それに対し、地元の住民からは「かつて経験したことのない猛吹雪の中で起きた不幸な事故である」として、JR東日本の責任を問う声はほとんど上がらなかった。
: この事故では、山形県[[酒田市]]の山形県立日本海病院の活躍が大きかった。日本海病院では、[[12月3日]]に[[有事]]を想定した対処訓練を行ったばかりであり、この訓練が、半月後に発生した「実戦」で役に立った。日本海病院は事故発生の一報を受けると、速やかに救急医療センター副センター長と[[看護師]]からなる医療チームを事故現場に派遣した。21時前に現場に到着すると、レスキュー隊とともに、一人がやっと入れるほどの狭い救助現場に入り、要救助者に対して点滴の投与などの医療行為を行い、レスキュー隊に対し医学的なアドバイスを行った。これにより、[[クラッシュ症候群]]などを防ぐことが出来、死者の増加及び救助者の後遺症を食い止めることが出来た。日本海病院内でも、全医師を緊急招集し、救助者が到着するまでの間に首提げのタグ(名前・症状・加療の状況などを一覧できるボード)を大量に用意するなど、初動の速さは特筆すべきものであった。
: レスキュー体制としては、事故発生直後から、酒田地区消防組合を主として、鶴岡地区消防事務組合、最上広域市町村圏事務組合消防本部、[[尾花沢市]]消防本部、[[東根市]]消防本部、[[天童市]]消防本部、[[村山市]]消防本部、西村山広域行政事務組合消防本部、[[山形市]]消防本部の各消防本部及び[[山形県警察]][[広域緊急援助隊]]が出動した。横殴りの地吹雪の中、不眠不休で救助活動に当たり、翌26日午後からは、[[上山市]]消防本部、[[南陽市]]消防本部、[[高畠町]]消防本部、[[米沢市]]消防本部、[[川西町_(山形県)|川西町]]消防本部、西置賜行政組合消防本部、山形県防災航空隊も参加した。また、東北唯一のハイパーレスキュー部隊である[[宮城県警察]]広域緊急援助隊特別救助班(P-Rex)が出動し、28日以降に車両台車部という難しい場所の救助作業が、彼らを中心にして行われた。
: その他にも、乗客として乗り合わせた消防士や、JR東日本新潟支社の社員が、自らが腰や背骨に全治数ヶ月にもなる重傷を追いながらも救助活動を行い、動けない人は声を掛けて励ました。これらの一連の動きが、事故による人的損害を少なくした。
: 現場周辺の暴風雪により、被害者の捜索や事故車両の撤去は[[2006年]][[1月1日]]まで掛かった。事故発生以来鶴岡~酒田間が不通となっていたが、その後復旧工事(破損した架線柱も交換 架線を支える金具も従来の角張ったものから丸みのかかったものに変更)も完了し、2006年[[1月21日]]より[[大学入試センター試験]]が控えていることから、受験生に配慮して同年[[1月19日]]より運行を再開することになった。ただ、当面事故現場付近では安全に配慮して運転速度が45km/hに抑えられる。
:事故車両はすべて廃車となった。
:また、この事故で[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]と[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の事故後の対応が比較され、改めて[[#福知山線脱線転覆事故|福知山線脱線事故]]後のJR西日本の対応の悪さが浮き彫りになった。
:[[大韓民国|韓国]]では、ネット掲示板を中心に、『[[新幹線]]の脱線事故』という誤った情報が流れた。さらに、日本の新幹線神話が完全に崩壊したとして[[NAVER]]日韓翻訳掲示板などで、事件を喜ぶ書き込みを行う心ない[[韓国人]][[ネチズン]]が続出した。

