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「ノート:牧歌舎」の版間の差分

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:::上記コメント執筆中に先の記述に追加されたようですから、それについて申し上げます。「私の発言を「<美人社長>でも出版社が特筆性を持つことはあり得る」と、あたかも発言引用に見せかけて要約してしまい」とお書きですが、'''「出版社に限らず、本業でさっぱり注目されていなかった会社であったとしても、ほかの要素(「美人社長」でもそうですし「サイドビジネスに絡んだ不祥事」でもそうかもしれません)で特筆性を持つことはあり得るのです」'''があなたの書かれた原文です。私はそれを'''「VZP10224さんの「<美人社長>でも出版社が特筆性を持つことはあり得る」というお考え」'''と要約したのです。何がいけないのでしょうか。全く正確で正当な要約引用です。要約ですから一部をカットしていますが、そのカットを元に戻したら少しでも意味や趣旨が変わるのですか。ご自身が言ったことを言わなかったかのように主張されるのはいただけません。'''言ったことは言ったこと、言わなかったことは言わなかったことです。'''何よりもちゃんと記録されていて残っているのですから、ごまかしはやめてご自分の発言を認めてください。
:::上記コメント執筆中に先の記述に追加されたようですから、それについて申し上げます。「私の発言を「<美人社長>でも出版社が特筆性を持つことはあり得る」と、あたかも発言引用に見せかけて要約してしまい」とお書きですが、'''「出版社に限らず、本業でさっぱり注目されていなかった会社であったとしても、ほかの要素(「美人社長」でもそうですし「サイドビジネスに絡んだ不祥事」でもそうかもしれません)で特筆性を持つことはあり得るのです」'''があなたの書かれた原文です。私はそれを'''「VZP10224さんの「<美人社長>でも出版社が特筆性を持つことはあり得る」というお考え」'''と要約したのです。何がいけないのでしょうか。全く正確で正当な要約引用です。要約ですから一部をカットしていますが、そのカットを元に戻したら少しでも意味や趣旨が変わるのですか。ご自身が言ったことを言わなかったかのように主張されるのはいただけません。'''言ったことは言ったこと、言わなかったことは言わなかったことです。'''何よりもちゃんと記録されていて残っているのですから、ごまかしはやめてご自分の発言を認めてください。
 また、「この書籍を出版するにあたり牧歌舎がいかなる役割を果たしたかについては言及がありませんでした。おそらくほかの出典としている新聞記事についても同様と思われますが、もう少し調査をしたいと思います」とお書きなので、まだ分かっていただけてないのかなと残念に思います。書評等の中に「出版にあたり出版社がいかなる役割を果たしたかの言及」はないのが当たり前で、あるほうが異例です。書評等には「この本がこの出版社によって出版された」ということが示されており、それは[[Wikipedia:検証可能性]][[Wikipedia:独立記事作成の目安]][[Wikipedia:特筆性 (組織)]]で出版社の特筆性とも関係があるものとされている、と、私はこれらルールに記述されている文言をもとに示しているのです。「出版にあたり出版社がいかなる役割を果たしたかの言及がなければ特筆性がない」というような[[Wikipedia:検証可能性]][[Wikipedia:独立記事作成の目安]][[Wikipedia:特筆性 (組織)]]にない独自研究的な条件を作って、それに外れているから特筆性がないと言うのは無意味だと思います。--[[利用者:Ted&M|Ted&M]]([[利用者‐会話:Ted&M|会話]]) 2015年1月31日 (土) 17:51 (UTC)
::: また、「この書籍を出版するにあたり牧歌舎がいかなる役割を果たしたかについては言及がありませんでした。おそらくほかの出典としている新聞記事についても同様と思われますが、もう少し調査をしたいと思います」とお書きなので、まだ分かっていただけてないのかなと残念に思います。書評等の中に「出版にあたり出版社がいかなる役割を果たしたかの言及」はないのが当たり前で、あるほうが異例です。書評等には「この本がこの出版社によって出版された」ということが示されており、それは[[Wikipedia:検証可能性]][[Wikipedia:独立記事作成の目安]][[Wikipedia:特筆性 (組織)]]で出版社の特筆性とも関係があるものとされている、と、私はこれらルールに記述されている文言をもとに示しているのです。「出版にあたり出版社がいかなる役割を果たしたかの言及がなければ特筆性がない」というような[[Wikipedia:検証可能性]][[Wikipedia:独立記事作成の目安]][[Wikipedia:特筆性 (組織)]]にない独自研究的な条件を作って、それに外れているから特筆性がないと言うのは無意味だと思います。--[[利用者:Ted&M|Ted&M]]([[利用者‐会話:Ted&M|会話]]) 2015年1月31日 (土) 17:51 (UTC)


== 議論不参加の方のテンプレート貼付はご遠慮ください。 ==
== 議論不参加の方のテンプレート貼付はご遠慮ください。 ==

2015年1月31日 (土) 17:53時点における版

このページは一度削除されています。削除に関する議論は「Wikipedia:削除依頼/牧歌舎」をご覧ください。

宣伝とみなされそうな部分を大幅に削除しました。

事実であっても宣伝活動と判断されそうな部分を大幅に削除しました。これ以上削除すると「Wikipediaは電話帳ではありません」の原則に反することになるかもしれませんので、この出版社の大きな特徴だけはわかる事実は残しております。これらについて「出典」を付けることは可能ですが、同社のホームページの中のページがそれになるためさらに「宣伝活動」とみなされるおそれがありますので控えました。またこの出版社の出版物が三大紙などの新聞で書評に取り上げられたりニュースになっている事例は「脚注」に出ているもの以外にも多数あることがわかりましたが、同様の理由で現状にとどめます。--Ted&M会話2015年1月17日 (土) 03:02 (UTC)[返信]

