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2016年6月7日 (火) 23:30時点における版
えじま ちかこ 繪島 千歌子 | |
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1925年、満22歳ころの写真。 | |
本名 | 東 八重子 (あずま やえこ) |
生年月日 | 1903年2月8日 |
没年月日 | 不詳年 |
出生地 | 日本 東京府東京市深川区(現在の東京都江東区深川) |
職業 | 女優 |
ジャンル | 新派・新劇、劇映画(現代劇、サイレント映画) |
活動期間 | 1921年 - 1926年 |
繪島 千歌子(えじま ちかこ、1903年2月8日 - 没年不詳)は、日本の女優である[1][2][3][4][5][6]。新漢字表記絵島 千歌子、本名・旧芸名東 八重子(あずま やえこ)[1][3][4][6]。
人物・来歴
1903年(明治36年)2月8日、東京府東京市深川区(現在の東京都江東区深川)に生まれる[1][3]。『世界のキネマスター』(報知新聞社)によれば、本名は東 八枝(あずま やえ)であるという[2]。
日本聖公会系の旧制高等女学校である立教高等女学校(現在の立教女学院高等学校)を卒業する[1][3]。満18歳のときに1921年(大正10年)、花柳章太郎が同年に設立した新派の劇団・新劇座に参加、翌1922年(大正11年)には、山田隆弥らの新劇の劇団・舞台協会に参加している[1][3]。『世界のキネマスター』によれば、地方巡業団の女優として活動した経験があるとして、ダンス、乗馬、義太夫、西洋音楽、三味線等、万能である旨の記述がなされている[2]。同年12月、日活向島撮影所での新派幹部俳優脱退のため、舞台協会が同撮影所と提携することになり、提携第1回作品『髑髏の舞』(監督田中栄三)に出演、同作は1923年(大正12年)3月15日に公開されて映画界にデビューした[1][3][4][6]。
同年9月1日に起きた関東大震災で同撮影所は崩壊、同年12月、兵庫県西宮市甲陽園に移り、東亜キネマ甲陽撮影所に移籍、同社親会社の八千代生命の宣伝用劇映画である『求むる父』(監督獏与太平)に「繪島 千歌子」の名で主演した記録が残っている[5]。『日本映画俳優全集・女優編』(キネマ旬報社)等では、『人生の故里』(『人生のふる里』[3]、監督高木鉄也)で初主演とされている[1][3]。1925年(大正14年)1月、同社の専務取締役関伊右衛門不在の折に、社用車の運転手が本社専務室に乱入、関の机を破壊、関と繪島との間の不適切な関係を暴露するという事件が起きた[7]。この事件を知った同社常務取締役立花良介が関の公私混同を指弾、スキャンダルは表沙汰にされたが、結果としては、関と立花が辞任して同社を離れ、繪島は同社に残留した[7][1][3]。同年1月27日に公開された『邪宗門の女』(監督衣笠貞之助)での好演が評価されており、2か月のブランクののち、繪島は『新竹取物語』(監督曾根純三)に「未亡人お美根」で出演し、同作は同年4月8日に公開された[1][3][4][5]。その後も、根津新、荒木忍の相手役や主演作に出演している[1][3][4][5]。
満23歳になる1926年(大正15年)5月21日に公開された『消すな灯』(監督上月吏)に主演したのを最後に同社を退社、映画界を引退した[1][3][4][5]。以降の消息は伝えられていない[1][3]。没年不詳。
フィルモグラフィ
クレジットはすべて「出演」である[4][5]。公開日の右側には役名[4][5]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[8][9]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。
日活向島撮影所
すべて製作は「日活向島撮影所」、配給は「日活」、すべてサイレント映画、「東八重子」名義である[4][5][6]。
東亜キネマ甲陽撮影所
特筆以外すべて製作は「東亜キネマ甲陽撮影所」、配給は「東亜キネマ」、すべてサイレント映画、「繪島千歌子」名義である[4][5]。
- 『求むる父』 : 監督獏与太平、1923年12月製作・公開 - 主演
- 『人生の故里』(『人生のふる里』[3]) : 監督高木鉄也、1924年製作・公開 - 主演
- 『鉄路に喘ぐ』 : 監督山根幹人、1924年製作・公開 - 主演
- 『笞は鳴る』 : 監督古海卓二(獏与太平)、1924年製作・公開[3]
- 『風刺小品集 第一篇 狂』(『狂』[5]) : 監督井上金太郎、1924年10月8日公開 - 主演
- 『恋慕小唄』(『小豆島情話』) : 監督山本嘉次郎、1924年10月23日公開
- 『燃ゆる潮』 : 監督上月吏、1924年11月15日公開 - 主演
- 『反映』 : 監督古海卓二、1924年製作・公開
- 『邪宗門の女』 : 監督衣笠貞之助、製作東亜キネマ等持院撮影所、1925年1月27日公開
- 『新竹取物語』 : 監督曾根純三、1925年4月8日公開 - 未亡人お美根
- 『大地は微笑む 前篇』 : 監督坂田重則、1925年4月11日公開 - 満智子
- 『罪に立つ女』 : 監督仁科熊彦、1925年7月16日公開 - 主演
- 『並木路寂し』 : 監督賀古残夢、1925年8月19日公開 - 主演
- 『緑の平野』 : 監督賀古残夢、1925年9月8日公開
- 『春の海』 : 監督賀古残夢、1925年製作・公開
- 『村の悲劇』 : 監督賀古残夢、1925年製作・公開
- 『春の歌』 : 監督賀古残夢、1926年1月4日公開 - 鵠三の情婦お才
- 『松風村雨』 : 監督賀古残夢、1926年1月21日公開 - 主演
- 『悲恋の水車』 : 監督竹内俊一、1926年4月22日公開
- 『消すな灯』 : 監督上月吏、1926年5月21日公開 - 主演
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l キネマ旬報社[1980], p.22-23.
- ^ a b c 報知[1925], p.276.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 絵島千歌子、jlogos.com, エア、2013年4月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 絵島千歌子、東八重子、日本映画データベース、2013年4月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 絵島千歌子、日本映画情報システム、文化庁、2013年4月10日閲覧。
- ^ a b c d 東八重子、日活データベース、2013年4月10日閲覧。
- ^ a b 田中[1980], p.30.
- ^ 所蔵映画フィルム検索システム、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年4月10日閲覧。
- ^ 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇、マツダ映画社、2013年4月10日閲覧。
参考文献
- 『世界のキネマスター』、報知新聞社、1925年
- 『日本映画発達史 II 無声からトーキーへ』、田中純一郎、中央公論社、1980年
- 『日本映画俳優全集・女優編』、キネマ旬報社、1980年12月31日
- 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年11月 ISBN 4816915133
関連項目
外部リンク
- Chikako Ejima - IMDb
- 絵島千歌子 - 日本映画情報システム (文化庁)
- 絵島千歌子 - 日本映画データベース
- 東八重子 - 日本映画データベース
- 絵島千歌子 - allcinema
- 絵島千歌子 - jlogos.com (エア)
- 東八重子 - 日活データベース (日活)
- 絵島千歌子 - テレビドラマデータベース
- 世界大百科事典『絵島千歌子』 - コトバンク -->