2006年4月21日 (金) 23:44時点における版

JR羽越本線脱線事故(-うえつほんせんだっせんじこ)では、2005年(平成17年)12月25日羽越本線北余目駅砂越駅間の橋梁付近で発生した事故について記す。

山形県庄内町榎木のJR羽越本線北余目駅砂越駅間の第2最上川橋梁で、秋田新潟行きの上り特急「いなほ14号」(485系3000番台6両編成)が、橋梁通過直後に全車両が脱線、うち3両が転覆し、先頭車両が沿線にある養豚場の飼料小屋に激突し大破した。
この事故により先頭車両に乗っていた5人が死亡、33人が重軽傷を負った。
突風が原因とされ(現場周辺住民からも「今まで体験したことがないようなものだった」との証言が出ている)、周辺の防砂林のクロマツが倒れていることや目撃情報などから、原因は局地的に発生したダウンバーストあるいは竜巻に煽られ転倒した可能性がある。事故当日、最上川河口南方から事故現場までの一直線上で、ビニールハウスの倒壊や、国道7号沿いの暴風柵が飛ばされて、コンビニエンスストアの軒が破壊されるなどの被害が発生している。
この列車を運転していたのは、当時29歳の運転士、車掌は当時26歳であった。事故発生当時、直前の酒田駅に到着した時点で大幅な遅延が生じていたが、悪天候であったことから30分の運転見合わせを行い、50分遅れで酒田駅を出発した。さらに、運転士は、自らの判断により、通常より速度を落として走行していたことが、事故調査により判明している。無理な定時運転の敢行など、安全性を無視した無謀運転を行った形跡はなかった。いくら念入りに安全走行を行っても、不幸にも事故が発生してしまうのが、雪国の冬の厳しさである。
事故発生後、運転士は、すぐさま無線で新潟支社の輸送指令に脱線事故の発生と救助の要請を行い、車掌と2人で消防の到着まで救助作業を行った。消防隊員が到着した時、顔面から出血して真っ赤になっていたが、「私より先にお客様の救助をお願いします」と言って、救助作業を続けたという。
それに対して、毎日新聞社説で、「この路線を何度も運転している運転士ならば、風の音を聞き、風の息遣いを感じられたはずだ」とし、事故の原因は、猛吹雪ではなく運転士の経験不足による人災であるとし、無謀運転を敢行したとするJR東日本の運行管理体制を厳しく批判した。毎日新聞に限らず、雪国の地吹雪の体験がないテレビキー局全国紙雑誌コメンテーター記者からは、JR福知山線脱線事故と強引に因果を結びつけて、安易に運行者の責任を問い、人災と決め付ける無責任な報道が目立った。それに対し、地元の住民からは「かつて経験したことのない猛吹雪の中で起きた不幸な事故である」として、JR東日本の責任を問う声はほとんど上がらなかった。
この事故では、山形県酒田市の山形県立日本海病院の活躍が大きかった。日本海病院では、12月3日有事を想定した対処訓練を行ったばかりであり、この訓練が、半月後に発生した「実戦」で役に立った。日本海病院は事故発生の一報を受けると、速やかに救急医療センター副センター長と看護師からなる医療チームを事故現場に派遣した。21時前に現場に到着すると、レスキュー隊とともに、一人がやっと入れるほどの狭い救助現場に入り、要救助者に対して点滴の投与などの医療行為を行い、レスキュー隊に対し医学的なアドバイスを行った。これにより、クラッシュ症候群などを防ぐことが出来、死者の増加及び救助者の後遺症を食い止めることが出来た。日本海病院内でも、全医師を緊急招集し、救助者が到着するまでの間に首提げのタグ(名前・症状・加療の状況などを一覧できるボード)を大量に用意するなど、初動の速さは特筆すべきものであった。
レスキュー体制としては、事故発生直後から、酒田地区消防組合を主として、鶴岡地区消防事務組合、最上広域市町村圏事務組合消防本部、尾花沢市消防本部、東根市消防本部、天童市消防本部、村山市消防本部、西村山広域行政事務組合消防本部、山形市消防本部の各消防本部及び山形県警察広域緊急援助隊が出動した。横殴りの地吹雪の中、不眠不休で救助活動に当たり、翌26日午後からは、上山市消防本部、南陽市消防本部、高畠町消防本部、米沢市消防本部、川西町消防本部、西置賜行政組合消防本部、山形県防災航空隊も参加した。また、東北唯一のハイパーレスキュー部隊である宮城県警察広域緊急援助隊特別救助班(P-Rex)が出動し、28日以降に車両台車部という難しい場所の救助作業が、彼らを中心にして行われた。
その他にも、乗客として乗り合わせた消防士や、JR東日本新潟支社の社員が、自らが腰や背骨に全治数ヶ月にもなる重傷を追いながらも救助活動を行い、動けない人は声を掛けて励ました。これらの一連の動きが、事故による人的損害を少なくした。
現場周辺の暴風雪により、被害者の捜索や事故車両の撤去は2006年1月1日まで掛かった。事故発生以来鶴岡~酒田間が不通となっていたが、その後復旧工事(破損した架線柱も交換 架線を支える金具も従来の角張ったものから丸みのかかったものに変更)も完了し、2006年1月21日より大学入試センター試験が控えていることから、受験生に配慮して同年1月19日より運行を再開することになった。ただ、当面事故現場付近では安全に配慮して運転速度が45km/hに抑えられる。
事故車両はすべて廃車となった。
また、この事故でJR西日本JR東日本の事故後の対応が比較され、改めて福知山線脱線事故後のJR西日本の対応の悪さが浮き彫りになった。
韓国では、ネット掲示板を中心に、『新幹線の脱線事故』という誤った情報が流れた。さらに、日本の新幹線神話が完全に崩壊したとしてNAVER日韓翻訳掲示板などで、事件を喜ぶ書き込みを行う心ない韓国人ネチズンが続出した。