積極的な執筆お疲れ様です。が、先ほど遺憾ながら「出典の明記」を貼付させていただきました。先ほど眺めたところ、組織(会社)としての特筆性はいかがか、というテンプレートも追加されているようです。
そもそも、「出典」というものは、
  • 記事対象(今回は牧歌舎という企業)がどのような特筆性を持っているのか
を読者が知り、確認するためのものであり、これだけの出版物があるから特筆性がある、とは直結しないのではないでしょうか。三大紙に書評が取り上げられたのであれば、その取り上げられた書物に特筆性がある(のかもしれない)ことは確認できますが。
この出版社が同業他社とどう異なり、良くも悪くも特色があるのか。それを読者が知るのが「出典」です。記事内に、そういった記述が一切見つからない現状では、「宣伝活動」あるいは「会社の紹介告知」と判断されても致し方ないのでは、と感じます。--maryaa会話2015年1月17日 (土) 04:41 (UTC)[返信]
Maryaa様ご意見ありがとうございます。Wikipediaの編纂方針についてこの機会にいろいろ勉強させていただいております。そして「出典」が必要な最大の理由は「検証可能」な記事が書かれなければならないためであると理解しました。「百科事典」としてはもっともなことです。「出典」は、つまりは記事の内容が虚偽や誤りでないことを示すものとして求められているのだと思います。「特筆性」を示すためにも必要とは思いますが、まずは「検証可能性」を示す必要があるということでしょう。ですので、Maryaaさんから「出典の明記」ということで注意を受けましたので、この出版社の特徴として書いた部分が検証可能であることを示すために同社のホームページの一部を出典として出させていただきました。Maryaaさんは出典明示の目的が「そもそも特筆性」という立場に立っておられるようですが、私は「そもそも検証可能性」と考えます。「特筆性」については大事なことと考えますが、Wikipediaの「日本の出版社一覧」に800社以上が掲出されていてそのほとんどがWikipediaのページになっていますが、このたび勉強のため調べましたが、その出版社について取り上げた「出典」が示されているものはほとんどありません。出典を要求する貼り付けもないようです。言論機関を重視する姿勢がWikipediaにあるからかとも思われますが、そういうことは置いておいても、「牧歌舎」も他の出版社ページ同様に特筆性に問題はないと思います。--Ted&M会話2015年1月17日 (土) 06:45 (UTC)[返信]
ひとまず、
をご一読いただき、内容を把握してください。それから、他記事の有り様を参考にしないでください。他の記事は、必ずしもウィキペディアの方針に沿っているとは限りません。ここでは、この記事のことだけが議題です。他が疎かだからここもそれに準ずる、は通りません。
上記リンク先に書いてあることですが、記事対象の「特筆性」を裏付ける「出典」は必須です。それがあることで「検証可能性」を満たすからです。その出典には「信頼できる情報源」であることが求められます。これは、原則としてどの記事にも共通です。足りない記事があれば、それはその記事の不備です。誰もが知るような超大手ならばともかく、あまり知名度のない組織であればなおさらです。これでもかというくらいの出典があれば、ああなるほど、こんなにあちこちで紹介されている組織なのだ、と推定することができます。出典は、そういう意味で必要なのです。
数多くの参考文献(出典)を手元に揃え、それを参考に記事を起こすのが筋であり、指摘があってから出典を探すのは、実は本末転倒なのです。信頼できる情報源による出典があるから検証可能性を満たせ、その内容によって特筆性を主張できる。これらの要素は密接に関連しています。繰り返しますが、現在の記事は、記事対象に対する「特筆性に問題はないと思」わせる出典が何ひとつないため、記事対象をよく知らない読者は特筆性があるのか判断できない、というのが現状です。復帰依頼でコメントされていた利用者各位も、「この組織の特筆性を物語る出典はどこにあるの?」と問われているようですが、いかがでしょうか。--maryaa会話2015年1月17日 (土) 07:35 (UTC)[返信]
まことに申し訳ないことを申すようですが、Maryaa様には日本の出版社一覧をちゃんとご覧になっていただいたのでしょうか。一つや二つでなく何百もの、ほとんど100パーセントに近いと思われる数の出版社の記事に、出版社そのものについての「出典」はありませんし求められてもいません。つまり「他記事の有り様を参考にしないでください。他の記事は、必ずしもウィキペディアの方針に沿っているとは限りません。ここでは、この記事のことだけが議題です。他が疎かだからここもそれに準ずる、は通りません」と言われることのほうが問題であって、「他が疎か」ではなくこれが健常、即ち「これで特筆性が満たされている」と判断されている事例と考えなければならないレベルの圧倒的なページ数だということです。また、出版物は出版社の活動結果ですから「大新聞の書評で紹介されてもそれは出版物の特筆性であって出版社の特筆性とは関係ない」というようなことが100パーセント言えるものではありません。出版物に問題があれば、著者はもちろんですが出版社もその内容について責任を負うのです。その分だけ、出版物が評価されれば出版社も出版社として評価されたと考えて然るべきです。Wikipediaの特筆性ルールは意味のあることと考えますが、その適用はこと出版社については日本の出版社一覧のように特筆性基準が置かれ運用されていると考えるべきでしょう。「参考にすべきではない、必ずしもWikipediaの方針に添っているとはかぎらない」他の例というには、日本の出版社一覧のほぼ全部なのですからあまりにも無理があります。これらをすべて「参考にすべきでない例外」として「この記事だけが問題」とされるのは方向性の時点で何か大きな錯覚を生じられているような気がしてなりません。ついつい失礼な言い方になってしまっておりましたらお許しください。--Ted&M会話2015年1月17日 (土) 08:56 (UTC)[返信]
ええと、私が書いた文の全体を読んでいただきたいのですが、「この記事だけが問題」等という表現、受け取れる表現はどこにもしたつもりはありませんが、どこをどう読んだらそうなるのでしょう。今は、この記事について話しているのであり、他の記事の不備をどうこう言ったところで始まらない、ということに過ぎません。ウィキペディアでは、スピード違反の論理と呼ばれる状況です。ご自身の言葉である、
  • 「牧歌舎」も他の出版社ページ同様に特筆性に問題はないと思います。
とは、
  • 「他の記事だってろくに出典ないんだから、この記事だっていいだろ」
ということでよろしいでしょうか。
繰り返しますが、Wikipedia:検証可能性を把握理解した上、復帰依頼で集まったコメントに対する返答も上記で代える、ということでよろしいでしょうか。--maryaa会話2015年1月17日 (土) 10:20 (UTC)[返信]
「この記事だけが問題」は「この記事のことだけが議題」でした。老眼で少し見誤りました。すみません。ですが、私の言っていることの文脈内では同じことになります。「他の記事だってろくに出典ないんだから、この記事だっていいだろ」というのでは全然ありません。「他の記事に出版社そのものの出典がなくて掲載OKになっているのは、それらが出版物などによって特筆性があるとみなされたからなのだから、この記事だって同様に特筆性があるとみなされてよいのでは」ということです。まさか特筆性がないとみなされた出版社の記事が800(出版社の記事のほとんど)もあるわけないでしょう。これらは全部、出版社そのものについて「出典」がなくてもその他の基準で特筆性があるとみなされているんでしょうということです。いかがでしょうか。--Ted&M会話2015年1月17日 (土) 10:53 (UTC)[返信]
  • その他の基準で特筆性があるとみなされているんでしょうということです。
再三ご案内しておりますWikipedia:検証可能性をご理解なさった上でこのように判断されたのならば、これ以上申し上げることはございません。--maryaa会話2015年1月17日 (土) 11:05 (UTC)[返信]
議論に貴重な時間を割いてご参加くださり、ありがとうございました。感謝申し上げます。Wikipedia:検証可能性については熟読させていただきました。「(Wikipediaの800もの出版社の記事(日本の出版社一覧に出ている出版社の記事のほとんど)についてその出版社そのものについての「出典」がなく、しかも出典明記の要求がされていないのは)<i>出版社そのものについて「出典」がなくてもその他の基準で特筆性があるとみなされているんでしょうということです。」という私の判断に変化はございません。--Ted&M会話2015年1月17日 (土) 11:40 (UTC)[返信]
ウィキペディアの記事は膨大な数があり、一つ一つチェックしていくのは膨大な作業となります。出版社の記事とてそれは例外ではありません。確かにCategory:日本の出版社にカテゴライズされている記事を見ると、その大半が企業プロフィール程度の記述か、出典に裏付けられていない記述しかないように見えますが、それはその状態で良しとされているものではありません。ただ単にほかの編集者によるチェックが追い付いていないだけです。別の分野では、さまざまな理由によって特筆性など関係なしに粗製乱造されたある特定の分野の記事が、一挙に削除依頼にかけられたり、定期的に数個ずつ削除依頼にかけられるなどして削除されているということも起きております。いくらTed&Mさんが否定されたとしても、実際に他の方法で特筆性を示す努力がなされていない以上、「他の記事だってろくに出典ないんだから、この記事だっていいだろ」とおっしゃっておられるのと同等であると受け止められても仕方ありません。
別の観点から言いますと、社史などの政策にかかわる機会が多いということで、どこかの媒体に取り上げられたりした実績があれば、それをもとに特筆性を満たすことを証明する出典があると判断できるかもしれません。そうしたものがなければ、出版社自身がそのような主張をしているだけ、というとらえ方をされ、この記事の存続にとって良い方向にはならないでしょう。--VZP10224会話2015年1月18日 (日) 03:28 (UTC)[返信]
VZP10224様、私の最も疑問に思っていた2つのことについて管理者の資格を持つ方にお答えいただきありがとうございます。1つは出版社を記事対象としたほとんど全てのページが「企業プロフィール程度の記述か、出典に裏付けられていない記述」でOKになっているのになぜこのページだけが、という素朴な疑問でした。私は読者としてWikipediaの各ページは大半が管理者様やその他の方の査読を通った信頼に足るものと思ってWikipediaを利用していましたので、いろいろ考えた結果「出版社そのものについて「出典」がなくてもその他の基準で特筆性があるとみなされているんでしょう」と結論したわけです。まさかCategory:日本の出版社の記事のほとんど全てがVZP10224様のおっしゃるように「編集者によるチェックが追い付いていない」状態とは考えられなかったのです。今でも信じられない思いです。VZP10224様のおっしゃるとおりであればWikipediaの記事というのは非常に信頼性が低いものということになってしまいますが、VZP10224様のおっしゃることは事実と考えてよいのでしょうか。それともそれはVZP10224様の「見解」であって、私の「出版社そのものについて「出典」がなくてもその他の基準で特筆性があるとみなされているんでしょう」ということもあり得ると考えてよいのでしょうか。この疑問が新たに湧きました。
「私の最も疑問に思っていた2つのこと」の2つ目についてですが、その前に「出版社自身がそのような主張をしているだけ、というとらえ方をされ」というお言葉がありますが、私を「出版社自身」と思われては困りますので一応お断りしておきます。さて2つめの疑問ですが、それは「記事内容の検証可能性のために出典が求められるのは当然だが、記事対象の特筆性のために出典が必要とはどういうことだろう」ということでした。もちろん一見してわかるような些末で一般性がない記事が排除されることは一応理解できますが(それでも記述内容が検証可能なら載せておいても、誰にもほとんど見られないというだけで何も害はないし却って面白いのではと思いますがこれは別の話)、出版社の出版物に特筆性の出典があっても出版社それ自体がメディア等に取り上げられているという「出典」がなければ特筆性がない、というのは変ではないかという疑問でした。出版社がメディアに出るのは出版物の発行者として出るのが普通で、出版物を離れて出版社自体が話題になった「出典」がなければダメということになればCategory:日本の出版社の出版社の記事はほとんど全部消滅してしまい、何か悪いことをして新聞ダネになったような出版社だけが「出典」を得て残ることになります。そのような「出典」が必ずしもなくても特筆性はWikipediaでは認められているはずです。特筆性を有する出版物を一定程度発行していればWikipediaでの特筆性は担保されるはずと考えます。そう思っていたところでVZP10224様の、「牧歌舎」の記事については、「社史などの制作に関わる機会が多い」ということについての「出典」があれば特筆性になると示唆を頂き、なるほどこれなら特筆性と呼ぶにふさわしいなと思いました(全ての出版社にそういうものが必要と考えるわけではありませんが)。ただし、「社史をたくさん制作している」という特筆性はメディアでの露出を待つまでもなく「検証可能」と思われるので、それも含めて今後探していくことにいたします。なお、これまで次々にいろいろなコメントやテンプレート貼りを頂いたので、それに対応するべく、現在までに多くの改善を行っております。宣伝的ととられそうな記述は大幅に削除しましたし、出版物の特筆性の出典を相当数「脚注」として加えました。また出版物だけでなく出版社そのもののメディアへの露出も必要と言われたので一応「出典」として加えました。これですでに再作成としてはOKではないかと考えていますのでVZP10224様の個人的なご見解ででもチェックいただければ幸いです。--Ted&M会話2015年1月18日 (日) 05:52 (UTC)[返信]
現状として編集者のチェックが追い付いていない以上、出典がついていない記事に関して「非常に信頼性が低い」という指摘を受ければ、「それはその通りである」と認めざるを得ません。その信頼性を担保するために、素人である編集者が頼りにできるのが記述の裏付けとなる出典になるのです。まあごく一部の編集者については出典を捏造したり、出典として提示した文献に書いてないことを無理やりな解釈で読み取って出典とする人がいますが、それはまた別の問題ということで。で、さらに誠に残念なことに、「ご近所の八百屋さん」レベルで存在する小規模な企業の記事に対して特筆性がないという指摘をされ、その記事の執筆者が「この記事には特筆性がある!!」と、出典の提示をされることなどもなく強弁されることも、これまでには多々あったのです。そうした経緯もあり、特筆性がないとの主張に対する反論に対しては微に入り細を穿つようにその主張が問いただされてしまうことが多いように思います。で、さらに言うと、ウィキペディアの記事として掲載された以上はその記事は査読中でも審議中でもなく、公開されたものとして同一の扱いを受けます。現状でのこの記事は多くの人にその存在を疑問視されながらも存続し続けている、という状況でしょうか。
2つ目のお話ですが、出版社である以上、出版物を発行することそれ自体は当たり前の話であり、八百屋で野菜を販売したり、魚屋で魚を販売したりすることと同じくらい当たり前の話です。その中で、たまたま市場で仕入れただけの「全国的に名の知れた農場で作られた野菜」「テレビで取り上げられた漁師が釣った魚」を扱っただけでは、その八百屋なり魚屋なりに特筆性が生まれるとはいいがたく、「こういったコンセプトで野菜を販売している」「とれたての魚を店舗に素早く届ける工夫をしている」などといったことが評判となり、ご近所レベルでとどまらない評判になれば、テレビ番組や新聞・雑誌などで取り上げられる、そう言った積み重ねが特筆性を生む要素になるのではないかと思います。いままでのTed&Mさんの主張では、失礼な物言いを承知で申しあげますが「○○農場のトマトを売ってるうちってすごいでしょ」とあちこちで宣伝しながら野菜を販売している八百屋さんとやってる内容に大差はないのではないかと考えます。もちろん「八百屋なのにいきなり野菜を売るのをやめて今日から魚を売り出した」という話になればそれも特筆性の要素の一つとなるかもしれませんし、販売した製品でトラブルが発生すればそれでも特筆性を満たすこともあるでしょう。要は、「その出版社がほかの出版社と違う何かがあるか否か」がないとその対象と無関係な信頼できる情報源において有意に言及されている状態にはならないだろう、と思われるのです。現在の基準(Wikipedia:独立記事作成の目安)に明記されてはいませんが、そういうものがないと百科事典の一記事として多くの人が認める状態にはならないのかな、と思います。--VZP10224会話2015年1月18日 (日) 08:33 (UTC)[返信]
Wikipediaの出版社のページのほとんど全てが査読を受けておらず「非常に信頼性が低い」のは「それはその通りである」と事実であるとして管理者の方から示されたことに驚いております。それはそれとして、「○○農場のトマトを売ってるうちってすごいでしょ」とあちこちで宣伝しながら野菜を販売している八百屋さんとやってる内容に大差はない」と言われているのは記事のどこのことを言っておられるのでしょうか。少なくとも私は牧歌舎を「うち」とする立場にはありませんし、宣伝の意図も全くありません。なにも「すごいでしょ」とかなんとかでなく、求められる条件に合うものを書こうとしているだけです。「出典らしきものがない」とのことでしたのでまずは発行書籍が大新聞の書評で紹介されている事例を書き、「出版物でなく出版社自身が紹介された出典を」と求められたのでそんな無茶なと思いながら一応探してきて「出典」として付けました。そんなことをすればするほど記事が宣伝くさくなるのにと思いながら、それがないとダメだとのことなのでやむなく書いたのです。VZP10224様は、さらに「他の出版社と違う何かがあって、そのことがメディア等で紹介されていなければダメ」と言っておられるようですが、そもそもその対象と無関係な信頼できる情報源において有意に言及されている状態は求められていますがそこに「他の同業者と違う何かがあるか否か」についてというような前提はなくVZP10224様が付け加えられたものかと思います。「違い」と「出典」の関係はVZP10224様のお考え方とはむしろ逆で、「こんな本が新聞の書評で紹介されているからこんな本に力を入れている出版社なんだな」とか「こんな本に取り上げられているからそれなりのものがある会社なんだな」として「違い」が誰かの意図的な説明を超えて認識される、しかも固定的なものでなく時々刻々その認識も変わっていき得るというのがあるべき姿でしょう。そういうことを思いながらその時点で求められていた「出典」を付けておきました。--Ted&M会話2015年1月18日 (日) 10:26 (UTC)[返信]
「少なくとも私は牧歌舎を「うち」とする立場にはありませんし、宣伝の意図も全くありません。」と言われましても、現実問題として、Ted&Mさんの投稿履歴を見る限り、牧歌舎の記事とそのノート、また牧歌舎の記事に関する復帰依頼しか確認できない以上、Ted&Mさんは牧歌舎の関係者にしか見えないのです。また、たとえ話を用いて説明したのでわかりにくかったようで再度お話しさせていただきますが、出版社が出版物を発行するのはその事業の目的からして明らかであることから、出版物を発行することそのものは特筆性の根拠とはなりません。また、発行した出版物の一つ一つがどのように評されているかはその書籍自体や著者がどのような評価を受けたかを判断する材料とはなっても、その評の中で出版社に対して直接の言及がない限り、その本の出版社がどのような出版社であるかの裏付けにはならないと考えます。逆の立場から言えば、書籍の書評であったとしても、評者が出版社の事業や活動に対して言及していれば、出版社の記事の出典とできると考えています。もう一度Wikipedia:独立記事作成の目安#一般的な目安をよく読んでいただければと思います。なおWikipedia:独立記事作成の目安はガイドライン化されて間もない文書であり、まだまだ改善の余地があると思われますが、この文書に限らずウィキペディアの方針文書は必要に応じて随時改訂されているもので、永続的なものではないことに留意ください。
また『「こんな本が新聞の書評で紹介されているからこんな本に力を入れている出版社なんだな」とか「こんな本に取り上げられているからそれなりのものがある会社なんだな」として「違い」が誰かの意図的な説明を超えて認識される』という表現は、個々の出版物の書評をかき集めれば出版社の性格が透けて見える、とおっしゃりたいのかな、と受け取ったのですが、そうした、個々の事象から演繹的帰納的に傾向を推測させるよりも、出版社の方針に対して直接言及した記事を下敷きにして文章にしたほうがわかりやすいのではないでしょうか。また、個々の事例を並べ立てて何かの方向性を推測させる記述は、編集者の個人的な主張に対して都合の悪いものをあらかじめ排除して特定の方向性を誘導したいときに使われる記述方法として記述されていたのを目にしており、個人的には好ましいとは思えません。とりあえずこの辺で。--VZP10224会話) 2015年1月19日 (月) 16:30 (UTC)意味が逆になってしまっていたので下線部修正--VZP10224会話2015年1月25日 (日) 05:15 (UTC)[返信]
(追記)結局のところ、私の中では、書籍の書評、ひいては出版物そのものを列挙することが、出版社の方向性なり方針を説明することとどうしてもイコールで結びつかないのです。出版業界に詳しい方であれば各社の方向性は説明されずともわかるような業界内の常識なのかもしれませんが、業界に精通していなければ、そうした特徴が直接記述された文献がないか提示を求めるのは、ある意味で自然だと思うのです。そうした説明なり、文献の提示がなされることをTed&Mさんには期待します。--VZP10224会話2015年1月19日 (月) 16:50 (UTC)[返信]
貴重なお時間を割いてコメントしていただいてありがとうございます。いろいろとVZP10224さんの個人的な推測や印象や感想や考え方が書かれていて、私から言えばそれは誤解や誤謬であるとして異論や反論したいところもあるのですが、もう深夜で私も明日早いので、とりあえず今日は(追記)で「結局のところ」と書かれてありますので、そこのところに絞って異論を申します。VZP10224さんは「出版社の方向性なり方針」とか「特徴が直接記述された文献」とか言われるのですが、出版社の「方向性」「方針」「特徴」はWikipediaで言う「特筆性」とは少し違うと思うのです。ご承知のようにnotabilityが日本のWikipediaで最初「著名性」と訳され、しかしこれでは「有名であること」と混同されるから「特筆性」と訳し直されたものですが(その議論のページをさっき読みました)、その訳し直しは一応妥当なものだと思いますが、「特」という字があるためか、多くの人が「特徴」とか「特長」とか「特色」とイコールのように錯覚してしまっているのです。VZP10224さんが「方向性」とか「方針」だとかを挙げられるのもそうしたとらえ方から来ているものと思えるのですが、特筆性(notability)はそういうものも含めた包括的な概念で「書きとめておける(notable)」(「これはちょっと書いておいていいぞ」というニュアンス)という意味です。もっとわかりやすくWikipediaに即して言えば「ここに書いても決して場違いではないぞ」ということです。そして場違いか場違いでないかは本来主観的な判断なのですが、客観的基準をつくるために「新聞などに取り上げられているものならとりあえず場違いではない」とされたのです。しかし新聞に取り上げられていなくても「場違い」とするのが「不合理」な場合はありますから、合理的基準と判断されるものがほかにあればそれは場違いではないとみなされています。だからほとんどの記事は「主題の出典」がなくてもWikipediaに載っているのです。notabilityの語義からはそうなるのであって、またそうしかなりません。ほとんど全ての出版社の記事が「主題の出典」なく載っているのは、VZP10224さんが言われたように「編集者のチェックが追いついていない」のではなく、VZP10224さん以外の多くの管理者や編集者が見て「この記事で場違いではない(notable=特筆性がある)」と判断されたからです。ほとんど全ての出版社の記事を管理者や編集者が誰も見ていないということは考えられないし、またそのように考えるのは誤りなのです。ということでもう朝が来てしまうので今日はこの辺でやめておきます。いつも丁寧にご対応くださってありがとうございます。--Ted&M会話2015年1月19日 (月) 19:00 (UTC)[返信]
notabilityについての議論はもっと続けたいのですが、多くの方々から問題点をご指摘いただき、それを解決するため、指摘された条件を満たしそうな「出典」を拾い集めて記事中に追加しております。まずこれで復帰がOKがどうかをチェックいただき、もしこれで問題解決になりましたらその後はどこか適当な所でnotabilityの議論を続行させたいと思いますのでよろしくお願いいたします。--Ted&M会話2015年1月20日 (火) 03:12 (UTC)[返信]
Ted&MさんがWikipedia:検証可能性の、とくに冒頭の「ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。つまり、私たちがウィキペディアで提供するのは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけだということです。」の文章の意味を全く理解いただいていないということがよくわかりました。もう少しこの記事とTed&Mさんへの対応を考えたいと思いますので、しばらく時間をいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。--VZP10224会話2015年1月21日 (水) 09:33 (UTC)[返信]
私はこの議論を行うにあたり、また議論の途中でも、皆様が参照せよと言われるWikipedia:検証可能性およびWikipedia:独立記事作成の目安#一般的な目安をくり返し読んで理解に努め、そこで求められている「出典」を探しては記事に追加してまいりました。「真実であるかどうか」より「検証可能かどうか」が問題とされる理由はよく理解できましたので、この記事には検証可能なことのみを記しているつもりです。ですので、VZP10224さんが『「ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。つまり、私たちがウィキペディアで提供するのは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけだということです。」の文章の意味を全く理解いただいていないということがよくわかりました』と言われる理由がよくわかりません。どのような論理のプロセスを経てそのような結論になったのかご説明いただければ幸いです。そのすぐ前に私はキーワードである「特筆性(notability)」について、Wikipediaが求めている特筆性は皆さんが言われる「特徴」や「特色」に限定されるものではないことを論証しましたが、出典が不要などとは言っておりません。Wikipedia:検証可能性のための根拠が「真実であるかどうか」以前に求められることは理解し念頭に置いて、そのうえで「特筆性」とは「特徴」とか「特色」に限定されずにWikipediaでは使われている、ということを説明したのです。そのことが、私が「特筆性を軽視している」とか、「Wikipedia:検証可能性を理解していない」という判断に結びついたのだとしたら、「何を言っているのかよくわからないが、われわれが考えている特筆性の基準には従わないということのようだからWikipedia:検証可能性についてもわかっていないのだろう」という短絡的な判断が行われて「理解いただいていないということがよくわかりました」という言葉になったということであり、非常に残念に思います。それは全くの、正反対の誤解なのです。何が正反対かと言いますと、わかりやすく言いますと、特筆性とは、「特徴」とか「特色」ぐらいの意味に限定されない、実はもっと厳しくもっと微妙な感覚が決定すべきものだということなのです。そうなってきますと、今回の出版社の例で言いますと、その出版社の特筆性を考えるにはその出版物の特筆性が優先的に考えられなければならないことがお分かりいただけると思います。出版物には特筆性がないのに別の「特徴」(社長が美人女性だというような)でメディアに登場したりする出版社と、そんな「特徴」はないが出版物がよく書評に取り上げられる出版社とを考えれば、出版社の「特筆性」を出版物以外のところに求めるのが不適当であることが理解いただけるのではないでしょうか。「出版物の特筆性は出版社の特筆性に結びつかないという」のはあまりにも特筆性というものの厳しさと微妙さを理解していない乱暴な考え方ではないか、というのが私の言いたかったことなのです。私はWikipedia:検証可能性Wikipedia:独立記事作成の目安#一般的な目安のために「出典」は必要だという、VZP10224さんと同じ立場に立っていることをよくご理解ください。ただ、Wikipediaで求められている「出版社」の「特筆性」は、その出版社の出版物に、少なくとも一定程度は認められているはずだ、というごく当たり前のことを言っているのです。特筆性のある書籍を出版している出版社には特筆性があり、出版物はその「出典」とできることをWikipediaは一定程度認めていると思います。これをはっきり否定するルールは見当たらず(Wikipedia:特筆性 (書籍)を閲覧しましたが「書籍の特筆性は出版社の特筆性ではない」というようなルールらしいものは見当たりません)、逆に、非営利団体ではありますが、団体の「業績」がその団体の特筆性の根拠になり得ると書かれていますから(Wikipedia:特筆性 (組織)の「非営利組織」のところ)、その感覚はこの問題にも適用されてよいと思います。また、この出版社について言えば、一過性でなく、毎年朝日、毎日、読売の書評等に載る作品を出版し続けており、その実際の数はここで脚注を出しているものの何倍にも上ります。難病患者や不治の病の人、在日の人など社会的弱者とされる人の本が比較的多いようなので(これは私の感想ですが)、それも新聞によく紹介される一因となっているのかもしれません。このように、「特徴」や「特色」はその活動の結果からのみうかがい判断すべきものではないかと考えます。ただし、こういうことが理解されず、出版物でなくあくまでも出版社自体についての形式的基準での「出典」が要求されていることにも対応するため、皆さんが言われるような「出典」も付けております。よろしくお願いします。--Ted&M会話2015年1月21日 (水) 16:46 (UTC)  [返信]

(インデント戻し)いろいろと説明いただきましたが、この説明を読んでなお、「出版物の特筆性とその出版社の特筆性はそれぞれ独立しており、相互には結びつかない」という私の考えを変更するには至りませんでした。また、「出版社の「特筆性」を出版物以外のところに求めるのが不適当」ということは全くなく、出版事業にまつわる活動以外でその出版社が特筆性を持つことは十分にあり得ますので、そこはご認識を改めていただかないと、今後ウィキペディアで執筆活動をしていただくのは難しいのかなと思われます。裏返しで言いますと、出版社に限らず、本業でさっぱり注目されていなかった会社であったとしても、ほかの要素(「美人社長」でもそうですし「サイドビジネスに絡んだ不祥事」でもそうかもしれません)で特筆性を持つことはあり得るのです。先ほど私もまるか食品 (広島県)に外部出典を補いましたが、この会社でも削除依頼に提出されれば、今の私には強硬に存続を主張するだけの出典を見つけられていません。Ted&Mさんは、「特筆性とは、「特徴」とか「特色」ぐらいの意味に限定されない、実はもっと厳しくもっと微妙な感覚が決定すべきものだということ」というお考えとのことですが、ウィキペディアにおいて、そうした読む人によって解釈の異なる可能性がある文章を排除する一つの手段が「検証可能性」なのです。私も上のほうで「書籍の書評であったとしても、評者が出版社の事業や活動に対して言及していれば、出版社の記事の出典とできると考えています」と述べておりますが、Ted&Mさんからそうした方向からの出典の明記がなされないまま、書籍の書評をもって出版社の特筆性を証明できる出典となるといくら説明されても、少なくとも私は納得はできません。また、Wikipedia:検証可能性を読んでいただいたのであれば、こちらと一体不可分な関係であるWikipedia:中立的な観点Wikipedia:独自研究は載せないも同時にご確認いただいているとは思いますが、私がかかわってきた中で、「類似する特徴を持つ事象を外部の出典を伴って掲載する」行為は、ウィキペディアが定義する独自研究を、執筆者がもっともらしく偽装するために手っ取り早く行う行為として見られました。それは執筆者が自分の意図に沿わない事象を切り捨て、自分の意図に沿った事象のみをえり好みすることが多かったため(チェリー・ピッキングあたりも参照ください)で、そうした行為で特筆性なり、ウィキペディアにある記述を残そうとする行為に対しては、どうしてもチェックが厳しくなるのです。また、先の削除依頼や復帰依頼で宣伝であるとの指摘が起きるのも、結局のところ出版社自体の特筆性を直接述べた出典を持ってくることなく、出版物の書評をもって出版社の特筆性を説明しようとしているからなのではないかと思います。
「ほとんど全ての出版社の記事が「主題の出典」なく載っているのは、VZP10224さんが言われたように「編集者のチェックが追いついていない」のではなく、VZP10224さん以外の多くの管理者や編集者が見て「この記事で場違いではない(notable=特筆性がある)」と判断されたからです。」とも言われていますが、岩波書店をはじめとした多くの記事に{{Publishing-stub}}が貼り付けられ(Category:出版に関するスタブ参照)、「この項目は、出版に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています。」と呼びかけられている現状では何の意味もありません。現状について「チェックが追い付いていない」という言葉が不適切なら「わざわざ加筆・訂正するような時間もないし興味もないから放置している」といえばいいでしょうか。過去には、とにかく目についた記事に対して腹いせ的にテンプレートを張り付けたり削除依頼にかけたりした荒らし利用者もおり、そうした「問題編集者」ととられかねない行為を自粛している、という部分もあるのかもしれません。--VZP10224会話2015年1月25日 (日) 05:15 (UTC)[返信]

話を簡単にするために、VZP10224さんの「<美人社長>でも出版社が特筆性を持つことはあり得る」というお考えに絞って説明します。私はそのお考えには全く同感であり大賛成なのです。社長が美人だという出版社の記事があればちょっと読んでみたくなります。それが特筆性(notability)というものです。しかしそれが「出版社としての」特筆性といえるでしょうか。美人社長というだけで出版社の特筆性があるのなら、出版物に特筆性がある出版社はなおさら出版社として特筆性があることになるのではありませんか。私が出版社の特筆性というのは美人社長という「特徴」(新聞や雑誌に「出典」がある)よりも厳しいものである、少なくともWikipediaはそういう考え方に立っているはずだと言っているのです。「出版社の特筆性」を厳しく論じようとすれば「出版社としての」特筆性を論じなければならず、「出版社としての特筆性」を論ずるならば「出版物の特筆性」を論じないわけにはいきません。--Ted&M会話2015年1月26日 (月) 15:57 (UTC)[返信]
自論に都合の良い(ように見える)部分だけを取り上げて主張を開陳しても説得力はないですよ。『美人社長のいる出版社』として話題になったのなら、特筆性になる場合もあると言うだけの話でしょう?それで必ず特筆性が担保されるわけでもなし、「書籍の書評であったとしても、評者が出版社の事業や活動に対して言及していれば、出版社の記事の出典とできる。」と言っているのと同じで、VZP10224氏は一貫して「出版社について記述するにはその出版社について言及した出典が必要」という大原則を述べているだけ。瑣末事より本業についての出典のほうが望ましいだろうけど、とにかく記事主体についての言及がなければ何を書きようもありません。『沈まぬ太陽』や『ソロモンの偽証』がいくら話題になったとしても、それはその作品自体に由来するもので、どこから出版されようと同じことです。出版社の特筆根拠にはなりません。--240F:65:BD68:1:DD54:735D:3E0:71D7 2015年1月28日 (水) 02:03 (UTC)[返信]
Ted&Mさんの、一見もっともらしいことを述べておいて都合の悪そうなところはバッサリスルー、という返答に、正直ガッカリです。Ted&Mさんはおそらく「真面目に本業に取り組んでいる会社がウィキペディアに取り上げられず、面白おかしく世間に取り上げられた会社が真っ先にウィキペディアに取り上げられるのはおかしい」とお考えなのかと思われます。その感覚は一般庶民として失ってはいけないものだとは思いますが、しかしながらウィキペディアにおいては、すべての記述に論拠となる出典が必要で、この世の中で誰も言っていないことを記述したり、出典があったとしても複数の事案を並べて行間から特定の結論に誘導する記述方法は「独自研究」として排除されてしまうのです。また「美人社長というだけで出版社の特筆性があるのなら」と前置きして、「出版物に特筆性がある出版社は」と「出版社として特筆性がある」を「なおさら」でつなぐ理論も誤りです。そりゃ、どの会社も本業で何らかの形で注目され、ウィキペディアに書く内容があるのが理想でしょう。しかしながら現実社会で活動する中では、本業以外の部分で世間に注目され、ウィキペディアに書くことができる場合だってあるのです。ウィキペディアはあくまでも百科事典であって商品カタログではないので、会社そのものの記事には、単に商品のリストを並べるだけではなく会社の経営方針をはじめとして会社そのものの説明が必要になるのです。Ted&Mさんはすでに加筆する内容はないとのお考えのようなので、再度削除依頼の場で特筆性が説明されているか確認する必要があるのかもしれません。--VZP10224会話2015年1月29日 (木) 15:07 (UTC)[返信]
「バッサリスルー」とは何を指すのかわかりません。上の240F:65:BD68:1:DD54:735D:3E0:71D7|240F:65:BD68:1:DD54:735D:3E0:71D7さんのご投稿にすぐに反応しなかったことを指しておられるのだとしたら誤解です。240F:65:BD68:1:DD54:735D:3E0:71D7|240F:65:BD68:1:DD54:735D:3E0:71D7さん(長いお名前ですね)にはどのように説明したら本質的なことがご理解いただけるのかと思案していたのです。それと英語の「組織の特筆性」のページ「Wikipedia:Notability_(oganirzations_and_companies)」を読んで「特筆性」の原意を確かめていたのです。また、私は仕事にもひどく追われている人間であまり時間もないし、それに今はイスラム国の後藤さん解放が実現するかどうかが心配でこちらに集中できなかったのです。「バッサリスルー」(無視、黙殺というような意味でしょうか)と取られたとしたら大変失礼しました。とりあえず240F:65:BD68:1:DD54:735D:3E0:71D7|240F:65:BD68:1:DD54:735D:3E0:71D7さんに私の真意が誤解されているポイントをご説明しておきますと、「出版社について記述するにはその出版社について言及した出典が必要」との240Fさん(すみません、略させていただきます)の言われる大原則はその通りでいいのです。私は「その出版社について言及した出典」にはその出版社の出版物の特筆性を示す「出典」も入れていいはずだ、少なくとも「美人社長の記事」よりは「出版物を作る出版社としての特筆性」を表しているのだから、と言っているのです。「美人社長であることを話題にした新聞記事」が特筆性の出典になるのなら、「出版物の書評記事」も特筆性の出典になる、240Fさんの言われる「大原則」もそれを当然認めているはずだというのが私の主張なのです。本当に「出版物の特筆性は出版社の特筆性とは関係ない」というようなことが「Wikipedia:Notability_(oganirzations_and_companies)」に書かれているのかと目を皿のようにして探しましたが、どこにもそういう記述はありません。逆に団体(非営利団体ですが)の特筆性の考慮要素として諸業績(achievements)が挙げられています。団体そのものの特筆性を検討する場合、団体の個々の活動結果の特筆性を考慮すべきである、と言っているわけです。「何かを作った者」と「作られた結果」の二つの「特筆性」は「無縁」ではなく「有縁」だと認めているのです。それはつまり「大原則」に含まれ得るという方向性であって、含まれ得ないという方向性ではないのです。だから私は「出版物」の特筆性は「出版社」の特筆性に含める方向で考えるべきであり、それが「大原則」に含まれる考え方だと主張しているわけです。あと、出版物について、作品が良ければどこから出版されようと同じことだと240Fさんが言われることには、二つの意味合いから反論がありますが、時間がないので次の機会にさせてください。また、いくらか本質的な論点を理解いただけたかと思っていたVZP10224さんがまたもや見当違いな方向から論理を外れたことを言ってこられたことは非常に残念に思います。--Ted&M会話2015年1月29日 (木) 17:19 (UTC)[返信]
あるいは、VZP10224さんの言われる「バッサリスルー」とは、私が240Fさんにすぐ応えなかったことではなくて、VZP10224さんの投稿中の「類似する特徴を持つ事象を外部の出典を伴って掲載する行為」とか「チェリーピッキング」とかの言葉に私が反応しなかったことを指しているのでしょうか。私はそれらがあまりに異次元の見当外れのものだったからふれなかっただけです。私は「ゴンリ」のたとえや「ガガガガー」の話も複数回読んで理解しております。私は「出典を出せ」という要求に応えて、また特筆性を示す根拠は多いほどいいとするWikipediaの方針に添って「脚注」や「出典」を出しているだけです。「類似するもの」を集めているわけではありません。「都合のいいもの」をつまんでいるわけでもありません。検証可能性のための論拠を示しているだけです。「類似」とは、何と何が「類似」しているのですか。「都合のいいもの」とは、「特筆性の根拠」もそのように表現されるのですか。だったら「都合のいいもの」は良いものということになってしまうのではありませんか。先には「出典がないから削除する」とし、出典を出せば「チェリーピッキングだから削除する」という話に無理に持って行かれているような気がします。Wikipediaの大原則とされる「出典」の意味を、自分たちにわかりやすい単純な字づらの解釈だけに限定して押し通すより、それが普遍的原則であるためにはどういう理解の深め方をしなければならないかをいつも考えていていただきたいものです。--Ted&M会話2015年1月29日 (木) 19:30 (UTC)[返信]
またまたたとえ話で恐縮なのですが、Ted&Mさんがしようとされていることは、「小保方晴子さんが過去にやってしまった、研究論文博士論文に関する不正に関して報道した記事をもとにして刺激惹起性多能性獲得細胞に加筆しようとしている」ことに等しいのです。業績云々も言われていますが、私個人的には、書籍を出版する際の貢献度として、出版社より書籍の著者自身のほうがはるかに比重が大きいのではないでしょうと考えてます。社会的な評価が高い書籍であったとしても契約が破棄されればその出版社は出版できませんし、また著作権の保護期間が満了すればどこの出版社が出版しようが自由なのですから。ほかにも書くことはあるかもしれませんがとりあえずこの辺で。--VZP10224会話) 2015年1月31日 (土) 14:35 (UTC)修正--VZP10224会話2015年1月31日 (土) 15:31 (UTC)[返信]
いくつか補足しておくと、240Fから始まるのはIPv6アドレスで、そういうハンドル名ではありませんのでお気を付けください。あと、私が「バッサリスルー」と表現したのは、Ted&Mさんが私の発言を「<美人社長>でも出版社が特筆性を持つことはあり得る」と、あたかも発言引用に見せかけて要約してしまい、それが私の重要と考えていた部分も見事に外してしまっていたことに対してこの表現を使わせてもらいました。スタブテンプレートを外すことができないまだまだ書きかけで改善の余地がまだまだある記事を、あたかもウィキペディアにおける出版社の記事の完成形と思い込み、他の記事と横並び程度に出版リストを載せておけば特筆性の証拠となると考えてしまったことにTed&Mさんが陥ってしまった落とし穴があると、私としては考えております。
あと、本日時間があったので、近くの図書館にたまたまあった朝日新聞縮刷版で、『赤ん坊たちの〈記憶〉 一九四三年~一九四五年に生まれて』の出典として挙げられていた、2012年7月6日付夕刊掲載の「(窓・論説委員室から)赤ん坊の沖縄戦」の記事を読みましたが、書籍の内容から沖縄戦を振り返る中でこの書籍の内容が引用されていただけで、この書籍を出版するにあたり牧歌舎がいかなる役割を果たしたかについては言及がありませんでした。おそらくほかの出典としている新聞記事についても同様と思われますが、もう少し調査をしたいと思います。--VZP10224会話2015年1月31日 (土) 15:26 (UTC)[返信]
VZP10224さんのご説明には「たとえ話」が多く、しかもどうしてその「たとえ話」が「たとえ話」として成り立つのか筋道の立った説明もなく疑問なものばかりです。それこそVZP10224さんの言われる「類似する特徴を持つ事象を外部の出典を伴って掲載する行為」「個々の事例を並べ立てて何かの方向性を推測させる記述」「個人的な主張に対して都合の悪いものをあらかじめ排除して特定の方向性を誘導したいときに使われる記述方法」なのではありませんか。言い放しでなく、どうして私の論証が「「小保方晴子さんが過去にやってしまった、研究論文に関する不正に関して報道した記事をもとにして刺激惹起性多能性獲得細胞に加筆しようとしている」ことに等しい」のか明確な文言で比較対照させ筋道を立ててきちんとご説明ください。--Ted&M会話2015年1月31日 (土) 16:26 (UTC)[返信]
「私個人的には、書籍を出版する際の貢献度として、出版社より書籍の著者自身のほうがはるかに比重が大きいのではないでしょうか」「社会的な評価が高い書籍であったとしても契約が破棄されればその出版社は出版できませんし」「また著作権の保護期間が満了すればどこの出版社が出版しようが自由なのですから」などはWikipedia:検証可能性Wikipedia:独立記事作成の目安Wikipedia:特筆性 (組織)などに記されていない「私個人的」なご意見ばかりで、ご自身で言われた「都合の悪いものをあらかじめ排除して特定の方向性を誘導したいときに使われる記述方法」になっているのではありませんか。もっとこれらのルールの文言に則したことを言っていただかないと、あなたは「独自研究」で立論していることになってしまうと思います。私は少なくとも皆さんに指摘されたルール類に目を通し、「ここにこう書かれているからこうなのではないか」「こんなことは書かれていないからこうなのではないか」とWikipedia:検証可能性Wikipedia:独立記事作成の目安Wikipedia:特筆性 (組織)の記述に基づいて語っているつもりです。また、あなたは「出版の貢献度としては出版社より著者のほうが大きい」という意味のことを言っておられます。「貢献度」を「特筆性」(今問題になっているのは「特筆性」です)の意味で言っておられるのでしたら、すでにあなたは出版社に一定の「特筆性」があることを認められたことになります。それでよろしいのですね。そうでなければ、あなたは「貢献度」という「特筆性」と「類似する」概念をもって「特定の方向性を誘導」されたことになりますし、「独自研究」を発表されたことになります。--Ted&M会話2015年1月31日 (土) 16:26 (UTC)[返信]
上記コメント執筆中に先の記述に追加されたようですから、それについて申し上げます。「私の発言を「<美人社長>でも出版社が特筆性を持つことはあり得る」と、あたかも発言引用に見せかけて要約してしまい」とお書きですが、「出版社に限らず、本業でさっぱり注目されていなかった会社であったとしても、ほかの要素(「美人社長」でもそうですし「サイドビジネスに絡んだ不祥事」でもそうかもしれません)で特筆性を持つことはあり得るのです」があなたの書かれた原文です。私はそれを「VZP10224さんの「<美人社長>でも出版社が特筆性を持つことはあり得る」というお考え」と要約したのです。何がいけないのでしょうか。全く正確で正当な要約引用です。要約ですから一部をカットしていますが、そのカットを元に戻したら少しでも意味や趣旨が変わるのですか。ご自身が言ったことを言わなかったかのように主張されるのはいただけません。言ったことは言ったこと、言わなかったことは言わなかったことです。何よりもちゃんと記録されていて残っているのですから、ごまかしはやめてご自分の発言を認めてください。
 また、「この書籍を出版するにあたり牧歌舎がいかなる役割を果たしたかについては言及がありませんでした。おそらくほかの出典としている新聞記事についても同様と思われますが、もう少し調査をしたいと思います」とお書きなので、まだ分かっていただけてないのかなと残念に思います。書評等の中に「出版にあたり出版社がいかなる役割を果たしたかの言及」はないのが当たり前で、あるほうが異例です。書評等には「この本がこの出版社によって出版された」ということが示されており、それはWikipedia:検証可能性Wikipedia:独立記事作成の目安Wikipedia:特筆性 (組織)で出版社の特筆性とも関係があるものとされている、と、私はこれらルールに記述されている文言をもとに示しているのです。「出版にあたり出版社がいかなる役割を果たしたかの言及がなければ特筆性がない」というようなWikipedia:検証可能性Wikipedia:独立記事作成の目安Wikipedia:特筆性 (組織)にない独自研究的な条件を作って、それに外れているから特筆性がないと言うのは無意味だと思います。--Ted&M会話2015年1月31日 (土) 17:51 (UTC)[返信]

議論不参加の方のテンプレート貼付はご遠慮ください。

ノートで議論中の記事への「出典の明記」などのテンプレート添付の際には議論に参加することが望まれています。テンプレートそのものが議論への参加を呼びかけるものなのですから、議論中、また改善中の記事について議論に加わらずにただベタベタと貼り付けていかれる行為には納得できません。申し訳ありませんが取り消させていただきました。--Ted&M会話2015年1月17日 (土) 22:43 (UTC)[返信]

問題を解決させずにテンプレートを剥がす行為について

他人の貼ったタグを剥がすことはおやめください。 こんにちは、牧歌舎さん。ウィキペディアに参加して頂きまして、どうもありがとうございます。

牧歌舎から{{複数の問題}}などを除去編集されておられましたが、Wikipedia:ウィキペディアでやってはいけないこと#独断でメンテナンス用テンプレートを剥がそうとすることにありますとおり、そのような行為は推奨されておりません。理由あってテンプレートが貼付されているのですから、テンプレートが貼られたことに対して意見があるのでしたら、その記事のノートページでの議論で問題を解決してから剥がしてください。

テンプレートの貼付は記事に疑問を持った人であれば誰がやってもよく、貼付に資格や制限はありません。議論に参加している必要もありません。牧歌舎さんがある記事に疑問を持ったのであれば、議論をせずにその記事にテンプレートを貼ってもかまいません。

今回、剥がしたテンプレートはご自分で復帰しておいて下さい。よろしくお願いします。

では、これにて失礼いたします。--58.98.148.88 2015年1月17日 (土) 23:02 (UTC)[返信]

ご教示ありがとうございます。かなり改善したところで見るとまた貼られていたので、ちょっと「取り消し」の所をクリックしてみたら次の画面で「取り消すことができます」と出たのでやっただけなのですが、そういうことが推奨されていないのであれば復帰させましょう。しかし、Template:出典の明記には「出典の明記」テンプレートの使い方として「本テンプレートはノート等で別途説明することなしに使用することができます。ただし出典不十分の場合に利用者間で「不十分」かどうか見解が分かれた場合には、ノートで不十分だと思う理由を説明した上で貼り付けてください」との説明があります。他のテンプレートにもあるようです。テンプレートは復帰させますから添付された方々もここでの議論に参加してくださるようお願いします。--Ted&M会話2015年1月17日 (土) 23:29 (UTC)[返信]

出版物の書評を出典として出版社の特筆性を証明することは独自研究にあたるか

上の#宣伝とみなされそうな部分を大幅に削除しました。で展開されている議論を端的に説明すると、この記事を立項したTed&Mさんは、「牧歌舎が出版社としてどのような出版社であるかは、その発行した出版物を例示することをもって論述できる」とされているようです。それに対して私は「牧歌舎が出版社としてどのような出版社であるかは、出版社がどのような出版社であるかを説明した文献によって論述できる」と考えております。私はed&Mさんのこのような意見は、ウィキペディアの各種方針(Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せない)に照らして相容れないものであることを説明しようとしているのですが、Ted&Mさんは、「特筆性とは、「特徴」とか「特色」ぐらいの意味に限定されない、実はもっと厳しくもっと微妙な感覚が決定すべきもの」「ほとんどの記事は「主題の出典」がなくてもWikipediaに載っているのです。notabilityの語義からはそうなるのであって、またそうしかなりません。」などの発言から、そうしたものよりも先にWikipedia:独立記事作成の目安で示されている特筆性(notability)をウィキペディアに記述することが優先するとお考えのようです。この点について、皆様からのコメントをお願いいたします。--VZP10224会話2015年1月25日 (日) 05:30 (UTC)[返信]

その前に、この「牧歌舎」の記事のみについていえば、各種問題のご指摘のたびにいろいろと改善を加えたので現状では標記のテーマを検討するまでもなく問題は解決していると考えていますので、これについて記事を見た上でご意見を頂きたく存じます。これでも足りない場合、また「出版社」一般の特筆性をについての解釈をどのように行うべきかを考えていただくため、Wikipedia‐ノート:特筆性 (組織)で草案作成のためのテーマを提起していますので、ご参加いただければ幸いです。--Ted&M会話2015年1月25日 (日) 08:14 (UTC)[返信]
K-iczn様より「Talkhead」と「出典検索」のテンプレートをこのノートページの上部に貼付いただきました。特に「出典検索」では牧歌舎の出版活動について新たな知識をたくさん得ることができました。議論に参加くださる皆様にもぜひご参照いただきたく存じます。--Ted&M会話2015年1月26日 (月) 15:57 (UTC)[返信]

出版物の特筆性が出版社の特筆性として当然認められていると思われるWikipedia:特筆性 (組織)#製品とサービスの記述

Wikipedia:特筆性 (組織)#製品とサービス「製品やサービスに関する情報は、その会社の記事が非常に広い範囲を扱っているためその情報が記事全体のバランスを損なうといった事情がない限り、その会社の記事に収録するべきです」という記述があります。またWikipedia:特筆性 (書籍)#判断基準の1番目には新聞や雑誌の書評が挙げられています。特筆性のある製品やサービスは「その会社の記事に収録するべきです」というのですから、「その会社の記事」があるべきことが自然に認められていると思われます。つまりは出版物の特筆性が出版社の特筆性として当然認められているということになると思うのですが、いかがでしょうか。--Ted&M会話2015年1月31日 (土) 13:01 (UTC)[返信]

Wikipedia:特筆性 (書籍)は書籍で単体の記事を作成できるかどうかの仮目安であり、また末尾で触れられているように書籍について収録されるべきは著者の記事内かと。一般に出版社に属するサービスや製品は、雑誌、叢書、文学賞などのことを言います。いくつかの出版社は複数のベストセラーを世に送り出しそれに付随する書評も数多くありますが、評の対象はあくまでも書籍の内容であり出版社の特徴について言及しているものは一般的ではありません。「書籍に特筆性がある」「ならば書籍の特筆性が会社の特筆性を担保する」はWP:SYN的なものの考え方であると思われます。--203.148.113.109 2015年1月31日 (土) 15:19 (UTC)[返信]
IP氏も言及されていますが、書籍の書評は主に書籍そのものの内容や著者に対する言及であり、出版社の事業に対する言及は非常に少ないです。よって出版物の特筆性を証明しうる出典となる文献が存在していたとしても、その存在が当然に出版社の特筆性を裏付ける文献となるわけではありません。出版社の記事ではあくまでも出版社の事業の特徴を記述するので、もちろん出版物を並べて何かを述べることはあるのですが、それには、出版社が出版する出版物に共通する特徴とか、強みとしているジャンルを説明するための要素として列挙されるものであり、またその特徴自体もすでにどこか外部の媒体で第三者によって言及されていなければなりません。--VZP10224会話2015年1月31日 (土) 15:42 (UTC)[返信]